第9話 瞳のママ友

「副社長。お疲れ様です」


「あー天野さん。お疲れ様」


 ヨウコウでの初日の仕事が終わった。退勤しようとしていると、瞳は玄関先で副社長の和夫と偶然会った。


「天野さん、ヨウコウでの仕事はどうだった? 仕事は続けられそうですか?」


 和夫が優しく瞳に問いかけてくる。瞳はその様子を見て、微笑んだ。


「はい。人形屋さんは初めてで、正直最初は緊張していました。しかし新しいことをたくさん知ることができて、とても勉強になりました。これからもよろしくお願いします」


 瞳が頭を下げると、和夫は微笑んだ。


「こちらこそよろしくです。良かった。しかしまだ初めてなので、天野さんにはしばらくの間、簡単な事務作業をしてもらいます。そして余裕が出てきたら、お人形の飾り方を学んでもらい、今シーズンの片付けも手伝ってもらいたいと思います」


「分かりました。ひな人形や五月人形のこと、もっと知っていきたいと思います。それにしても、ヨウコウのお人形は、お顔や衣装が綺麗ですね」


 瞳が言うと、和夫は目を輝かせた。分かってもらえたことが、とても嬉しそうな表情だ。


「よく気が付きましたね! うちは顔も衣装も、上質なものにこだわって仕入れを行っているんです。そしてそれを、他社よりも特別な価格で販売しています。それにしても、天野さんは観察力が鋭いですね!」


 和夫が嬉しそうに瞳を褒める。瞳は恥ずかしくなり、下を向いた。


「そんな……。でも本当に、ヨウコウのお人形は素晴らしいです。これから、色々なことを勉強させてください」


 今度は和夫の顔をしっかりと見た後、瞳は頭を下げた。夕焼けが瞳たちを眩しいくらいに照らしてくる。瞳が顔を上げると、和夫は眩しさに目を細めながら、嬉しそうに頷いていた。


「本当に誠実な方だ。明日からもお願いしますね。じゃあ私はこの辺で失礼します。お疲れ様でした」


「ありがとうございます。お疲れ様でした」


 和夫が社員用駐車場へ向かって歩いていく。瞳は和夫に再度お辞儀をして、反対方向へ向かって歩き始めた。


 和夫はとてもいい人だ。瞳はヨウコウに入ったことをとても嬉しく思った。だがそれとは裏腹に、瞳は拭いきれない不安も抱えていた。


 それは和夫の妻が、吉子であるということだ。瞳は吉子が、ヨウコウの副社長夫人であることを知らなかったのだ。ヨウコウの面接を受け、内定を貰い、出勤する日を今日に決めたのも、吉子と出会う前の出来事だったのだ。


 しかしここ以上に、待遇の良い会社はない。良太に何かあれば融通を利かせてくれるし、シフトも柔軟に変更することができる。


 そして何より、職場の雰囲気が自分に合っているのだ。雰囲気と人間関係を重視する瞳にとって、非常に良い条件だ。


 真面目に仕事をしていれば、きっと大丈夫だろう。瞳は自分を納得させるように小さく頷いた。


 ふと腕時計の時刻を見る。時刻は五時十分を過ぎていた。早く良太を迎えに行き、あの人と会わなければならない。瞳は良太のいる幼稚園へと急いだ。


        *


「りょうた。おなかすいた?」


 瞳は良太を幼稚園へ迎えに行った後、そのまま自分の車へ乗せた。


「すこしだけおなかすいたよ。ママ、どうしたの?」


 バックミラー越しに見ると、良太が不思議そうな顔をしている。瞳はシートベルトを締めながら、後ろを振り返った。


「これからね、すこしだけあうをしているひとがいるの。カフェであうんやけど、りょうたもそのあいだいてくれるかな?」


 瞳の言葉を聞くと、良太は嬉しそうな顔をした。


「やったー! カフェいくのたのしみ!」


「よかった。りょうたもなにか、のんでいいけんね」


「うん!」


 今思えば、良太をカフェに連れて行くのは久しぶりだ。金銭的に苦しい状態が続き、このような普通の外出さえもできていない状態だった。良太の嬉しそうな様子をバックミラーから見て、瞳は罪悪感に襲われた。


 車のエンジンをかける。そして瞳はそのまま発進させ、幼稚園の駐車場を出た。


        *


 待ち合わせのカフェに到着し、瞳は車を駐車場に停めた。


「米沢さん、まだ来ていないかしら?」


 瞳はエンジンを切り、カフェの周辺を見渡した。そう、昨日瞳のスマートフォンに電話をかけてきたのは、吉子のママ友である文子だったのだ。幼稚園の連絡網を通して、連絡をしてきたのだ。


 だが詳しい用件はまだ伝えられていない。しかし瞳は、それほど警戒してはいなかった。何故なら電話口での文子の様子は、申し訳なさそうで、同時に深刻な雰囲気も伝わってきたからだ。


 きっと何か言いたいことがあるのだろう。瞳はやや乗り出していた体を元に戻し、真後ろに座っている良太の方を見た。


「りょうた。これからあうのは、おなじクラスのくんのママよ。かいとくんのママがきたら、しっかりごあいさつしてね」


「わかった」


 良太が不思議そうな顔をしながらも、素直に頷いてくれた。夕日が沈みかけ、もう辺りは薄暗くなっている。瞳は腕時計の時刻を確認し、再度車内から駐車場を見渡した。


 すると後方の出入り口から、一台の軽自動車が入ってきた。文子だろうか。瞳は車内から、運転手の顔を見た。


「米沢さんだわ。りょうた、おりましょう」


「うん」


 瞳が運転席から下りると、続いて良太も車から降りた。鍵を閉め、文子の車の元へ向かう。


 すると車を停め終えた文子が、瞳たちに気が付いた。そして文子は、シートベルトを外しながら頭を下げてきた。


「こんばんは。天野さん」


「こんばんは。米沢さん」


 文子が車から降り、笑顔で瞳に挨拶をしてきた。良太も一歩前に出て、文子にお辞儀をしている。


「こんばんは」


「こんばんは。りょうたくん」


 文子が良太に穏やかな笑みを浮かべる。その様子を見て、良太も嬉しそうに文子の顔を見た。


「天野さん、今日は突然すみません。とりあえず、中に入りましょう」


「そうですね。入りましょう」


 瞳は良太の手を引いて、カフェの入り口へと向かった。一体文子は、瞳に何を話すつもりなのだろうか。瞳はそれを考えると、僅かな緊張を覚えた。


        *


「天野さん。本当にごめんなさい」


 個室のテーブル席に座り、飲み物の注文も終えた頃、文子が突然謝罪をしてきた。


「米沢さん。一体どうしたんですか?」


 頭を下げたままの文子に、瞳は慌てて声を掛けた。文子がゆっくりと顔を上げる。


「この前のかけっこの時、良太君は、吉子さんのせいで二回走ることになったでしょう? 私は吉子さんに逆らうことができずに、あの人の主張に賛同してしまった……。自分が情けなくて、恥ずかしくて……。どうか許してください」


 文子が再度頭を下げる。瞳はこの時、文子の誠実さと謙虚さを強く感じ取ることができた。


「米沢さん。そんなに自分を責めないでください。そしてもう、あの時のことは気にしないでください」


 瞳が言うと、文子はゆっくりと顔を上げた。文子の顔を見て、瞳は穏やかに微笑んだ。隣の良太が、やや混乱した様子で瞳の顔を見る。


「米沢さん。私、とても嬉しかったです。大人でも、なかなか謝ることができない人が多い中、米沢さんは素直に謝罪してくれたんですもの」


「天野さん……」


 文子が今にも泣きそうな顔をしている。そして涙をこらえた様子で、続けて瞳に話し始めた。


「私、今まで吉子さんに逆らうことができませんでした。吉子さんは、自分の意見に同調し、従ってくれる人をママ友にするんです。例えば晴美さんみたいに、何でも聞いてくれる人をです」


 文子が一息ついた。瞳はそんな文子の話を、頷きながら聞いた。


「そして自分の意見に従ってくれなかったら、吉子さんはあからさまに機嫌を悪くします。そして依存もすごくて、なかなか離してくれません。連絡だって、いつもかなりの頻度で来るんです……」


「米沢さん、貴方辛かったでしょう。今までよく耐えましたね」


 瞳が少しだけ身を乗り出して、穏やかな声で文子に話しかける。すると文子の表情は、真剣なものに変わった。


「ありがとうございます。でも私、もう決めたんです。これ以上、吉子さんとは関わらないようにするって」


「よく決心しましたね。それでいいと思いますよ」


 瞳が頷きながら言うと、文子はまだ何か言いたそうな顔をした。


「――あの、天野さん。その……。こんな私で良かったら、友達になってくれませんか?」


 文子の突然の言葉に、瞳は一瞬だけ驚いた。すると文子は、慌てた様子で両手を振った。


「あ、あのもし嫌だったら、はっきり断ってもらっても結構です。やっぱり図々しいですよね……」


 文子がしょんぼりした様子で下を向く。瞳はその様子を見て、クスッと微笑んだ。


「いえ、米沢さん。とても嬉しいです。是非友達になってください」


 瞳の言葉に、文子が目を輝かせる。文子の可愛らしい一面を見て、瞳は彼女と仲良くなりたいという気持ちが強くなった。


「本当ですか? ありがとうございます天野さん!」


「こちらこそです。これからは、お互い下の名前で呼び合いましょう。そして良かったら、タメ口でお話ししましょう。文子さん、よろしくね」


「こちらこそ。瞳さん、よろしく」


 言い終えた後、瞳と文子は互いに笑い合った。瞳の隣に座っている良太も、何だか嬉しそうにしている。瞳はその様子を見て、幸福感に包まれた。


「まあまあ。楽しそうね。お友達ごっこ」


 するとその時、瞳たちの前に突然女が現れた。瞳は驚き、その女の方に視線を向けた。


 立っていたのは、何と吉子だった。瞳と文子は、驚きの余りその場で凍り付いた。隣の良太も、吉子を見て顔を引きつらせている。


 吉子がゆっくりと、不気味な笑みを浮かべる。店内に淡々と流れる優雅な音楽が、瞳の恐怖心を更に煽ってきた。

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