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それから数日、澄香の元に、蛍斗けいとからの連絡はなかった。自分から関係を終わりにしようと言ったのだ、連絡なんて来る筈もない。

いつも連絡は蛍斗からだった。蛍斗には思惑があったからだけど、それがなければ二人がお試しの恋人になる事は無かった。


今日は、休日だ。澄香すみかはスマホをテーブルの上に乗せ、自分もテーブルに突っ伏した。

自分から関係を断っておいて、どうしてしこりを感じているんだろう。

お試しの恋人でなくなれば、もう会う事もない。当たり前の事なのに、それが寂しかった。二人は元々、友人でも何でもない、ただの店員と客、ピアニストとファン、顔見知り。


顔の向きを変え、壁に掛かったカレンダーを見上げる。ワンルームの狭い部屋だ、それにキッチン、風呂とトイレが別々についている。

部屋は、ベッドが床面積の半分を占め、小さなテレビとテーブル、小振りな棚には、映画のDVDがぎっしり詰まっていた。この狭い部屋で、じんと映画の感想を言い合いながら過ごすのが好きだった。

それだけじゃない、この部屋には、仁と過ごした思い出が沢山ある。一緒に料理を作りあって、失敗した料理を仁は美味しいと言って食べてくれた。一緒にゲームをした時は白熱したし、初めて体を重ねたのも、この部屋だった。季節のイベントは、仁のスケジュール的に一緒に過ごす事は難しかったが、何も無くても一緒に居るだけで幸せだった。


そんなスターとの夢のような恋から覚め、ピアノの王子様に慰められ、そして、全て手放してしまった。

何もない今は、平穏で、平和で、でもこれこそが澄香の日常だと思う。

唇を噛みしめると、頭がムズムズして、耳と尻尾が飛び出したのを感じる。こんな体の人間は、何もない事が一番の幸せなのだと自分に言い聞かせ、澄香は一人涙を拭った。






しかし、その平和な日々は、再び崩れる事となった。


「澄香!芸能ニュース見たか?」

「え?何かあったの?」

「今、真帆まほから連絡来てさ、これお前じゃないかって」


客の引いた時間に、澄香は公一きみいちからスマホの画面を見せられた。それは芸能ニュースのページで、“ミュージカル界のプリンス、熱愛相手は男性か”との見出しと共に、高架下で、仁の腕の中に閉じ込められた澄香との写真が載っていた。遠目からの写真だが、その横顔は仁に間違いなく、澄香の目には目隠しが入っていたが、身近な人なら澄香だと分かるかもしれない。

真帆というのは公一の恋人で、澄香とも親しい間柄だ。仁と澄香が付き合っていたのを知っていたので、すぐにピンときたのかもしれない。


「な、なんでこんな写真が」

「こっそり撮られてたんだな…。でも、密着してても、この記事を信じるかどうか…男同士だし、酔ってたとか、いや、でもその言い訳は苦しいのか…?」


うん、と頭を悩ませながら焦って落ち着かない公一に、澄香はきょとんとして、それからおかしそうに笑った。


「はは、なんできみちゃんがテンパってんの」

「だって、お前これ…!」

「大丈夫だよ。ほら、顔隠れてるし、そもそも仁がこんな記事認める訳ないじゃん!」

「…でもさぁ、撮った奴はお前の事分かってるだろ?変な奴につけられてないか?変な事されてないか?お前は人が良いっていうか、押しに弱いっていうか」

「もう、親みたいな事言うなよ」

「言いたくもなるわ!今ならおばちゃんの気持ちスゲー良く分かる!誰か見張ってるんじゃないか?俺、締めてこようか」


既に捲ってある袖を更に捲り上げて店を出ようとする公一に、澄香は慌ててしがみついた。この太い腕が伊達ではない事を澄香は知っている。



澄香は小学生の頃、同級生に犬の耳を見られてしまった事があった。事前の薬の飲み忘れか、不安が胸を押し寄せたか覚えていないが、どちらにせよそれは咄嗟の事で、必死に帽子で頭を覆ったけど手遅れだった。気持ち悪いと罵られ、偽物だろうと耳を引っ張られ、意味もなく蹴り飛ばされた。助けを呼びたくても、怖くて声なんて出なかった。駆けつけてくれた人だって、犬の耳を生やした人間を見たら、嫌悪を抱く可能性だってある。それなら、殴られている方がましだとすら思っていた。


そんな澄香を助けてくれたのが、公一だった。

「俺のダチをいじめしてんじゃねぇ!」と一喝し、同級生数人を相手に、果敢にも一人で殴り込んでいった。簡単にはいかなかったが、それでも公一は、一人で彼らを追い払ってしまった。


「大丈夫か?」と、顔を傷だらけにしながら笑って、奇妙に犬の耳と尻尾を生やした澄香を見ても驚く事なく手を差し出してくれた。公一とは友達だったけど、体質の事をその時まで話した事はなかった。それなのに、顔色一つ変えず、傷を負ってまで助けてくれた。

その手がどんなに嬉しかったか、どんなに救われたか知れない。

昔から喧嘩っ早い性分であったが、公一の中には正義があった。友達が傷つけば上級生にも立ち向かっていく。公一の拳は、いつでも公一の中の正義によって振るわれ、澄香にとって公一はヒーローだった。



公一を止めつつ、こんなに心配してくれる友達が変わらず居てくれる事が、嬉しくて有難い事だと心底思う。公一にそんな事を言えば、「当然だろ!」と、きっと怒られてしまいそうなので、そっと胸の中で感謝した。


だが今は、何より正義の鉄槌を振りかざそうとする公一を止めるが先だ。本当に店を出て行こうとする公一を、澄香はどうにか店の入り口に張りつく事で食い止める。


「もう、ドラマの見すぎだって!」

「いや、注意するにこしたことないだろ。何なら今日は店閉めるか」

「そんな事したら、余計変に思われるだろ?大丈夫だよ、ありがとう!」


そう笑って言ったが、もしかしたら顔が引きつっていたかもしれない。

心配そうに澄香を見つめる公一に、澄香はそれでも「大丈夫、大丈夫!さ、仕事しよう!」と、それでも笑って、公一の背中を押した。



公一には大丈夫だと言ったが、澄香は内心、不安でいっぱいだった。

思い返してみればこんな事、仁と付き合ってる時は一度も無かった。

落ち込みそうな自分に、澄香は慌てて頭を振り、仕事へと意識を集中させた。

きっと大丈夫、大した事ないと自分に言い聞かせて。






その頃、仲間と共に音楽スタジオに居た蛍斗も、そのニュースをネットで見ていた。


「これ、嫌がらせ?最近、兄ちゃん人気者だからかな」


黙ってしまった蛍斗を心配して声を掛けるのは、ベースの藤間孝幸ふじまたかゆきだ。小柄で童顔な彼だが、ベースを手にすれば、何倍にも存在感が増して見える。ベースを弾くのが大好き、といった音楽少年のような青年だ。

彼も蛍斗と共に組んでいる音楽ユニットのメンバーで、今日はみんなで練習を行っており、今は休憩時間だ。


「…何かの間違いじゃない?彼女はいても、彼氏は知らないし」

「だよな!酔ってふらついた瞬間とかさ、こんなん世間も騒がないよな!」


何てことない様子で顔を上げた蛍斗に、孝幸はほっとして饒舌になる。孝幸の言葉に頷きつつ、蛍斗は目隠しされた人物の写真に目を向けた。


やっぱり、より戻そうって言われてんじゃん。


胸の内で呟き、澄香の様子がおかしかった理由に合点がいった。

心ここにあらず、それも当然だ。澄香にとって仁は簡単に忘れられない程、愛した人物だ。


「………」


自分で思い至った答えに、蛍斗は唇を噛みしめると、スマホを鞄に放り投げた。




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