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後部座席でシートベルトを締めたエテルは、もとい絵瑠は、ニャッピー、ニャッピー、と自作の歌を陽気に歌っている。ニャッピーとは、今から行く遊園地のメインキャラクターだ。楽しみね、と話しかける湊に元気よく頷いている。子どもはのんきでいい。クエイスはとても楽観的にはなれなかった。つい最悪の事態を心配してしまう。崩壊体の体内で事故を起こしたら、うっかり死んでしまったら、果たしてどうなるのだろうか。ここから出るにはどうしたらいいだろうか。いつ出られるだろうか。クーラーが少し寒く感じる。
それに、湊が何を考えているのか分からない。自分が何をしているのか、どんな状況なのか、把握しているのだろうか。子どもと一緒に、純粋な気持ちで楽しんでいるようにしか見えないが。もちろん、遊園地に行くという状況を。
どちらにせよ、クエイスだけではどうしようもないのだ。隙を見て、海斗と話をしよう。遊園地の後は近くの旅館に泊まる予定なので、そこでなら機会がある。はずだ。と思った直後。
一連の遊園地での記憶、それからたくさんの荷物を携えて、クエイスは旅館の入り口に立っていた。
展開が。早い。
旅館と言えば洒落た部屋、豪華な食事と温泉だ。鐘霧家が選んだのは和室で、なかなかいい景色が見られる。主に、大きな海が。小さなシャワー室がついており、食事も部屋で食べるプランだ。温泉の種類は豊富かつ、別料金でエステやサウナも体験できる。湊と絵瑠は、今しがた温泉へ行くため部屋を出た。つまり、この部屋にはクエイスと海斗しかいない。
知的な存在は二人。それ以外で、とてつもない存在感を放つ者もいるが。窓際の椅子に鎮座する、高さ五十センチを誇るニャッピーくん縫いぐるみだ。ただいまニャッピーは、渋い体勢で海が見える夜景を眺めている。切り出すなら、恐らく今しかない。クエイスは温くなったお茶で喉を潤した。そして、思いきって話しかける。
「なんか、すみませんね。巻き込んでしまって」
「別に。家にいても暇だし」
窓際の方から言葉が返ってきた。海斗は布団に寝転がり、熱心にスマホを弄っている。座椅子に座るクエイスからは、気だるそうな背中しか見えない。ちらりと覗いたのは、RPGゲームらしき戦闘シーンだ。音はなく、イヤホンをしていないところを見るに、単純な周回クエストでもしているのか。遊園地で楽しそうにしていたのが、幻だったかのようだ。思春期の機嫌は乱高下するらしい。湊がいない状況でも、彼は普通の返事しかしない。分かっているのか、いないのか。その話ではないのだが。
「そろそろ俺達も行くか」
「どこへ」
「温泉だよ」
「行かねぇ」
海斗はぶっきらぼうに言った。話しかけるなと言わんばかりの空気が、そこはかとなく滲み出ている。クエイスは心が折れそうになった。無理やり元気な声を出す。
「せっかく来たんだから行こう」
「一人で行けば」
「ゲームはいつでもできるだろう」
「このイベントは今しかやってねえんだよ」
取りつく島もない。しかしクエイスは、次の言葉を探し続けた。知らない内に唸り声が漏れ出してしまった。海斗は突然、スマホの操作を中断する。
「迷惑っつったら迷惑だけど、」
振り返った彼は、表情どころか語気まで軟化していた。
「別にいいよ」
クエイスは数秒間固まってしまった。どちらの意味か分からなかったのだ。想定される方の答えを、おずおずと口にしてみる。
「……温泉が?」
「違ぇわ。面白いとか、嬉しいとか、親がムカつくとか、色々な気持ちを思い出せたって話だよ」
「やっぱり分かってるんじゃないか。そうならそうと最初から言ってくれよ」
「そしたら終わっちゃうだろ」
「でも、いつかは終わらないといけない。終わらせないと。この世界の小さな神様は、多分大変な思いをしているから」
今度は海斗が沈黙してしまった。真剣な目をしている。
「あんた、やっぱりクエイスなのか?」
たっぷり三秒後、クエイスは肯定した。
「どうもそうらしい」
「やっぱりそうか。破界のクエイス」
ハカイの、とは一体。二つ名があるとは知らなかった。
「結局なんなんだ」
「オレも、噂で聞いた事があるだけだけど。違法構築された世界を破壊する任務を背負った、特殊な暈人だって。制御輪の数は、不規則。一定条件において、一と十を繰り返すと言われてる」
「不規則な制御輪なのか? どうして」
「いや、あのさあ……さっきから何。自分の事じゃないのかよ」
それはそうなのだが、いまいち実感が湧かない。湊達の様子も気になるし、そろそろ温泉のフロアに行こう。一人でも、それはそれで気楽だからいい。クエイスは座椅子から立ち上がる。うっかり中年くさい掛け声が出てしまった。さっさと必要な荷物をまとめ始める。
「は? 置いてくな。オレも行くわ」
海斗は寝転がったまま二回転半して、自分の荷物まで辿り着いた。そして中から着替え一式を出し始める。どうも荷物が大きいと思ったら、パジャマにするための服を持ってきていた。浴衣は着たくないらしい。
ちょうどその時、内線電話が鳴った。立ち上がっているし、一番近くにいるので仕方ない。この場の代表としてクエイスが出る。
「鐘霧です」
聞こえてきた内容に、思わず耳を疑った。
「えっ……はい。えっ? 今すぐ行きます」
「何」
落ち着こうと努めながら受話器を置くと、いつの間にか海斗が側へ来ていた。突然声色が変わったからか、不安げな表情だ。
「湊が、風呂で倒れたって」
無理しているのは予測していたが、限界が来ているのだろうか。大きすぎるのだ。どんな小さな世界でも、上位存在でもなんでもない魂が背負うには。県外の旅行になど行ったら、更に別のタスクが増えてしまう。どうしてもっと本気で止めなかったのだろう。クエイスは後悔のあまり、思考がそのまま口からこぼれ落ちる。
「だからやめようって言ったのに」
「早く行け。オレ、鍵閉めてから追いかけるから」
クエイスは素早く頷いた。ドアノブを掴み、ドアを開けて、一歩を踏み出して。固い床の感触はなく、足の裏が空気を裂く。
落ちた。
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