第21話「今日があり、明日へ」

時は中世、皇太子と婚約している公爵令嬢ディアリエルは夜会で男爵子息のアルヴィートと出逢い、運命的な恋に落ちる。


ディアリエルは帝直系の子孫だった。吸血鬼として産まれ、美しさは社交界で類を見ない。高貴な血筋と聡明さで社交界の華だった。


アルヴィートは祖父が商人として大きな成功を収め、男爵位を得た家系だった。人間として産まれ、所詮は成り上がりだと蔑まれて生きてきた。


その二人は、決して結ばれる事のない身分と立場だった。


けれど、アルヴィートの出生には秘密があったのだ。


──花の一族。アルヴィートの母は、まさしくその血を引いていた。


ディアリエルはアルヴィートの甘い香りに惹かれ、今までに感じた事のない吸血欲求に駆られる。アルヴィートはディアリエルに高嶺の花として憧れを抱いていた。


そんな二人が、アルヴィートの初めて参加する夜会で出逢ってしまったのだ。


「あなたの甘い香りは何……?」


「甘い香り、とは?」


「今まで知らなかった香りだわ。あなたの中に流れる血が私を魅了してやまない……あなたこそ、わたくしの唯一無二だと本能が訴える」


「ディアリエルお嬢様……買いかぶりというものでございます。私は所詮金で地位を買った男爵の家の息子でしかありません」


後ろ指を指される夜会に疲れてバルコニーに出たアルヴィートは、声をかけてきたディアリエルに当惑する。当然のことだ、身分が違いすぎる。


けれど、ディアリエルは引かなかった。アルヴィートに歩み寄り、彼の手を取る。レディとしてはしたないと己を諌めながらも、アルヴィートの発する香りに抗えない。アルヴィートも、遠くから見つめていたディアリエルを目の前にして、その美しさに心を奪われてしまう。


公爵令嬢としてのディアリエルは気高くて、とても近づける雰囲気ではなかった。それが、頬を薔薇色にして指先まで手入れされた美しく滑らかな手で、アルヴィートに躊躇いなく触れてきたのだ。


ディアリエルの婚約者である皇太子は、お互いが幼い頃から政略結婚の相手として定められていた。ディアリエルも、貴族の婚姻はそうしたものだと受け入れていたが──アルヴィートに魅せられてしまったのだ。


ディアリエルの本能が告げる。アルヴィートに流れる血は、吸血鬼にとって甘美な──この上なく甘美で希少なものだと。望んだからと容易く出逢えるほど簡単な相手ではないと。


高鳴る鼓動。心の昂りに瞳を潤ませたディアリエルは例えようもなく美しい。アルヴィートは憧れてきたディアリエルを拒めない。だが、ディアリエルは将来国を担う皇太子の婚約者だ。これ以上近づいてはならないと言い聞かせる。間近で見るディアリエルの澄んだ美しさに酔いしれながら、必死で心に抗おうとする。


「いけません、ディアリエルお嬢様……私ごときに近づいては。醜聞でも立ってしまったら、ディアリエルお嬢様の御名に傷がついてしまいます」


「あなたは、わたくしを拒めるの?──こんなにも震える手で、熱い眼差しで……ああ、どうしてなの。皇太子殿下にも感じた事のない衝動がわたくしを襲うわ。──あなたの血が欲しいと」


「いけません、ディアリエルお嬢様……あなたは尊いお方です。私の血であなたを穢すわけにはまいりません……」


「穢す?──何を言っているの。あなたから発する香りが、わたくしに教えるわ。あなたこそ、わたくしが求めてきた存在だと。あなたの名を教えて。呼ばわせてちょうだい」


「畏れ多い事です、ディアリエルお嬢様にお教えするほどの身分では……」


「身分ですって?──関係ないわ、あなたはわたくしが見いだした……わたくしを満たす存在」


「いけません、お嬢様……!」


ディアリエルの顔が近づいてくる。アルヴィートは拒みきれないまま、ディアリエルの肩に手をかけた。押し返さなければ、後戻り出来なくなると胸の内で警鐘が鳴り響く。


「お願いよ、わたくしを拒まないで……」


「ディアリエルお嬢様……!」


身を寄せて、アルヴィートの首筋に唇で触れる。ディアリエルは本能で牙を立て、アルヴィートに抱きついて縋り、牙に力を籠めた。


「ディアリエル……お嬢様……」


吸血の酩酊がアルヴィートを襲う。ディアリエルはアルヴィートの香りを唯一無二だと言ったが、アルヴィートからすればディアリエルの香水も使わない肌こそ、まさにかぐわしかった。


ディアリエルはアルヴィートが花の一族だと知らぬままに求め、吸血鬼の血が欲するアルヴィートの血を吸ってしまった。


魂の契り──皇太子に嫁ぐ身でありながら、かけ離れた身分のアルヴィートと、それを交わす。ディアリエルは妃教育も受けてきた令嬢だ。その令嬢が慎みを忘れるほどアルヴィートの血は甘美だった。


ディアリエルは吸血鬼としてアルヴィートの血に惹かれたが、後にアルヴィートそのものを愛するようになる。アルヴィートの家系は、元はと言えば商人であり貴族ではない。その為、平民に寄り添う心があった。馴染めない貴族社会に苦しみながら、けれど貴族を憎まず憧憬の念で純粋に溶け込もうと足掻いていた。同時に、明日のパンにも困る平民への思い遣りも忘れなかった。そのありようはディアリエルにとって新鮮で、同時に人としての生き方の美しさを教えてくれたのだ。


それを差別意識なく受け容れるディアリエルに対して、アルヴィートもまた清廉で健気な令嬢への愛を抱き、二人は想い合うようになる。人目を盗んで容易くはない逢瀬を重ね、互いを求め愛する。


──だが、ディアリエルは皇太子妃となる身だ。結ばれる事は許されない。手引きする従者にも限界はある。誤魔化しきれなくなる未来は遠くない。


絶望的な愛だった。


魂の契りを交わしていても、引き離される。──いや、皇太子の存在がありながらディアリエルは他の者と契りを交わしてしまった。嫁いでも皇太子の血は受けつけない。もはや、二人に未来はないのだった。


──それは、菩提女学院の高等部で毎年演じられる物語だった。演劇部の3年生を中心とする卒業公演だ。


私、和泉千香は2年生だけれど、美矢乃さまの相手役として出演が決まっている。美矢乃さまは周りに吸血鬼ではなくなった事実を気づかせる事なく3年生になり、演劇部引退の夏を迎えられた。


この演目の練習は春の終わりから始められている。演劇部は学院にあまたある部活の中でも、最も活発で有名だ。演劇部出身で俳優としての活躍を果たす生徒も多い。文化祭の公演には多くのメディアが集まるが、他にも有名な劇団の重鎮が揃い踏みして将来有望な部員を見定めるのだ。


美矢乃さまと私がオーディションを受けた劇団も、ご多分にもれず文化祭公演を観に来ていた。そのお蔭で、オーディションとは名ばかりで合格したのだ。美矢乃さまのお父様に二人とも大学までは出るように言われているので、高等部を卒業してからは4年間の間、劇団での活動と学生生活を両立させなければならない。


私自身は大学も奨学生として通うつもりだったけれど、美矢乃さまのお父様が「娘が魂の契りを交わした特別な存在なのだから」と私を気遣って下さり、何度も固辞したものの、半ば押し切られるように大学の費用を出して頂く事になった。


美矢乃さまは「これで演劇に集中出来るわね」と喜んでおいでだった。「私は先に高等部を卒業してしまうけれど、劇団では相方など全て断って千香を待つわ」と仰ってもいた。美矢乃さまなら本当に劇団からのどのような勧めがあろうとも私を待ってしまうだろう。美矢乃さまの為にならないのではという懸念と、待って下さる喜びが綯い交ぜになるものの、美矢乃さまの意思は固いようなので止められない。


今は、それよりも卒業公演だ。


この演目には私にとって大きな問題があった。クライマックスのシーンだ。


何度練習で演じようとしても、台詞が止まる。動けなくなる。役に入り込めば入り込むほど、尚さらに演じられない。


出来ない。たとえ演技でも──一度はこの手で美矢乃さまの心臓を刺し貫いた私には、ディアリエルの心臓を刺して後を追うアルヴィートを演じる事は。


思い出す。演じようとする度に何度でも必ず。あの時の絶望を。美矢乃さまを喪う恐怖を。


けれど、美矢乃さまが吸血鬼ではなくなった事は誰にも話せない秘密だ。事の経緯や、私が美矢乃さまにした事を話せる相手はいないのだ。


「──千香。お疲れ様」


「美矢乃さま……申し訳ありません、私、今日も練習を中断させてしまって……」


「気に病むことはないわ、さ、帰りましょう。私が卒業してしまえば、1年の間は離れてしまうのですもの、二人きりで過ごせる時間は一瞬でも惜しいわ。」


美矢乃さまはお優しい。理由を知らない皆が皆、私に困惑していて、私が周りの足を引っ張ってしまっているのに。


……もしも、このまま演じられなかったら。


美矢乃さまは私に失望するかもしれない。

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