第11話 違和感
カフェ・アルテミスに寝泊まりして二日目。昨日よりも随分と深い睡眠ができた。色々あって心身共に疲れが溜まっていたからだろう。
長宮も佐久間はすでに起きていた。
「おーい、トト。今日も食器洗い頼むぜ」
佐久間が昨日のことはまるでなかったように声を掛けて来た。トトは気まずい感じになり余り目を合わせられなかったというのに不思議な物だ。なぜかと考えた。洗い場で手を洗っている時に思った。まるで声に感情が載っていない。長宮も佐久間もどこかロボットのような喋り方をしている。
カフェ・アルテミスでの仕事は昨日と変わらなかった。裏の厨房で長宮から頼まれた物を作る佐久間とその横で包丁を持って色々な切るのを手伝った。下げられた皿やフォーク、スプーンを洗い場で洗う。昼の忙しい時間帯になると佐久間と方がぶつかる。
長宮に休むように言われて休憩室にいると、桃井がやって来た。今日は早くコールセンターの仕事が終わったから暇つぶしに来たという。
どうやら桃井はカフェ・アルテミスの厨房の手伝いはしないらしい。その時に気づいたが、桃井もやはり声に感情を感じない。ということは月の住人はみんなこう言うしゃべり方なのだろう。そう思えば無理矢理でも納得できるかも知れない。
「トト、次から団子作ってくれ。今日からの新作なんだ。作り方はここを見れば分かる」
長宮が来てそう言った。貰った資料には月のマークの中にウサギの形が彫られた団子があった。生地をあんこで包んで渡すらしい。
「はい、分かりました」
トトはさっそく取り組んだ。団子を作るのは初めてだった。だが、容量は地球でママと共に作った餃子の皮に肉を包むのに似ている。余り苦にはならない。
トトが上手く作れたのか、それとも味が美味しいのか、売り出してすぐに人気商品となった。だが、団子作りに夢中になっている時、事件は起こった。
佐久間がトトの足を思っ切り踏んだのだ。普段履いているサンダルは足の指の部分が剥き出しになっている。そこに佐久間のかかと部分に体重に乗った状態で襲って来た。かなり痛かった。
トトは振り向いた。佐久間は気にする様子もなく厨房から休憩室かトイレのどちらかに行こうとしている。何かがトトの中で吹っ切れた。じんじんする指先の痛みと怒りを込めて佐久間の腕を掴んだ。
「なんだ?」
「あなたね。今の痛かったんだけど」
「ああ、足を踏んだことか。痛くても働けるだろ」
「あのね……そう言う問題じゃないの。あなたの態度の問題なの」
「ツンツンするなよ。俺の所に足を置いていたお前が悪いんだろ」
佐久間のその発言にトトは掴んでいた腕を離した。その代わりに腹の中に思いっきり空気を溜める。それを言葉と共に吐き出した。
「違うよ。なんで分からないの。人間らしくないのよ。人の気持ちを少しは考えてよ」
トトの大声は裏の厨房の壁を越えてダイニングテーブルでカップを磨いていた長宮の元にまで届いた。
カフェに来ていた月面ワーカーたちは声がする方に顔を向ける。長宮は慌てた様子で「申し訳ありません」と言って後ろののれんをくぐった。裏の厨房に回ると佐久間が引いた様子でトトを見ていた。
「何かあったのか。店の表にまで声が聞こえて来たけど」
「こ、こいつが急に大きな声を出したんだよ。足踏んづけただけなのに」
「だけっておかしいでしょ。それにこれまでも何度も…」
「トト、少し休憩して来なさい。この後のことは私に任せて」
長宮はそう言ってトトと佐久間を一旦離した。長宮はその後、ダイニングテーブルにいる月面ワーカー一人一人に謝っていた。
トトは早足で休憩室に向かうとバタンとドアを閉めた。桃井はトトをチラッと見た。そしてまた素知らぬ顔でタブレットをいじり始める。
トトは椅子に座って目を瞑った。ママと一緒にスパゲティを作った事を思い浮かべた。手が届かない所にあるフライパンをママがとってくれた。出来上がったスパゲティをパパが美味しそうに食べてくれる。意外にやるじゃんと言った弟と妹。それらを考える間は少しは楽になった気もする。
地球の記憶も目を開けると元に戻る。すでに営業時間は過ぎていた。長宮と佐久間は何事もなかったかのような顔をして片付けている。私の声は届いてない。もしかしたら間違っていたのは私の方なのかも知れないと心の中で思った。
ドアが開いてその心を確かめることが出来る人物がカフェに入って来た。
「長宮さんから聞いたよ。なんか喧嘩したらしいね」
一二三は日記を手に持ちながら、まるで取り調べみたいにトトに聞いて来た。トトは今まで長宮と佐久間との間に起こった事を話した。一二三は時々、日記に何か書きながら聞いていた。
次第に一二三はそのストレートな黒髪を掻きむしった。トトが最後まで話す頃には何処か顔の筋肉がひきつっているのかピクピク頬が動いている。
「月の住人はみんな何処か変だよ。あんな人たちについて行って本当に地球に帰れるの?」
「まだ分からない。それにここに残って月の為に働く事はとても名誉なことだ。君は創造的知能指数に悩まされる事はないしね」
「ちょっとそんな事聞いてるんじゃないんだけど?」
トトはまた少し声が大きくなった。思えば一二三もそうだ。創造的知能指数を下げれる人間だからマシだと思ってたけど、そうじゃない。そして気づいた。表情筋だ。それが全くもって動かない。まるで能面のロボットのように。
「君の話を聞いていても彼らのどこが悪いのか分からない。月でそれが常識だし、普通。みんなに合わせて月の繁栄の為に労働してよ」
頭の中に洪水が流れ混む。今まで、カフェにいたのは地球に帰る為だ。なのに違う。月の住人はもう思考停止しているのだ。
「一二三…じゃあね」
トトはそう言って立ち上がる。休憩室から出て行く。カフェ・アルテミスののれんをくぐり、外へ出る通じるドアを開けた。
「待て、勝手に外に行くな」
一二三の声を無視する。振り向かずにドアを閉めた。トトは入り乱れるコロニーの建物の中に消えて行った。
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