第3話
ナグモコーヒーは喫茶・ナグモのオリジナルブレンドコーヒーだ。
自家焙煎で酸味と苦みのバランスがよく取れている。
生前、おじいちゃんから教わって、お客さんの前に出せるまでに時間を要した。
「お待たせしました。ナグモコーヒーでございます」
キッチンの中から、カウンター席に座る藍沢さんの前にコーヒーを静かに置いた。
白い陶器のカップとソーサー。これもおじいちゃんから引き継いだもの。
藍沢さんは「ああ」と短く言い、すぐさまカップを口まで運ぶ。
おじいちゃんの味と変わらないはずだけど、なんだか緊張してしまう。
喉が上下する。一口飲んだようだ。
「……苦げぇ」
藍沢さんが舌を出し、片目をつぶっている。感情が正直に顔に出るタイプなのだろうか。いや、そんなことより。
「ごめんなさい。お口に合いませんでしたか?」
考え事をしながら淹れたから、手元が狂って、苦みが増してしまったかもしれない。
「いや、ちげーよ。コーヒーが元々苦手なんだ」
「えっ? なら違うものをお出しするべきでしたね。僕がコーヒーでいいかって聞いちゃったから……」
「それは俺も同意したからいいんだ。そうじゃなくて……なんていうか、苦手だけどここのコーヒーは飲みてぇんだよ」
「なんでですか?」
「まぁ、なんとなくな」
その言い方が、なんだかずるいと思った。
本当はちゃんと理由があるのに、それを隠すときの照れ隠しみたいな響き。
──きっと、何か思い出があるんだ。ここに。おじいちゃんに。
藍沢さんはふっと微笑した。怖い人なのかもしれないと思っていたけれど、笑ったときの目尻は、そんな予想をやわらかく裏切ってくる。
フクはいつのまにやら席からいなくなっており、窓際の定位置に戻っていた。撫でてもらって満足したのか、香箱座りで目を細めている。
掛け時計の時を刻む音だけが響く。
時刻は閉店時間を過ぎ、21時15分。
ちらりと藍沢さんの方を見ると、すでにカップの中は空だった。
苦手だけど飲み干してる。さっき言っていたことは本当だったんだな。
そろそろ表の看板だけでも裏返すか。そう思い立ち、キッチンから客席の方へ出た。
すると、藍沢さんが僕の手をつかんできた。
胸がどくん、と脈打つ。
「……あ、藍沢さん?」
なんとか絞り出した声は小さく掠れてしまった。
「悪い」
僕の声と同じくらい小さな声。
「なにがですか?」
「お前とは関わっちゃいけねぇのに、店まで来ちまった」
「……来てくれて嬉しかったですよ。たとえ、あなたがどんな人であろうと」
「俺は」
そこで言葉が止まり、掴まれた手に少しだけ力がこもった。
目を逸らしていたその瞳が、ほんの一瞬だけ、何かを迷うように揺れた気がした。
無理に聞き出すようなことはしたくない。
でも、なぜだろう。藍沢さんのことを知りたいと思ってしまうのは──。
「……ヤクザだ」
どう返答するべきか迷ってしまう。
なんとなく、そうだろうなと勘づいてはいた。だけど、藍沢さんがヤクザだからといって恐れたり、非難したりはしない。
どんな立場の人であれ優しさを持って接する。喫茶・ナグモは人々を癒す場であれ。
この信念を、約束を忘れたりしない。……おじいちゃん。
沈黙が続く中、藍沢さんはそろりと手を離した。その代わり掌には500円玉がひとつ。コーヒーの代金だ。
「……もう来ないから、安心しろ」
席を立ち、足早に遠ざかる背中。
なんだかその背中が泣いているように見えて、声をかけずにはいられなかった。
「藍沢さん! また、来てくださいねっ」
焦ったせいか、思わず大きな声を出してしまった。
「だから、俺はヤクザだから。これ以上は関われねぇ」
「さっきも言いましたけど、たとえあなたがどんな人であろうと良いんです。僕は……また会えたら嬉しい」
僕の言葉に、藍沢さんは一瞬だけ振り返った。
何か言おうとして、けれど口元が動いただけで、声にはならなかった。
それきり静かにドアを開けて、出ていった。
……と、そのとき。
出入口近くの窓辺で香箱座りをしていたフクが、にゃあと小さく鳴いて立ち上がる。
ひと伸びして床に降りると、トコトコと歩き、レジ脇の三段カラーボックスの前で止まった。
「ん? どうしたの、フク」
フクは、じっとこちらを見てから、前足でごそごそと下段を引っかいた。
すると、一冊の古びたノートが顔を覗かせる。
「これを……読んでほしいの?」
にゃん、と明確な返事。
……やっぱり、人語、わかってるよね。
恐る恐るそのノートを手に取る。表紙には『喫茶・ナグモ日和』の文字。
その下に、小さく「No.5」とあった。
それは、おじいちゃんの日記帳だった。
中を開いてページをめくる。懐かしい、丁寧な字で綴られている。
ふと、ある日付で手が止まった。
『5月10日 本日も晴天なり。ゴールデンウィークの忙しさが過ぎ、穏やかな一日。と思っていたが、店の前に怪我でボロボロの少年が倒れていたため介抱した。ナグモコーヒーをサービスすると、コーヒーは苦手といいつつ全部飲んでくれた』
──これ、もしかして藍沢さんのこと?
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