鈴蘭

 夕方、鈴蘭は珍しく十吉に呼ばれ言われるままに食堂へ来た。正面に座る十吉は幾分やつれているように見える。

「夫婦になったのだからたまには共にと」

「……はい」

 遠慮がちに腰を下ろすと出てきた食事に箸をつける。人の作った物は久しぶりだ、と鈴蘭は一口を噛みしめる。実家にいた頃からほとんど食べてこなかったものだから、どんなごちそうよりも鈴蘭にとってありがたかった。なにより、嫌われている自分にはまともなものなど出さないだろうと思っていたけれど、出てきた料理はどれも素晴らしいものだった。

「とても、おいしゅうございました」

 全ての皿が綺麗になる頃、鈴蘭は今まで感じたことのない充足感に幸せを感じた。

「今日は鈴蘭のために菓子も用意した。茶も淹れさせよう」

 思ってもみなかった十吉の言葉に、これは夢なのではないかと錯覚する。以前、姉の隣で見た甘いやり取り――十吉の顔はずっと冷たいけれど、それでも鈴蘭にとっては天にも昇る心地だった。

 十吉は立ち上がって鈴蘭をエスコートする。混乱する鈴蘭を連れて行った先は寝室だった。窓辺のティーテーブルをはさむように腰を下ろすと、侍女が菓子とお茶を運んできた。以前、学友が楽しそうに話していたケーキと言うものだろう、と鈴蘭は思った。なんでも、甘くてふわふわだと言う。

 頬を綻ばせる鈴蘭に見惚れている事に気づいて十吉は視線を空へ向けた。

「見ろ、月が綺麗だ……」

 十吉に言われるままに窓の外へ視線を向ければ、そこには確かに丸くて大きな月が夜空を照らしていた。その穏やかで優しく、どこか冷たい光に鈴蘭はそっと姉を重ねる。十吉の瞳は澄んでいて、姉がいた頃を思い出し、鈴蘭は唇を噛んだ。

「なぜ、私と結婚したのですか」

 数年前と同じ質問。それでも、考える時間はあったのに、勢いのまま結婚を選んだ十吉の真意を鈴蘭は聞きたかった。自分に好意があったわけではないだろう事は鈴蘭も理解している。この数年の間に風化するような恨みでないことも。それでも、それならば。なぜ私を選んだのかと不思議に思うのも当然だろう。

 鈴蘭の頬に沿う月明かりが涙のように光った。十吉は「前も言ったとおりだ」と濁す。その真意など十吉自身が理解できていないのだから。

「……姉様は本当に残酷な方ですね」

 静かな呟きに十吉は反発する気になれなかった。それは十吉自身も思っていたことだから。妹を見て一生自分を忘れるな、そういう呪いを最後にかけたのだ。それでも憎めないのは惚れた弱みというものか――。

「そうだ、跡継ぎはどうなさるのですか?」

 不意に鈴蘭と目が合う。雰囲気は似ているようで菖蒲と顔の違う鈴蘭はだからこそ十吉も自分を保てるのだと思った。もし姿まで菖蒲に似ていたら苦しさに耐え切れなかったことだろう。それに、跡継ぎなどと、こういった浅ましいところが好きになれないのだと十吉は軽蔑の眼差しを鈴蘭に向けた。

「君には関係の無いことだ。それとも、僕の種だけを望むのか?」

 遠回しに金目当てかと問うた。吐き捨てるように侮辱の言葉を吐けば、どういうわけか鈴蘭は笑った。笑って、否定した。

「愛する人との子供なら幸せでしょうね……ですが違います」

 一瞬見せた恋する乙女の顔に十吉は心臓を掴まれた。甘い疼きを振り落とすように頭を振って平静を保つ。

「私のような鶏ガラ娘など、十吉さんが求めるはずがありませんもの。そんな事ではなく、家のために子供が必要なのではないかと、そう言いたいのです」

「君の家のためにか?」

「いいえ、十吉さんの……宇佐美家のためにです。私は元より何も望みはしませんので、もし妾ができて、その方と子を為しても何も気にせず家に入れてください。なんなら私を追い出してくれても良いのですが」

 そう言って笑う鈴蘭の顔が十吉の目にはどうにも泣いているように見えた。きっと月明かりがそうさせたのだと呟いて、十吉は鈴蘭の唇を奪い、呆然とする鈴蘭を抱き上げるとベッドの上に下す。

「自分で鶏ガラと言うだけあるな」

 着物の下に隠されたその体は菖蒲の物と違い貧相で、彼女が必要な栄養を摂れていないことが痛々しいほど伝わる。十吉は鈴蘭に服を着せてやるとそっと肩を抱いた。

「明日からは共に食事を摂ろう」

「ですが、」

「天下の大商人たる宇佐美家の嫁がこれではよからぬ噂がたってしまうからな」

 言葉とは裏腹に優しく包み込む十吉の温もりに、鈴蘭は融けるように眠りに落ちた。


 鈴蘭が朝目を覚ますとすっかり日が出ていた。隣には十吉がおり、まだ夢の中にいるらしい。それでも、鈴蘭を抱きしめる腕は強く、鈴蘭が腕の中から逃げ出す前に目を覚ましてしまった。

「逃げるな。ともに食事を摂ると約束しただろう」

 満月が見せた夢——そう納得していた鈴蘭は十吉の言葉に赤面する。穏やかな笑みを浮かべる視線の先に自分がいることがこんなにむず痒いとは知らなかった。


 けれどこれは、本来姉の幸せだった。


 頭の中で姉が囁く。私の幸せを返せと。

「そうですね、宇佐美家のためにももっとふくよかになれるよう努力します」

 ぎこちなく笑った鈴蘭に十吉は胸が痛んだ。

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