第34話 黒い兆し

夕暮れが、街を赤く染め始めていた。

ビルの谷間に、鈍く沈む陽光が長い影を落とす。


「……ターゲット、確認。あの車です」


インカム越しに部下の声が届く。

白石エリカはビルの影に身を潜め、ゆっくりと周囲を見渡した。

左手には任務データを映すスマートデバイス。右手には、護衛用のスタンロッド。


今日の任務は、ある企業幹部の帰宅ルート警護。

書類上は危険度中程度、報酬も並。だが、依頼主の態度は妙に慎重で、エリカの胸には引っかかる感覚が残っていた。


(……それにしては、空気が張り詰めすぎている)


人混みの中、視線のようなものが断続的に刺さる。

だが、振り向いても、その主は見えなかった。


ターゲットの男性が部下に伴われ車に乗り込む。

ほっと息をつく――その瞬間。


――カツン。


乾いた足音が背後から迫った。


「ッ……!」


反射的に振り返る。細身の女がナイフを振り下ろしてきた。

咄嗟に腕で受け、後方へ飛び退く。


切っ先が掠めた袖に、浅く裂け目が走る。


(……動きが素人じゃない)


女は無言のまま間合いを詰めてくる。

体の重心移動、呼吸、狙いの精度――全てが訓練された動き。

完全に“殺しに来る側”の動きだった。


エリカはスタンロッドを抜き、迎え撃つ。

金属がぶつかる硬い音。息詰まる交錯。

互いの呼吸が短く鋭く切れる。


数秒の攻防の末、ロッドの一撃が女の腹を打ち、膝をつかせた。

だが、その目はまだ立ち上がる意思を宿していた。


「ターゲット、安全圏入り!護衛対象、確保しました!」


部下の声がインカムに弾む。


(……ここは退くべきだ)


無理に追えば、周囲のどこかに潜む“もう一人”の存在に背を取られる。

エリカは即座に撤退ルートへ跳び出した。

ナイフの女は追ってこない――追えないのか、それとも命令なのか。



人気のないビル裏に駆け込み、肩で息をしながら腕の傷を確かめる。

切り裂かれたスーツ。浅いが、血がじわりと滲む。


(……軍仕込みか、それとも……)


そのとき、上方から低い声が響いた。


「次のターゲットは――白石エリカ。そして、“鍵”を持つ少年……春海蓮」


心臓が、一瞬止まったように感じた。

声の方向を見上げると、ビルの屋上に黒ずくめの女たちが数名、逆光の中に立っていた。

声の主は姿を見せず、女たちは風に溶けるように闇へ消える。



任務を終え、帰路につく。

カフェ・アンリミテッドの前を通ったとき、窓から温かな灯りが漏れていた。

ガラス越しに見えるカウンター。

その向こうにいるであろう店主――結城悠馬の笑顔が脳裏に浮かぶ。


精神的にすっかり参っていた時期、自分を救ってくれた人。

エリカにとって、悠馬もアンリミテッドも、かけがえのない存在だ。


だが今日は、扉に手をかけることなく通り過ぎた。

心配をかけたくなかったからかもしれない。


(……蓮くんには、まだ言えないな)


スーツの袖を引き直し、夕焼けに背を向ける。

その胸の奥で、確実に“何か”が動き出していた。

それは蓮を巡る、新たな戦いの始まりだった。

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