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 ミカの解説がまだ続いている。もう必要ないが、遮るのも面倒なので聞くふりだけはしておく。全く知らないのではなく、すぐに思い出せなかっただけだ。しかし、水族館。海の生物が、生きたまま展示されている施設だ。しかも何十種類も。海と言えば、地球の七十パーセントを占める。水中を想像すると寒気がするが、自分が入る訳ではないからいいだろう。レイジも興味が湧いてきた。彼女に付き合ってやらないと、次はいつ見られるか分からない。海の事などほとんど覚えていないが、いや、それゆえか。非常に気になる。まあ、ついて行ってもいい。とレイジは判断した。話飽きたミカは、こちらを見る。

「つき合ってくれる?」

 レイジは静かに頷いた。



 水族館はたいてい、海の近くに建てられるものだ。レイジが見てきた限りでは、この辺りは海がありそうな土地ではない。少し遠いなら、白鳩駅に戻らなければならないだろう。電車に乗る必要があるかどうか、メモで尋ねる。

「西小海線に乗って……って、電車なんか乗らなくても飛べばいいのに」

 飛べる訳ないだろうが。レイジは正直に書いた。

「それってレイジさんだけでしょ」

 図星だ。レイジは、眉間と鼻の付け根に皺を寄せた。ペンを紙の上に置いたまま、メモには書かない。

「天使が飛べない訳ないし」

 ミカの言う通りだ。なぜ飛べないのか、レイジにも分からない。だから地道に歩くしかない。白鳩駅に戻るため、レイジは歩きだした。早足にさえならなければ、勝手に着いてくるだろう。

「えっ、ほんとに飛べないの?!」

 悪意のない大声が背中に刺さった。余計なお世話だ。





 白鳩駅構内には、多くの人々が行き交っている。スーツを来た人間は、朝ほどの数はいない。レイジは他者を見る時、まず頭の上に目をやる癖がついていた。それゆえに、宙に浮く制御輪にはいち早く気づいた。

 まずい。レイジは突然立ち止まる。少し遅れて、勢い余ったミカが背中に衝突してきた。とは言え衝撃は軽微だ。そのていどでは、レイジの爪先すらも微動だにしない。


 強制執行課だ。

 輪の数は三つ。制御輪は通常頭部と平行だが、彼の場合少し右に傾いている。傾いた黒い制御輪は、強制執行課の主たる特徴だった。直下には輪と同次元の異質な人影。見た目は、黒い活動服を着た若い男だ。十代後半ほどで、顔色がやや悪く、細身。背もそう高くはないが、例によって暈人の強さは外見で推し量れるものではない。三つ輪だから、エテルより強いのは確実だろう。自動改札入口近くの柱に寄りかかって、のんびりと立っていた。足など組んでいるが、雰囲気は重いものだ。人間達を品定めするかのような、不躾な視線を好き放題に向けてはやめている。道行く生者のほとんどが、霊魂の類を認識できないのをいい事に。


 強制執行課は、文字通り強制的に執行する事を目的としている。霊魂回収課や崩壊体討伐課と仕事が被るため、お互い衝突も多い。崩壊体討伐課と霊魂回収課は基本協力関係にあるが、霊魂回収課と強制執行課はいかんせん馬が合わない。戦闘服の色からして、白と黒で真逆だ。彼らは総じて任務に忠実だ。規則に沿わない暈人を暴力で排除したり、回収霊魂が多少傷ついても構わないとする強引な性質を持つ。霊魂回収課の補完要員にして、安全装置でもある。故に、その精神はかなり機械的だ。契約と本人の意思を尊重する霊魂回収課にとって、非常に厄介な存在だった。人間の概念で表現するなら、強制執行課は死神に最も近い。


 幸いまだこちらに気づいていない。だが。レイジは素早く、次の行動を危機回避のみに絞った。ひとつ輪の自分が気づいたなら、もう時間の問題なのだ。三つ輪とやりあって勝てる可能性はない。万に一つも。

 考えている最中に、頭上の制御輪に声が響いた。レイジに念話を送って来る者は、現在エテルしかいない。何もなければありがたいのだが、タイミングが最悪だ。

『レイジ、聞こえる? やっと繋がった。今──』

 隠密回線ではなかった。

『謝罪』

 完全に聞かれた。

『えっ、ちょっと』

『切断』

 慌てて念話を遮断する。と同時に、例の強制執行課へ意識を向ける。直後、男の瞳が動いた。黒というよりは、真っ暗な。視線がこちらを捉えた瞬間、レイジの体が強張ってしまう。反応が遅れた。ミカとの前に入るのが精一杯だった。肩甲骨辺りに刺痛が走る。貫通はしていない。彼は最初から、必要最低限の出力で、ミカの魂だけを狙ってきた。レイジが大人しく引き渡す事を前提で。つまり、次は。



圧縮要請:戦闘モ


 右足の太ももから下が弾け飛んだ。さすがにこれは堪えきれなかった。食い縛った歯の間から、酷く掠れた呻き声が漏れる。この感覚は、刃物でも鈍器でもない。音がないのが気になるが、やはり飛び道具だ。彼はレイジと同系統の能力を持っている。レイジは大きくバランスを崩し、ようやくミカが異常事態を認識する。小さな魂が固い床に激突しないよう、何とか庇いながら倒れた。要請中に攻撃してくるとは、酷いマナー違反だ。だが彼らには、それが許可されている。頑丈な靴を履いた黒い足が、すぐ近くに見えた。


 早すぎる。各所の痛みに襲われながら、レイジは内心で舌打ちした。レイジが普通の暈人より遅いのかもしれないが、あちらも早すぎるのだ。ここまでやっておいて、実際四秒にも満たない。現にレイジの右足は、膝までしか再生していない。頭より先に、体が追撃を察知する。動こうとするミカを押さえて、何とか覆い被さる。

「レイジさ、」

 悲鳴に近い、くぐもったミカの声。左の太ももを撃たれる。また足が消し飛んだ。癒えない傷を持つ声帯から、二度目の潰れた声が漏れる。ついに喉までが痛み出した。何もここまでやる事はない。

「無駄な抵抗は やめなさい」

 固い声が静かに降る。ようやく右足が戻ってきた。レイジは上体を起こして、黒い男へ抗議の視線を送る。もちろん、問答無用で酷い暴力を振るってきた事へのだ。死神は、覇気のない疲れた目をしている。この仕事は気苦労が多いのかもしれない。だが関係ない。怒りによって、レイジは反抗的になっていた。報告書の記述を少し盛ってやろうか。


 ミカが震えだした。腕の中にいるので、すぐに分かった。レイジの名前を呼んで以降、胸を押さえながら体を丸くしている。当たり前の反応だ。人間は暈人と違って、失った部位が二度と修復されない。それは魂になっても同じ事だ。エテルが自分にしたように、少し背中を撫でてみる。

「業務中は 活動服の着用が 義務です。仕事ナメてんのか」

 強制執行課の男は、淡々と言う。本当に機械的存在なのか怪しい単語を付け加えて。強制執行課にも、どうやら個体差がある。

 それはともかく、確かにそうだ。柔らかい人間の服など着ているから、容易に足が吹き飛んだ。規則違反を指摘され、レイジは視線を斜め下に反らす。彼はしばらく返事を待っていたが、無視と判断してか別の話題に移る。

「当機が 出動した 理由を 理解していますか」

 理解している。霊魂回収課の業務規則違反だ。送還すべき魂を無闇に連れ回してはいけない、という。しかし、彼女の送還には不具合がある。未練を晴らしてやりたいがための行動は、無闇と言うのだろうか。

「規範を超える独断行動 霊魂回収業務を放棄 相棒の定期連絡を何度も無視。執行するに 十分です。これ以上の 邪魔をすると 言うのならば 規則に則り 貴方を 排除しなければ なりません」


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