第4話 違和感の多い歯科医院
表面麻酔を塗ってから、実際の麻酔を行う。
しかも麻酔注射には電動器もあり、ゆっくりと注入することで痛みを軽減する。
それが平均的な歯科医院の麻酔方法だろう。
そして、表面麻酔だけで歯髄炎の痛みが消えることはない。
ただ、小学校高学年以降は学校歯科検診でしか歯科医師を見たことがない彼に、その事実を知る機会はなかった。
「ほら。だんだん麻酔が効いてきたでしょう?」
「はひ。あれ、うまくしゃべれら——」
なんと画期的な麻酔。
なんて素晴らしい医療の進化、彼が感動を覚えようとした瞬間だった。
——ドンドン、ドンドンドンドン
突然、入り口の方から何かを叩く音が聞こえた。
しかも、それは何かがぶつかった音とは明らかに異なる。
というより、先ほど自分が出した音に酷似している。
睦も何事かと周囲を見ようとするも、それは何故か出来なくなっていた。
「えぇぇぇ。俺、頭まで固定されてる?」
両手は固定されているし、顔に乗せたタオルもいつの間にか固定されていたらしく、彼はどうやら身動きが取れない。
そして、彼女の声が聞こえる。
「はぁ……、今日は忙しいわね。」
明らかに不機嫌な声。
急患だろうか、こんな真夜中に迷惑な奴だ、と睦は自分のことを棚に上げてタオルの下で不満顔になった。
だがこの後、遠くから聞こえる話を穏やかに聞くことはできなかった。
「あら。警察の方が何の用?」
「ミナヅキ先生ですよね。ここに男が入っていったと連絡がありました。話を伺っても宜しいですか?」
その瞬間、凍りつく男子高校生、流石に警察という言葉が聞こえては堪らない。
後ろめたいことと言えば、こんな時間に出歩いていたことくらい。
美夜との関係も良好……、それは個人の自由かもしれないが。
後ろめたいことはなくても、何故か先ほどの痛みがぶり返しそうになる。
「良いわけないでしょ?患者様の個人情報を軽々しく見せられないわ。それに彼はまだ学生だし、未成年なの。怪しかろうが、どうにもできないわ。残念だったわね、犬ころさん?」
「おい、犬ころとはなんだ。それに先生自身が怪しいって思ってんなら入らせろ。……そもそも俺たちは法には縛られてねぇ。」
「岩城さん、不味いですよ。それは口外してはならない——」
「面倒くさいわね。とにかく彼は関係ないわ。もしかしてあれかしら。今から一時間前に応急処置だけって患者が来たの。保険証なかったから自費でしかも応急処置だけだったけれど。名前と住所は聞いておいたけれど、それが合っているかどうか、……私には分からないわね。」
「失礼。因みに今診療台にいる未成年の彼が来院したのは……」
「ついさっきよ。それはこのビルの防犯カメラか何かで分かるんじゃない?」
「ちっ!怪しい奴が来てたんなら、最初からそう言えよ。俺たちんとこに連絡来たのは三十分前なんだからよ。水無月先生、その紙をこっちに寄越しちゃくれませんか。達川、今すぐ部長に連絡だ。」
「岩城刑事さん。部長さんによろしく伝えといてね。」
「ちっ。だいたいお前が悪いんだろうが。行くぞ、達川‼」
いくつか意味の分からない内容もあったが、分かる範囲だけでも十分にドラマチックな内容だった。
ドアを叩かれた時はガクブル状態だった青年も、意外にも女医が毅然とした態度を振舞ったことで、落ち着きを取り戻していた。
しかも、どうやら人違いだったらしい。
なんとも人騒がせな——
「さて。追手も撒いてあげたことだし、治療費上乗せしちゃおうかしら。それくらい大丈夫よね、極悪人さん?」
ん?
流石にこれは悪い冗談だ。
「いや、俺は違いますよ。全然普通の高校生です!」
「いいのよ、大丈夫。私はそういうの気にしないから。ちゃーんと、お金さえ払ってくれたらね。……それにしても、この歯はなんで痛いのかしら。」
彼は釈明したいのに、声が遠のいていく。
警察がミナヅキと呼んでいた女医は病院の奥に行ってしまった。
ただ、直ぐに戻ってきて、彼女は彼の口に何かが放り込んだ。
睦には見えないが、彼の口の中にはフィルムが入っており、彼の顔の直ぐそばには円筒が固定されている。
因みに、柱の固定部分を回転させると円筒が患者の顔付近に来る構造である。
「ここでレントゲンを撮るのよ。最近の病院だとエックス線撮影室を作らないといけないんだけど、ここはそう決まる前から開院しているのよ。私の祖母が院長でね、まだ生きているからどうにかなっているけど、案外便利なのよね。」
「は、はぁ……」
「はい。ここを指で押さえて。——動いちゃだめよ?」
歯科の事情もよく知らないが、彼女は饒舌に喋ってカツカツとヒールの音を響かせる。
そして彼女がどこかへ行った直後、数秒間のブザーが鳴った。
するとまたヒールの音が聞こえて、フィルムが睦の口から取り上げられる。
「……あの人、何歳なんだろ。最初見た時はすごく若く見えたけど、警察を追い払った時に貫録あったし。っていうか、何者?」
「——初対面で年齢に興味を抱くのね。あらあら、睦君はデリカシーがないのではなくて?」
「ひっ!ち、違くて!てか、早っ!もうレントゲン出来たんですか?」
「今は読み込み中よ。レイラがどうしてもデジタルに移行したいって言うもんでね。私は現像する昔のスタイルも好きだったんだけど。」
睦は古い記憶の引き出しをいくつも引っ張り出したが、そこには何も入っていなかった。
彼はとある理由で歯科医院に通えていない。
しかもそれは高尚な理由でもなんでもなく——
「それより、矯正を投げっぱなしってのは良くないわね。矯正治療にいくら掛かるか知っているの?少なくとも高校生にとっては大金の筈よ。」
「う……、それはその……。やっぱり分かるんですね。」
「当たり前よ。アタッチメントがいくつか残ってるもの。マウスピース矯正は君に向いていなかったのかしら?」
途中で治療を投げ出した、という罪悪感が彼を歯科医院から遠ざけていた。
彼が矯正治療を始めたのは小学校に上がる頃。
そして全ての永久歯が生え揃う一歩手前で、ワイヤーを使った矯正が始まる予定だった。
そんな中、当時流行り始めていたマウスピースによる矯正を、彼はネットの海から見つけてしまった。
両親には反対されたが、彼にはそちらの方が楽そうと思えた。
ただ、マウスピース矯正に絶対に必要なのはやり抜く気持ち、それが彼には少し足りなかったらしい。
「——だって、使わない日が続いて。それで気が付いたら入らなくなってて。それに俺はこのままでも問題ないって思ってるし……」
「別に責めているわけではないわ。日本では八重歯を個性と考える人も多いし。歯科医師的には否定したいところだけれどね。さて、そろそろ読み込めたでしょうから、ちょっと待って。」
女はそう言って、機械が並んでいるだろう診療所の奥に消えた。
睦は未だにタオルで回りが見えないが、痛みが消えたことで少しずつ考える余裕が生まれ始めていた。
(そういや、クロエ婆様が矯正費を出してくれたんだっけ。一体いくら掛かったんだろ。……それなのに俺、途中で投げ出しちゃって。その意味を理解する前には婆様は死んでしまったんだよな。俺、色々して貰っていた筈なのに、ありがとうって言えなかったんだ。……自分で働けるようになったら、もう一度矯正を始めようかな)
母方の祖父母は資産家で子供は二人、それが睦の母と伯父にあたる。
睦が小学一年生の頃、祖父が他界して、半年後に後を追うように祖母もこの世を去った。
ただ、睦の父親は極端に母親の実家を嫌っていた。
だから、お金よりも母方の家と縁を切る方向に進んでしまった。
そして全てを引き継いだ筈の伯父も、先日死を迎えてしまった。
だが、それさえも簡単な説明しかされていない。
今も色々と大変らしいから、子供の顔を見に戻る余裕もないのだという。
自分には関係ないと思ってはいるが、いずれは考えなければならない日が来るだろう。
資産家の孫、その言葉だけ聞けば恵まれているが、父はどうしてあそこまで嫌っていたのか。
考えることはきっと山積みで、それを考える日が来ると思うと気が重い。
何も出来ないからこそ、考えてしまうこと。
ただ、睦が珍しく自分の家族のことを振り返っていると、唐突な言葉が耳朶をくすぐった。
「——君、本当に高校三年生?そうは見えないんだけど。」
「わ!びっくりした。そ、そ、そうですよ。本当に警察沙汰になるような人間じゃないですから!」
タオルで視界を遮られている中、耳元で囁かれた意味不明な問いかけ。
睦は先の警察のやり取りが脳裏にチラついた為、そこはきっちりと否定しておく。
ただ、その直後タオルが剥がされて、彼女が彼を見ていないことに気付かされた。
女医はこのレトロな歯科医院には不釣り合いのタブレットを怪訝な顔で見つめていた。
そしてそのタブレットを裏返して、歯が映ったレントゲン画像を見せつけながらこう言った。
「根尖……根っこが閉じていないの、分かる?……分からないか。隣の歯と比べて見なさい。こっちはちゃんと根っこの形をしているのに、犬歯は根っこが完成していないでしょ?見た感じ、12歳くらいよ。」
そんなこと言われても理解できないと思ったが、隣の歯との違いは知識がなくとも一目瞭然だった。
他の歯は先が細長くここまでが根だと認識できるが、犬歯は真ん中の空洞が細くならずに根っこの先端が分からない。
ただそれは、確かにそうだな、としか思えないもの。
歯の断面図なんてイラストでしか見たことがないし、彼女の言葉が意味することが分からない。
そして、奇妙なことを言われた。
「君、西洋の血が混じってる?」
自分の出自を問う突然すぎる言葉。
そして、それも睦が最近知った事実だ。
勿論、鳶色の髪、鳶色の瞳で異国の血が混ざっているかと聞かれることは何度かあった。
でも、父は頑なに違うと言い続けていた。
それが最近、実は欧州の血が混ざっていると言葉を翻したのだ。
「え……。そう、聞いてますけど?」
ただ、この言葉で事態が大きく変わっていく。
そして、女医が紡ぎだした言葉は。
「やっぱり知っていたのね。……だからここに来たのよね。それなら、選びなさい。今すぐ犬歯を抜くか、それとも抜かないで治療するかを。……因みに抜かない場合は保険外診療だからね。」
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