序章③

 天佑は春菊の画の方が華文のそれよりも優っていると断言した。

 それを聞いた華文は天佑に対する深い失望と、春菊に対する憎しみの感情をさらけ出す。


「……菜春菊、お前の山水画を見せてみろよ」

「えーとね。最近腕の調子が良くなくて、人に見せれるような画を描けないんだよ」


 思うように山水画を描けているのなら、すぐにだって二人に見せてあげたいし、天佑に納品したい。

 しかし、現状は作画に使う墨が周囲の邪気に反応し、自分の意図に反した動きをしてしまう。

 自分の山水画に芸術性を感じてもらうどころか、墨の動きに不気味がられるだけだろう。


 とりあえず手に持ったままの紙を気にされ続けるのも嫌なので、出来損ないの画を近くの卓に後ろ手で置く。

 その上から重い物でも置けば見られることもないだろうと、すずりを持ち上げるが、ほんの僅かな間に、窓から吹き込んだ突風が宣紙を吹き飛ばした。


「わわっ! なんでー!?」


 部屋の天井付近まで舞い上がった紙を春菊は飛び跳ねて掴もうとする。

 しかし身長が低すぎるため上手くいかない。

 慌てふためいている間に、長身の天佑が軽々と掴み取ってしまった。


 それはそのまま天佑の目の高さまでおろされ、彼の目に晒されてしまった。


 あんな画を見たならば、絶対に契約を打ち切られるだろう。

 そう思ったのだが……。


「……美しい」


 ぽつりと零されたのは肯定的な言葉だ。

 春菊は自分の耳を疑い、茫然と天佑の整いすぎた顔を見上げる。

 邪気を描いたとも言えるこんな画を”美しい”だなんて、この人の感性はどうかしているんじゃないだろうか?


 複雑な気分になる春菊などお構いなしに、天佑はすらすらと画を評する。


「私が依頼したのは竹林に集う貴人達を描いた山水画でした。俗世から離れた理想郷にて余暇を過ごす様子を、一枚の画におさめてもらおうと考えていたのです。それを踏まえ、改めてこの山水画を見てみますと、完全に私の要求に応えています」

「えーと、ちなみに、どの辺が?」

「貴女の描いた七名の貴人達や切り立った崖、数本の松からうっすらと墨が滲み、宣紙の上下左右に流れていますね」

「う、うん」

「それが山水画全体を非常に幻想的に見せてくれているのです。正直、このような表現法を用いて描かれた画を初めて観ました。どのような筆使ふでづかいをしながらば、このような表現になるのです?」

「気がつくとそうなっているだけというか……、何も考えてなんかいないよ」

「ふむ、なるほど? 自分で考えた技法は容易く教える気はないわけですね。間の抜けた顔をしているくせに、なかなかどうして強かではありませんか」

「間の抜けた顔?」


 随分長いこと鏡とは無縁の生活をしていたせいで、現在の自分の顔をあまり把握していない。よく人から「狸のようだ」と言われるから、天佑の目には人外じみた外見に見えてるのかもしれない。


「まぁ、山水画の描き方や貴女の顔面の美醜など大した問題ではありません。問題にすべきはこの画を私に引きわたすかどうかでしょう。もう代金は支払い済みなのですから、これはいただいて良いのですよね?」

「悪いけど、この画を持って行くのはやめた方がいいと思うなぁ……」


 いくら天佑がこの画を気に入ったからといって、そのまま渡すのは危険すぎる。

 邪気の影響を受けたこの紙を神仙でもない者が持っていたなら、きっと良くないことが起こる。

 どうしたものかと考え始めた春菊だったが、部屋の中に居るもう一人の男が急に怒声をあげたので、慌てて壁際まで避難する。


「ふざけるな!!」


 いつの間にか天佑の背後に華文が回っていて、春菊の画を見ていた。


「適当に薄墨を塗りたくっただけの山水画未満の落書きじゃねーか! こんなものに俺の最高傑作が負けるなんてこと、あるはずないだろう!」


 華文は天佑の手から紙を奪い取ると、思い切りよく破り、その場に散らそうとする。

 しかし、その宣紙はただの紙のようには床に落下せず、それぞれが空中で黒く発火した。そのほんの僅かな間に室内は夜闇のように暗くなり、肌寒くなる。

 黒炎は自然に鎮火したが、紙が燃えている間、気のせいとは言い難いほどの不快感があった。


 天佑はいつものように扇で口元を隠し、華文と毛姐姐は目を見開いたまま固まる。

 痛いほどの沈黙が暫く続いた後、最初に口を開いたのは毛姐姐だった。


「…………き、気味が悪い! 今のは何だい!? 蘇華文、あんたが珍妙な術でも使ったのか!?」

「知るか! そこの餓鬼が紙に火をつけたんだろう!」


 よほど肝を冷やしたのか、華文は真っ青な顔のままそそくさと部屋から出て行った。逃げる華文を一瞥してから、毛姐姐は春菊に詰め寄った。


「今ので思い出したよ」

「な、何を?」

「菜春菊、あんた前にもおかしな真似をしていたね? あたしはこの目で見たんだ! あんたがにわとりを描いたら、その鶏から黒いが出てた。あの時は偶然だと思ったけど……。今の現象を見るに、偶然なんかじゃなかったわけだ?」


 毛姐姐はそこで一度言葉を区切ると、覚悟を決めたような眼差しで春菊をひたりと見つめる。


「ここから出て行っておくれ」

「え!!」

「あんたは素朴で気立ての良い童女だとは思ってる。だけど、うちに悪評が立ったら商売上がったりになるんだ。荷物をまとめるくらいは手伝ってあげるから、今夜にでもどっかに行っとくれ!」

「そんなぁ……」


 宿から追い出されるのはかなり困る。

 ここ白都は圭国の中心都市であり、宿はどこもいっぱいだ。

 空いている部屋を探すまでの間、いったい何日野宿しなければならないだろう。


 外を見るとちょうど大粒の雨が降り出したところで、余計に心細い気分になる。

 放心状態のまま突っ立っている春菊だったが、肩に大きな手がかかったことで、我に返る。


「良ければ、私の屋敷に来ますか? 次の宿が決まるまでの間だけでも」


 振り返ると天佑が同情的な表情で春菊を見ていた。


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