第5話 夜の公園
家にあがり、座敷の障子が開いていたので中を伺うと、おばあちゃんが白い衣装を着て数珠を持って座っていた。
「ただいま」と言うと、おばあちゃんはようやくわたしに気がついた。
「おかえり。今日は早かったな」
「うん、図書館で勉強せえへんかったし」
座敷にはお香を焚いた香りが、かすかに残っていた。背筋が伸びる静謐な匂い。自室へ向かおうとしていた足が止まった。
「玄関で、巫女聞きした人が言うたはったな。看病できんかったけど、お礼言われてよかったて」
おばあちゃんは、白い頭をゆっくり私へ向ける。
「亡くなった仏さんはな、脳梗塞で倒れて一週間入院して亡くならはったんや。息子さんらは、もっといろいろできたんちゃうかと後悔したはったんやけど、仏さんは十分やて言わはった」
よどみなく答えるおばあちゃんの姿からは、なんのやましさも後ろめたさも感じなかった。
「おばあちゃんは、ほんまに死んだ人の声が聞こえるん?」
小さいころから、思っていた疑問をとうとう口にのせた。巫女聞きをする時、わたしはかならず座敷には近寄らないように言われていたので、実際におばあちゃんが死者の声を語る現場を見たことがない。
「ああ、聞こえるで」
ゆっくりとわたしに言い聞かせる声は、低く地の底から聞こえてくるようだった。
「わたしも、修行したらおばあちゃんみたいに、死んだ人の声聞こえるようになるん?」
とてもじゃないが、わたしには聞こえないと今は思っている。
「六花も、なってみたらわかるわ」
おばあちゃんは、そう言うとよっこらしょと言いながら腰を上げ、「今日は、ハンバーグやで」と言って巫女装束を脱ぎ、台所へ向かった。
またわたしは、巫女の仕事なんてしたくないと言えなかった。
*
陽が落ち涼しくなった夜に、わたしは柴犬のカイにひっぱられて県道沿いを小走りに走っていた。日暮れの早い山間の夜は濃く深い。しかし県道だけは、街灯が等間隔にならびアスファルトの道を照らしていた。
「もう、ひっぱらんといて」
あとから、お兄ちゃんが笑いながらついてきてくれる。カイはわたしのことをなめている。お兄ちゃんがリードを握ったら言うこうとを聞くのに、わたしが握った途端、好き勝手に走り出すのだ。
カイは去年、お父さんが番犬代わりに貰ってきた犬だった。職場の人の家で飼っている血統書付きの柴犬の子供だと言って、ちょっと自慢げだった。
貰ってきたくせに、自分はあまり世話をしていない。
お兄ちゃんたちが住む離れの家の犬だから、わたしは世話をしなくてもいいけど、時たまお兄ちゃんの散歩の当番について行く。散歩の当番はほとんどお兄ちゃんでたまにお父さんだ。そして、ご飯をやるのは晴子さん。
うしろからお兄ちゃんの声が呼びかけくる。
「今日は、どこまで散歩するんや?」
「夢幻峡まで、行こう!」
もう息はあがり、へとへとだけど今日はちょっと遠出したい気分だった。御津川と名木川が合流する夢幻峡は、この村の数少ない観光スポット。そのそばにある公園は、夜には誰も訪れない静かな場所だった。
夢幻峡につくと、カイのリードをお兄ちゃんに返した。カイはペロペロとお兄ちゃんの顔をなめていた。お兄ちゃんの高い鼻はわたしだって、なめたことがある。長いまつ毛だって、わたしがキスするとお兄ちゃんは気持ちよさそうにしている。
じっとカイになめられているお兄ちゃんを何も言わずに見ていたら、心配そうなお兄ちゃんの声が聞こえた。
「つかれたんやろ。最近六花元気ないし、夏バテでもしたんか」
わたしは、ふるふると首をふった。
「わたしより、お兄ちゃんの方が心配や。受験勉強大変そうやし」
お兄ちゃんは深夜まで勉強しているから、最近納屋で会っていない。
「そうやな、夏休みは受験の天王山っていうけど、その前から
冗談交じりに言っているけど、本当のことなのだろう。お兄ちゃんは、東京の国立大学を志望している。うちの高校からそんなレベルの高いところを受ける人はいない。
お兄ちゃんは今よりもっとレベルの高い高校にいけたけど、家から一番近い県立高校を受けたのだ。だから、わたしも同じ高校に通える。
わたしのために、そうしたのかどうかはわからないけど。そうだったらいいなと思う。
あたりを伺い誰もいないことを確認すると、わたしはそっとお兄ちゃんに抱きついた。硬い筋肉質の体がごつごつしているから、まるで木にしがみついている気分がいつもする。
お兄ちゃんの腕が、わたしの背中にまわされた。闇の中たったひとつ光る街灯の下でわたしたちは抱き合う。この腕の温もりの中に、ずっと抱かれていたい。
「お兄ちゃんは、東京の大学いったあとはどうするん?」
いままで、怖くて聞けなかったことを初めて口にする。わたしたちが、こっそり付き合い始めてからずっと思っていたことだ。
わたしはいつから、お兄ちゃんのことが好きだったんだろう。小学生のうちは、ちゃんとお兄ちゃんだと思っていたつもりだ。
たまにお父さんが、渓流釣りに行くのにわたしとお兄ちゃんを連れて行ってくれた。その時はお兄ちゃんが遊んでくれて、ただうれしいだけだったけど、普通の兄妹が感じる気持ちなんて知らないから、うれしいに好きがまじってたのかもしれない。
お兄ちゃんに対する曖昧な気持ちがはっきり恋という名前に変わったのは、中学に入ってからだった。はじめて学校という公の場で見るお兄ちゃんは、他の男子の中で陳腐な言い方だけど輝いていた。
わたしのお兄ちゃんが、特別な人になった瞬間だった。
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