第58話 恋って何だ
昨夜は酔い潰れた榊原をタクシーを使って家まで送り届けた。こっちへ来てから
何でここまでせなあかんのやとぼやく波多野に、みぎわはこれも責任の一端はあんたにもあるやろうと言われてしまった。あとは黙って待たしたタクシーで二人は帰って来た。
帰り着くと明日はかならず行かなあかんと言われた。会社はどうするんやと逃げ口上に言ってはみたが、矢張り一蹴された。もしこれで
京都駅では山陰線が嵯峨野線と呼ばれるように、嵯峨駅を過ぎると観光客がどっと降りて、いつもののんびりした列車に変わりはない。ただ気持ちとは正反対に、いつも癒やしてくれる車窓の景色は、いつもより薄情なぐらい気持ちを急かし続ける。
田植えが終わって順調に伸びた稲は、もう直ぐ梅雨になり潤いを与えてくれる。それに引き換え此の曇り空は心を憂鬱にさせてしまう。
踏切に近付くと重い心を引き摺ってるのに、軽快な汽笛を鳴らして、遮断機が下りた道路を列車は通過する。農作業に向かう軽トラが視野を横切った。その横には保育園児の散歩なのか、保母さんに連れられた園児の群れが列車に向かって手を振っていた。丁度この前に会ったあの女の子供もあれぐらいか、そして紗和子のお腹の中にも居るのか。
列車は実家の駅に着いたが知り合いは誰もいない。当たり前だ当然みんな仕事に行ってる時間帯だ。独り列車を降りて実家へ向かったが、実家を通り越して直ぐ近くの紗和子の家に着いた。家族は出払っていても、多分彼女は九分九厘家に居るはずや、と呼び鈴を押した。インターン越しに彼女の声がした。波多野が名前を告げると忙しなく戸が開き、どないしたんと先ず訊ねられた。返事を
昔は良く此の家に上げて貰った。それももう随分と昔やった。それが最後になったのは小学生の頃やったなあ。それを入りながら言うと、紗和子は懐かしいそうに、そうねと言って淋しく笑った。
居間の座卓に座布団を出してくれた。ゆっくり座ると急須に茶葉とポットのお湯を淹れてお茶を出してくれた。波多野は一口飲むと昨夜は榊原から言われた、と言いながら湯飲み茶碗を置いた。紗和子も両手で受けて飲んでいた湯飲み茶碗を静かに置いた。
「あの人何を言わはったん」
「一緒に呑みに行かんかて誘われて」
「うちが実家に帰ったさかい羽を伸ばさはったんやねえ」
「それで
紗和子は急に笑って嘘やと言い出した。
「そんなことで療治さんがなんぼ人が良くても仕事ほっぽり出して来るわけがないやろう」
あの人からどんなことを聞いたか問い詰められたが、とにかくもう酔い潰れてそれどころやなかった。でもみぎわから色々と聞かされた」
俺の知らん紗和子までみぎわが知ってるのはどう言うこっちゃと逆に問い詰めた。
「あの人、親身に相談に乗ってくれるんやね」
最初は聞き流していたけれど、でも喋り方が違うんや。言葉の語尾がスーと消えるように上がるからきつくないんや、それで胸の中に溶け込むように響くさかい。つい言わんでもええ事まで受け答えしてしまう。話しやすく聞き上手やから、たわいのない事から深刻な話まで踏み込んで喋れるようになるのにそう時間が掛からなかった。それは波多野が小さいときから今日まで築いた紗和子との信頼関係を遙かに超えたものを、みぎわと短時間に築いた事になる。
「どんなことを話したんや」
「先ず祭りのこと」
「ああ、葵祭か」
「そや、優雅でええなあって、そしたら、みぎわさんがそれだけに心の葛藤もただ事やないんよと言われて
源氏物語の世界を垣間見たと言われて。別段変わった事ない古典の話なんかと思った。
あの衣装で着飾った人達が、この町で恋のさや当てで嫉妬に渦巻く世界に落ちてゆくのは、今も昔も変わらへん。そう想うて見てたら何や面白くなって来る。でもそんなもんをあたし達は中学で真面目くさって習っていたかと思うと
「それであの頃の恋の話をし始めたら……」
あれは宮廷を巻き込んだ大スキャンダルの不倫物語なのに、あの時代のベストセラー文学として今日まで受け継がれてきた。それはいかに人々が恋の駆け引きに興味津々として、今日まで共通するものだったんや。そう言われるとあの時代は今も昔から変わらへんから「そやねえ」とたわいもない言葉を交わしていたら、みぎわさんって謂う人柄が、自然とうちの心の中にすんなりと入って来てしもた。
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