(六)三


 寅吉の話は、それで終いだった。

 十二年間行方をくらましていたにも関わらず、まるで昨晩から今朝までのことを語って聞かせるような態度である。終始、寅吉の声には緊張も恐怖も滲み出はしなかった。


「もう一度聞くが、目が見えるようになったわけではないのか」

 いささか緊張した面持ちで尋ねる平治郎に、寅吉は首を振って応える。

「もうさっぱり見えねえ。だけど不思議と不便じゃないのさ。ほら。こうして舟のへりに手を置いたり、こっちには縄があるだろう、これを掴んだり。見えはしないんだが、やたら勘が冴えているようなんだよな」


 寅吉は座したまま笑い、あちこちをぺたりぺたりと触って見せた。だが、平治郎は寅吉からすいと目を逸らす。しばし、何かを堪えるかのように押し黙ってしまった。


「なんだよ若旦那、自分から聞いておいて。さっきから妙だぜ」

「そうだろうな。私は言うか言うまいか迷っているんだよ。目の見えないお前が、気づいていないかもしれないことだ」


 それを聞き、寅吉は初めて顔色を変えた。というよりも、まるで人らしい表情も、喜怒哀楽の一切が、一瞬で消え去ったようであった。彼の両目からは、怒りも疑念も憎悪も、何ひとつ伺うことができない。けれど、見えないはずの金の瞳で、刺し貫くように平治郎をねめつける。


「なんだ? 言ってくれ。あんたの言うことなら俺は信じるぜ」

「本当に迷っているんだ。私はそれを口にするのが怖い」

「ばかな。あんたは慎重な男だが、小心者じゃねえはずだ。何が怖いって? 俺の頭に角でも生えて見えるのか」


 そういうことではない、違う、と繰り返し否定する平治郎の声は、微かに震えていた。

 それでも寅吉は執拗に繰り返す。言え、言えと。

 先ほどまで能面のような無表情をしていたのが嘘のようだ。寅吉は怒気と興奮とで、額も頬もすっかり紅潮している。癇癪を起した幼子のように喚いたかと思えば、涙を浮かべてきっと平治郎を睨む。ついには、生白い痩せた腕でもって、平治郎の着物の胸をぐしゃりと掴んだ。


「昔からそうだった。俺は、俺のことが一番わからない」


 幼い頃から何度も何度も、寅吉は目の色が変だと言われ続けて育った。けれども目の悪い寅吉は、いくら試してもそれを自分で見ることができない。見る力は年を重ねるごとに弱っていき、その瞳の色を自ら確かめることは遂に叶わなかった。

 成長し、身体が大きいと言われた時も、目線の差異など細かいことはわからないから、内心困惑したのだ。


 まっすぐ歩くことさえ困難な寅吉は、力仕事に不慣れである。農具も網も扱えなかったし、時間がかかりすぎるといけないので、魚一匹捌くことさえ任されなかった。だから、畑でも海でも仕事を手伝っているという余四郎の方が、よほど立派で大人らしい容姿なのだろうと想像したのに、自分の方が身体が大きいと言われてひどく驚いた。


 父が居なくなってから、寅吉は人知れず、この世ではないどこかで過ごす時間が多くなった。いつも家で一人、籠を編みながら、小豆を潰しながら、見えない分を補うように。

 薄ぼんやりとした暗い家の中を眺める代わりに、ひそかに自分の頭の中に浮かぶ美しい夢を見て、長い長い時を過ごしてきた。


 もともと寅吉は、何が美しくて何が醜いのかも知らない。だから、寅吉の思い描く「ここではないどこか」を美しいと讃えるのは、寅吉ただ一人かもしれなかった。

 だが、寅吉の思い描いた夢を他人が覗いて見られるはずもない。目に見えるものは、いつも寅吉を置いてきぼりにする。いつしか、美醜の別があるもの、手に触れるもの、目に見えるものを全てつまらないと思うようにさえなった。


 一方、寅吉がまつ毛を伏せ、暗闇を見る代わりに夢に入り浸っていることを知っていた者もいる。おそらく平治郎は、その筆頭であった。

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