第34話 人命救助



 天使は、ほんの数秒で、王宮からおよそ百キロ離れた山麓の農村に飛んだ。

 その背中で、ランと衛兵隊長のコールマンがハッと目を覚ます。瞬間移動をしているあいだ、ほとんど気を失っていたのだ。


「ここは?」


 呆然とつぶやくラン。糠のような雨に、服がしっとりと濡れそぼつ。


「ある農家の上空です。私の力で、屋根を透視できるようにします。向こうから、こちらの姿は見えません」


 天使が言ったとたん、藁葺きの屋根が透けた。

 家の中では、深夜にもかかわらず、八人家族の全員が起きていた。


「お母さん、見て。これ何だと思う?」


 六歳の次女の声が、天使とランとコールマンの耳にはっきりと届いた。


「何だろうね。クマさんかい?」

「違うよ。クマさんは耳が丸いんだよ。これは三角でしょ?」


 真夜中に粘土遊びとは……ランはそれを、可愛らしい粘土のお人形とは裏腹に、何か異様なものに感じた。


「この大きなしっぽは、タヌキさんでしたー」 


 次女がケラケラと笑うと、十二歳の長男も、


「爺ちゃん、見て。おいら、お城作ったよ。王様と王妃様と王太子様が住んでるんだ」


 竹と紙で作ったお城を見せ、幼児のようにはしゃいだ。

 その様子を、泣き笑いのような顔で黙って見ていた一家の主(あるじ)が、


「さて、そろそろ、ろうそくが尽きてしまう。それが最後の一本なんだ」


 急に八人家族がシンとした。やっぱり何か変だーーランは胸騒ぎを覚えた。


「みんな、一息に飲んでくれ。それで楽になれる」


 主人は、家族一人一人の前に茶碗を置き、ヤカンから液体を注(そそ)いだ。


「あれは何? 何をしてるの?」


 下を見降ろしたまま、ランが天使に訊くと、


「青酸ソーダ入りのジュースです。彼らは今から一家心中するのです」


 えっ、とランが甲高い声を出したが、下の家族は無反応だった。上空での会話は、天使の力で聞こえないようにされていたのだ。


「天使さん、止めないの? まさか、見殺しにはしないよね?」


 ランの問いを、天使はそのままコールマンにパスした。


「コールマンさん、どうしましょう。見殺しにしますか?」


 コールマンは答えない。ただじっと、怒ったように下の光景をにらんでいる。


「あなたのような軍人も含めて、国民には知らされていませんが」


 天使が静かに言う。


「農民の餓死や自殺や心中は増える一方です。なぜなら、どんなに不作でも、納める税は年々増えているからです。王がそう命令しているのです」


 そのとき下では、十歳の長女が泣き出し、それに耐えきれなくなった長男が、


「……おいら、最初に飲んでいい?」


 と、茶碗を取った。

 

「王は知っています」


 天使が言う。


「餓死者や自殺者の数は、王に報告されています。しかし彼は、それを薄笑いで聞くと、食い扶持が減っていいとさらに税を増やし、自分は毎回捨てるほど多くの食事を食卓に並べさせています。コールマンさん、あなたはこの現実を知っていましたか?」


 コールマンは、あっと小さく声を洩らした。

 長男が、茶碗を口元に近づけたのだ。

 飲めば呼吸困難となり、早ければ数分で死亡する。


「天使さん!」


 たまらずランが天使の羽を揺さぶったときーー


「待つのじゃ!」


 玄関の戸がいきなり開けられて、驚いた長男の手から茶碗が落ちた。


(……誰だ?)


 コールマンは知る由(よし)もなかったが、その闖入者の正体は、ランとレオ第二王子を結びつけた、職業「仙女」を選択した転生者の老婆だった。


(まるでいきなり空中から現れたみたいだが、あの老婆も、天使の仲間か何かか?)


 コールマンの頭は激しく混乱した。が、ともかく長男が毒を呑まずに済んだので、声を出さずにほっと息をついた。


「一家心中などやめたがいい」


 老婆は、一家の主人を説得しようとした。


「仙女の言うことに間違いはない。この世は変わる。死ぬ必要もなくなる。奴隷は解放されるのじゃ」


 主人は信じなかった。


「奴隷を解放? そんなことをした国は、過去から現在に至るまで一つもありません。ましてやシェナ王国が……」

「信じられんか? しかし何がどう変わるか、あんたにはわからんじゃろう? わからないくせに、何も変わらんと勝手に決めつけて、四人の幼子から未来を奪ったらそれは殺人じゃ」

「殺人ですよ!」


 主人は声を張り上げた。


「そっちこそ、決まってもないことを聞かせて喜ばせないで下さい。もういいから、楽にさせて下さい。望みはそれだけなんです。それとも奴隷には、死ぬ自由も権利もありませんか?」


(まずいな……)


 コールマンは唾を呑んだ。


(あの様子だと、説得は効かない。早くすべての茶碗をひっくり返さないと、発作的に毒を呑まれてしまうぞ)


 その悪い予感はあたった。

 老婆が説得する言葉を探しているあいだに、主人は茶碗を取り上げて、一息に毒入りジュースを呷(あお)ってしまった。


「あっ!」


 コールマンは叫んだ。

 全身から血の気が引き、手足が冷たくなる。


(クソッ! やられた! だがすぐに吐き出させれば、まだ間に合う)


 コールマンは天使の翼を引っ張って言った。


「俺を降ろせ! あそこに行かせろ! 毒を吐き出させる!」


 ところが天使は、慌てるそぶりもなく、


「おや、コールマンさん。あの農民は、王への務めを勝手に放棄して、死を選んだんですよ? そんな非国民の奴隷は、見殺しにすればいいじゃないですか」

「急げ! 早く救けろ!」

「王の意向を聞かなくてもいいですか? あの王様なら、ほっとけ、コールマン、と言いそうですが」

「早く!」


 翼を強く揺すられて、天使はじゃあと言い、コールマンを乗せたまま農家の家の中に瞬間移動した。

 コールマンは急いで天使の背中から飛び降りると、床に倒れた主人の口元に顔を近づけた。

 息はしている。

 服をはだけて左胸に耳をつける。良かったーー心臓もまだ動いている。


「コールマンさん」


 天使の柔らかな声が聞こえた。


「毒を吐かせる必要はありません。あなたは気がつかなかったようですが、一足先に、ランさんをここに瞬間移動させたのです。そしてランさんは、【胃薬】という万能薬を、この方が毒を呑む直前に、すばやく口に放り込んだのです。ですから彼は死にません。仙女さんも、そういうことですので、どうぞご安心を」


 コールマンは言葉もなく、天使とランと仙女をぼんやりと見た。

 すると、毒を呑み干したという思いで一瞬気絶していた主人が、うーんと唸って身体を起こし、突然現れたコールマンたちに驚いて言った。


「……あんたたちは誰だ?」


 天使の力で、彼らの姿は見えるようにされたのである。

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