これからのこと 11-1



 千夜が真魚に、転勤の事実を告白してから、早2週間が経っていた。

 あれからというもの、二人の関係は、少しギクシャクするようになっていた。


 例えば3月14日、ホワイトデー。


 千夜にバレンタインのお返しをしない選択肢はなくて、だから直接会って、彼はそれなりの値段のするクッキーを渡していた。

 けれど。

 けれど、けれど。


『ぇ、と……ありがとうございます』


 真魚の浮かべた表情は、少しぎこちなくて。

 どういう感情を浮かべればいいのかわからない、という雰囲気だった。


 また、3月14日を除けば、直接会うこともなくなっていて。

 理由はなくとも会うようになりはじめた矢先の、関係の断絶。

 だってじきに会わなくなることが決まっているなら、これ以上仲良くなっても辛いだけなら、理屈上、これ以上会う理由なんてなかった。


 そう、理屈の上では、会う理由に乏しい。

 そう、理屈の上では。


 でも、忘れてはいけないのは。

 私生活をおくる上で、他人に時間を割くということは。

 理屈ではなく、感情で、ただそうしたいから。


 それはもともと、理屈で説明できないことだったから。


 だから。



『3月19日、空いてませんか?』



 ここから先の話は、理屈をある程度すっ飛ばした、感情の話。

 想いを第一にした、彼らの話だ。













〈 3月19日 〉



 海というのは、普通、昼のほうが綺麗だ。

 陽光が反射して、海面がきらきらと、まるで宝石のように煌めく。

 冷たい風と、海の匂い。

 右手のほうに見える煌めく海を見ながら、千夜は海沿いの道路を歩いていた。


 約束の場所は、千夜と真魚がはじめて会ったところだった。


 昼に会うのは初めてではない。

 海で会うのも初めてではない。

 けれど、昼の海で会うのは、はじめてだった。


 夜の海辺という特殊なシチュエーションでは、複数回一緒にいたことがあるというのも、また不思議なことだった。

 視界の隅に真魚が引っかかるように歩きながら、彼は、海辺へと歩みを進めていた。

 時間には、比較的ゆとりがあって。

 約束の時間の、だいたい20分前に約束の場所に着くこととなりそうな具合で。特に問題なく、場所自体には、着いた。

 真魚の姿を、見つけた。


 さて。

 さてさて。


「…………」


 千夜は約束の場所へと訪れて、言葉を失っていた。

 何故か。それは驚いてしまったから。

 真魚が、ナンパをされていたから。


 砂浜と道路の境界に位置する、コンクリートの塀に腰掛けている真魚に、どこかの誰か、知らない男が声をかけている。

 細かな台詞は聞き取れないし、文脈もいまいち理解できないが、ニュアンスとしては「何してんの? 俺らと遊ばね?」というような感じで。

 それを認識して、千夜は、距離を縮める。


「あの。その子、ぼくの連れなので」


 そう声をかけると、見知らぬ男は、「なんだ男連れか」と落胆して、去って行った。

 あまりにも古典的な流れに、千夜は、去って行く男の背を、目を丸くして見送ることしかできなかった。

 幾ばくかの間、思考停止をしてしまった後に、改めて、真魚のほうへと向き直る。


 真魚が見上げて、千夜が見下ろす位置関係。

 真魚は縁に腰かけて座っていたので、自然とそういう形になっていて。

 そんな風に、視線を交差させる。

 今日の真魚は、化粧をしているようだった。きれいだった。昼の海にも、よく映える。

 薄く色づいた唇が印象的で、『あぁなるほど。これは声を掛けられるのにも納得がいく』、と千夜は心の中でうなずいていた。


「……大丈夫だった?」

「ええと、はい。……まぁなんというか……びっくりしましたね。あんな風に声かけられたの、はじめてだったので」

「あぁ、そうなんだ」

「はい」

「……」

「……」


 少しの、沈黙。

 海辺、砂浜。周囲には人がいないわけではなかったが、シーズン外の今、そう人が多いわけでもない。

 海は綺麗で、砂浜は広くて、だけどそのどちらにも足は踏み入れず、ぼんやりと眺めていた。


「移動する?」

「……千夜さんが構わないのであれば、ここででもいいですか?」

「ん。いいよ全然」


 真魚は自分の隣のスペースを軽くタップし、そのあと、かばんからハンカチを取り出した。

 千夜は手でそれを制して、座る。彼が地べたに座ったのは久方ぶりで、少しだけ若くなったような気がした。

 二人の距離は、約60センチ。

 手を伸ばせば相手に触れられる。そんな距離だった。


「なんか久しぶりだね」

「まぁそうかもですね。カレンダー見るとそこまでかなって気もするんですけど……そうですね、久しぶりです」


 そう言う真魚のお尻の下には、ハンカチが敷かれていて、千夜は『女の子だなぁ』という漠然とした感想を抱いた。

 そして、少女の手に握られているのは、


「ところで、それなに?」

「む。これに目をつけるとはお目が高いですね」


 黄緑色のチープな筒と、ちっちゃな容器。

 子どものころ、一度は手に取ったそれは。


「……しゃぼん玉?」

「はい、そうです。千夜さんもどうですか。今ならもう一個、新品があるんですよ」

「そうなんだ」

「そうなんです」

「じゃあもらおうかな」

「! どうぞ……!」


 いそいそと、真魚は、新しいしゃぼん玉のセットを取り出す。

 千夜は受け取って、「懐かしいな……」と、言葉をもらす。


「あ、そうだ。もし肌寒かったらカイロとかありますよ。いりますか?」

「んー。いや、いいや。結構あったかいし」


 3月も、もうじき終わる。

 4月を春のはじまりとするならば、春がはじまるまで、もう半月もない。

 気温も冬と呼ぶにはだいぶ暖かくなっていて……そう、つまりは冬が終わろうとしていた。


 春。


 出逢いの季節。はじまりの季節。新生活の、オープニングとなる季節。

 ひるがえして、その直前には別れがあり、終わりがあり、既存の生活のエンディングがある。


「……──」


 ふー、と。

 声にならない息を、筒に。


 そうして生まれるのは、滑らかな虹の光沢を伴った、しゃぼんの泡。

 次々に生まれては、どこか見えないところまで広がる、しゃぼんの泡。


 陽光と、海と、しゃぼん玉と。


 そして、少女の横顔と。


「……おー。すごい」

「久しぶりにやると、楽しいですよね」

「うん」

「実は今日、これをやりたいがために呼ばせてもらったみたいなところがあるんですよね」

「そうなんだ」

「そうなんですよ。まぁあとは、普通に、せっかくだからお話ししたいなって」

「なるほどね」


 そう言って、ふー、と。

 また、しゃぼん玉を飛ばす。


「しゃぼん玉好きなんですよね。子どものころ……小学生くらい? のときに、お母さんと、こうやって腰かけて、一緒にやってたことがあるんですよ」

「あー。いいね。海とかあって。そういうのも相まって、なんかいい」

「そうそう。そうなんですよね。昔……会ったばかりのころに、人魚姫が好きとか言ってたの覚えてますか?」

「あー。あったねえ。懐かしい」

「その理由もだいたいこれなんですよね。普通に話として好きってのはもちろんあるんですけど、きっかけはこれで」

「あー、あー……はいはい。しゃぼん玉と人魚姫ね。なんとなくわかる気もする」

「ね」


 空気を内包する、泡。

 人魚姫は泡になる。泡になって、空気になる。

 しゃぼんの泡はきれいで、いつかは消えるものだけど、でもそこに残るものはある。


 泡は、海にあっても空気の中にあっても、いつだってきれいで。


 少女はそう思うから、人魚姫のことも、きれいだと感じている。

 仮に結ばれないエンディングだったとしても、それでも美しいものは美しい。王子の命を奪えず、愛に生きた人魚姫は、美しい。



「…………」



 しゃぼん玉を、ふかしている。

 だから会話というものは生じなくて、非常にゆったりとした空気になっている。

 千夜は、それに対して、なんとも言えない気持ちを抱いていた。

 前に会ったときは、少し空気が軋んでいたから。

 今はすごくリラックスしているように見えて、でもそんなことはないのだろうな、と。


「……あんまり口にしたことはなかったけどさ、真魚さんのこと、真魚さんとこういう時間過ごすの好きなんだよね」


 

 

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