第4話 いじめの深淵

 二日目の任務を無事終え、私はその報告とこの後行われる勉強会のため、昨日同様に委員長室を訪れた。

 クレーンゲームで死闘を制した私たちは、商品のお菓子をたらふく食べ、近くにあったコインゲームを軽くやった頃にはあっという間に午後六時半を過ぎていた。

 夕季が中学生であることと、道中聞いていた彼の家の場所を考慮し、私は突然の現地解散を宣言。当然、「一緒に帰るんじゃなかったのかよ」と突っ込まれはしたが、彼に送られて自宅――つまりSPM近くまで行くのは、距離的にも仕事的にもまずい。機嫌を損ねないことを念頭に、後は勢いでその場を乗り切ったのであった。

 かくして二日目の仕事は終え、SPMに到着した頃には午後七時に迫っていた。


「へぇ~、そんなことが」


 昨日同様、気を利かせて淹れてくれた紅茶を堪能しつつ昨日今日の報告をすると、相模原さんは感嘆の声を漏らした。


「舟見さんらしいやり方ね。相手に寄り添ったやり方もそうだけど、きちんと仕事の特性まで考慮されてる。私から言うことなんてまるでないわ」


 相模原さんはにっこりと笑って私を讃えた。

 賞賛してくれることが少しこそばゆくてつい照れてしまうが、丁度聞きたいことが聞けるタイミングだと気づく。私は弛緩していた姿勢をピンと正す。


「SPMってやり方は一任されていると昨日教えて頂きましたが、これはすべきとか、これが基本線、みたいなものもないのですか?」

「ないわよ」


 真面目な質問であったが、相模原さんは軽くあしらうように一言で答えた。


「もしあったなら、組織である以上は従うべきなのかな、と……」

「あなたほんと律儀で真面目よね……。でも本当にそういうのはなくて、全て本人たちに任せてる」

「それで大丈夫なんですか? 自分で言うのもおかしいですけど、私はまだ入って本当に間もないですし」

「大丈夫。だからこそ、逐一報告を受けるようにしてるし、いつでもフォローできる体制を整えてる。何より、人という存在もその人を取り巻く現状も、それぞれで違っているわ。担当者に、救助対象に、そして状況に合った適切な対応を柔軟に。それが私の理念でもあるの」

「……なるほど」


 彼女の説明はスッと頭に入ってきた。

 人は一人として同じ人が存在しない。それならば当然、その人を取り巻く状況もまた絶対に一致しない。それに対してある一定の対応で固定していては、とあるケースには対応できても他のケースには対応できない可能性がある。

 身近な例だと教育だろうか。人の能力も、現状の成績も十人十色。それなのに、全く同じ教育をしていては、伸びる人と伸びない人が必ず存在してしまう。それも個性であると前向きに捉えることはできるが、伸びなかった人からすれば堪ったものではない。特に、学歴で差別が起こったり、生活の裕福にも直結するこの現代では、実に理不尽で不憫な教育方法にも思える。

 しかしながら、教育の現場ではまだこれでもいいのかもしれない。その先でいくらでも巻き返せるし、劣っているという自覚がさらなる努力を促すかもしれないから。

 でも、SPMの仕事は違う。

 扱っている命というものは決して取り返しのつかないもの。失った後には何も残らないし、取り戻す手段はない。故に、応対する人依存というデメリットを負ってでも、命を救うことを最重要に据えた手法をとっているのだと思う。さらにはそのデメリットを軽減しようと頻繁に報告を受け、相談に乗っているというのだから、彼女の手腕にはまるで文句の付け所がない。


「今回は仕事の適任者がいなくて急だったこともあって、その辺りの説明が不十分だったことはごめんなさい。その中で自分は今何をすべきか、どうすべきかをすぐに決断して行動した舟見さんは本当に凄いと思うわ。この調子で、彼にとって何が適切かを見極めた最適なアプローチでの救出、期待しているわ」

「ありがとうございます。精一杯頑張ります」


 私のその言葉を受けて一段落と見てか、相模原さんは大きく背伸びをする。そして目尻に溢れた少量の涙を軽く指で拭い、大きく息を吐いた。


「さてと。それじゃあ、そろそろ勉強会を始めましょうか」

「はい!」


 そうして今日も、勉強会の幕が上がった。



 勉強会が始まってからもう一時間近いだろうか。

 学校で言えば丁度一時限分の時間が経過して、相模原さんは「一旦休憩にしましょう」と言って立ち上がった。そして私の空いたカップを見て追加の紅茶を用意し、勉強のあてだということでブラックチョコレートを添えてくれた。

 一方で、相模原さんが自らのために用意したお菓子はホワイトチョコレート。どうやら私のお菓子の好みを把握し、自分の好みではないお菓子を特別に用意してくれたみたいだった。


「やっぱり優秀なのね、舟見さん」

「いえ、別にそんなことは……」


 ぽつり言葉を漏らす相模原さんは、先ほどやっていた数学の練習問題の採点をしていた。

 昨晩月城さんから聞いてはいたが、相模原さんの教え方は極めて上手かった。別に月城さんの教え方が悪かったとかではない。むしろ、人並み以上であったのは確かだ。だが相模原さんは、それこそプロである高校の先生を遥かに凌ぐほどで、SPMで掲げる相模原さんの理念と同じ、生徒に寄り添う手法であった。潜入先の中学でやっている内容が生温すぎることも相まってか、とてつもなく勉強が捗っているように感じた。


「確か春先の模試でも校内一位で、県内一桁順位だったとか。中でも国語は全国のトップレベルだなんて……」

「偶々ですよ。受験がまだ視野に入っていない高校二年の初期の模試なんて、何の参考にもならないと思います」

「だからこそすごいのよ。だってこの先、受験が視野に入ってくればみんな勉強し始めるわけでしょ? 当然、舟見さんも勉強するんだから順位なんてそう下がらないわよ」

「そう、ですかね?」

「そうよ。自信をもって勉強を続けていきましょ」

「はい」


 私が言ったことは決して本心の言葉ではなく、かつての担任が口にしていたことの受け売りだ。

 教師は生徒が慢心するのを恐れ、ここで天狗にならないよう促すのが一般的だ。だから、当時の担任が特別間違っているわけではないし、私も否定はしない。

 けれど、相模原さんは少し違った。プラスの部分に目を向けて、私に胸を張るように言ったのだ。その部分からひしひしと伝わる強い統率力とカリスマ性。加えて、月城さんが『人格者』と称するだけの人間性も持ち合わせている。そんな彼女の元で仕事をして、勉強をしていられるこの環境が、私はものすごく心地よかった。

 個包装された小さな板チョコレートを口にし、キレのいい苦みと仄かな甘みを味わって気持ちを一度リセットする。時刻は午後八時半に迫っているが、まだまだ眠気はやってきそうにない。


「あらっ……。本当に、あなたは何事にも熱心なのね」


 理不尽に塗れ、思うようにできなかったこれまでのことを忘れてはいけない。

 彼女の優しさについつい甘え切ってしまいそうな私を奮い立たせ、再びペンを握った。



* * *



 平日最終日、金曜日の生徒には蓄積した疲労の色と漲る活力という、相反するものが同時に見られる。疲労は言わずもがなここまでの平日四日間の蓄積だろうが、一方の活力は『今日が終われば休日だ!』という希望から生まれたものだろう。

 思えばこの一週間はジェットコースターのような時間だった。

 何せ、月曜はまだ高校に通っていたのだ。これまで通りいじめを受け続け、遂に暴力を受ける寸前までエスカレートした所を月城さんに助けられてSPMに。そうして翌日からはここ、陽向崎中学校に通っている。

 火曜日に今回の救出対象――夕季光磨と出会い、翌日は駅前へと出かけた。昨日は夕季が「今日は用事があるから」と早々に帰ったこともあって、特に動きはなし。それでも、この三日間で彼のことは随分知れたのではないだろうか。

 童顔で、私と話しているときのリアクションはとても年相応の弟っぽさを持ちながら、松院先生に聞いていたようにどこか正義感を感じさせる言動もある。そういう意味では周りよりは少し大人びたところはあるものの、やはり私から見ればまだまだ子供といった印象だ。……かくいう私もまだ子供なんだけど。

 ただ一つ、私には大きな懸念点があった。

 それは、問題となっているはずのいじめの様子を一度も目にしていないことである。

 例えば私の時なら、目に見えた嫌がらせや公衆の面前での罵詈雑言と、傍から見ていてもそれと分かるような状態であった。故に夕季の件もそうであろうと勝手に思っていたが、どうやら違うらしい。特に顔や身体に傷を負っているような様子もないし、我慢や無理をしている様子もない。本当にいじめにあっていて、SPMの救出対象なのかと懐疑的な思考にすらなっていた。

 まぁでも、あの相模原さんから与えられた任務なのだから、本当に救出対象であることには違いない。もしかしたら見えないところで何かあるのかもしれないし、決して気を抜くわけにもいかないだろう。


「おはよ」

「おはよう、夕季くん」


 初日、二日目の朝と、絶対に自ら話しかけて来ることのなかった夕季だが、遊びに出かけたことを機に少し打ち解けてきたらしい。目に見える進歩の一つだ。


「あのさ」

「うん?」

「今日も用事あるから」

「わざわざ気を遣ってくれなくても大丈夫だよ?」

「……あっそ」


 夕季はツーンとした態度で、私から目線を逸らした。

 打ち解けたとはいえ、相変わらず小生意気な部分は変わりない。それでも、こうしてきちんと報告するあたり、彼が気を遣っている証拠なのだろう。

 しかし、その用事とは一体何なのだろうか。昨日も彼は決してその内容を自ら口にせず、一貫して『用事』と言っている。中学生だし、習い事とかだろうか。私が中学の時も、周りにはそろばんや習字、ピアノと習い事をしている人も多かったし、別段不思議ではない。

 ただ、それなら別に隠す必要はないことだろう。あえて『用事』とぼかしているのには、何かしらの理由があるように思えた。

 だとすれば、その理由とは何か。一度、聞くべきなのかもしれない。

 けれど、私には自らそれを問う資格がない――。

 だから私は、その考えに至った瞬間、それに関する考察の一切合切を止めてしまったのであった。



* * *



 お昼時。私は普段通り、明光寺を含めた四人で昼食をとっていた。

 いつもと違うのはその場所で、校庭ではなく一年三組の教室。今日は風が強いから止めておこう、とのことだったが、これはある種チャンスだと思った。普段見れない、昼食時間の夕季を観察できるのである。


「そういえばそろそろ中間試験だね~」


 四人で机を合わせている中、私の正面に座る明光寺が思い出したように呟く。

 まだ入って間もない私だが、大体どこの学校もこの時期には中間試験がある。眼前のことに手一杯で忘れてしまっていた。


「南波さんは前の学校で成績良かったの?」

「ううん。そんなにだよ」

「そっか~。今回のテスト、みんなで勝負だよ!」


 と、明光寺が唐突に言い出したことをきっかけに、私以外の三人は急に盛り上がり始める。どうやら私も、その勝負にエントリーされているみたいだった。

 試験勉強をしなくとも、普通に解いてしまっては全教科満点になりかねない。別の意味のテスト対策を練らないとな、と新たな問題が生まれてしまった。

 その後、「テストめんどいな~」とか「遊びに行きたい」とか、そんなことを話している三人に適当に合わせながら、私はできる限り別の方向を注視していた。けれど教室後ろの私の隣席は、四限終了してからずっと空席のままである。

 最初はてっきり、食事前のお手洗いかなと軽く考えていた。けれど、それにしては長すぎるではないか。教室内にある時計の長針は、四限終了時から九十度傾いている。早弁の生徒は既に食べ終え、どこかに向かったり楽し気に雑談したりしている。

 これが杞憂で済めばそれはそれで御の字。

 ただ問題なのは、今まさにこの時、いじめが行われている可能性があるということ。そう考えると、こんな生産性のない会話で時間を潰している場合じゃない。


「ごめん。私ちょっとお手洗い行ってくる」


 食事中なのでマナー的には悪いが、生憎急用なので気にしてはいられない。私がそう断りを入れると、彼女たちは何も違和感を抱いていない様子で「いってらっしゃい」と返す。何か理由があるときに使う常套句だということを知らなくて助かった、と内心思いながら、気持ち早めに歩いて教室を後にした。



 廊下に出てすぐに歩調を早め、一組方向へ進む。


「…………」


 歩きながら、脳内に不穏な予感が駆け巡る。

 観察下にいた間、夕季が誰かに呼び出されたような様子はなかった。だが逆に言えば、教室を出た後に巻き込まれたという可能性はあるということだ。それを裏付けるには、十五分という時間はあまりにも十分すぎる。

 もしもの可能性から逸る気持ちを抑えつつ、早歩きで一組横を通り過ぎようとしたその瞬間だった。

 ――全身の毛がよだつような衝撃に襲われた。


「マジで気持悪いんだよ、お前!」

「何が、『俺は正しいことをしてるだけ』だ。ヒーローごっことか、ほんと幼稚園児みたいだな」

「はーだっせ~。助けるだけ助けて本人がこれとか、マジで恥ずかっし~」


 人を逆撫でするような煽り口調。そして棘のある言葉が耳に入り、私はすぐさま足を止めた。

 声が聞こえてくるのは一年一組横の男子トイレの中から。だが、当然その中でどういう状況になっているのかまでは見えない。

 しかしながらこの言葉から察するに、松院先生が言っていた状況とは綺麗に重なっている。一年生のフロアということから見ても、罵倒を浴びせられているのが夕季だという、確率の高い検討がついた。

 ただ、それが分かったところで今の現状では何もできない。潜入任務という点を踏まえれば男子トイレに入るわけにもいかないし、勘違いだったという場合には言い訳も立たない。とにかくここは、正当な手段をもって対処すべきかと思っていると、その男子トイレから人が出て来た。

 ガキ大将みたいな周りより少し体格の大きな生徒、眼鏡をかけている細身な生徒、そして後ろ髪が長い生徒の三人。ニタニタと笑顔を浮かべ、楽し気に話をしながらこの場を後にしていく。

 それからしばらくして、もう一人の生徒が姿を現す。

 ――やはり夕季だった。

 顔を俯かせながらぽつぽつこちらへと歩いてくる夕季だったが、気配を感じたのか顔を上げて私と目が合った。私はそこで初めて、この現状がまずいということに気付く。


「しまっ……」


 夕季は顔を背けると、すぐさま逃げるように走り去っていく。私は反射的に、その背中を追いかけようと走り出す。


「待って!」


 でも、事を荒立てて目に付くようなことはできる限り避けたい。故に私は、走り出して数歩で立ち止まり、彼が階段を駆け下りていくのをただ眺めていることしかできなかった。仕事柄仕方ないとはいえ、追いかけたい気持ちを抑制しなければならないことにはもどかしさを抱き、私は拳を握る。

 恥ずべき迂闊な行動だった。

 伝えられていた彼の状況を踏まえれば、こうなることを逐一警戒していなければならなかったのに。彼らの言葉を耳にしてから、その場に呆然と立ち尽くしていたことは酷く悔やまれる。きっと月城さんなら、こんな失態は犯さないだろう。

 でも、反省は後でいい。問題はこの後、どうリカバリーするかだ。周囲におかしく思われないよう、歩いてでも彼を追うべきだろう。

 そうして一歩、階段へと足を進めた時。


「おっと、丁度いい所に」


 後ろから声がかかり、私は振り返る。一学年の主任教師――松院先生だ。


「南波さんにお話がありまして」


 いつも通りの柔和な笑みを見せながらそう言うが、彼は学校の先生である前に、私の任務の協力者だ。十中八九、夕季関連の話なのは推測がつく。


「……分かりました。ですが今は……」


 今、夕季が何をしようとしているか分からない以上、悠長に放っておくわけにはいかない。例え、松院先生の言う話というのが任務において有用な事であっても、最優先は彼の追跡だ。


「どうかしたのですか?」


 松院先生は言い淀む私に違和感を抱いたのか、少し心配そうに尋ねる。


「少しまずいことになりまして、すぐに追いかけないといけないんです。ですので、すいません」


 私はお辞儀をし、早々に後を追おうとするも、松院先生は私の腕を掴んで制止させる。私はそれを振り払ってでも進もうとするが、成人男性の握力からは易々と逃れられなかった。


「離してください。今は……!」

「彼の行先には心当たりがあります。ですから、今は追いかけない方がいいかもしれません」


 その言葉を聞いた私は、強引に振り解こうとしていた力がスッと抜けてしまった。


「……どういうことですか?」


 行き先に心当たりがあるのなら、そこに目星をつけて追うべきだ。それなのに追いかけない方がいいという矛盾した物言いには当然疑問を抱く。

 その真意を問う私に対し、松院先生は優しく宥めすかす。


「彼なら大丈夫です。それは私が保証します。つきましては、場所を変えてからでいかがでしょう」


 つい感情的になって周りが見えなくなってしまっていたが、ここは一年一組横にあるトイレの前。幸い、昼食時間で大半が教室にいることもあって今は周りに人がいなかったが、もしいたとすれば更なる大失態だ。きっと、色んな憶測によって噂になってしまったことだろう。

 失態をカバーしようとして焦ってさらなる失態を招くなど、一番やってはいけない。私は松院先生の提言にコクリと頷いて返すと、彼と共にこの場を離れた。



* * *



 一年一組横の階段。松院先生に従って上っていくと、この学校の屋上に出た。

 私の通っていた高校とは違って決して広くなく、ベンチ一つない空間。それでも普段、もしかしたら昼食に使われているような場所なのかもしれないが、強風の影響か人の姿はまるでない。故に今の屋上は、風の吹きつける音が耳に入るほかは至って静謐な、密談に最適な場所と化していた。

 松院先生が屋上の入り口近くで立ち止まったのを見て、私も歩みを止める。


「先ほどは申し訳ありませんでした。感情任せになって、冷静さを欠きました」

「いえいえ。人間誰しも、熱くなって周りが見えなくなることはありますから。裏を返せばそれだけ彼のことに熱心ということですし、むしろ有難い気持ちでいっぱいですよ」


 松院先生はそう言って、年齢に不相応な余裕のある笑みを浮かべた。感謝すべきなのはこちら側だというのに……。


「それで、お話というのは?」

「お仕事の調子はいかがかなと、進捗を伺おうと思っていたのです。私もここ最近は出張が多くてこちらにはいなかったものですから、中々お伺いする機会もありませんでしたので」

「分かりました。ご報告します」


 思えば、松院先生と話すのは転校初日以来になる。私たちのクラスの授業を一つも受け持っていないのか教壇に立つ姿を見たことは一度もないが、それ以外の場所で出会ったのも先ほどが初めてだ。学年主任というのはさぞ忙しいものなのだろう。

 私は一度、これまでの経緯を脳内でお浚いし、大きな進捗のみを掻い摘んで口にしていく。


「ここへ来てから数日。隣の席という縁もあり、彼の人間性が徐々に掴めつつありました。ただ、彼がいじめを受けているという任務根幹の事実は確認できておらず、つい先ほどその現場近くに居合わせたことで、初めて現状の一端を垣間見ることになりました。しかし、私はその後すぐに彼と相対してしまい、彼は『見られたくない所を見られた』と思ったのでしょう。すぐに逃げ出してしまって……」

「それで南波さんは後を追おうと」

「はい」


 松院先生は先程の私の言動を重ね合わせつつ、納得したように何度も頷いて見せた。

 そして、一歩二歩と屋上の淵まで進みながら景色を望むと、転校初日には語らなかった情報を補足する。


「彼は私がお話しした通り、人一倍正義感が強く、人情味に溢れている。そして、大人びた考え方を持った子です。ですがその一方で、周りから突出している分浮いてしまっているところもあって、いじめに遭う前からあまり友達もいなかったようです。決して嫌われていたわけではないようですが、少し距離を取られているように見受けれらました」

「そう、だったんですね……」


 夕季の人間性は褒められるべきものだと思う。気遣いができて、いじめられている人を見て助けようとする。いい意味で年齢に不相応で、考え方も成熟している。

 一方で、彼が時折見せる幼気な一面があるように、彼が所属するのは中学校一年。小学校から上がってすぐの彼らの中ではどうしても浮いてしまい、価値観の相違などで馴染みにくい部分があるのかもしれない。実際、彼が他の誰かと会話しているところを目撃したことはなかった。


「あまり弱みを見せたがらない所もあって、苦しい所を一人で抱えてしまっている。きっと今は、暗い空き教室で泣いているのではないかと思います。すぐに慰めてあげたいところですが、彼としては誰も来て欲しくないというのが本懐でしょう。ですから私は、誰にも弱い所を見られたくない、迷惑をかけたくないという気持ちを尊重してあげたいのです。それで先ほどは、本来向かうべきところを止めさせてもらいました」

「……何も知らず、少し不躾な対応になってしまったこと、重ねてお詫びします」

「あ~いえいえ。お気になさらず」


 改めて謝罪を述べると、松院先生はこちらを振り向き、手のひらを見せるようにしてそれは不要だと示した。

 知らなかったのなら仕方がないと言外に告げているのだろうが、これは本来、私が先に知っておくべき情報だ。SPMの一員として、この不甲斐なさを詫びるのは当然のことだと思う。


「松院先生、一つお聞きしてもよろしいですか?」

「はい。何でしょう?」

「いじめを行っている彼らについて、少し教えて頂くことはできますか?」

「と言いますと、いじめそのものを止めにかかる、と」

「はい」


 私に与えられた任務は、夕季光磨を救い出すことだ。

 前準備が整いつつあり、彼の現状を踏まえるなら、これ以上呑気に様子見をしているわけにはいかない。すなわち、これからは救出に向けて本格的に動く必要がある。

 その際のアプローチとして考えられる方向性は二つ。一つはいじめが行われる度に、何かしらの手段を用いて切り抜け続ける方法。そしてもう一つが、いじめそのものを無くしてしまうという抜本的な対処方法である。

 しかしながら、前者は今回のケースにおいて自動的に選択肢から外されることになる。なぜなら彼は、かつて月城さんが私にしてくれたような直接的関与――身を挺しての対処を望んではおらず、松院先生が信条として持つ『夕季の気持ちを慮る手法』に賛同の私としても、この手法を取ろうとは思えないためである。

 そして何より、これでは問題が解決しない。

 私が救助対象であった時の件において、月城さんは確かにこの手法を用いて強引にも解決に導いてはいる。ただそれは、端っから学校からSPMに連れ出す腹積もりであったからこそだ。要するにあの時の結果は、私をいじめの現場から物理的に遠ざけたことによって得たものに過ぎない。

 すなわち、彼の気持ちを尊重した上で解決に導くとなれば、必然的にいじめの根絶を図る選択となる。さすれば、まずはいじめを起こしているであろう三人の情報が欲しい所だ。

 そう思って松院先生に尋ねたものの、彼の反応は決して賛同的ではなかった。静かに目を伏せると、大きく首を横に振った。


「それは難しいでしょう」

「難しい……? それは一体なぜですか」

「確かに、解決方法として最も早くて的確なのはいじめの根絶となるでしょう。ですが、まだまだ幼い彼らには言葉そのものが通りにくい。仮にいじめを止めるよう言っても、逆にそれが火に油を注ぐ可能性すらあるのです。例えば、『先生にチクった』という風に。そのため教師陣は、その辺りにかなり慎重になっています」


 確かに、先生の言っていることは至極真っ当、正論だと思う。

 幼いが故の単純性。先生に怒られたことも全て彼のせいだと被害妄想し、さらに募った恨みをいじめという形で晴らす。こうなってしまえば今より状況は悪化し、夕季が受ける被害も大きくなってしまう。最も避けたい文字通りのデッドラインに近づけないことがSPMの目的である以上、この選択を取ることは容易ではないのかもしれない。

 ――でも、これっぽっちも納得はできない。

 いじめはいじめを受けている人にしかその痛みは分からない。故にいじめはなくならないのだという。

 仮に、それを自分が受ければ酷く辛いとどこかで分かっていたとしても、いじめる側は目の前の快楽に溺れて盲目に陥ってしまう。実際に受けるとなれば、想像なんて遥かに凌駕する痛みと恐怖に怯えているというのに……。

 そう。つまり、いじめの凄惨さを本当の意味で知っているのは、いじめを受けた経験者だけ。だからこそ私は、端っから二つの救助方針を天秤にかけてすらいなかった。

 じわじわと沸き立つ苛立ちが、力として握り拳に入っていく。


「だとしたら、このまま放っておくと、そういうのですか。いじめられて、どうすることもできずにただ耐えて、フラストレーションを溜め続けて、心を病んで、一生涯残るような傷が徐々に深く深く入り込んでいく。そんな悲痛な様子を傍から見守るようにして見逃し続けろと、そういうのですか!?」


 強く、荒だった口調。つい先ほど、自分の無礼を謝罪したばかりだというのに、それでもやはり冷静さを保ってはいられなかった。

 浅い傷なら治癒することが可能でも、奥底まで入りこんだ惨憺なまでの深い傷は根本的な治療には至らない。ふとした時に、その当時味わった苦痛がフラッシュバックし、何度も何度も自分を痛めつけていく。まるで何かの呪いのように。

 その経験が自身にあるからこそ、ここばかりは譲歩できない。それ故の言動だというのに、松院先生はそれを軽くあしらうかのように、表情一つ変えず滔々と言葉を返す。


「いいえ。いじめの終息はもちろん図りますが、どちらかと言えば緩やかな終息を目指すのが妥当でしょう。彼らのいじめの根源にある感情自体にはそこまで強い執着心があるわけではありません。何か大切なものを傷つけられたわけでもありませんし、身体に傷を負ったわけでもない。単に、自分たちの都合を邪魔されたことがほんの少し小さな矜持を傷つけて、それをきっかけに腹を立てたに過ぎないでしょう。ですから時間の経過とともに、夕季君に対して募っていた感情も徐々に弱まっていきます」


 人の怒りの感情が持続する時間は二時間だという調査結果が存在するように、人の持つ感情は時間とともに薄れていく。今回の件でいじめを働いた生徒たちが抱いた悪感情はそこまで強くないことを加味すれば、近いうちにフェードアウトしていく。それが松院先生の考え方なのだろう。

 しっかりと理論に則った、根拠のある考え方だ。

 これに至るためにはまず、いじめを行った彼らのことも熟知していなければならない。松院先生のことを侮っていたわけではないが、しっかりと生徒のことを見ているのだなと思わされた。


「つまり私は、夕季君に対して一定のケアをしながらいじめの終息を待つべき、と」

「私はあくまで一私見を述べたにすぎません。任務を依頼している以上、最終的な判断は南波さんに委ねます」

「……分かりました。色々教えて頂き、本当に助かりました」

「いえいえこちらこそ。一生徒のためにここまで親身になって下さり、感謝の言葉が尽きません。引き続きよろしくお願いします」


 松院先生は深々と一礼すると、「先に戻ります」と一言残して屋上から去っていった。

 私は一人になったこの空間の雰囲気を懐かしみながら、ゆっくりと淵の方へと歩み寄る。そうして、かつて通っていた高校の屋上とは違い、落下防止で網掛けになっているフェンスの隙間から景色を見下ろした。


「最終的な判断は委ねる、か……」


 先ほどの松院先生の言葉を噛み締めるように、ぼそりと呟いた。

 彼の気持ちを尊重して一定の距離感を保ちながら、彼がこれ以上深く傷つかないようにフォローしていく。一度は即座に否定した方針ではあるが、問題点のケアを最優先にするならこれが最適解なのかもしれない。

 だが、この二つは二律背反だ。気持ちを尊重するなら遠くから見守っていないといけないが、深く傷つかないようフォローするには彼の傍にいなくてはならない。SPMの理念からすると優先すべきは後者となるものの、同じ経験を持つ人間としては前者も考慮してあげたいというのが本心。故に、取るべき方針については依然、自分の中で揺れている。

 否――それは今まで通り、一定の距離感が築けていたからこその話だ。

 今の彼は、私にいじめのことを知られてしまったことに対して思うところがあって、距離を取りたがっているだろう。だから、そう簡単には彼との接触を図れない。今後の方針を最終決定する前に、まずは彼との関係性の修復が必要だ。

 深く深く息を吸い込んで、大きく吐き出す。風が強いとはいえ、五月晴れの下での深呼吸はとても落ち着く。


「よしっ!」


 多くの失敗を犯してしまった自分に活を入れ直すと、一人屋上を後にした。



 だが、私の思惑は全くといって叶わなかった。

 昼休み明けも放課後も、そして次の登校日である週明けになっても――。

 彼が私の前に姿を現すことはなかった。

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