あずさと神田伯剌西爾の午後

色葉

短編

「見つけた」

 靖国通りに面した神田神保町の古書店街で、久しく見ていなかった男友達を見かけた私は、彼にそう、声をかけた。

 ワゴンに詰められた特価本を、端から順に、さして面白くもなさそうな顔で繰りながら漁っている彼は、驚いた顔で、素頓狂な声を上げる。

「へ?」

 鳩が豆鉄砲を食らったような、と云う、言葉が頭を過る。

 間の抜けた声と、その阿呆面が一層腹立たしい。

「とりあえず、話すわよ。付いて来なさい」

 あまりに腹が立ったものだから、文句の二つや三つくらい行ってやらねばと、私は未だ状況を把握しきれぬ彼の手首をぎゅっと掴んで、引っ張って行った。

 彼が、サークルに顔を見せなくなって、じき三ヶ月が過ぎようとしていた。

 

「筆働きを見せず、自ら生み出す労すら惜しみながら、する事と云えば部室に蝟集しゲーム三昧か、同輩間での政治劇ごっこ。こんな所で、批評にすらならない、是正を目的とせぬ批判に晒すための文を書くくらいだったら、僕はもう、リタイアさせていただきます。皆さんご苦労様でした」

 今年の二月、まだ大学が冬休みに入る前、年度最後のサークル内批評会において、彼が滑稽な程苛烈な言辞を弄してから、もう三冊も、彼の小説のない機関誌が発行されていた。

 けれどその冊子の厚みは、彼が抜けた分だけでは計算できぬ位に薄くなっており、最早我が母校においてそれなりの伝統を誇るこの文芸サークルにも、崩壊の危機が近づきつつある事が肌で感じられていたのだった。

 先の言動の通り、彼は元来徒党を組める程器用に出来てはおらず、またその云いも時と場を弁えぬ事から、さほど多くの人の共感を誘った様にも思えなかった。

 けれど、捨て台詞ではあれ、彼の指摘した、文筆を疎かにして行うサークル内サークル活動や、狭いコミュニティ内での発言力争いに、嫌気を感じた人間がいた事もまた否定は出来ぬ事実であり、おそらく彼が、皆が努めて顕在化を避けていた諸問題を白日に晒した事によって、文字通りの茶番劇を必死に演じていた人々から、それに付き合う義理と云う名の箍を外してしまったのだろう。

 そのため、部誌の発行を司る編集委員が原稿確保に奔走せねばならなくなり、その一人足る私も、今年度から頓に忙しくなっていたのだった。

 そんな折、気分転換がてら、久しぶりに古本屋街で猟書に勤しもうと出張ったところ、諸悪の根源たるあの畜生が眠そうな阿呆面を晒していたものだから、無性に腹に据えかねて、気付けば、その手をとって歩き出していた。

 小宮山書店の角を、すずらん通りに向かって入る小路の右手側に、地下へと続く階段がある。その手前には『神田伯剌西爾』という看板が下げられていた。

 私は彼を連れてその階段を下り、ガラス格子の戸を開けると、店員の横を通り抜け、奥に設けられた囲炉裏端の一角に陣取った。

 私の隣、四角い囲炉裏の角を挟んで左側に、同行者を座らせると、ようやく落ち着きを取り戻した彼は、しかし困惑の色を隠さぬ口調で問うて来た。

「もう、いきなりなんなんですか、あずささんたら、もう。」

 不平を述べる彼を敢えて黙殺しながら、ブレンドを二杯注文する。

 オーダーを聞いた店員が、カウンター内に戻ったのを見計らって、私は切り出した。

「なんなのもなにもないでしょ。あんたのせいでうちのサークルは崩壊の危機よ、全く」

 男のサークルクラッシャーなんて、聞いた事ないわよ。そう、毒づく。すると彼は、初耳とばかりに身を乗り出した。

「崩壊? あのサークルがですか」

 その、初めて知りました、という態度に、虫酸が走る。

 辞めてしまったサークルに、興味がなくとも仕方はないが、自分が崩壊の引き金を引きながらその無関心さは、私の理不尽な抗議心を刺激するには十分すぎる程だった。

 私は、早口で、半ば捲し立てる様に、我が部の現状を彼に伝える。

 すると彼は、一通りの話を聞くや、口角を吊り上げた嗜虐の笑みを浮かべながら、唾棄すべき汚物に対するような口調でつぶやいた。

「ざま、ないですね」

 ぱしん、と。乾いた音が響く。さして少ない客と、店員の驚いた視線に晒されて、私は、自分がこの同輩に平手打ちを食らわせていた事に初めて気付いた。

 彼は、頬を抑えながら、ばつが悪そうに苦笑し、視線の主達に向かって、何でもないですよ、と弁解していた。

「……ごめん」

 頭を下げる。すると彼も真面目な顔で

「いえ、僕も、言い過ぎました」

 そう、応えた。

「だけど」

 応えて、彼は続ける。

「だけど、僕は、そんな感想が出るくらい、あの場には、もう、嫌な思い出しかありません。それしか、なくなってしまったんです」

 彼はそう云って、ぽつり、ぽつりと、胸の内に隠された激情を、少しずつ、吐露し始めていた。

 その内容は、と云えば、ありきたり過ぎるほど、ありきたりだった。文章において、自らの志向、嗜好と、求められるものの落差、その差を埋めるために節を屈する苦悩、そうしてますます奇形化して行く文、構成、ストーリーライン。

 自らの築き上げた牙城が、他者の「客観的な」批評と云う名の兵器によって門を破られ、陵辱される苦痛、無責任な云いから大黒柱に接ぎ木をするがごとき突貫工事を強いられているかのような強迫を感じ、元の自らの文章をすら、思い出せぬ程の袋小路に迷い込む懊悩。

 そうして、自らの文筆を壊滅に追い込もうとしている当の本人達は、ゲームに興じるために部室を私有化し、文はと云えば、最初の冊子に一度出したきりで、後は「お友達」とともに、いかに座席を多く占有するかに精を出す日々を送っている。

 果たして文芸を志す者達の、正しい居場所がここなのか。こんな場所でよいのか。

 一度きっぱり打ち壊さねば、この膿は出ないのではないだろうか。

 そんな思いが、彼を件の行いに駆り立てたのだという。

 愚行だ。蛮行と云っても良い。理由を聞いたとて、私はその印象を拭えなかった。

 文筆の手前を人に晒す以上、批判批評は常に付き纏うものであり、それに牙を剥いては物書きたるの適正を疑わざるを得ない。

 ただ、それでも、私は彼を憎めなかった。彼の云う部内の現状は、確かに文芸サークルの資質を欠いており、その歪みを、私も、快くは思っていなかったからだ。

「まあ、でも、この結果は、僕も予想外でした。僕は、ほら、口が巧く回らなくて、人を怒らせることもしばしばでしたし、人望もない、友人も少ない、挙げ句の果ては文筆の腕だって三流以下で、そんな僕の戯れ言に、これほどまでの反響があるなんて、思わなかったんです」

 どうせ、またなんか云ってるよ、程度で流されるものだと、思っていたんですよ、僕の発言なんか。

 自嘲的な響きを込めて、彼は呟いた。顔には、疲れきった諦念が浮かんでいる。

 彼の書く文章は、正直な所、人を選んだ。作品世界に肉薄し、魂を削って書き込むような心理の筆致は、それを象徴する風景のメタファーと相俟って、幼さすら感じる瑞々しさと、苛烈なまでの心情吐露に満ち溢れていた。

 それは共感できる者には評価されるが、しかし主に羞恥の問題で、大っぴらに讃美するのがはばかられる性質を持っていたのだ。

 対して、共感できぬ者には、自己陶酔と上辺だけの自虐に富んだ、自慰的小説と見なされがちで、内容に関しては論ずるに値せず、文章のみが語るに足りると、言葉尻を論う不毛な批判が徹底された。

 多分、好悪どちらにせよ、内容に対して抱いた印象については、間違いがないのだと思う。事実、血で書き込むような魂の叫びを文面に叩き付ける事で、彼は自らを慰めていたのだろう。

「気に入らない」

 思わず、呟く。

 え、と。彼が問い返す。

「気に入らないって云ったの」

 彼の話を聞いて、むかむかとしたものが、胸の底から沸き返ってくる。滾る思いは肺から喉を迫り上って、舌鋒鋭き刃となった。

「なに、小説に飽き足らず、現実でまで悲劇ごっこ? 笑わせんじゃないわよ。あんたそうやって、悪い方しか見ないで、なんなの? マゾなの? マゾヒスト? 自己憐憫も大概にして。

 あなたはね、自分に対して、都合の悪い部分にだけ、過剰に反応して、攻撃してるだけ。なんで、自分に嫌な意見ばっかり聞くのよ。おかしいでしょ。あなたと、彼らは違うのよ? 感性なんて違って当たり前じゃない? そんなに、彼らにすら、ほめられないと気が済まないの? 軽蔑している彼らに」

 急に、捲し立てた私に対して、呆気にとられていた彼だけれど、私が一息切ると、きっとこちらを睨み返して、彼も口を開いた。

「だって、そうじゃないか。僕の小説は批判されるばかりで、褒められたためしがない。しかも論ずるのが、枝葉末節も甚だしい、好みレベルの言葉尻だろう。対等に付き合う価値すらないと云われているのも同じじゃないか。

 こんな、紙っぺらに飛び散ったインクの汚れなんぞ、誰が目に留めるって云うんだ」

「私よ」

 彼の言葉を遮って、言葉が出た。

「もう、頭がこんがらがって来て、何を云ったか分かんなくなっちゃったけど、私が一番頭に来てるのは、あなたがもう、何にも書かなくなったことなの。

 あんな連中の云う事を真に受けられて、あなたの小説が読めなくなったら、私が嫌なの、だから云ってるのこの分からず屋!」

 そう、云った。

 云ったそばから、顔が火照る。なに、これ、凄く、恥ずかしい。

 思わず掌で、顔を覆ってしまう。

 指の間から、彼の顔を覗くと、毒気を抜かれたような、狐につままれたような、呆けた面を晒している。

「えと、あの、その、ね」

 しどろもどろになんとか喋りだそうとして、言葉が出ない。

「あ、いや、あの……ごめん、なさい」

 謝られてしまった。しかも、とても素直に、至って真摯に、頭を下げて。

 ええい、もう、ままよ。こうなってしまえばとことんやるしかないじゃないのよ。

「もう、分かれば良いの分かれば。だから、こんな所で燻ってないで、早くなんか、書きなさいよこのぐず」

 恥ずかしさで、物言いがどんどん辛辣になる。けれど彼は、憑物が落ちた様に、はい、はい、頑張ります、はい、なんて繰り返している。

 かたりと、横合いから店員が、ブレンドを私と、彼の前に置いた。その顔を見てみると、なんだかにやにやしているようだ。むかつく、恥ずかしい、むかつく。

 陶器のこすれる音がして、彼が一口、ブレンドを啜った。ゆっくりと、自らを落ち着かせるかの如く喉に黒色の珈琲を流し込んで、またゆっくりと、カップをソーサーに戻した。

「あの、なんていったらいいか、ごめん。分からないけど、でもありがとう。その感謝してる。今まで、そんなこと、云われた事なかったから、その、凄く、嬉しい。」

 たどたどしく、彼が言葉を紡ぐ。その頬は、ほんのりと色付いている。

「けど、さ。もう、あんなことしちゃったからには、あそこには戻れないよ、さすがに」

 確かに、彼の云いも最もだ。発表の場がなければ、いくら読みたくても、それは叶わぬ願いだろう。

 全く、世話の焼ける、本当に仕方ない奴だ、この男は。

「もう、分かった。あんたがそうやって言い訳を続けるんなら、私にも考えがある」

 そう云うと、彼は訝しげな、また不安そうな顔をする。

「私が、ファンとして、責任もって、活動の場を提供してあげるから、覚悟しなさいよ。逃げ道、全部塞いでやるんだから」

 私の宣言に、彼は、悲喜相半ばの表情を湛え、もう一口、ブレンドを啜り始めた。

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あずさと神田伯剌西爾の午後 色葉 @suzumarubase

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