鈴蘭

 鈴蘭と安藤のやりとりを二人の女中が目撃した。一人は八重香。鈴蘭が安藤を抱き寄せたのを見て、そのまま十吉の元に走る。

 そして、もう一人は春代だった。春代は一部始終を見届けた後、何も言わずにその場を立ち去る。けれどその夜、頬を濡らして声を押し殺す春代に同室の千草は気付かぬふりをした。


「ですから、鈴蘭ときたらあの安藤とか言う男とね……」

 翌朝、八重香のたまらなく嬉しそうな声が十吉の執務室から漏れていた。十吉は八重香の言葉をただ黙って聞き流す。その胸の内など微塵も見せずに。

 あまりにも無反応な十吉に飽きたのか八重香は少し唇を尖らせると部屋から出て行った。

 安藤は今日は来ていない。

「そうか、安藤か……そうか」

 十吉は一人きりの部屋でため息と共に呟く。その時慌てた様子の安藤が部屋に飛び込んできた。

「すみません!寝坊してしまって……」

 どこか晴れやかな表情に鈴蘭と心が通じたのかと十吉は納得した。

 安藤と鈴蘭の事は初めから知っていた。安藤が鈴蘭に向ける視線に徐々に熱が入るのをすぐ傍で見ていた。けれど、鈴蘭の方は一向に安藤の方を見る気配が無く、問題は無いのだとを括っていたのだ。

 それがどうしたことか、鈴蘭は安藤の気持ちに応えたらしい。そうなる事をどこかで望んでいたのに、またどこかでは恐れていた。

 恋が人の心をこれほどまでに脆くするのだと十吉は初めての気づきに触れた。

「……やはり聞きましたか?」

 安藤は困ったように笑った。その目には幾分覚悟が見える。雨に濡れた猫のようなその表情は追い出される事を受け入れているようだった。

「君と鈴蘭の事は以前から知っていた。責める気はない。それに、今の鈴蘭はああなってしまっている。これ以上私のせいで胸を痛めるよりも君のように真っ直ぐに見てくれる相手を選ぶ方が彼女のためだろう」

 十吉の表情はあまりにも淡白で、その勘違いに安藤は腹の底からふつふつと沸き上がる感情を吐き出す。

「ふざけるな‼︎」

 今まで聞いたことのない安藤の荒げた声に十吉は面食らって固まった。そんな十吉の反応に安藤は更に声を張り上げる。

「あんたが始めたことだろ!あの人を縛り付けて、あの人の気持ちに気づいていながら利用して、挙句本心をそうやって隠し続けてあの人を傷つけてる!あの人が俺を見る?そんなことあるわけないだろ‼︎」

「安藤?君は鈴蘭と通じ合ったのではないのか?」

 八重香の話を聞く限り間違いなくそうだと思ったのに、安藤は乱暴に頭を掻きむしって「違う」と叫んだ。

「……昨日、あの人への気持ちに区切りをつけたんだ。あの人はそんな僕を慰めてくれた。あの人の心に、宇佐美十吉!あんたしか入る余地は無いんだよ……!」

 安藤の言葉に十吉はただひたすらに安堵した。鈴蘭の気持ちがまだ自分に向いていることに。鈴蘭の目が別の男を追う事はないと言う事実に。その酷く濁った感情に十吉はこれ以上目を背ける事はできないと悟った。

「安藤、すまない。私は本当はもうずっと鈴蘭の事を愛していた。どうしようもなく愛してしまった。けれどね、菖蒲の事も愛していたんだ。私が彼女ではない別のひとを思うと言う事は、彼女への、菖蒲への冒涜だと」

 十吉は淡々と言葉を紡いだ。胸の内から溢れ出る言葉ものをまるで機械のように垂れ流す。安藤はその余りにも熱い想いと、正反対とも言える冷たい話し方に十吉という男の貧しさを知った。

「…なあ、安藤、私は酷い男だろう。冷たい男だろう。わかっているのだ、そんなことは。それでも独占欲と亡き人への純粋な愛が同じ感情だと信じたくなかったんだ」

 不意に視線が重なった。それはまるで助けを求めるような切実さで安藤を捉える。

 安藤は「僕の理屈で言えば、あんたが好きなのは鈴蘭様だよ」と頭を掻くと、そのまま部屋から出て行った。

「そうか、いや、そうだよな。それは、私もわかっていたんだ……」

 十吉は窓の外を眺めた。空はどこまでも青く、夏の訪れを告げていた。


「待って!」

 足音を響かせて廊下を歩く安藤を呼び止めたのは春代だった。安藤は足を止めた事を後悔した。自分と鈴蘭との事を春代は聞いた事だろう。十吉の様子から言っても、春代も上手くいったと勘違いしているかもしれない。それは胸と言うものをずしりと重くした。

「奥様との事、残念だったね……」

 けれども春代は予想に反して事態を正しく理解していた。

「……僕の事、本当に好きなの?」

「え?それ聞いちゃう?もう大好き!」

 あっけらかんと答える春代の細められた目元に微かに赤が差していることに気付いて、安藤は口を噤んだ。春代はそんな安藤を見て「あら、バレちゃった?」と困ったような表情を浮かべ、頬に手を添えた。

「……あ、気にしないで!応援するって決めてたし!でも……上手く行かないってこともわかってたけどね」

「……」

 視線を外す春代に安藤は何と言って良いかわからなかった。

「あ、ごめんね、応援するのにそれっておかしいよね!違うの、私本当に安藤さんが好きでさ、だから、やっぱりダメなのかって……それに奥様にも幸せになってもらいたいから、好きな二人がって……思ったんだけど……ごめん、私何言ってんだろ……」

 震える春代の声に安藤はたまらず抱きしめた。腕の中で困惑する春代に自分でもこんな行動は間違ってると思いつつも腕を離せない。

「ダメだよ……勘違いしちゃうから」

「……いいかも、勘違い」

「……ダメです!……辛い気持ちはわかるけど、後悔するよ」

 春代はするりと安藤の腕から抜けると厨房の方へ駆けて行った。

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