第6話 始動 -side 新見楓-

 新見は幼少期の頃から、引っ込み思案であったものの友達がいなかったわけではない。幼稚園では他の園児に混ざってお飯事に興じたり、小学生に上がったときには大勢で鬼ごっこをしたりしていた。だったら、いつの頃からだろう。こんなに輪をかけて根暗になってしまったのは。

記憶を辿り、思い当たる節を挙げるとしたら、それは中学生時代にクラスメイトに言われた一言のせいだろう。

 小学生の頃は、さほど気にしていなかったこの声。変声期を迎え、声に深みが増すことで、自身の声が他の女子とは違うことに気付く。そして、ある時。クラスメイトに言われた一言が新見に衝撃を与えた。

「新見さんの声ってホントによく通るよね。具体的には言えないんだけどさ。何かが私たちと違うみたい」

確かに自覚はしていた。

がしかし、自覚はあっても客観的な意見を聞いたのはそれが初めてで、中学生という多感な時期に他者との差異を突き付けられるのは、新見の心に酷く影を落とした。思えば、その時期からだった。新見の口数が減っていったのは。そうなると相手をしてくれるクラスメイトも右肩下がり。いじめられなかったは良いものの健気に話しかけてくれるクラスメイトは腫れ物に触るように扱うので、それはそれで孤独感を覚えた。

 そして、高校生となった今やお人好しのクラスメイトとも散り散り。晴れて自他共に認めるソロプレイヤーとなったのだ。

 ——ハァ。

 早朝のこと。テレビから流れるアナウンサーの声に紛れて、新見の溜息が鳴る。小さくはあるものの、肺の中が空っぽになるくらい長尺のもので、いくら声を抑えていても周りの人間が気付かないわけがない。当然、時期尚早の溜息を咎められるのだった。

「何だよ、楓⁉ 朝っぱらから」

 見ると、新聞を読んでいた父親が視線を上げて、新見を見ている。寝起きということもあって眠気眼は半開きで、怒気が感じられなかった新見は「ゴメンね」と平謝りするが、相当気掛かりだったのか言及は避けられなかった。

「困り事だったら、父さんが相談に乗るぞ」

「ありがとう。でも、大丈夫だから」

 まだまだ起床しきっていない表情筋を駆使し、新見は笑顔を作る。しかし、それでも食い下がらないのは一人娘への愛なのだろう。

「つれないぞ、楓」

 相変わらず父親の表情は冴えないが、それは本人の承知の上なのか声音でだけで訴えててきた。

晩婚化が叫ばれる世の中で、例に漏れず新見家も両親が30歳半ばで結婚、そして翌年、娘を出産。その娘も早いもので高校3年生。つまりは父母共に50歳手前。人生も折り返しつつある大人の粘着質な声など、一体どの層に需要があるというのか。皆目検討がいかず、一人娘でさえも顔を引き攣らせる始末だった。

 尚も続く、父親によるおふざけ。「もしかかして」と目を光らすが、その後の言葉を待たずとも間違っていることは容易に想像ができ、話を逸らすためだけに脳のリソースを割きたくない新見は素直に白状する。

「お父さんにも言えないような、やましいことなのか?」

「全然、違うって」

「じゃあ……」

 父親が言う前に、新見は言葉を遮る。

「バンドに誘われた」

「……」

 胸襟を開いたつもりなのに、父親に返答はなかった。

唐突過ぎて目を見開き驚愕を隠せない父親であったが、それでも反応がないというのは強制したにしては少々酷い。ましてや、愛娘にすることではなかった。

「バンド? 何か縛る集団にでも誘われたのは。それはよくない。拘束というのは何事に於いても弊害をもたらしてだな。物理的な拘束だけでなく、精神までも縛ってしまう。結果的に強烈な憎しみを生み、自身さえも滅ぼす。だから、そんな集団、今日にでも辞めなさい」

 と沈黙の後に、まくし立てる父親。

 寝起きと言うのに、よくそんなに舌が回る。新見は感心しつつも、自身への評価に憤慨し、目を細めた。

「何を言ってるの、お父さん。私がそんな集団に参加するわけないじゃん」

「そうだよなそうだよな。お父さんは楓が道を踏み外さないと信じているぞ。じゃあ、バンドとは?」

 父親は首を傾げた。

「バンドって言ったらこれしかないでしょ」

 徐に立ち上がった新見は、エアギターを披露した。しかし、伝わるわけもなかった。何せ、新見の部屋にはバンドのバの字もなく、一般的な十代の女子の部屋。疑問符を浮かべる父親に対して、新見は補足をした。

「の、ボーカルに誘われた」

「おー、そうかそうか」

 打って変わって、途端に表情を晴らす父親。

「お父さん、前々から思ってたんだよ。楓の声は天性のものだと。それがバンドのボーカルか。いいじゃないか」

「馬鹿にしたりしないの?」

「馬鹿に⁉」

 さぞ可笑しかったのか、父親は目を見開く。しかし、それは一瞬のことで、次には表情を緩め、慈愛溢れる親の顔をしていた。

「するわけないだろ。どこの世界に娘がやろうとしていることを貶す親がいるんだよ。お父さんは本心から思ってる。頑張れよ、楓」

 

「あんな事言っちゃって、私知ってるんだから。調子付けようとして言ったお世辞ってことは。だって、田嶋くんもああ言ってたし。やっぱり、私には無理なんだよ」

 図書室から出て、すぐにある屋上に繋がる階段。そこを上がると、10畳ほどの空間がある。居ても立っても居られず図書室を飛び出した新見は、今、その名も無き空間に身を寄せていた。

 一つの扉を隔てて青春のトレンドと言える屋上に繋がる場所であるが、新見はこの場所に人がいるのを一度も見たことがない。広大な景色、全身を撫でる爽やかな風、肩を組む級友。想像する限り群れるには最適な場所であるにも関わらず、人気が少ないというのは……。

答えは単純明快で、扉が施錠されているからだ。それに伴い階段の下にはkeep

Outと言わんばかりに、黒と黄色のロープが渡されており、律儀な生徒たちはそれを超えたりはしない。人目を避けて校舎の津々浦々を巡った新見は、最初から目は付けていたが万が一のことがあると思って手が出せなかった場所。トイレご飯を経験してすべてが吹っ切れ、翌日には新見のプライベートスペースとなった。今や新見の位置は決まっており、その部分だけ綺麗に光沢がある。

 新見は迷うことなく腰を据えたそこで、駆け込んでからずっとスマホと睨めっこをしていた。表示されているのは若年層の利用率が大半を占めるSNS。新見はその中の、『同郷の会』というサークルに所属している。読んで文字の如く、出身地が同じ人間で構成されたサークルで、もちろん同級生もいるはずだが、ネットリテラシーを意識するZ世代に抜かりはなく、アカウント名は愛称。

 新見のスマホにも既存のアイコンと共に、太文字の『にいみっち』というアカウント名が目立つ。この際、センスの欠片もない『にいみっち』という呼称を誰が決めたかという至極尤もな疑問は棚上げするとして、今新見の視線の先にあるのは、その下。フォロワー数1の文字だった。

 突如として現れた数字であったために、狂喜乱舞してしまったことは記憶に新しく、小躍りした際にぶつけた小指が今でも痛む。その歓喜による負傷で苦い思いを埋め尽くそうとしたが、かなわず代替案へと移行した。

 数多ある独り言のなかで、唯一固定されているもの。音声ファイルが添付されたそれをタップする。アプリの仕様上、自動再生される音声を素早く止めて、スッとスクロールした先に、それはあった。第二の精神安定剤。このアプリを始めて数年が経とうとしているが、呟くだけで全く反応は得られなかったが、サークルに入ったことで閲覧数も格段に増えた。そんな折のことだ。件のつぶやきにコメントが寄せられたのは。


『初コメ、失礼します。荒んだ心を浄化してくれるような素敵な声ですね。明日も頑張れそうです。ありがとうございます』


 音声ファイルとは、Jポップのワンフレーズ。原曲を聞いた時、声質が似てるなと。これなら自身にも歌えるのではないかと驕りから試したら、意外にも様になった。となると、新見の中に潜む承認欲求のお化けがひょっこり顔を出し、気付いたときには投稿ボタンを押していたという経緯がある。

 これで情報の海に放出されただけとなったら目も当てられないが、幸いなことにgoodボタンを添えて、コメントまで寄せられた。ただひとつのコメントであっても、今尚効力は健在だった。

「ありがとうございますありがとうございます、S.T.さん。毎回、ヘラったときにお世話になっております。これからもどうか、ご贔屓にお願いします」

 スマホを御本尊かのように奉る新見。最早、ファンの奴隷とも言えるその姿は、滑稽であるが故に誰にも見られたくはなかったが、そういう時に限って人目に触れるのが世の常だった。

「あー、いたいた」

 死角から顔を出した彼女は有無を言わさず、新見のパーソナルスペースへと踏み行って来る。物珍しそうに辺りを見回した彼女はさらに続けるのだった。

「ここってこうなってたんだ。階段下(かいだんした)に規制線が張ってあるから、入れず仕舞いだったんだよね。口実をくれてありがとうね、新見ちゃん」

 柔和に笑う峰を新見は一瞥するも、やはり罪悪感からすぐに視線を落としてしまう。

「ごめんなさい、峰さん。折角、期待を掛けてくれたのに裏切るような真似しちゃって」

「全然、いいよ。気にしないで。今回に関しては、私が60%、田嶋君は40%、悪いから。新見ちゃんが気に病むことはないよ」

「でも……」

 納得が行かない新見は食い下がるも、峰は変わらぬ表情で説く。

「頼み方が悪かったんだよ。脅すような真似したから……」

「脅す?」

「そっ」

 “脅す”とは実に強い言葉だ。今、新見の前にいる峰という女子生徒からは想像もつかない。にも拘(かか)わらず、使う理由とは。

「あっ、でも。誤解しないでほしいんだけど、普段からそういうことやってるわけじゃないからね」

「それはもう。分かってるよます」

「てるよますって……、可笑しッ」

 峰はほくそ笑んだ。

「同い年なんだから敬語じゃなくていいのに」

「それはそうなんですが、つい……」

「まあ、無理にとは言わないけどさ」

 峰は屈託のない笑みを浮かべて、会話がそこで途切れた。自然と視線は前方に向くが、正面は何の変哲もない白塗りの壁。馳せる思いがない新見は目のやり場に困る一方で、峰は違ったようで、同じ壁を見ているはずなのに眼差しに光が帯びている。未来を展望しているような、そんな瞳に新見も告げずにはいられなかった。

「なんだか楽しそう」

「そりゃもう。だって、期待しかないもん」

「期待?」

 新見は首を傾げる。

「バンドのことだって」

「えっ!? まだ諦めてなかったんだ」

 意図せず意地悪な言い方になってしまった新見は、弁明のため慌てて峰に視線を向けるも、当の本人は口元に笑みを浮かべている。しかし、その装いは先ほどまでの物とは異なり、些か憎たらしい。そして、表情そのままに「当たり前じゃん」なんて言われたものだから、新見のなかにも込み上げてくるものがあった。それが峰の策略であるなど人間関係に疎い新見に分かるはずもなく、まんまと煽りに乗っかってしまう。

「なんでそこまで……」

「こだわるのかって」

 新見の言葉を引き継いだ峰。口元に張り付いた笑みは変えず、一呼吸置いて続けた。

「ナ・イ・ショ」

 一言毎に、峰はたっぷりと間を置く。口元に人差し指を添えることも忘れずに、チャーミングさを際立たせた仕草ではあったが、場にはそぐわず、新見は呆然としてしまった。

 無表情の新見に、可愛さをアピールする峰。傍から見ればさぞかしカオスな絵面に違いない。秘めた思いは共にある。が、相手を尊重して言えない。そんな殊勝な心が生んだ結果だけに、再び切り出すのが躊躇(ためら)われた。

「だって、今言ったらズルいじゃん——」

 そう口火を切ったのは言うまでもなく峰。しかし、口調はひかえめで、口元に人差し指を添えて「ナ・イ・ショ」だなんて言った人間と同一人物だなんて思えない。

「良心に訴えかけてるみたいで。まあ、新見ちゃんとそこまで付き合いが長いわけじゃないから、その呵責(かしゃく)に苛まれるかどうかは分からないけどね」

「それは、……煽ってるの?」

 コミュ障なだけで馬鹿ではない新見は、優位に立とうと先手を打つ。目下取り沙汰されている新見のコミュニケーション能力で果たして、そんなことが出来るのか。

答えは、NOだった。

敗因は、相手の表情の機微が把握できなかったことで、峰の返答によって易々と覆る。

「えっ⁉」

 峰は目を見開き、そして、笑う。

「今のは煽りじゃないよ」

 正真正銘。偽りのない声音に、新見の棘がポキッと折れる音が聞こえた。

「す、すみません。調子に乗りました」

 目を伏せ、いつもの調子に戻った新見を峰が笑う。

「新見さんは調子に乗ってるくらいが丁度いいかもね。張り合いがあって」

「それが出来ればいいんだけど。どうしても踏み込めなくて……。だって、相手を傷付けちゃうかもしれないし」

「そうだね。でも、それって言ってみなきゃ分からないじゃん」

「だから、言って良いことと悪いことを学ぶために、無理矢理にでも人の輪に入ろうと機会を窺っていたんだけど。今思えば、別にバンドじゃなくてもよかったんだ」

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待って」

 分かりやすく峰は狼狽え、肩を掴まれた新見は目を見開くのだった。

「結論を出すのはまだ早いって」

「でも田嶋さんもああ言ってたし……」

「そうねそうね。確かに無理だって言ってたけど、それは新見さんが陰キャだからってだけ」

 峰の無垢な追い打ちが、新見の心を更にえぐる。

「声の云々のことは言ってないから」

とフォローを挟むが峰であったが、こと既に遅し。峰の視線は左下に落ちていた。

「励ましてくれたと思ったのに」

「ちょっとちょっと。ネガティブにならないで。私が言いたいのは新見さんの本質までは否定されていないってこと。私は新見さんが陰キャだろうが陽キャだろうが、そんなことはどっちでもいいの。唯々、新見さんのその声に惚れたの」

 本質だなんて自身の取り柄が声だけと言われた気分。新見は内心憤慨したものの、言い返す用意はなかった。なぜなら、当たっていると自覚があったから。幼い頃は嫌だった声も、成長するにつれて年齢に見合ってくる。差異ではなく、個性であると。気付いた時、新見の中でも可能性を感じた……。

 スマホの電源ボタンをさりげなく押す。怪訝な表情を浮かべる峰を横目に、視界の端に映る画面を操作し、再生ボタンを押した。


♩ 夜明けの時さ——。

 

響く新見の声。何かの主題歌を歌ったショート動画で、伴奏がないだけに声がやたらと際立つ。故に小細工のしようもなく、純粋に技量が測れた。

「どう、かな?」

「……」

「峰さん?」

「シーッ」

 いつか見たポーズの峰。何事かと思いつつも、言われた通りに新見は口を紡ぐ。


 ♩ 目覚めのときが来た 今


 そして動画は終わる。

ドックン、ドックンと新見の鼓動がいつも以上に大きい。もしかしたら、辺りにも聞こえていまいかと心配したが、峰の様子を見る限り杞憂に終わった。

「うん、いい。いいよ、新見さん⁉ やっぱり思ってたとおり——。ヨシッ、決めた」

 しばらく残響を堪能した峰は、荒々しく新見の両手を掴んだ。向けられた視線に戸惑う新見をよそに、峰はグイッと顔を寄せる。その距離、数センチ。

「新見さん、別に今日断ってもいいけど。私、諦めないから。明日も来るし、明後日も来る。首を縦に振るまで通うつもりだから。こんなところで新見さんをみすみす手放すわけにはいかないよ」

「でも……」

「田嶋君のことなら心配しないで。新見さんが、嫌なら話はちゃんとつけるから」

「ホントにそれでいいの?」

「惜しいけど。新見さんには代えらんないもん」

 人生で初めての経験だった。親以外の人間からこんなに求められるのは。自負するものが受け入れられたことで、内心歓喜喝采の新見であったが、どうしても無視できないことがあってうまく表現できない。だから、ここは保留。

「分かったけど、ちょっと考えさせて」

「そっか。分かった」

 言葉の節に間を持たせた峰の表情が何処となく浮かなく、新見の脳裏に刻み込まれるのだった。


 肉じゃが、カレー、シチュー、もしくはビーフシチュー。どの料理も先に立つのは根菜を炒める匂い。

 自室にいた新見は香(かぐわ)しい匂いに心底鼻孔を擽(くすぐ)られ、台所へと足早に向かう。平屋の自宅のためか、台所ではすでに母親が待ち構えていた。振り向きざまの手にはお玉。そこに野菜の繊維が付いているところを見ると、好きなビーフシチューに違いない。

 心躍らせて新見は問う。

「もしかして、ビーフシチュー?」

「いやっ、бефстроганов(べフストロガノフ)」

「……ん? なんて言ったの?」

「だから、бефстроганов」

 と、言われても発音がナチュラル過ぎて聞き取れない。

「だ(・)から(・・)って言われても分かんなんだけど」

「もう、学がないわね」

「いやいやッ。英語じゃないじゃん。それで学がないって言われても……。っていうか、何語なの?」

「ロシア語」

「ロシア語⁉ そんなの分かるわけないじゃん」

「分からないとか言ってないで、精進なさい。これからの時代、日本語だけでは生きていけないわよ」

「だからって、ロシア語である必要はないでしょ。万国共通の英語があるんだから」

「親相手に揚げ足を取るのは止めなさい。ほら、もうできるわよ。突っ立ってないで、テーブルの上片付けてちょうだい」

「はーい」

 そんな生返事をする新見に対して、母親は厳しく口を尖らせるが、返す言葉も生返事なので処置無しと言わんばかりに、母親は溜息を吐く。

「もういいわ。片付けたら、テーブル拭いてちょうだいね。そこの布巾使っていいから」

 見ると確かにテーブルの上には無造作に布巾が置かれている。繊維が立っていることから察するに、まだ濡らされていないらしい。ならばと思い新見は布巾を持って、シンクへと向かう。

束の間、母娘水入らずで台所に立つ。しかし、ギクシャクした手前、新見は若干の気不味さを覚えた。

そろりそろりと何食わぬ顔で母親の隣に立った新見。視界の端に映る母親がいつもと変わりなくて逆に怖い。だから様子を窺いつつも、新見は視線をシンクの中へと移した。

目に付いたのは野菜の成れの果てと、謎の白い液体を垂らす缶詰。ちょうどパッケージがそっぽを向いているので、分かるのは名称などだけ。その上で、『名称:乳等を主要原料とする食品』とある。

曖昧過ぎてまったく判断材料にならず、結局、新見は鍋を覗き込むのだった。

見た目はビーフシチューだが、件の乳製品により白濁としていた。謎は深まるばかりで要領を得ない。苦肉の策として新見は問いかけた。

「えっ⁉ やっぱりビーフシチューじゃん」

 三文芝居にも及ばない。棒読みと言って相違ない新見の問い掛けに、母親は変わらぬ様子で言った。

「違う違う。бефстроганов」

 新見の浅はかな企みも、勝手知ってる母親には通じず、華麗にスルーされる。対して、「だから……」と唇を尖らす新見であったが、母親は気にする素振りも見せなかった。

「日本語風に言えば、ビーフストロガノフ」

「ビーフストロガノフ?」

「そっ」

 得意げな母親。これがまた憎たらしい。

「だったら最初からそう言ってよね」

 真実を知って完全にシンクから興味が失せた新見は、行動を次に移す。軽く濡らした布巾をギュッと絞り、いざテーブルと対峙。すでに両手を濡らしてしまった手前、上にある新聞、メモ帳を持つことは憚(はばか)られる。だから決して物臭なわけではなく、紙類を濡らさないという気遣いからだった。

 ブルドーザーよろしく、テーブルの上のあれやこれやを一掃しようとする新見であるが、それは粗方片付けて飲み残しが入ったコップに差し掛かるときのことだ。

「もう物臭なんだから!? 溢すわよ!?」

 ギクりと肩を揺らす新見は、寸前のところで布巾を止めた。振り向くとそこには少々眉間に皺を寄せた母親が、鍋を構えて立っているではないか。条件反射かのように苦笑いを浮かべる新見のそれは娘の性とも言え、完全敗北と思われた。が、その日は気の持ちようが違ったのか、これまでの戦歴を鑑みることなく無謀にも新見は母親に挑む。

「だって、濡れるじゃん」

 引き攣(つ)った表情から放たれた言葉には覇気がなく、勝敗は言うまでもない。母親からは言葉はなくとも相当な威圧感が漂っており、ヤンキー上がりという噂に一層真実味が増す。さらに萎縮した新見は心中、愛娘を威圧するなど母親の風上にも置けないと自身を肯定しようとするも、非は新見にあるのでモチベーションにすらならない。

「コップは濡れてもかまわないでしょ」

「ハイッ、そうです。すいません」

 はきはきとした受け答えは新見だと見紛うほど。速やかにコップをシンクに置き、テキパキとした動きで、テーブルメイキングを終わらせた。そして、ススッと摺(す)り足で後ろに下がり、「どうぞ」と促すのだった。

「ありがとッ」

 感謝の意を述べることを忘れずに鍋を置く母親だったが、その表情はどことなく浮かなく、頻りに溜息を溢す。視線を新見に向けたり、外したり。そして、また視線を向けると溜息を吐く。それが数回続くことで、流石の新見も尋ねてほしいのだと気付いた。

「どうしたの。そんなに溜息吐いて。悩み事があるなら力になるよ」

「そう。それはちょうどいいわね」

「……」

 ちょうどいいとは、一体どういう意味なのだろうか。新見は首を傾げた。

「前から変だなとは思ってたのよ。たまに一人で歌ってるし、スマホを見てはニヤけてるし。そして、極めつけがバンドのボーカルに誘われたって……。本当に心配だわ」

「えっ、私のこと」

 深く頷く母親。

「いやっ、でも……。誘われたのは嘘じゃないし。心配されることは何もないと思うんだけど」

「別に虚言を心配してるわけじゃないわよ。あなた、歌だけは上手だから勧誘されるのも頷けるけど、お世辞にも人付き合いが得意な方じゃないでしょ。コミュ障だし、奇行だってたまに……、ね」

 言葉が言葉だけに攻めることもできるわけだが、母親の表情から心底心配しているのが窺えてどうにも語気も弱まってしまう。

「母上よ、オブラートという言葉をご存じか」

「もちろん、知ってるわよ。でも、私思うの。親子に遠慮があってはならないって」

「それは、……そうだけど」

 口上では納得している新見であったが、母親の真意までは図れず何だかはぐらかされているようで内心は釈然としていなかった。それでも「ちょっと、棚からお皿出してくれる」という母親からのお願い事を聞くのは習慣によるものだった。

「もう⁉ 勝手なんだから」

感情を無下にされ不貞腐れながらも、新見は食器棚へと向かう。三段からなる棚を上から順に物色した。

「これでいいの?」

 新見は数ある食器の中から口の広い浅めの皿をチョイスし、母親にかざして見せたが、これと言って文句も出なかった。なので、人数分を用意し、皿をテーブルに置く。すると、途端に「サラダもあるんだった」と再度要求されるのだから、効率の悪さから新見も返事がおざなりになってしまった。

「はいはい」

 見るとサラダとやらはボウルに入っている。ズボラな母親のことだ。皿に盛り付けたりはしないだろう。以上のことから、新見は迷うことなく一段目の手前にあった小皿を手にした。

 それに関して可否を問わない新見は、素知らぬ顔でテーブルに向かいと、何食わぬ顔で皿を置く。

ふと、壁掛け時計が視界に入った。

「もう6時過ぎてるんだ……」

 ぼそりと呟く新見であったが、これと言って用事があるわけではない。学生のアフターファイブという貴重な時間を無駄にしまいとする、自身の深層心理がそうさせただけである。だから、決して新見は急いたりせず、小皿を家族各々の定位置へと配置していった。シンクに近い位置には母親と自身の小皿、テレビの見やすい位置には父親の小皿。そういう算段で置いていく。そして、父親のモノを置こうと手を伸ばした瞬間、母親の「嘘っ⁉」という言葉に思わず手を止めてしまった。

「ビックリした⁉ なに、急に?」

「今日、お父さん、早いんだった——。こうしちゃいられない」

 言うが先か動くが先が、母親は怒涛の如く夕食のセッティングを進めていく。ボウルにトングを雑に差し込み、リビングからテレビのリモコンを持って来たところで、ガチャガチャと玄関から鍵を開ける音がした。すると、途端に口角が上がる母親は準備をそのままに玄関へと足音を忍ばせつつ駆けて行く。「あとはお願い」という言葉を残して。

 そして、聞こえてくるのだった。

「おかえりなさい、そうさん」

「うん。ただいま、みいさん」

「今日の夕飯、何だと思う?」

「……何だろう。肉でもなく、魚でもない。煮込み料理のような。——もしかしてビーフストロガノフ⁉」

「正解」

「えっ、ホント⁉ 食べたかったんだよな」

「でしょ」

「朝、ボソッと『食べてみたいな』って言っただけなのに……」

「もう。私がそうさんの言葉を聞き逃すわけないじゃない」

「えー、嬉しいな」

「動画サイトで本場のбефстрогановを調べたんだから……」

 以降もしばらく惚気が続く。流石の娘も聞くに耐えず、こう締めくくった。


——今日も今日とて平和だったな。きっと明日もいいになるはず


そして、翌日。白黒はっきりしようと新見が図書室に向かうと彼がいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

青春脳共は、隣の芝生の青さを知る SAhyogo @SA76

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ