閑 話 Bear Stay In Rice Field


 私の名前は『藤原たくま』



 現在43歳で、愛する妻と3人の子がいる。


 21歳の長男と19歳の長女は、ともに都会の大学に通うため別々にアパートを借りて一人暮らしをしており、子供達の中で唯一同居している末っ子の次男坊は14歳の中学生である。



 私の仕事はと言えば、曾祖父の代から続く温泉旅館『天陽廓』にてマネージャーを任されており、当然ながら妻も若女将として従事している。


 マネージャーの仕事はいささかハードで、経営に係る収入支出全般の管理から始まり、勤務時間や勤務態度の管理と指導、来客の受付及び予約管理、従業員の採用から給与支払いに至るまでの人事管理に加えて、時には調理場で板前の真似事まですることもあり、そのために私は商業高校を卒業後に調理師学校にも通って調理師免許を取得した。


 免許と云えば、温泉客を最寄りの駅まで送迎するバスの運転についても私が行うことがあるため『大型自動車第二種運転免許』も取得している。


 おおよそ察しが付くとは思うが、私の仕事は世に言うところのブラック企業など鼻で笑ってしまうほどの凶悪レベルであり、朝4時半の起床から夜11時半の就寝までの間、ほとんど息を抜く暇も無く働き続けている。


 しかも、温泉旅館には定休日といったものが存在せず、毎朝の起床と共にロビーに新聞を設置しに行くと、風呂上がりの老人達が既に行列を作って到着を待っており、夜11時にフロントを閉めたからといってそれで終わる筈も無く、夜間の客室からのコールは私の部屋に繋がるため、夜中の2時過ぎに『さきイカ』と『ビール』を運んだ回数も数知れない…しかも、その都度スーツに着替えなければならない…これが365日ほぼ欠かさずルーチン化されている。



 こうして馬車馬ばしゃうますら逃げ出す程の激務に日々追われる私だが、決して処理能力が他人より劣っている訳ではなく、自分で言うのもはばかられるが学生時代は極めて優秀な成績を収め続け、小学校3年生以降は、どの学年においてもクラス委員か生徒会役員の何れかを務め上げ、高校卒業時には校長自らが天陽廓を訪れて、両親に対して私の大学への推薦を強く進めてきたほどだった。


 そんな私を知る者は、子供の頃から性格は実直で冷静沈着、少し堅物すぎる面もあるが失敗したところなど見たことがなく、何事にも頼りがいがあるなどと言ってくれるのだが、その評価には若干の誤りがあることをこの場で指摘させて頂きたい。



 そもそも私は、幼少の頃から大胆不敵な割に思慮が浅く、思い付いたら深く考えもせずに行動に移して失敗を繰り返すタイプであり、保育園の連絡帳にはいつも『もっと落ち着いて行動しましょう』だの『整理整頓を身につけましょう』、『大変やんちゃですね』などと、問題児に対する決まり文句のオンパレードだったのだが、そんな私の性格を一変させる出来事が小学校へ入学した直後に起こった。



 そもそも天陽廓という温泉旅館は、初代の主人が倒産した古びた温泉旅館を安く購入して操業を始めたのだが、祖父の『藤原鍛造ふじはらたんぞう』が旅館の2代目主人に就任する際に、大手銀行から巨額の融資を受けて、隣接する土地に近代的な旅館を新築したことで、総客室数が100を超える大型温泉旅館に発展した。


 祖父が特に拘ったひと際華やかな外観と絢爛豪華な内外装が話題となり、雑誌やテレビに度々取り上げられていたこともあって、客足は途絶えることなく週末は常に満室で、平日でも他の旅館を圧倒するほどの宿泊客が訪れていたため、経営は正に順風満帆だと思われていた。


 しかし、嵐は突然訪れた…融資を受けた銀行から遅延損害金の発生通知書が送付されてきたのだ。



 祖父は2代目主人に就任以降、帳簿を自分以外の誰一人にも触れさせずにいたのだが、連日これ程の来客数があり十分儲かっている筈なのに、返済が滞っている事を不審に思った両親と祖母が、祖父に対し帳簿の開示を強く求めたところ、返済に充てる予定の金額の大半が、古美術品の壺や絵皿の購入費にすり替わっていたことが判明した。


 祖父曰く『旅館を新しくしたら、高い壺やお皿を飾りたくなっちゃって、我慢できなかったんだよ…テヘッ!』とのことだったそうで、確かに祖父は芸術的なセンスは非常に秀逸であり、時代の流れも敏感に察知出来て、興味のあることには天賦の才を発揮する人だったので、そのセンスに従い旅館を建替えたお陰で利用客が爆発的に増えたのは事実だが、そんな祖父の唯一にして最大の欠点が我慢だけは絶対に出来ない性格だった事だ。


 家族達に叱られてその場では反省の色を見せるものの、芸術家肌の祖父が性根を入れ替える筈もなく、止む無く旅館の組織形態を変更して会社経営にし、今際いまわきわ彷徨さまよってた初代主人ひいじいちゃんまで動員して取締役会を設立して、経営権を無理やり父に移すまでの2年間で、祖父は全く同じことを3度も繰り返すこととなった。


 常々、周りからは祖父に生き写しだと言われて喜んでいた当時の私は、板場に正座をしてコンクリートの床に頭を擦り付け、涙ながらに何度も両親と祖母に土下座をする祖父の姿を見た時に、地獄の底に突き落とされたような心境におちいると共に、絶対にあんな人間にだけはならぬよう常に自分を戒めることを心に誓ったのだった。


 つまり、私が祖父の土下座姿を忘れぬ限り、孫が見ている前で泣きながら子供達に土下座をする未来は私には訪れない。



 余談になるが、私の7歳下の弟も祖父に生き写しだと言われ続けているが、この旅館経営者の交代劇の真相を知らないからなのか、今でも祖父によく似ているなどと言われる度にとても嬉しそうな顔をしている…全くもって苦労を知らぬ奴には困ったものだ。




 さて、この様に常に完璧を目指している私なのだが、たった1つだけ自分では解決出来ないコンプレックスを抱えている。


 それは『名前』だ。


 

 小学校時代は友人達にかっこいい名前だと持てはやされたものだが、中学に入っばかりの頃、席が隣り合った女子が漢字で書かれた私の名札を見た際に、授業中にも拘わらず彼女は思い切り笑い出したのだ。


 そう、小学校は母が手書きで『藤原たくま』と名札を書いていてくれていたが、中学校ではプラスチックの板に、『藤原』と漢字で刻印されたものを学校指定で購入することになっていた。


 以降、会話する相手が私の名札を見ては笑いを堪えているような素振りを見せ、あだ名も以前は『たくちゃん』と呼ばれていた筈が、そのうちに『熊ちゃん』に代わっていき、いつの間にか『熊田』になっていた…実に低俗なあだ名だ…藤原熊田…これじゃまるで漫才コンビのようではないか。


 そういえば、妻も私の名前の漢字を知った時、しゃっくりをしながら大笑いしていたような憶えがあるし、婚姻届けを提出した際にも受付の女性職員が肩を震わせていたのに対し、妻は私の隣で笑いを堪えていたような気がする。



 しかし、『たくま』と名付けてくれた両親に恨みなどは全くない。



 これは後で聞いた話なのだが、本来は『勇ましく軍の如く敵陣を切りく』の意味で『拓馬』と名付けられる筈だったところ、年末の超繁忙期に加えて出産による母の職場リタイアがあり、ほとんど寝る間もなかった父を気遣って、曾祖母が出生届の記載を含めて役所への提出を請け負ったことから、この間違いが発生してしまったとのことだった。




 曾祖母曰はく『んぼで陣取ってるは勇ましい』


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【再掲】転生セラミシストの異世界奮闘記 ~転生前は番頭さんだった編~ 🍑多瑠 @momotaru

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