狐面をかぶった男が、演舞を披露していた。

　中国拳法の流れをくむ棒術の一派だ。

　高い身体能力だからこそできる芸当なのは一目瞭然だった。

　木の棒は物干し竿くらいはある長めのサイズだったが、狐面の男は軽々しく片手で掲げ、頭上で回したり型を決めたりした。

　棒が高く打ち上げられた。

　くるくるまわりながら空に放物線を描く。

　見物客たちもいっせいに上を向いた。

　その下で助走をはじめたのは狐面の男だ。

　彼は藍色の拳法着をはためかせながら走りだした。

　さらに連続でバク転を決め、棒の落下地点へと華麗に向かった。

　

　アクロバットな動きに観衆のスリルは最高潮に達した。

　みごとキャッチは成功した。

　いっそう大きな拍手と歓声があがった。

　多くの学生で行き交う本館前の広場だから、すでに見物人の数はちょっとしたコンサートくらいの規模まで増えていた。

　ほとんどの人間はこのパフォーマンスに満足し、万雷の拍手を送った。

　しかし天邪鬼はどこにでもいるものだ。

　指をさし、冷笑を浮かべる学生たちもいた。

「棒で遊ぶのが武術か？　新体操のまちがいだろ」

　最前列で見学していた男子学生のグループだった。

　だらしなくズボンを下げた金髪の男が、発言主だ。

「レオタードを着ろよ、案外似合うかも」

　などと茶化し、金髪の男は仲間の笑いを誘った。

　その声は、狐面の男の耳にも届いていた。

　彼は発言した男のほうを向くと、こう話しかけた。

「そこのあなた、こっちへ来て手伝ってくれませんか」

「おれ？」

　驚いた金髪の男が、今度は自分自身を指さした。

「そう、あなたです。次が最後の演目なんですが、あなたのように屈強な男性の協力が必要なんです。ご協力をお願いできますか？」

　くすくす笑う仲間たちから背中を小突かれ、金髪の男はしょうがないとジェスチャーをした。

「これからぼくと、ちょっとした勝負をしてほしいんです」

「勝負ぅ？」

　のそのそと前へ進み出てきた金髪の男だったが、露骨にめんどくさそうな顔をした。

「もちろん棒術の試合をするわけではありません。この棒で引っ張りあいをするだけです。綱引きの要領で」

　狐面の男は棒を差し出した。

　使い込まれて傷だらけだったが、ただの木の棒である。

「しかし、ただ引っ張りあいをするだけじゃつまらない。ぼくは右手一本しか使いません。もしあなたが勝てば、賞金として一万円をさしあげましょう」

　ずいぶん挑発的なルールだ。

　おおっと、ギャラリーからもどよめきに近い歓声が起きた。

　金髪の男だけが、むっとした顔をした。バカにされたと感じたのだろう。

　それもそのはずだった。狐面の男がしなやかなチーターだとしたら、XL以上はありそうな服を窮屈そうに着る彼は、まさしくゴリラなのだ。

　単純な力比べほど体重差がものをいう。たとえ両手でも狐面の男に勝ち目はないと思えた。

「本当に勝ったら一万円くれるんだろうな？」

「もちろん、さしあげます」

　狐面の男は即答した。

　ここまで言われたら逃げるわけにはいかない。

　金髪の男は両手でがっしりと棒をにぎった。

　自分が負けるなどありえない。

　彼は勝利を疑わなかった。たとえ相手が拳法着の下に鍛え抜かれた筋肉を隠し持っていようと、片手のハンディキャップはあまりにも大きい。

　しかし、だからこそ彼は不気味がった。

　狐面の男が、左手を背中側にまわした。

（え？　本当に右手一本で勝負するの？）

　さすがにウソだろうと、ギャラリーもざわつきだした。

「一歩でも足が前へ出たら負けです。地面に倒れても、棒を放しても負けです。あの時計の秒針が真上、十二時のところを指したら勝負開始の合図としましょう」

　本館の時計を見やり、狐面の男は言った。

　あと十五秒ほどでゲーム開始だというのに、狐面の男は余裕たっぷりに直立していた。

　バカにしやがって――。

　金髪の男は闘志を燃やした。

　彼は足を肩幅まで開き、腰を少し落とした。ふうっと大きく息を吐き、両手の汗をズボンでぬぐった。

　インチキでもないかぎり、負けるはずはない。見ていろ、大勢の前で恥をかかしてやる。

「ひとつ言い忘れていました」

　狐面の男が、金髪の男にだけ聞こえる小声で言った。

「この棒は引くだけじゃなく、押したってかまいませんよ。ルール違反ではありませんから、あしからず」

　なんでそんなに余裕なんだ。金髪の男はイライラした。

　時計の秒針が十時のところに達した。あと十秒。

　九……八……七……。

　金髪の男が頭の中で数えていると、また狐面の男が話しだした。

「強く引っ張りたければ、もう少し腹の中央、へその前あたりに棒を置いたほうがいいですよ。このあたりは丹田（たんでん）といって、気が集中する場所です」

　落ち着き払った声だった。若いのはまちがいない。だがいっぽうで堂々たる立ち姿からは、まるで武術を極めた老師範といった風格すらも漂っていた。

　いったい何者なんだ――。

　金髪の男は、棒を自分のへその前に持っていった。

　もし勝負に勝ったら、あの狐面をはぎとって素顔を見てやる。そう心に決めた。

　秒針が頂点に達した。

　いまだ！

　彼は棒を引っ張ろうとした。

　だがそれよりも一瞬早く、棒が動いた。

　へそのあたりに衝撃を感じた。棒の先端があたったのだ。

（やろう、本当に棒を押してきやがった）

　しかし、まったく意味のない行動だ。

　金髪の男は頭にきた。

　狐面の向こうで、相手が笑ったように感じたからだ。

（あの野郎！）

　腰を落とし、踏ん張った。

　見ていろよ、ほえ面をかかせてやる。

　

　両腕に力をこめようとした。

　

　だが思うように力が入らなかった。

　まるでエンジンを空ぶかしたバイクのように、体がぶるぶると震えただけだった。

「どうかしましたか？」

　狐面の男が言った。

　なぜ腕に力が入らない。

　金髪の男は焦った。棒を握ることも足で踏ん張ることもできるのだが、なぜか引っ張る動作だけができなかった。

「どうなってる」

　

　自分の両腕を見つめながら、彼は思わず口にした。まるで自分の腕が自分のものではなくなったようだった。

「そちらが動かないのなら、こっちから仕掛けさせてもらいますよ」

　狐面の男が、棒を片手で引っ張った。

　決着はあっさりとついた。

　金髪の男の体が、前から地面に倒れ込んだ。

　わっと沸き立つギャラリー。

「本当に片腕で勝った！」

「すげえ！」

「どうやったんだよ」

　今日一番の拍手と歓声が起きた。

　狐面の男はうやうやしく観衆に向かいお辞儀をした。

　さらに膨れ上がる喝采。

　それがわずかに地面を振動させるほどだと、全身を接地している金髪の男だけが知る事実だった。

　彼は倒れたあと、時代劇の斬られ役のように息を殺していた。さっさと見物人が帰ってくれるのを期待しながら。

「起き上がれますか？」

　狐面の男から手を差し伸べられた。苦々しい思いはあったが、ここで拒否したら恥の上塗りになる。彼はその手を握り返した。

　まだ腕の引っ張る力は喪失したままだったが、それを知っているかのように狐面の男は、わざわざ両手で引っ張り上げて立たせてくれた。

「数分もしたら腕は元に戻ります」

　やはりこいつの仕業なのか。しかしどうやって腕を麻痺させた？

　

　苦虫をかみつぶしたような顔でいると、狐面の男は別れぎわに耳打ちしてきた。

「人体の“気”を操る技です。あなたの腹を突いたときに、少しだけ……ね」

　仮面の奥から、くすくすと屈託のない笑い声が聞こえた。