赤い糸

 言下に皮肉が過ぎたと頭の隅に過ったが、ここはあくまでも実現したいという欲求が見せる精神世界なのだ。取り立てて相手を慮る必要などない。


「落ち着いてくれ」


 それでも中村は、高慢稚気に気色ばむ刃物を持った子どものように接してきて、僕は呆れ返った。


「冷静だよ、冷静」


 薄暗い部屋の中にもすっかり慣れてきて、鳥目から脱すると、出入り口と思しき扉の所在に気付く。出し抜けに僕が歩き出せば、バエルから肩を掴まれて、部屋に留まることを強いられた。


「?」


 肩に掛かる手を不埒なものとして蔑視し、バエルを貶めたつもりであった。しかし、やはりと言うべきか。僕は自分ができる精一杯の嫌悪感を体現したつもりでも、言葉に出さねばその意図は伝わらない。バエルが太平楽に肩を掴んだまま離そうとしないのだから。


「触るなよ」


 振り向きざま、僕は確かに怒気を込めた。それが作用したのか定かではないが、壁に向かって落ちるようにバエルの身体は吹っ飛んでいき、硬いはずの壁を身一つで砕く。


「やめろ!」


 不敬罪に相応する大それたことをしたかのように慌てて、中村は叱責じみた声をすかさず僕に飛ばす。その瞬間、口はそぞろに動き出し、つらつらと恨み節を吐き出し始める。


「いつも僕を冷めた目で見ていたよな? 斜に構え、我関せずを常に保っていたが、なんだ。必死になれるじゃないか」


 そこはかとない皮肉は、微笑混じりに行うことにより、輪を掛けて品性の底を打ち、知らぬ間に下卑たものが垂れ落ちた。


「はぁ?! 急に訳の分からないことを言うなよ!」


 中村は憤然と唾を飛ばして青筋を立てた。後一押しで友人関係が破綻するきらいがあり、次の一言は致命的なものになると肌で感じる。これは所謂、記憶の残滓で構成された露悪的な夢の中といえ、友人を悪罵を用いて頭ごなしにこれ以上批判するのは憚られた。


「……」


 先刻に出た言葉がどのような道程を辿り、発せられたのかをあやふやにし、僕は雲を掴むような手触りから閉口するしかなかった。


「君!」


 知人でもない赤の他人から、背中越しに声を掛けられる不快感はなかなかに形容しづらい。店員と客のような立場の違いすらないこの状況下に於いて、快く応じるような気構えはなく、僕は包み隠さず鋭利な睥睨を飛ばす。その瞬間、


(ここから、逃げ出せる。今なら、この状況なら)


 どこからともなく声が頭の中に響き渡り、今し方睨んだ目の青い西洋人から、語るに落ちる意思の強さが伝わってくる。つまり、この声の主は眼前に相対した男のもの。


「どういう意味だ?」


 僕が直裁に問いかければ、皮下に隠れていた薄ら笑いが浮かび上がってきて、男は小さく頷いた。そんな僕と男の間に結ばれた視線の混じり合いを前にした中村は、怪訝な顔付きを見せ、今にも口を挟んできそうな気配を醸す。目まぐるしい不可解の連続は留まることを知らず、中村の左足からほつれた赤い糸を目の端で捉えた。地面を這って伸びるそれは、幼なげな顔立ちをする女まで続いており、「赤い糸」という外面的な理由に裏付けられる情緒を感じ取る。

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