夏夜の海、思い出の場所 12-2
「ごめんごめん」
「……最近千夜さんそういうところありますよね」
「えー」
「女たらし……」
「じゃあ言わないほうがいい?」
「それは毎秒お願いします」
「はいはい」
最近──、という話をするならば、彼女も大概だと彼は思った。
少しずつ、砕けてきている。
だからこれは、どちらがどうという話ではなく、お互いに、少しずつ変わってきているのだろう。
あくまで他人だった距離が、そうではない距離に。
「……ところで、最近どう?」
「どうしたんですか? 急に話題に困った親戚のおじさんみたいなことを言い出しましたね」
「……」
「千夜さんはまだ若いと思います。ごめんなさい気にしないでください」
「いや、別に」
「……ま、まぁ、『どう?』と聞かれても特に……普通にいつもLINEしてるのと同じ感じです。心身ともに、健康、です!」
「ならよかった」
なんだかんだと、彼女の家庭は複雑だからずっと心配していたのだが。
本人いわく、「大丈夫。普通に生活できないくらいまでまた悪化したら、そのときは時間かけても、千夜さんのとこ逃げ込みます」とのことで。
逃げる、逃げ込む。他人を頼る。
そういう判断ができる女性だから、ひとまずは信頼をすることにしている。
それに、
「進学ってこっち来るってことでいいんだよね?」
「えぇまぁ。……それがどうかしたんですか?」
どうせ間もなく、居住地も近くなる。
「別に大したことじゃないんだけど。暇なときに物件見とこうかなってさ。大学近くて良さそうなとこ」
「気が早くないですか?」
「……いやでも……もう8月だし……? 半年くらいなら一瞬じゃない……?」
「一理ありますね」
「だよね」
「大学に近いより千夜さんの家に近いほうが嬉しいので、そんな感じで見といてくれると嬉しいです」
「……なるほど?」
「まぁ大学から遠すぎても嫌なんですけど……でも私の志望大学と千夜さんの家、そこまで遠くないんですよね。大学はバスとか電車で通える距離でいいんですけど、まぁ千夜さんの家には徒歩で通えるといいなーって」
「……」
「……え、なんですかその顔」
「照れ臭いなという顔」
「そうですか」
夜は深く、世界は暗く。
彼らを照らすのは、遠方の街灯と、淡い月の明かりだけ。
近くにいても、相手の表情の変化を正しく捉えることも、難しい。
だけどちゃんと伝わるものがある。だから嬉しい。笑みがこぼれる。
「どうせなら同棲とかも興味あるんですけどね」
「まぁ……」
「お母さんは結構推奨派なんですよね、同棲」
「ぼくの預かり知らぬところで話が進んでいる。……いやまぁ確かに一回挨拶しに行ったときも、大概フリーダムだったけど……」
「そうなんですよねぇ……。曰く、『そういうのを知るのは早ければ早いほどいい』って」
「一理ある。……けどなんか、言い方が怖いですね……」
「そうなんですよね……。なんか、上手くいかないことのほうが多いからうんぬんって最近死ぬほど言われます。最近その関連で、うちの家事がすべて私にまわってくるんですよね……」
「真魚さんって受験生じゃなかったっけ」
「わがまま言うなら全部両立しろと、我が母は仰せです……」
「そんなことなってたんだ……」
「なってるんです……いやまぁ愚痴が言いたいわけじゃないんですけど、つまりは結構家事スキルが高くなりつつあるということなんですよね」
「素晴らしい」
「えへん」
LINEや通話、あるいは直接会ったり。
そういうことは定期的にしていたが、そういう努力をしていたのは知らなかった。
あえて口を噤んでいたのか、特に口にする理由がなかったから言わなかったのか。
細かいことはわからなかったが、頑張っていることだけは間違いがなくて。
千夜は、ごくごく普通に、真魚へ尊敬の念を抱いた。
「えらいね。すごい」
「えへ~」
よしよし、と頭に触れる。
夜に溶ける艶やかな黒髪は、するりと抵抗なく、指が通る。
「頭撫でられるのとか、子どもっぽくてあんまり好きじゃなかったんですけど。やっぱ嬉しいもんですね」
「それならよかった」
相手に触れる距離、パーソナルスペースを限りなく埋める行為というのは、当然だが親しくないとできなくて。
3月の末、それから4ヶ月ほどのインターバルをおいて、彼らはそれらを許容し合うことができるようになっていた。
「…………」
「…………」
お互いを正確に捉えることができない夜の中では、特に距離感というのは縮むものだ。
闇は境界を曖昧にするという、ただそれだけの自然なこと。
だから彼らも、より一層、距離を歪めて、溶かして、……自然と手を絡めていた。
彼からすると、彼女の手はひんやりとしていて。
彼女からすると、彼の手は暖かかった。
「手を繋ぐのってかなりテンション上がるんですけど、やっぱりそのうち飽きるんですかね」
「人によるんじゃない? 歩きづらいとかはあるかもだけど、ぼくは割と好きなほうだし、ずっとこのままでもいいかな」
「じゃあ一生このままで」
「手のひらが洗えなくなってしまうな」
「困りましたね」
「ね」
彼女は繋いだ手に目を落として、これまた夜に馴染む黒い石を目にした。
オニキス。
割と安価に買える、パワーストーンの一種。黒一色で、“夜”が名前にある彼に似合うと思って購入したのをよく覚えている。
今日会ったのは偶然のようなものだったから。
普段からつけてくれていることが窺えて、真魚は嬉しく思った。
「普段からつけてるんですか?」
「ん?」
「ブレスレット」
「基本的にはね。それこそ……海で泳ぐとか? お風呂とか。そういうときには外すと思うけど」
「私、千夜さんのそういうとこ好きですよ」
「……ありがとう?」
ふふ、と真魚は笑みをこぼして、彼の腕にぎゅっと抱きつくように、腕を絡める。
より密着度が高くなって、より熱が混じる。
「千夜さん」
「なに?」
「暑いですね。暑いですか?」
「暑いです」
「帰りコンビニ寄りません?」
「買い食いですか……。言われたらすごいアイス食べたくなってきちゃったな」
「ではそういうことで」
「……でさ、今ふと思ったけど、家に連絡しなくて大丈夫? たぶんだけど散歩行くくらいの感じで出てきたんでしょ?」
「あー……。ですね。連絡しときます」
えーと、と真魚は彼と腕を組みながら、片手でスマホを取り出し、操作を始めた。
「……落とさないようにね。海に落ちたらスマホくんがお亡くなりになってしまう」
「そんなこと言われたら緊張するじゃないですか。落としたら千夜さんのせいにします」
「えぇ〜……」
「まぁ、防水性能は高いはずなので大丈夫だと思いますけど。たぶん落としてもヘーキですよ」
「へぇ〜」
「平気ではないので揺らすのやめてもらってもいいですか?」
「はい」
彼は肩を揺らすのをやめ、彼女はスマートフォンの操作を終えて、スマートフォンをポケットに仕舞う。
「とりあえず連絡はしといたので。まぁ、もしかしたら画面見えたかもですが」
「文面までは見てないよ」
「秒で既読ついてオッケー返ってきました」
「なるほど」
「なので永遠にここに留まってても特にお咎めなしです」
「ご飯……」
「この場で採取します」
「睡眠は……?」
「ウォーターベッドというものを知りませんか?」
「少なくともこの場にはない」
「もちろん結婚式も葬式もこの場所で執り行います」
「そういや、海辺の、ほんとに砂浜とかでする結婚式ってあるらしいね」
「ビーチウェディングですか? ちょっと楽しそうですよね。めんどくさそうですけど」
「へー。意外」
「そうですか?」
彼が海で出逢った彼女は、海が好きだった。
好きな色は青色で。好きな宝石はサファイアで。
今もこうして、海で立ち話をするくらいだから。
「ビーチウェディング? とかに憧れ抱いてそうな感じがしてもおかしくないなとは思った」
「おしゃれだとは思いますけど……別に……普通でいいかなって。なんなら結婚式とかしなくてもいいんじゃないですかね」
「んー……。嫌ってわけじゃないなら、式は挙げたい派です」
「……千夜さんって、結構そういうの大事にするタイプですよね。いや、色々してもらってる側の私が言うことじゃないんですけど」
真魚は、左手の薬指に嵌っている婚約指輪をジッと見つめる。
普段使いにできるようにと、少し落ち着いたデザインに仕上がっている、サファイアのついた婚約指輪。
彼女は、この指輪をもらったときのことをよく覚えている。
6月の中頃、休みの日に一緒に指輪を選びに行った日のこと。
こんなに高いもの受け取れない、とずっと渋っていたときのこと。
──遊びじゃなくて、軽い口約束じゃなくて、ちゃんと本気だってわかってほしいから。だから持っててほしい。
真魚が望むからではなく、千夜が真魚に持っていてほしいのだと。
そんな言葉と共に、左手の薬指に、
「やっぱり千夜さんって結構尽くしたいタイプですか?」
「なにがやっぱりなのかは知らないけど、普通になにかやって、相手が喜んでくれたら嬉しいよね」
「世界平和ですね」
真魚は、彼の腕をかき抱きながら、夜の熱で心を満たしていた。
どきどきするのに落ち着いていて。
浮ついているようで鎮まっていて。
そんな、矛盾しているようで成立している、複雑怪奇な人の心。
恋と愛が同居した、心の熱。
それは、うるむ瞳に、こぼれる吐息に、震える唇に、掴む指先にやどっていて。
触れたところから、相手に熱が伝播する。
そして彼は、そんな彼女の頬に手を添えて、唇を重ねる。
「……ん」
濡れたやわらかな感触。
汗のにおいと、海の香りがして。
夜の闇で二人の境界は、より一層曖昧になっていて。
「……私、あなたのことが好きです」
「何、急に。照れ臭いな……。ぼくも好きだよ。ちゃんと大事にする」
夏の海、月明かりに照らされて。
夜に包まれ、海に揺られて。
彼らは、これからのことに想いを馳せていた。
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