第13話 血中濃度


「はい」


「もう一度言うわね。この間の血中濃度の話なのだけど……全然下がっていませんでした」


「だから言ったろ」


 そう言うと三陽先生が「はぁ……」とまた色っぽいため息をついて、小さく口をとがらせる。


「せっかくお願いできると思ったのに」


「どうかしたのか」


「お薬、新薬に変えようと思っていたの。その方が副作用が少ないし、てんかんもぐっと抑えられるはずなのです。ただ私も使うの初めてだから……いろいろ面倒な測定とかもあって、喬くん嫌かなと思いまして」


「やってくれていい」


「――え? 本当?」


 先生の顔に、ぱっと笑顔が輝く。


 俺はこれから、先生を傷つけようとしているのだから。

 そんなことくらい、何でもない。


「ああ。いくらでも俺で試すといい」


「……ちょっとこまめに調べなきゃいけないから……毎週診察だけどいいかしら」


 先生が突然背を向けて、ぽつりと言う。


「構わない」


 俺が承諾したのを聞いたとたん振り返り、嬉しそうにする三陽先生。


「うふふ。毎週なんて夢みたい」


 どうやら新しい薬を使うのが、相当楽しみだったようだ。




 ◇◆◇◆◇◆◇




 翌週の午前。

 先生が言っていた通り、俺は診察室に呼ばれた。


 採血をして血中濃度測定の検査に出すのだ。


「すぐ戻りますね。これ検査センターに送ってきますから」


 先生が俺の検体を専用の容器に入れて、ヒールを鳴らしながら診察室を出ていく。

 先生は急いでいたのか、白衣を脱いだまま出ていった。


 彼女の椅子の背もたれに、折りたたまれた上品な白衣がかかっている。

 そのポケットからのぞかせるのは、あの打腱器。


 今日は採血だけ。

 打腱器を使った診察はないはずだ。


(今しかない)


 俺は頭上のカメラの角度を確認する。

 一つからはどうしても視認される角度だが、やるしかない。


 俺は床に突っ伏し、腕立て伏せを始めた。

 ぶっつづけで行う。


 100回近くやったあたりでばてたふりをして、ひいひい言いながらごろんと床に転がる。

 その折に彼女の白衣に手をひっかけ、床に落としてしまう。


「おっと」


 俺は慌てて立ち上がり、彼女の白衣を丁重に折りたたみ、椅子に掛け直す。

 拝借したものを、アイテムボックスに仕舞いながら。


「あら、どうしたの」


 白衣をかけ直したところで、先生が戻ってきた。


「ちょっと引っ掛けて落としてしまいまして」


「ふふ。ありがとう。喬くん、じゃあせっかく来てもらってるし、診察をするわね」


 先生は気づいたふうもなく可憐な笑顔を見せて、いつもの診察をしてくれた。




 ◇◆◇◆◇◆◇




 戻った後、俺は砂時計をひっくり返しながら、さっそく手に入れた打腱器でプラネタリウムの壁を叩いていた。


 素晴らしい品だった。

 音が響き、壁の奥の状態が見えるかのように把握できる。


 俺たち囚人は屋外作業や、グラウンドに出た時のみ、刑務所の外観を観察することができる。 

 しかし図書館はちょうどバビロン棟の陰になっており、外観を確認することができない。


 それゆえ、中から叩いて音を聴き、外観を予測するしかないのだ。


 穴を開ける場所は1箇所。


 それだけに、失敗は許されない。

 慎重に場所を探すのだ。


 俺は砂時計を逆さにする。

 10分が経過し、砂時計が砂を落とし始めるのは三度目だ。


 当たりをつけていた場所は、3つある。


 ひとつめは打腱器で打つと違う答えが返ってきている。

 ここを開けていたら、失敗していた。


(残り2つ……)


 できれば今日中に場所を確定し、打腱器を先生に返したい。


 砂がさらさらと落ちて、砂時計が残り三分の一を切った。

 限界の15分が近づいている。


 いつもならこのタイミングで終えて、俺はアリルンのもとへ戻っている時間だ。

 時計を眺めて、アリルンも帰ってこない俺を不思議に思い始めていることだろう。


「……ここもだめか」


 2箇所目も案外に厚い返事が返ってくる。

 壁の外に、なにかが置かれているのだ。


 砂時計が、落ち切った。

 15分が過ぎている。


「………」


 俺は意を決して砂時計を逆さにすると、最後の場所にとりかかる。

 操作室の背後にあたる部分だ。


 15分を過ぎて危険な時間に入っているが、努めて冷静に、壁を打ち続ける。


「……よし、ここは間違いない」


 俺の顔に会心の笑みが浮かぶ。

 ここの厚さは20センチもなさそうだ。


 そうと知るや、俺は砂時計を拾って駆け出す。

 2分ほどオーバーしていた。


 階段を駆け下り、一階に降り立つ。

 本棚の間を駆け抜けている間に、トリス、と呼ばれる声がした。

 この声は、ゴードンだ。


 ――ぎりぎりだ。


「はい」


 俺は息を整え、ヤツの前に現れる。

 振り返ったアリルンが真っ青な顔をしていた。


「先生がお呼びだ。行け」


「……はっ。すぐ行きます」


 一難去って、また一難。

 先生とは、もちろん三陽先生のことだ。


 俺は頭を下げて表情を隠しながらも、心のなかで舌打ちする。

 打腱器を拝借したことを気づかれたのだろう。


「………」


 いや、もはや言い訳など無意味だ。


「アリルン、ちょっと行ってくる」


「……大丈夫ですか?」


「ああ」


 落ち着け。

 まだ、アリルンを救い出せなくなった訳ではない。


 俺は覚悟を決め、診察室に向かう。

 診察室はバビロン棟内にあり、俺の独居房に向かう道の途中にある。


(彼女に嘘をつくつもりはない)


 診察室の扉をノックしながら、俺は覚悟を決める。


「はい、開いていますよ」


「失礼します。お呼びとのことで参りました」


 いつもはこんな丁寧な言葉など使わないのだが、今は別だ。


「喬くん」


 神妙な顔をした先生が、じっと俺を見ている。


「先生――」


 もう俺から口にして謝罪しよう、と決意した時。


「ごめんなさい。もう一回血をとってもいい? 一日でいいから、二点測定が必要って言われてしまいまして」


「……え?」


 俺はつい、呆けてしまった。


「……ごめんなさい。痛いことなのに。研究熱心な大学の連中がうるさいのです」


 先生が茶髪を揺らして、ぺこんと頭を下げる。

 ふわりと甘い香りがやってきた。


 なんと、まだばれていなかった。

 見ると白衣は椅子の背もたれにかけられっぱなしで、先生はあれから着ていないようだった。


「今度埋め合わせしますから、この通り」


 先生が両手を合わせ、片目を閉じながら、もう片方の目で俺の表情を伺う。


「……いや、いいんです。二回と言わず何度でもどうぞ」


 俺は右腕を差し出した。


「ほんと? 50mLだから、さっきと同じ太い針なのよ?」


「だから何度でもいいですよって」


「あぁ嬉しい! 喬くん大好きっ!」


 だ、抱きつかれた……。


 ホント、研究熱心な人だな。

 俺とはぜんぜん違う世界の人だ。


 まぁ、世の中ってやつは、こういうまともな人たちが回してくれているんだろうな。

 ちなみに打腱器は、先生が採血を終えてラベルを貼っている間にそっと白衣のそばに戻しておいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る