灰の記憶
藍
第1話灰の記憶
この森の空は、いつだって曇っている。
月も星も、陽の光さえも差し込まぬ空。
俺が“目覚めた”のは、この灰の森だった。いつからここにいたのか、名前も、生きていた頃の記憶も、何もない。ただ、胸の奥にぽっかりと空いた穴と、手の中に握りしめていた、小さな骨だけがあった。
それは……子供の指の骨だった。
折れていて、何かに噛まれたような跡がある。
俺はその骨を、何か大事なもののように感じた。
「お兄ちゃん……?」
背後から、聞き覚えのある声がした。
振り返ると、そこには少女が立っていた。透き通るような白い肌に、黒い瞳。……いや、その目は、どこか焦点が合っていなかった。
彼女の名を、俺は知っていた。
リュカ──俺の、妹だ。
この世界には、生と死の境界がない。
死んだ者の魂は、時にそのまま彷徨う。思い残しがある魂は、“影”に引き寄せられ、やがて食われて消える。
“影”は、記憶と感情を喰らう。
人はそれを恐れ、忌避した。けれど、俺は“影”を恐れなかった。
なぜなら──もう、何も残っていないからだ。
自分が誰だったのか、何をしてきたのかすら分からない。残っているのは、妹の名と、小さな骨だけ。
リュカはもう死んでいる。けれど、彼女の魂はまだこの森に囚われている。
どうして彼女がここにいるのか、俺は知る必要があった。何かを取り戻すために。
「お兄ちゃん、わたし……ずっと待ってたよ」
リュカは笑った。笑顔だけが、生きていた頃と変わらなかった。
でも、その目はどこか焦点が合っていなかった。まるで、見るべきものを見ていないような空虚さだった。
森を進むうちに、記憶が少しずつ戻ってきた。
俺とリュカは、村に住んでいた。小さな村だった。
リュカは病弱で、いつも家の中で絵を描いていた。俺はその隣で、剣の練習をしていた。何度も絵を描いては、俺に見せてくれた。
「お兄ちゃん、これ、見て。森の精霊、描いたの」
あの絵も、今はどこにもない。
ある日、村に“影”が現れた。
誰かが「生贄を出せ」と言った。影に魂を差し出せば、他は助かると。
俺たちは、逃げることにした。リュカの手を引いて、夜の森へ走った。
でも――
「俺が……置いていったのか……?」
思い出した。あの夜、リュカが足を引きずって、倒れたとき。
俺は彼女を……その場に置き去りにした。
“影”が迫っていた。怖くて、怖くて、俺は一人で走った。
リュカはそこで死んだ。
俺のことを信じたまま、独りで。
「リュカ……ごめんな……」
膝をついて、嗚咽した。声が枯れるまで泣いた。
後悔と罪悪感が、胸を引き裂く。今さら何を言ったって、遅い。
けれど、リュカは何も責めなかった。ただ、俺の手を握ってくれた。
その手は、冷たかったけれど……優しかった。
森の中心に、黒い霧が渦巻いていた。
それが“影”だった。人の絶望から生まれる存在。
いや、あれは──俺自身の心だった。
逃げ出した過去、許されぬ罪、自分を責め続ける感情……それらが“影”として具現化したのだ。
「リュカ……」
俺はナイフを取り出した。
最後に、妹の手をぎゅっと握った。
「もう逃げない。……これが、俺の贖罪だ」
ナイフの刃を、自分の胸に突き立てた。
“影”が咆哮を上げる。森が崩れ、世界が歪む。
その中で、リュカが微笑んだ。
その瞳には、ようやく……俺が映っていた。
風のない灰の森に、小さな白い花が咲いた。
その根元には、寄り添うように眠る二つの骨がある。
兄と、妹。
彼らがどんな人生を歩み、どんな最期を迎えたかを知る者は、もういない。
けれど、確かに一度だけ、世界の終わりで手を取り合った。
その魂が、ようやく安らかに眠れるように。
──白い花は、静かに揺れていた
灰の記憶 藍 @SIRAKAMI636
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