第2話

 店内に朝のやわらかな日差しがさす。

 白毛猫のフクは窓際の定位置で丸くなり、気持ちよさそうにうたた寝をしている。

 開店準備を終え、ドアの看板を「CLOSE」から「OPEN」に裏返した。

 喫茶・ナグモ、本日も営業開始。

 ちょうどそのタイミングで、見知った顔が息を切らせて駆け込んできた。


「おはよう、優ちゃん! ナグモコーヒーひとつ、お願いね……はぁー……」


 カウンターに腰を下ろしたのは、隣の整体『宮田治療院』の店主、宮田さんだ。

 朝イチから来るのは珍しい。しかも、なんだか焦っている。


「おはようございます。……どうかしました?」


 豆を量りながら聞くと、宮田さんは落ち着かない様子でテーブルをトントンと指で叩いた。


「またいたんだよ、ヤクザ。路地裏に。今朝は倒れてたんだ、血を流して」

「……倒れてた?」


 コーヒー豆の香りが、急に遠ざかった気がして、手が止まった。


「顔にでかい傷があった。しかもね、前に見かけたやつと同じ男だ。あいつ、きっと何か企んでたんだよ……。ほら、うちの商店街って、今狙われてるって噂もあるだろ?」

「はい、確かに。最近、大手の再開発の話もあって、妙に動きがあるとは聞きましたけど……」


 まさか、本当にヤクザ絡みだなんて。

 それに、倒れていたというなら……。

 まさか、昨夜のあの人が関係してる?

 ──そんな思考を振り払うように、宮田さんが続けた。


「おまけに、さっき警察まで来てさ。目撃証言とられて、開店前に疲れちゃったよ……」

「それは、大変でしたね」


 宮田さんはそれきり考えを巡らせているようで黙ってしまった。

 その間にコーヒーをドリップし、温めてから出した。

 いつもは美味しいとにっこり笑顔で言う宮田さんも、さすがに疲れ果ててずるずるとコーヒーを啜っている。

 しばらくして、宮田治療院の開店時間が迫り、宮田さんはお店に帰って行った。


「まさかあの人がヤクザに関係するわけ……ないよね」

 

 いつの間に起きていたのだろう。ニャーン? とフクが語尾の上がる鳴き声をあげた。独り言のつもりが、まるでどうだろうねぇと返事をしてくれているようだ。

 それで僕はすっかり安堵してしまって、笑みがこぼれる。


「そうだよね。あの人がどんな人であれ、僕はおじいちゃんとの約束を守るだけだ」


 気が向いたらと言っていた。

 だから、来る可能性だってある。期待しすぎも良くないかもしれないけれど。

 でも、寂しそうなあの人を、ほんの少しでも癒してあげたい。



 その日の夜。閉店時間間際。

 お客さんはおらず、店内はがらんとしている。

 さすがに今日はもう来ないだろうと思っていた。フクは男を待っているのか、定位置から一歩も動かない。

 ──カランコロン。

 ドアベルが静寂をかき消すように、鳴った。

 ドアへ視線を向けると、昨夜の男が立っていた。

 黒シャツに黒のパンツスタイルで全身真っ黒。鋭い眼光に、引き締まった顎のラインに目を引かれる。


「いら、っしゃい……ませ」

 

 驚きと嬉しさが混ざって、言葉に詰まった。

 フクは定位置から降り立ち、男の足元に寄る。


「……よぉ」

「来て、くれたんですね」

「ああ、まぁな。野暮用で遅くなっちまった」

「お好きな席へどうぞ」


 男はズカズカと一直線に進み、カウンターの一番端の席に腰を下ろした。

 フクも後を追って、隣の席に飛び乗る。

 珍しい。自分からお客さんのところへ移動なんか滅多にしないのに。


「おっ、猫。お前昨日もいたよな」


 男は、フクの頭を優しい手つきで撫でた。フクは気持ちよさそうに目を細めて喉を鳴らす。


「こいつ、名前あったっけ?」

「フクです。福の神のフク。おいじいちゃんがそう呼んでたので」

「……なるほどな。そういう顔してる」


 ぽつりと呟いたその声には、どこか懐かしさのようなものが滲んでいた。

 ……そうだ、名前で思い出した。僕も気になる。一見怖いけど優しくて、寂しそうなこの人の名前。知りたい。


「あなたの名前は?」

「藍沢だ」


 ぶっきらぼうにそう告げ、頭をガリガリと掻いた。

 ──藍沢。藍沢さん。

 心の中でゆっくりと呼んでみた。


「……藍沢さん。コーヒーでいいですか?」

「ああ。ナグモコーヒーだっけか」


 いつのまにメニューなんか見たんだろう。ふと疑問を浮かべながら豆を挽いた。

 すぐにドリッパーに移し、お湯を注ぐ。香ばしいコーヒーアロマが立ちのぼる。


「……変わらないもんだな、この匂い」


 ぽつりと漏れた言葉に、僕は思わず彼の方を見た。

 変わらない? その言葉は一度でもこの店に来たことを指す。

 まさか──。


「もしかして、来たことあるんですか? ……この店に」

 

 胸が高鳴る。

 藍沢さんはすぐには答えなかった。ほんの少し間を空けてから、低く呟いた。


「ああ。昔な」


 短い肯定の中に、重いものがあった。

 高鳴っていた胸が次第にざわめきだす。そして静かに何かが落ちた気がした。

 昔となると、おじいちゃんが店主だった頃のことだろう。

 思案する前に、コーヒーのドリップが終わる。そちらに気を取られてしまい、詳しく聞くタイミングを逃した。

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