8章 ピンチヒッターでダンス
8章 episode 1 えっ、ダンス?
◆ 恋人になった士郎の願いはダンスパートナーだった。
父は泉谷に感謝の電話をした。娘はバッグを盗まれると思ったらしく、キン蹴り体制に入ったらしいと報告したら、やはり舞美ちゃんは怖がらなかったのかと、受話器の向こうで愉快そうに笑い続けた。
舞美は士郎に電話した。
「ありがとうございました。あの~ 私が連れて行かれそうになったこと知ってますか? 腕を引っ張られたのでキン蹴りしようとしたら、男は捕まっちゃいました」
「知っている、キン蹴りどころか危なかったんだ。何もなくて本当に良かった、ヒヤッとしたよ。怖くなかったのか?」
「ひったくりだと思いました。これって、私を必ず守ると約束した士郎さんのお手柄ですよね?」
「そうだ、ちゃんとガードした。手柄を立てたから恋人にしてくれるか?」
「うーん、役立ってくれる家来が減るのは困るけど、良かったら恋人になってくれますか」
「いいよ、なってやるよ。それから、ニュースで名前は出ないから心配しないでいい。そんなことよりディズニーランドに行こう、早く東京に戻っておいで」
東京へ戻った舞美を待っていたのは士郎の電話だった。ディズニーランドのことだと思ったら、
「ヘルプでパートナーを頼みたい。もう時間がないんだ、ピンチヒッターは得意なんだろ?」
「図々しくないですか、恋人になったばかりでしょ、何を言ってるんです!」
「3日後に湯河原の家で、大使を招いてダンスパーティーがあるんだ。僕のパートナーをお願いしたい。ドレスやシューズは用意する。靴のサイズは?」
「22.5ですけど、そんなことより、ダンスパーティー? ダンスなんて踊れません。フザケないでください!」
「僕がリードするから大丈夫だ。頼む、お願いだ。3日後の14時ジャストに迎えの車を寄越す、頼んだよ、舞美ちゃん」
「フザケンな、士郎のバカ!」
電話は切れた。
家来どもにダンスはどうやるのかと聞いたが、全員がポカーンとした。
図書館で『誰でも踊れる、楽しい社交ダンス』を借りて読んだが、すぐ飽きた。うーん、士郎さんのリクエストに応えたいけど、どうしよう? そうだ、おばさんに相談してみよう。
おばさんは驚いたが、
「士郎ぼっちゃんがダンス? そんな集りは苦手で避ける人だけど、付き合いってもんかねえ。ワルツぐらいは私だって踊れるよ」
ステップを教えてくれたが、舞美は何度も足を踏んづけていた。
「藤井、何をしてる? 合気道か?」、青木がご飯を食べに来た。
「先生、ワルツを教えてくださいよ。舞美ちゃんは勝手に自分で動いちゃってダメです。教えてくれたら定食はタダにしますよ」
臨時ダンス教室が始まった。
「いいか、相手が嫌いな男でも下半身は密着させる。特に太腿だ。そうすると、男が足を出したら女は足を引くしかないだろう。それがダンスの基本だ。ワルツのステップは簡単だ。5分で覚えられる。ターンは男の動きに任せろ、自分で先走りするな。そう、こんなふうだ」
舞美と密着して気がついた。耳元で「少し太ったか? 胸が膨らんだようだ」と囁くと、
「ええっ? 腹筋300を200にして胸筋を鍛えてます。酒井さんから習ったトレーニングです。それよりタンゴは踊れますか?」
「うーん、タンゴは苦手だ。多分、こんな感じだと思うが」
すると、客の学生が
「違う、違う、こうだ。舞美ちゃん、こう踊るんだ」
一人で華麗なステップを披露した後、舞美を外へ連れ出してタンゴを教え始めた。
舞美はすっかり夢中になり、リードされて何度も踊った。男の完璧なリードで舞い踊る舞美を呆れて眺めていた。何事も男のリード次第か…… あの子は今度は何をしようとしているのか? 不安は残った。
「僕はダンス部の近藤だ。君は体が柔らかいな、驚いた。なぜダンスが必要なんだ?」
「断れない人からダンスパーティーのパートナーを頼まれたんです。少しは踊れないと迷惑かけます。明日も教えてくれませんか? お願いします」
「僕はいいが、部員の練習が始まる前の午前6時に来れるか? 4号館の地下ホールだ」
8章 episode 2 鬼の近藤が特訓
◆ 愛した夜を過ごした恋人のように……
霜が降りた翌朝、近藤は待っていた。すでにウォーミングアップを終えた体からは湯気が立ち上っていた。
「すぐ始めるのは危険だ。体を温めてからストレッチだ。君の状態を確かめたいから触らせてもらう」
近藤は舞美を抱きしめて温もりを与え、ゆっくりと手足をストレッチして、美しいホールドで舞美を引っ張り回し、ワルツ、タンゴ、チャチャチャと最後にアップテンポのヴェニーズワルツを教えた。
9時を過ぎた頃から部員が集まり始め、
「部長、その子は新入部員ですか?」
「違う、ピンチヒッターでデビューする子だ」
「舞美ちゃん、ここで脚を上げられるか?」
「はい、バレエを習っていたので180度まで行けます」
「やってみよう、スタート!」
「ここが最大の見せ場だ。そら、脚を上げろ! パートナーに体を預けて見つめ合う。ラストは開脚だ。よし、そうだ。曲目は変わってもこれでいけそうだ」
舞美は決めの場面で見事に頭上高く脚を上げ、開脚も完全にやり遂げた。
「うちの女子でもこんなに脚は上がらない。あとは表情だけだ。いいか、男に抱かれた顔をしろ、僕を愛した夜を過ごした男だと思え! さあ、もう一度」
練習は容赦なく続いた。疲れすぎて視界が霞みフラフラになった舞美は、近藤に体を任せた。
「そうだ、その顔だ。覚えておけ」
このまま帰すと明日は筋肉痛で動けないと近藤は考え、丁寧に舞美の全身をほぐしてやった。舞美は疲れた体をぼーっと近藤にもたれていた。パートナーにさえそんなサポートは見たことがない、鬼の近藤のアフターケアを部員たちは驚いて眺めた。
「君の腹筋は写真で見たから知ってるが、これほどしなやかな筋肉の持ち主とは思わなかった。僕のパートナーになってくれないか? 4年生の夏に最後の大会に出場する。パートナーの君と君の体が欲しい、考えてくれないか」
「ごめんなさい。今は明日のパーティーのことで頭がいっぱいです。近藤さんのパートナーだなんて考えられません」
「僕は諦めないよ。明日はどこのパーティーだ?」
「湯河原の泉谷さんの家です。本当にありがとうございました。食堂で会ったら3回タダにします。失礼しまーす」
スカートを翻して帰った。どこだって? 湯河原の泉谷? 政治家の泉谷か? あいつはいったい何者だ???
迎えの車で夕方には湯河原に着いた。大ホールでは正装の燕尾服姿の男たちと煌びやかなドレスの女たちが談笑していた。
「舞美ちゃん、よく来てくれた。早速だがこれを着てくれ」
鮮やかなロイヤルブルーのドレスとお揃いのダンスシューズに着替え、艶やかにメーキャップされた舞美に、士郎は見惚れてしまった。
来賓の長い挨拶が終わり、生演奏をバックにダンスパーティーが始まった。
「士郎さん、あれから必死で練習しましたがハッキリ言ってヘタです。4種類しか踊れません、まったく自信ありません。ドキドキして倒れそうです。あーあ、帰りたいです」
士郎は「恋人になった初めてのキスだ」、プチュと唇を合わせた。
泉谷はニヤリと笑い、「士郎のダンスなんて見たことないが、2人とも踊れるのか?」
『皇帝円舞曲』の生演奏が始まり、士郎のリードでフロアに踊り出たが、なぜかぎこちなかった。
舞美は「本気で抱いてください、愛した夜を過ごした恋人です」と呟いた。舞美を見つめた士郎は、眼を閉じた舞美が可愛くて本気で抱きしめた。
ぴったり寄り添った士郎と舞美は、音楽に乗って流れるようなステップで舞い続けた。招待客は士郎さんのお相手はどこのお嬢さんかしらと噂した。
「驚いたよ、凄いじゃないか! あと何が踊れるのか?」
「えーっと、ヴェニーズワルツとチャチャチャとタンゴです。ダンス部の部長から10時間の猛特訓を受けました」
士郎は本当の恋人のように腰に手を回して舞美を引き寄せ、頰に優しくキスして頷いた。
「タンゴは決めのポーズをして、ラストは開脚するから驚かないでください」、舞美の言葉に士郎は微笑んだ。
陽気にチャチャチャを踊りあげた士郎と舞美のペアは大きな拍手を浴びた。
やがてタンゴのBGMが流れ、主賓のアルゼンチン大使がフロアに登場した。大使の臨席と同時に『リベルタンゴ』が演奏され、タンゴを踊るペアがフロアに登場したが3組だけだった。
「へえ? 士郎たちも踊るのか、舞美ちゃんに恥をかかせるな、可哀想じゃないか」
8章 episode 3 最高のタンゴ!
◆ ずる剥けの足を隠して踊りきった舞美に士郎は魅かれた。
フロア中央の士郎ペアは圧巻だった。この曲の「自由の賛歌」と「新天地で幸せになりたい」というイメージを、舞美は頭上高く脚を伸ばし、士郎に身を委ねて泣き、そして再び自由を手にする喜びを見事に表現した。会場は拍手の嵐が鳴り止まなかった。
踊り終えた舞美は椅子にへたり込んだ。士郎は腰を屈めて舞美の足に絆創膏を貼っていた。新品のダンスシューズが足に馴染まず、かかとや親指の皮がパックリ剥けていた。
「痛いよ~ 痛いよ~ 誰のせいだ! 士郎だぁー! 家来に降格するぞー」と泣き騒いでいる舞美に大使が訪れて、もう一度見たいとねだった。
「その足では踊れないだろう? 断ろうか」
「いいえ、裸足で踊ります! もっと体をぴたっと寄せてリードしてください。教えてくれた近藤さんはそうでした。それから、私がターンしたら両手を広げて、腕に飛び込んだ私を抱きしめてください。それから、リフトは出来ますか? 私のウェストを両手で持って、ジャンプに合わせて持ち上げてください。こんな感じです。うん、そうです! ハーイ、行くぞー!」
フロアの中央に立った。曲は『ラ・クンパルシータ』に変わった。
イントロのスタッカートは陽気にステップを踏み、次の穏やかに流れるフレーズでは見つめ合い、舞美は爪先だけでクルクルとバレエのように回転し、士郎の胸に戻って脚を上げた。ラストは士郎に支えられて驚嘆の開脚を披露した。割れんばかりの拍手と大使の賞賛を受けたが、さすがに疲れていた。
「疲れたぁ! 痛いよー! ダンスは絶対ヤダぁ! 士郎のバカタレ! 歩けないよー、恋人降格だぁ!」
士郎に抱えられて悪態の限りを叫んでいる舞美を、泉谷は満面の微笑みで迎え、
「よくやった、素晴らしかった! そうかそうか痛いのか、可哀想になあ。さあおいで、抱っこしてあげよう」
士郎の腕から舞美を取り上げた。
「痛いよー! 士郎のバカタレ! 降格だぁー。そうだ、おじさん、お腹空いた、お鮨食べたい! いいでしょう?」
「わかった、わかった。いっぱい食べようね。その前にみんなでお風呂に入ろう」
「山本、舞美ちゃんにTシャツを貸せ。足にビニール袋をかぶせろ。そして今晩はみんなで雑魚寝しよう」
泉谷親子と舞美は遠くで朧に霞む漁火を眺めながら、ゆったりと温泉につかった。士郎は舞美を風呂椅子に座らせて、肩や背中を揉みほぐした。
「おじさん、私の前に座ってください。肩をトントンします」
「ああ、いい気持ちだ。士郎と風呂に入るなんて久しぶりだなあ。舞美ちゃんのお陰だ。士郎、俺の背中も洗ってくれ」
「ふふっ、おじさん、甘えてる!」
風呂から上がると、豪華な鮨が用意されていた。
「ねえ、スケさんとカクさんも仲間にいいでしょう? 一緒に食べましょうよ」
「お姫様の命令だ。そうしよう」
この子はSPに気を遣ったのか、泉谷はわかった。
遠慮しているSPの皿に、舞美は大盛りの雲丹やアワビやホタテなど、めったに食べられない高級鮨をバンバン放り込んだ。山本と中村は驚いたが初めて食べる旨さに勝てず、舞美が放り込む箸を目で追った。
「舞美ちゃんは頑張ったから、もっともっと食べなさい。何が好きか?」
「はい、何でも好きですけど、カニ、イカ、タコかな?」
「カニかあ、湯河原のタカアシガニは上手いよ。朝はカニの味噌汁にしようね」
とろんとした眼で眠そうな舞美のお守りをSPに任せて、数年ぶりで泉谷親子はブランデーを飲み交わした。
「初めて見たが、お前はいつ踊れるようになったのか?」
「パーティーがあると知ってから個人レッスンを受けました。パートナーがいないのでダンスの先生は心配されて、待機されてました」
「ほお、ダンスを習ったか、お前がなあ、信じられんが」
「舞美ちゃんがギブアップしたら先生にお願いしようと考えましたが、湿布薬の匂いにたじろいだ僕に、『本気で抱いてください、愛した夜を過ごした恋人です』と呟きました。それで気がラクになって踊れました。
最高に驚いたのは、あんなズル剥けの足でタンゴを踊り切ったことです。痛そうな顔をしないでとろけるような眼差しで僕の胸に戻って、頭上高くジャンプしました。僕はズル剥けの足にまったく気づかなかった」
8章 episode 4 崩れた城壁
◆ 城壁は崩れたが、士郎は舞美が気になった。
「士郎、お前は初めから舞美ちゃんをパートナーに考えていたが、あの子に事情があって言い出せなかった。だが、どうしてもあの子と踊りたかった、そうだろう?」
「まあ、そんなところです。そして、たった2日間であの子が何をするか知りたかった。父さんが惚れたのはあの子の若さに惚れたのか、あの子の何に魅かれたのか、知りたかった」
「あの子を試したのか?」
「そうです。父さんが言った意味がわかりました。湿布薬の匂いで気づきました。窮地を救った僕に恥をかかせないように猛練習したと知りました。あの子の熱意に負けて、ダンス部の部長が昨日の朝6時から教えたそうです。何とか応えようとするあの子の気持ちがわかりました。でも、彼女は捉えどころがなく、さっぱりわかりません。わかることは、あの子のひたむきな心だけです」
「そうか。僅かな時間で舞美ちゃんをあんなレベルに仕上げたダンス部の男は、今頃は悔しい思いをしているだろう。諦めずに頑張った舞美ちゃんも偉いが、その男もたいしたもんだ。あの子はお前に応えたかったのだろう」
ダンス部の部長か、また家来か恋人が増えそうだ、士郎はひとりごちた。
居間に戻ると布団が5組敷き並べられ、中央の布団にちょこんと舞美が眠っていた。
「何だ、舞美ちゃんはもう寝たのか。可愛いなあ、まだまだ子供だな。疲れたのだろう、今日はハラハラドキドキの連続で、俺も疲れた。舞美ちゃんの隣で眠れるなんて嬉しいなあ。さあ、寝よう」
「先生、私たちは両端に寝かせてもらいますが、よろしいでしょうか」
SPたちは舞美の寝相の悪さを知っていた。
「そうしろ。舞美ちゃんの右が士郎だ。キミたちも早く寝なさい」
寝静まった深夜、異変が起きた。最初に士郎が蹴飛ばされた挙句に布団を剥がされ、寒さに震えて目を覚ました。次に同様の被害を受けたのが泉谷だった。
「この子は寝相が悪すぎる、どうにかならんか! 安心して眠れりゃしない。おい、縛っとけ! そうだ、士郎はこの子が動けないようにしっかり抱きついて寝ろ!」
「とんでもありません。寝ぼけてキン蹴りされます。夜中に悪いが、中村と山本は布団をたくさん持って来てくれ。この子の左右に積み上げよう」
まもなく舞美と両隣の境に布団が積み上げられた。
「お姫様の城を囲む石垣だ。我々家来は石垣の外で寝よう」
これで父子の安眠は守られたと思ったが、まもなく士郎の石垣は崩れ落ちた。布団の山が降って来て起こされた士郎は、すやすやと眠っている舞美を憎らしく思った。舞美の布団に潜り込んで背後からしっかり抱きつくと、なぜか士郎の心は静まり、温かいぬくもりに包まれていつしか眠ってしまった。
冬の夜はなかなか明けない。
ようやく朝日が障子に影を落とした時刻、静寂を破る「フザケンな、士郎!」の声が響いた。
何事かと泉谷が覗くと、舞美は羽交い締めにされたままぐっすり眠っていた。
「何だ、寝言か。子亀の背中に親亀が乗っている、呆れたものだ。甘えてないで起きろ」
少年のような表情で眠っている士郎を起こした。
「朝だよ、舞美ちゃん起きよう、カニの味噌汁だよ。早く顔を洗っておいで」
「はーい、いっぱい寝ました。うわっ、いい匂い!」
大きな朱塗りの椀に山盛りのカニ! 眼を輝かせてパクつく舞美に、泉谷は自分のカニを舞美の椀に入れてやった。ニッコリ笑った舞美の顔はカニクズだらけだった。
お腹いっぱいになった舞美は、SPと縁側に並んで腹筋を鍛えた。士郎が顔を出し、
「君はとんでもなく寝相が悪くて驚いた。隣に寝た父と僕は蹴飛ばされて布団を剥ぎ取られ、眠れなかった。結局、君を羽交い締めに拉致して寝たんだ」
「ひぇっ! ホントですか? 羽交い締め! そんなことしたのか、士郎が? このヤロー、降格決定だ!」
「ディズニーランドへ連れて行くから、降格しないでくれ。家来全員連れて来ていい。どうだ?」
「うーん」
山本と中村はゲラゲラ笑った。
泉谷は上機嫌だった。
「舞美ちゃんのお陰で僕は鼻高々だよ。ありがとう。今度は僕のピンチヒッターを頼みたいな」と大喜びだった。
大使から舞美へプレゼントが届き、チョコをコーティングした「アルファホール」のクッキーに、カードが添えられ、『Gracias(=ありがとう)』と綴られていた。
士郎は舞美を送って行った。海が見える高台に車を停め、耳元でささやいた。
「見てごらん、もうじき向こうの山に陽が落ちる。昨日は本当にありがとう、君の猛特訓に感謝する。感謝のキスをしていいか? 愛した夜を過ごした恋人のように」
「私も感謝のキスをしていいですか?」
眼を閉じた舞美に、僕が先だと士郎は舞美を包んだ。
ダンスの続きのように、寄り添って熱いキスを重ねた。沈みゆく陽は夕焼けのカケラを残して、海に堕ちて行った。
8章 episode 5 舞美の恩返し
◆ 近藤は競技ダンスにぴったりな舞美のしなやかな肢体に惚れた。
学年末試験が終了し、食堂に顔を出した舞美におばさんは、
「先生と坊ちゃんから電話をもらったよ。よく頑張ったって驚いていた。それからね、この前のダンスが上手な学生さんから伝言を預かってる。振り付けがどうとかと言ってたけど」
舞美にメモを渡した。
そのとき、青木が数人の学生と入ってきた。
「おばさん、こいつらはゼミの学生だ。卒業コンパの前にメシを食わしてくれ。腹ペコで飲まれたんじゃ、たまらんからな。藤井か、どうした? ダンスパーティーはうまく行ったか?」
「お世話かけました、ありがとうございました。何とか切り抜けました。私の写真を見てくれますか」
青木の返事の前に学生が見たいと騒ぐので、士郎が送って来たパーティーの写真をテーブルに並べた。
「ありゃー、本当に舞美ちゃん? 信じられない、サーカスみたいだ!」
舞美が高く脚を上げた瞬間、華麗なジャンプと見事な開脚の写真を見て、学生は素っ頓狂な声をあげた。
写真を見た青木は、舞美はダンス部のあの男に食らいついて習ったのだろう。そんなことで俺は驚かない、驚かされるのは慣れっこだ。あいつが必死でダンスを覚えたのは、誘拐を阻止した士郎に報いるためだろう。力になりたかったのだろう。
青木は順を追って写真を見たが、途中から士郎の表情が変わっていた。曲がタンゴになると士郎は舞美に完全に惚れてしまったようだ、そう見えた。
艶ぽい表情で士郎の胸に抱かれているが、藤井の心は違う。次のステップのタイミングをはかっている、そんなやつだ。踊れなかったあいつが、たった1日で恥をかかせないだけのダンスを踊ったのか? まったく信じられなかった。それは壮絶な練習だったろう。待てよ? ダンス部の男は舞美の必死さに惚れたのか? 青木は酒を飲まずに悪酔いした。
「あの~ 近藤さん? 藤井です。ありがとうございました。何とかお相手の方に恥をかかせずにすみました」
「君のダンスはネットで見た。大使館の公式ホームページだ。少し遅れたパートがあったが、ほぼ合格だ。よく頑張った、さすがだ。それで、頼みがある、君の時間を10時間だけ僕にくれないか?」
「はあ? どういうことでしょうか」
「次年度の振り付けを考えているが、君は指示どおりに踊ってくれないか。それを見ながら修正して完成させたい。練習は5時間の2セットだ。あのブルーのドレスはあるか? なかったら用意する。頼んだよ」
「はあ?」
約束の日時に4号館ホールへ行ったが、待っていたのは近藤だけだった。難しい表情で楽譜を見せて説明を始めたが、舞美はさっぱり理解できなかった。
「すみません、わかりません。動きながら教えてくれませんか?」
両手で顔を覆って考え込んだ近藤は、舞美の手を取りホール中央へ踊り出た。やがて、
「そうだ、グッドだ。このまま続けて。ここでターン、よしっ、リフトでアラベスクだ」
何度も動きを止めてメモした。舞美はパーティーで痛めた足が再びパックリ剥けていたが、近藤は気づかないふりして続けた。「次は3日後だ。頼んだよ」
3日後の午前8時、近藤は舞美に入念にストレッチをしたが、足はダンスシューズで踊れる状態ではなかった。サラシを両足に固く巻いてやり、「これで踊れるはずだ。さあ始めよう」
近藤は途中で幾度かストップして、振り付けを修正した。
「このパートは君だったらどう踊る?」
「はい、こうします」
舞美はターンしながら右脚を優雅に回り込んで高く蹴り上げた。
8章 episode 6 3人の男たち
◆ パートナーの君とそのしなやかな体が欲しい。
正午、全部員が集合した。休みなしの練習で舞美が疲れきって床にへたり込んだとき、
「完璧だ、よし、それで行こう! 見ていろ、新しい振り付けだ。舞美ちゃん、ラストだ、頑張れ!」
舞美の全身を丹念にほぐして、
「あのドレスを着てくれ」と言った近藤は、いつの間にかダンススーツに着替えていた。舞美を抱きしめて「僕たちは恋人だ」と囁いた近藤に、舞美はうなずいた。
2人は息があった素晴らしいステップを見せ、4回の高難度ターン、ターンしながらのアラベスクを華麗に決め、ラストは高く美しいリフトの後、近藤の胸に堕ちた。部員は呆然として見惚れた。
拍手ひとつない静まり返ったフロアで、無言のまま見つめる部員たちに、
「女子部員、恥ずかしくないか、今まで何をしていたんだ! 素人の足元にもおよばない君たちは甘すぎる! 君たちがパートナーでは振付けを考える気になれなかった。彼女のように踊れなければ、即刻やめてもかまわない。競技ダンスは美容体操ではない。まずブヨブヨの体を鍛え直すことが基本だ。
はっきり言おう、彼女にダンスを教えたのは今日を入れて、たった20時間だ。男子も女子も素人に負けて恥ずかしくないか! この悔しさがわからないなら、ダンスなんかするな! 時間の無駄だ」
部員たちは目を泳がせた。
「舞美ちゃん、僕に思い出をくれないか。タンゴを踊ろう。覚えているか?」
「はい、大丈夫です」
タンゴのリズムに乗って、近藤と舞美は同化したようなコンビネーションで踊り舞った。
近藤はラストポーズの舞美の首筋に永いキスをした。「パートナーの君とそのしなやかな体が欲しい」、部員にため息が漏れた。
疲れて部屋に戻ると、士郎から電話があった。
「士郎だ、大学の試験は終わったんだろう。今から食事に行こう」
「ごめんなさい。最高に疲れてボロボロです、転がって寝たいです。ダンスを教えてくれた近藤さんに2回目の恩返しに行きました。足の皮がズルリと剥けて消毒して泣いてます。痛いよー、もともとの原因は士郎だ、士郎のバカタレー!」
「何だって、恩返し? ハタオリでもして来たのか?」
「近藤さんからダンスを10時間習ったんです。だから。私の時間を10時間欲しいと言われて、5時間の2セットで恩返しに行きました。振付けのダミーです。もうクタクタです。近藤のバカー!」
士郎は舞美が可愛くて笑い出した。
「じゃあ、明後日はどうだ? 9時におばさんの食堂に集合だ。家来がたくさん来てもいいよ」
「運動部の家来は合宿中ですが、デクノボーが来てもいいですか?」
「誰だ、デクノボーって?」
「水泳の酒井さんです。全日本のため今日から行徳の親戚に泊まってます」
「いいよ、恋人なんだろう?」
「あれはジョークです。酒井さんもわかってます」
当日、舞美の家来は剣道部の田中が参加できなかったが、行徳駅前で酒井を拾って出発した。引率の教師気分で士郎は楽しかった。舞美たちがマウンテンコースターに走り去ったとき、酒井は士郎に頭を下げた。
「泉谷さん、僕は軽率でした。申し訳ありません」
「何の話か? 舞美ちゃんを恋人と公言したことか?」
「いいえ、ライフセーバーしていたときのキン蹴りです。あの男を見つけた藤井が何をするかわかってました。沖へ泳ぎ出す藤井を追いましたが、あとは予想通りの展開でした。あのとき藤井を止めていたら、誘拐される危険はなかったでしょう。申し訳ありませんでした。僕は間違っていました」
「酒井くん、キン蹴りがなかったとしても、母親に飽きたあの男は娘か金を要求したはずだ。過去に3回の余罪が判明した。中学生で拉致された子がいるが、施設で今も療養中だ。痛ましい話だ、あってはならない事件だ。あのキン蹴りで母親が廃人になる前に救出できた。不幸中の幸いだと考えたほうがいいだろう」
「キン蹴りしなかったら、母親は幸せに男と暮らせたと藤井は苦しんでました。あの男はそんな過去を持つ男だったのですか。キン蹴りを止めなかった自分をずっと責めていました。そうですか、少しは気持ちが晴れました。僕のバディを守ってくださった泉谷さん、本当にありがとうございました」
酒井は再び頭を下げた。大きな体に似合わず泣いていた。
8章 episode 7 酒井と士郎
◆ ディズニーランドは人を幸せにする?
「他言しないで欲しいが、あの男は陰茎と精巣損傷だ。舞美ちゃんが天罰をくだした。それを知ってからは恐ろしくて近づけない。酒井くん、泣いている場合じゃないぞ、タツミであの子がどんな声援をするか楽しみだ。ところで、君はああいう乗り物は苦手なのか?」
「そうです。激しいアップダウンや回転する乗物はダメです。気持ち悪くなります」
「僕もそうだが、そんな立派な体格でもそうなのか。僕は舞美ちゃんのお陰で回転しても気持ちが悪くなることはなくなった。この前、踊ったんだ。これだ」
士郎はSPに撮らせたケイタイの動画を見せた。
「ヘェ~ あいつが? ホントですか」
「10時間の猛特訓で、見事に踊ってくれた」
「おっ、おっぱいが少し膨らんだ。胸が大きくなるトレーニングを教えたんですよ。『1位になったら恋人だぞー』と叫んだのがニュースで映って、僕は女から振られました。今回はレコードを狙ってます。あいつに何と言うかと考えるだけで楽しいです。癪にさわるけど可愛いヤツです。寝るだけの女なら藤井じゃなくてもいいですから。泉谷さんはあいつの恋人ですか?」
「家来からやっと恋人になったが降格すると脅かされ、今は機嫌を取っている。実は父も恋人だ」
「はあ? 元総理が恋人? そうか、あいつらしいな!」
「タツミに応援に行ってもいいか? 同じ恋人同士だ」
2人は大声で笑った。
「何がそんなにおかしいのです?」
「舞美ちゃん、面白かったか」
「はーい、あのパスポートは待ち時間なしでスイスイ乗れる魔法のチケットで驚きました。とっても楽しかったです。士郎さん、ありがとうございました!!」
舞美は士郎の首に抱きついた。これだもんなあと、士郎と酒井は顔を見合わせた。
「昼には少し遅いがバーベキューにしよう。腹いっぱい食べてくれ、遠慮はなしだ」
家来たちは、歓声を上げて狂ったように食べまくった。見ているだけで士郎は楽しかった。
「藤井、早く食わないと固くなるぞ、そこの肉を寄こせ」
酒井が舞美の肉を取り上げた。
「オマエはマイペースだろう。そんなんじゃ社会の厳しい生存競争に負けるぞ、アホ!」
「ドロボー、返せ、とっておきの大好きな牛タン返せー!」
士郎はそんな会話を聞いているだけで楽しかった。舞美はいちばん好きなものを最後まで取り置く癖があった。本当に食べたい物を最後まで残して楽しんでいると、酒井に全部取られてしまった。それが士郎に面白かった。
夕暮れになった。イルミネーションが煌めく幻想的なおとぎの世界に、スゲエー! みんなは目を奪われた。
「ねえ、士郎さん、タンゴやりましょうよ。一生の思い出になりそうです。ちょっとぉー 見てちょうだい。私たちダンスするからびっくりして腰抜かすなよ!」
「腰抜かすのはオマエだろ、踊れるわけねーだろう! 見てやるから早くやれ」
尻込みする士郎を引っ張り出して踊り始めた。体が覚えていた、ぴったり合ったステップで、華麗なアラベスクを繰り返し、ラストは士郎の胸に崩れ落ちた。立ち止まった見物人から大きな拍手が沸いた。家来は呆れて口をポッカリ開き、
「藤井、お前はタヌキか? オレたちを化かしてるのか?」
「何言ってるのよ、みんなが来てくれたから、ありがとうの気持ちで踊ったのに、タヌキとは何だ! 乙女心がわからないのか!」
楽しい1日が終わり、それぞれの住まいの近所で降ろして、士郎は舞美を送って行った。
「舞美ちゃん、とっても楽しかったよ」
「本当ですか? 大人の士郎さんは無理したのかなあって」
「いや、忘れていた楽しいことをいっぱい思い出した嬉しい1日だった。はい、プレゼントだ」
士郎が渡したのはペンダントをした大きなミッキーマウスのぬいぐるみだった。
「ヒャー、嬉しい! 欲しかったんだぁ。あのー 士郎さん、たくさんお金使ったでしょ、ごめんなさい」
「気にしなくていいよ。僕は学生じゃない。働いているから君たちにご飯を食べてもらうくらいの金はある」
舞美の心遣いが嬉しかった。
酒井から、バイト代全額で父親に将棋の駒を贈ったことを聞いていた。今まで知り合った女たちは物をねだり、高級ホテルに泊まりたがったが、まったく違う女に戸惑いながらも、次第に魅かれて行く自分に気づいていた。
「楽しかったよ、お休み」、プチュして舞美を降ろすとミッキーを背負って大きく手を振った。
8章 episode 8 酒井は世界へ
◆ 酒井はシドニーの世界水泳へ。
「士郎、子供の引率で疲れたか?」
「懐かしい楽しい時間でした。水泳の酒井選手が来ました。あのキン蹴りのことで、知っていながら止めなかったと悔やんでいました。自分の浅慮だった、バディを危険な状況に追い込んで申し訳なかったと謝りました。若さが持つ純粋さと危うさが羨ましく思えました。彼は舞美ちゃんのナイスバディです。今日は彼女に引っ張り回され、今まで僕が見ようとしなかった世界、見たことがない世界を知りました」
「ふーん、そうか。兄たちは早く結婚したが、お前はいくつになる?」
「もうすぐ32です」
「そうか、そんなになったか。奈津子が出て行って何年になるんだろう」
「父さんはなぜ再婚しなかったのですか?」
「ああ、あの頃は妻を愛するどころか、誰も愛してなかった。自分しか見えてなかった。あれはじっと我慢していたんだなあ。それからいろんな女と出会ったが、今でも奈津子が忘れられない。次が舞美ちゃんだ。お前はあの子とマトモにキスぐらいしたか?」
「いえ、それは……」
「ほお、お前でも赤くなるのか。俺は初めてお前の幸せな寝顔を見た。頑張れよ」
いつも不機嫌な表情で口を開けば理屈ばかり並べる士郎が、顔を赤らめることがあるのかと泉谷は愉快に思った。
翌日、酒井は水泳部の沢田の尽力で早稲田大学のプールで体をほぐしていた。酒井のダイナミックな泳ぎに部員たちは驚き、明日から始まる全日本にみんなで応援に行くと決めた。
酒井は舞美にケイタイし、
「藤井のお陰で早大プールで最後の調整がやれたし、東京へ来たらいつでも使っていいと監督さんが言ってくれた。礼を言うぞ」
「へーっ、それは私じゃありません。家来の沢田です。いつも予選敗退の情けないやつですが、いいやつなんですよ。でも良かったです、家来が役に立って」
「ふーん、てっきりオマエかと思った。『最愛の酒井さんにプールを貸してください!』と涙ポロポロで頼み込んだと思ったが、違ったか」
「バーカ、そんなこと言うか。くだらないこと言わずに早く寝たらどうなのよ」
「オマエの貧弱なポロリでも思い出して寝るか。明日を楽しみにしてるぜ、ナイスバディ、お休み」
夏に行われる世界水泳選手権代表選抜を兼ねた「全日本水泳選手権」は朝から熱戦が続き、応援の早大水泳部に混じって士郎と舞美は観戦していた。どこから持って来たのかメガホンを手にした舞美は、
「マジメに泳げぇー! 流すなーぁ、ドンケツはキン蹴りだーぁ、覚悟しろ!」
「流してないぞー、調子が悪いんだ、モンクあるかっ!」
「悪いのは頭だけにしろー! 溺れてるぞー」
「大丈夫か、酒井くんは調子が悪いのか?」と士郎は心配したが、
「あれはウソ! 調子悪いときのフォームじゃないです、完全に遊んでます。明日はレコードタイムだと思います」
大会2日目、酒井は平泳ぎ200mで優勝し、残るはレコードが期待されるバタフライ決勝だ。決勝に登場した酒井は、
「1位になったらシドニーへ連れて行くぞぉー! 覚悟はいいかぁー!」
「ヤダよー、そんな遠いとこへは行かないよーだ!」
「レコードタイムならヨメに来いよーぉ! 忘れるなー!」
「バーカ、そんなムコさんはいらないよーだ!」
このやり取りを各テレビ局は面白がって収録していた。
決勝レースが始まった。スタートから酒井は圧巻の泳ぎを見せて、見事にレコードに輝いた。応援し続けた舞美がペタッと通路に座り込んだら、酒井は大声で「Nice buddy, thank you!」と喚き、右手を天に向けて吠えた。
レース後のインタビューで、「応援してくれたあの方と結婚されるのですか」と質問された酒井は、
「世界選手権の結果次第です。ナイスバディをヨメさんに欲しいが無理でしょう。みなさんからもヨメになれと言ってくださいよ、お願いします」
何とも人を食ったコメントを残した。
「日本新記録おめでとう!」と讃える士郎に、
「いやあ、藤井にいいとこを見せようと思っただけです。藤井、すごいだろう?」
「うん、すごい! すごい! だけどヨメにはならないよ」
「あれはリップサービスだ。みんなが今度は何を言うかと期待するから、プロポーズしますと言っただけだ。気にするな」
「ふう? テレビで流れたらどうするんだ? 恥ずかしくって違う人のヨメになれないよー」
「バーカ、心配するな。もらってくれる人がここにいるだろ」
士郎は聞こえない振りをした。
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