3章 東京の恋人

3章 episode 1 市村の不安


◆ 市村は青木に自分と同じ陰を見た。


 寮に戻ると、市村と寮長が話し込んでいた。9月からスタートする勉強会のことだろう。市村の表情は少し明るくなったようでホッとした。

「市村先生、元気になってくれましたか?」

「うん、ありがとう。藤井くんのお陰だ。熱を出して医者を呼んだと聞いて驚いたところだ。もう大丈夫なのか、無理するなよ」


 二人は寮内では互いの言葉に気を配っていた。あくまでもモト家庭教師と教え子の立場を守っていた。

「はい、青木先生が病院に連れて行ってくれました。貧血気味だそうですが大丈夫だとお医者様から聞きました。すみません。市村先生にまで心配かけて」

「気にするな。ところでキミは田舎に帰るのか?」

「はい、明後日に帰ります。お土産をたくさん持って戻って来ます。先生は早く元気出して頑張ってください。失礼します」

「じゃあ、元気な顔を9月に見せてくれ。とても世話になって悪かった、感謝している。ご両親に宜しくお伝えしてくれ」


 翌朝、ドアポストに市村のメモが入っていたのに気づいた。

『この前、舞美のお持ち帰りだと錯覚した青木助教授のことがわかった。お前は知ってたか?

 20年近い昔だが、彼は舞美の家に近い官舎に住んでいた。父親はエリート官僚で、まもなく郊外の新築マイホームに引っ越す予定だったらしい。だが、政界がらみの汚職事件に巻き込まれてスケープゴートにされ、自ら命を絶った。父親の死後、母方の苗字を名乗って人生をリセットした。そういう男だ。


 暗かったから青木さんの顔はよく見えなかったが、俺と同じ屈折したドロドロしたものを引きずっているように感じたから気になった。彼に悪意は持ってないがお前とは住む世界が違う、近づかないほうがいい、お前が不幸になりそうな気がする。


 俺はお前の恋人ではないが、俺の大切な生徒が不幸になるのは見過ごせない。もし彼が迫って来たら、何も知らない清純な女子大生を装い、震えて泣きながら逃げ出せ! よく頭に入れておけ、無駄にならないはずだ、わかったか!

 お前がバージンでないとわかった途端に、本性を剥き出して遠慮なくお前を蹂躙するだろう。この本性とは性欲ではない。幸せに育った、あるいは幸せに見えるものを破壊したい欲望だ。

 青木さんには、埋めようがないほどの社会や世間に対する怨念を感じた。それは俺の比ではない。彼には気をつけろ。嫉妬ではない、誠心誠意、俺のアドバイスだ。お前を不幸にしたくない。汚れて堕ちて行くのを見たくない。また会おう。坊やをせいぜい惑わしてくれ、俺の優秀な生徒さんへ』


 舞美は帰省した。

 戻って来た舞美を父は涙目で見つめた。母は意外にライトで、美味しい料理をたくさん用意した。

「さっきのパパの目つき見た? まるで恋人を見つめるようだった。心配してたのよ。舞美には言わなかったけど、プリンスくんの弁論大会にパパは行ったのよ。そうよね、パパ」

「そうだ。南条くんから電話をもらったから行ったまでだ。舞美の代わりに僕を招待して、いいところを見せようと思ったんだろう」

「それでどうだったの?」

「面白くない男だ、優勝したよ。『未来医療の目指すもの』というタイトルで、人工知能や医療ロボットや遺伝子のことを偉そうに論じていた」

「パパ、南条くんに焼いてない? かっこいいからでしょ」

「そうだ悪いか、なんだあの男は。背が高くて顔もいい、そのうえ頭もいいなんて許せない男だ。どうせ女医の母親の入れ知恵だろうが、まず医大に合格することが先決だ。舞美はあんな男と付き合うのはやめなさい!」


 二人は大笑いした。父はやっぱり焼いてる、そう思った。母がこっそり耳打ちした。

「男の嫉妬はたちが悪いから、プリンスくんにパパがむくれてるって教えたほうがいいわ。あの子は賢いから気に入られるようにするはずよ。男の子と言ってたのが、いつからか男と呼ぶようになったから、舞美を奪われるかも知れないって心配してるのよ」



3章 episode 2 リュウが好き?


◆ 父の機嫌を将棋でごまかした南条は、有段者だった。


 南条に電話した。

「帰って来たの。弁論大会で優勝したんだって、おめでとう! ねぇ、会えるかな?」

「会いたい、どこで会える?」

「その前に聞いてね。リュウが素敵だからパパが焼いてるの。付き合っちゃダメって叱られたの」

「えーっ、ちゃんとしてるとこを見せたいと思って、弁論大会に来てもらったけどダメかぁ……」

「パパの機嫌を直して味方にする考えがあるんだけど、聞いてくれる? リュウは将棋できる?」

「将棋? 大丈夫、任せて! 中学は将棋部の部長で全国大会まで進んだけど、何の話? そんなことより早く会いたい、抱きたいよ。まさか舞美は東京で恋人ができた?」


「ふふっ、残念でした。男子禁制の女子寮に住んでるからエッチはなしよ! パパの機嫌を直してくれたら会うわよ。それまで待ってね」

「そんなあ、舞美の裸がちらついて辛いよ、会いたい!」

「明日の土曜日、私んちへ来ない? 最近パパは将棋を習い始めたけど、初心者のくせに屁理屈ばかり言って態度もデカイから、相手してくれる人がいないらしいの。本を読んで研究してるけど、相手してくれないかなあ? リュウは将棋をほとんど知らないってパパに言うけど、出来そう? うまく行ったらご褒美をあげるわ、どう?」

「自信ないけどご褒美は欲しい、絶対欲しい! うん、やる!」


 翌日、南条はやって来たが舞美の父の険しい視線にたじろいだ。部屋に入った途端、哀しい眼をして舞美を抱きしめて離さなかった。南条がやっと落ち着いたので、怪しまれないように部屋のドアは開けたまま大きな声でマジメな話をしながら、本当に伝えたいことはメモに書いた。足音がして父が来た。


「南条くん、この前の弁論大会は素晴らしかった、見直したよ。ゆっくりして行きなさい」

「パパが将棋を始めたって言ったら、南条くんが習いたいって。教えてくれる?」

「いや、僕はほんの初心者だから教えることは何もないが、それでもいいのか」

「あのね、南条くんは駒を並べるくらいしか知らないって。受験勉強の息抜きに教えてあげてよ」

「うーん、そうか。何を教えればいいのかわからないがやってみるか」


 それからみっちり2時間、二人は将棋盤を睨んで対峙していた。教えて貰った礼を述べて帰える南条を途中まで送って行った。公園の大きな木の陰で南条は切ない眼でキスした。膨らんだアレが舞美の腹にぶつかった。アレを優しく掴んだら、うっと小さく呻いたが、振り向かないで舞美は家に戻った。


 母がこっそり近づいて、

「プリンスくん、本当は将棋が強いんでしょ。下手な振りしてるけど、パパをごまかす技を持ってるみたい。あの子、頭いいわね。市村さんも頭いいけどまた違った頭の良さね」

 

 翌日、南条の訪れを待っていた父は、

「昨日は面白かった。君に教えているうちに僕は幾つかの手を学んだようだ。今日はそれを教えてあげよう。舞美との話が終わったら客間に来てもらえるか、待ってるよ。舞美、昨日も会った南条くんに今日も話があるのか? さっさと解放してやれ」


 母は笑いながら、

「南条くんと舞美は可愛い恋人たちなの。会っているだけでいいのよ。あなたにもそんな時があったでしょう? わかってあげましょうね」

 ふーん、舞美はその言葉に驚いた。あなたという表現が生々しかった。今の母の心には父はいないのか? それとも最初からなかったのか? 本当の心はどこにあるのだろうと考えたが、わからなかった。


 南条は部屋に入った途端にすり寄って来たが、ダメ、ここは危険すぎる! その手を払った。耳元で囁いた。

「パパを安心させてね。明後日には抱かれたいから、お願い、うまくやってよ」


 あまりにも客間が静まり返っていたが、母から教えてもらってロールキャベツとポテトサラダを作った。父が上機嫌で台所へ入って、

「やっと初心者同士の決着がついたよ。南条くんは惜しかったなあ、最後の一手を間違えた。だが彼は僕とは違った攻め方をする。若い子はいいなあ、教えれば教えるほど強くなって行く。あの子はいいカンをしている。来週も来てくれるそうだ」



3章 episode 3 遊びの抱擁


◆ 幸せな夏休みが過ぎて行った。


 帰ろうとする南条を引き止め、「舞美が作ったそうだ。良かったら食べて行かないか」と誘い、4人は食卓を囲んだ。南条は舞美を見て頬をポッと染めながら夢中で食べた。

「南条くんはいつもお母様が作ったフランス料理を食べてるんでしょ? こんな普通のおかずが美味しいの?」

 母のえげつない質問に、

「いえ、母は診療で時間が取れず、いつも事務のおばさんが買って来るスーパーやコンビニの惣菜で、休みの日は外食か出前です。本当に美味しかったです。ごちそうさまでした」

 箸を置いた南条は涙目だった。母は可哀想に思ったのか、こんな食事でよかったらいつでもいらっしゃいと、本気になっていた。


「人様の息子さんに対して言うのは失礼だが、僕は南条くんのような息子が欲しかったなあ。一姫二太郎と云うだろう。いつか君と酒を飲み交わしたいものだ。男の子はいいなあ」

 将棋の相手が出来た父はすっかり南条を気に入ったようだ。呆れてしまって南条を大通りまで送って行った。

「どうだった? 少しは雪解けかな? いつ抱かせてくれるんだ、待ってらんないよ」

 口を尖らした南条に、

「明日は出かけるから明後日かな。お花の稽古の帰りだったら怪しまれないと思う」

「あーあ、やっとか! ふーっ、待ってる」


 お稽古用の花を持った舞美と南条は会った。

 もう我慢できないとラブホのエントランスで囁き、名画のレプリカがずらりと飾られた部屋へ誘った。

「舞美が喜びそうな部屋を選んだ。中世ヨーロッパの王宮だって」

 貴族のベッドルームなのか、ベッドはいい匂いがするレースの天蓋で覆われ、ロミオとジュリエットのような服一式とティアラが用意されていた。面白がって着替えた舞美に、

「とても綺麗だ! 僕はお姫様の舞美が欲しい!」


 衣装を脱がせてコルセットを解き、何も着てない舞美がいちばん好きだと言って、体中に激しいキスを始めた。キスだけなのに何だか優しいものに包まれているようで、舞美は甘えて抱かれた。ふーっと大きく息を吐いて重なった。舞美の少し奥で何度かぶつかってピリッと痛みが走ったが、南条は舞美を埋め尽くしてしまった。キスしながらゆっくり動いて、小さな悲鳴の後、二人は静かになった。


 ほんわりまどろんでいる舞美に、

「東京で淋しかった? 会えないから辛かった? 僕はそうだった。舞美が他の男に抱かれている夢を何度も見て目が覚めた。でも今は憧れの舞美が僕のものだと思うと、すごく幸せだ。可愛い舞美! 聞いてくれるか、僕は東京の医大に行こうと思っている。そしたらいつも傍にいられる。いいだろう?」


 えっ、舞美は現実に引き戻された。そんなぁ、きっとややこしいことになりそうだ。お母さんは知ってるのと訊くと、

「言ってない。名古屋大と名古屋市立と愛知医科大だと思い込んでいる。僕は東京に行きたい! 舞美といつもデートして抱きたいんだ」

「ちょっと待って、父には東京の大学を受験するって絶対に言っちゃダメよ。警戒してムクレそうだわ」

「うん、わかってる。嫌われそうだよね。でも舞美が好きだ。離れたくない、大好きなんだ!」


 南条は舞美を離さず、何度もプリンスとプリンセスになった。市村の舐め回し吸い尽くして、メチャクチャに虐めるテクよりも、ノーマルな南条に抱かれる方が心も体も温かくなると舞美は思った。抱かれた後も何だかほんのりと温かい。

 舞美のリクエストには「ここかな? こんな感じ? このくらい? 痛くない?」と、南条は優しく応える。額の髪をかきあげて、もっと顔を見せてと微笑む。胸が少し大きくなったねと掌で包み込んで嬉しそうに呟く。秘部に触って、お姫様は僕を待ってるんだよねとキスする。そんな南条が好きになる気がして不安になった。



3章 episode 4 夏の終わり


◆ 楽しかった夏休みと新学期の狭間。


 父は南条の将棋が上達するのを、自分の指導のせいだと思い込み、深夜まで将棋の本を読んで、教えようと張り切った。そのお陰で母と舞美は自由に外出でき、母は何だか華やいで見えた。舞美の帰りが遅くてもハミングしながら食事の支度をした。

 南条は土日の午後、「教えてくださいますか」と上機嫌の父に挨拶して2時間ほど碁盤に向かい、夕食を食べて帰った。


 南条の母が泊りの用事で医院が休診になったとき、南条の部屋で抱き合った。

 綺麗好きの南条の部屋はゴミひとつなく、洗濯したてのシーツに包まってまどろんだ。とろけるような眼差しで、

「寝ちゃったの? 気持ちいい? 僕を好きになってくれた?」

 いつまでも抱きしめていた。南条と一緒だと心が気持ちいい、どうしてだろう?

 大輔のように失神するほど虐めたりしない南条は、「ここは感じる? もっと優しいほうがいい? ここはダメ?」と、いつも気づかう。裸でアグラをかいた南条に舞美は乗ったまま、テイクアウトのハンバーガーを頬張ったら、なぜか美味しかった。南条は背後から舞美の胸を触りながら、「舞美を食べたい、いいよね」と舞美の目を覗き込んだ。


 開いた脚の内側をじわじわとキスしながら、交差点へと迫ってくる。少しずつ近くなる熱い吐息に、切なくてじれったくて、舞美は思わず声をあげた。大きく膨らんだピンクのペニスに帽子をかぶせてスタンバイした。「いい、大丈夫?」と優しく訊きながら返事を待たずに、するりと進入して激しく突き続けてなかなか止めない。真っ赤な顔をして限界に耐えていたが、

「あーあっ、もう我慢できない」と呟いて大きく突いて、ガクンと果てた。


 南条と会って少し遅くなったが母は気にもせず、夕餉の支度で忙しいはずなのに誰かと電話していた。

「お腹すいたぁ。ご飯は何?」と聞くと、「パパは今日はご飯いらないって、だからこれで我慢してね」とどこかで買った惣菜を並べた。母は何だか最近おかしいと感じた。夜遅く話し声が聞こえた。誰だろうと耳をすますと母が小声で長電話していた。


 南条といるとすごく落ち着くが、受験生の足を引っ張る気がして、「しばらく会うのを我慢する?」と言ったら、「イヤだ! 絶対イヤだ!」と、大きな子供のように甘えた。リュウは母親に甘えたことがあるのだろうか? そんなことを考えた。

 優しくリードしてくれるが情事の後はかなりの甘えん坊だ。でも外では立派な優等生を装っている。あまりにも永く終わりがないセックスに、二人は疲れて時間を延長した。もうすぐ東京へ戻ってしまう舞美を離さず、南条は何度も泣きながら抱いた。


 9月初旬、舞美は東京へ戻って行った。南条は大粒の涙を溢してホームの柱に隠れて見送った。

 市村に『坂角総本舖の海老せん』、寮長に『大和屋の守口漬』のお土産を渡したら、寮長は大好きなのよと喜んだ。


 後期授業が始まってまもなく、青木は4号館の前で呼び止められた。

「先生、ちょっといいですか?」

「ああ藤井か、何だ?」

「この前、一晩中看病してくれたんでしょ、ありがとうございました。お土産があります。受け取ってくれますか? 先生はお酒飲みます? お好きかどうかわかりませんが、おつまみにしてください」


 藤井から『三和の名古屋コーチン燻し鶏』を貰った。懐かしかった。親父が旨そうに晩酌時に楽しんでいた。燻製が放つ旨い匂いが蘇って来た。故郷を捨て去って15年以上経ったが、忘れたい故郷を一瞬思い出した。

「貰っていいのか?」

「はい、心配かけてすみませんでした。うわっ、遅刻しそうです! すみません、失礼します」


 その夜、青木は名古屋の銘酒『蓬莱泉』を飲りながら、土産の『名古屋コーチの燻し鶏』をかじった。親父のようにエリート公務員になって、親父を殺したヤツらに復讐すると誓ったが、試験に落ちてこのザマだ。せいぜい助教授から教授に昇格する程度の男か…… 藤井の明るさが羨ましく思えた。



3章 episode 5 盗聴電話?


◆ パパの監視付きでケイタイを手にいれた。


 ラウンジで市村の受験講座が始まった。別人のように真面目で優しいお兄さん東大生になっていた。大輔ガンバレ! さすがだ、女子の気持ちを引きつけて解説している。舞美は会釈して通り過ぎた。

 2時間後、電話が鳴った。

「藤井くん、市村だ。受験講座の初日で緊張したがまずまずだった。キミに礼を言いたい。それと今後の指導について聞いてもらえないか。迷惑だろうが駅前の喫茶店で待っている」


「どうだ、南条は優しかったか、気に入ったか? お前にはぴったりだろう? 初心者同士だからな。あいつのアレは外人と同じでフニャフニャだが、いったんお前の中の中に入ったら、水を吸ったスポンジのように大きく膨らんだろう? どうだ、違うか?」

「そんなこと知らない、帰る!」


「待て、話がある。寮の電話は気をつけろ。マークされたら盗聴されると考えたほうがいい。寮長がボタンを押してイヤホンで聴いているのを見た。寮生は監視されているってことだ」

「へーっ、でも聴かれて困ることなんてないもん」

「バカだな、そのうち恋人が出来るだろ、どうするんだ。その男がエッチなことを口走ると、すべて筒抜けなんだぞ。親に言いつけられる。俺はそんな罠には落ちないが、坊やの南条はヤバイ。舞美をいつも抱きたいなんて喋ったら困るだろう? 電話に気をつけろと教えとけ」


 そうか、だから父はこの女子寮を選んだのか。監視され管理されているのか。

「父親はいい顔しないだろうから母親にケイタイをねだれ。俺は買ったぞ。ポケベルで114106(=愛してる)とか11014(=会いたいよ)とかやってる時代じゃないぜ」

 早速ママにケイタイをねだった。

「ママ、お願い。ケイタイが欲しい。この前は休講の連絡が届かなかったの。8時過ぎると部屋の電話は繋がりにくいの。友だちに言ったら、山の中に住んでるのって呆れてた。ねえ、パパに頼んで!」

 舞美はまもなくケイタイを手に入れた。学生でケイタイを持っている子はまだ少なくて羨ましがられた。


 市村の執拗なテクで意識が朦朧(もうろう)としていたら、着メロが響いた。

「出ろよ、オヤジさんだろ」

「は~い、パパ、どうしたの」

「ああ、もう寝てたのか。別に用はないが元気かと心配した。ケイタイは便利だな、すぐ話せるからなあ。ああそうだ、南条くんは日曜日になると息抜きだと言って来てくれる。受験生だから将棋どころではないだろうと、心配しているが、押しかけて来るから仕方ないだろう。お陰で僕も彼も腕が上がったようだ。いつも夕飯を食べて帰って行くが、礼儀正しい素直な子だ。何だか舞美は眠そうだな、元気だとわかったから、お休み」

「うん、パパもお休みなさい」


 市村は舞美の秘部をペチャペチャ舐めながら笑って聴いていた。

「オヤジさんは安心したようだな。さあ続きをやろうぜ。坊やはオヤジさんの機嫌をとってどうする気だ、婿養子にでも入る気か? 初めて知った年上の女に童貞くんがメロメロの話はよく聞くが、ちょっと違うな。お前らは同じレベルだからなあ」

 大輔はインサートしないが舞美にペニスを握らせて「少しは上達したなあ」と冗談を言い、ニヤリと笑って放出した。舞美にとって、市村との関係はお医者さんゴッコのアップデート版のようで、これはこれでいいかな、そう思っていた。  


 舞美は女子寮へ続く銀杏並木を歩いていた。今年は冬が早いのか黄色に色づき始めていた。見上げた空は高く、淡い小さな白い月が顔を出していた。背後でクラクションが聞こえた。

「忘れ物だよ」、青木は赤いメガネケースを窓から差し出した。

「メガネをかけずに、君はまた男子トイレに入るのかい。時間はあるか、ドライブに付き合ってくれないか? お土産のお返しだ」

「ありがとうございます。最近はコンタクトなんです。それはサングラスです。あの~ 東京で絶対行きたい所あります。連れて行ってくれますか?」

「どこだ、東京タワーか?」

「いいえ、レインボーブリッジです。少し遠いけどいいですか」

「いいよ、さあ乗って」

「先生、5分だけ待ってください。着替えます」



3章 episode 6 大揺れのレインボーブリッジ


◆ 東京では誰もがラブストーリーの主人公になれる?


 藤井は7分袖の白っぽいワンピースで走って来た。ほのかに香水の匂いがして大人びて見えた。

「先生、デートっぽく着替えました」

「デートか? 恋人じゃないのに」

「ふふっ、恋人しかデートしちゃいけないですか?」

「うーん、まあいいだろう」


 1時間少しでレインボーブリッジに着いた。

「テレビの『東京ラブストーリー』で見たんです、素敵でした。車を降りて歩きましょうよ。先生、早く来て!」

 藤井は潮風に翻るスカートを押さえて、青木を呼んだ。なるほどドラマのロケ地には最高だな。都会の海、イルミ、遠くに船の灯、高層ビルの冷酷な煌めき。ここは恋人たちのメッカだろうと目を凝らすと、肩を抱いたカップルばかりだった。


 ときどき強い海風に吹かれて藤井はよろけた。青木は手を伸ばして支えた。橋の中央付近で急に大きな揺れに襲われた。風か地震かわからないが、横に大きく揺れた。怖い! 青木が眼を閉じて震えている舞美の顎を引き寄せると、驚いて眼を見開いた。ガタガタ震えてカチカチと歯が鳴っていた。唇をあわせたまま抱き続けると、少し落ち着いたのかやっと震えが止まった。舌を入れてキスするとまた震え始めた。震えながら逃れようとする舞美を離さず、青木は抱き続けた。その時スピーカーから緊急放送が流れた。


 千葉県沖を震源とする地震が発生し、東京は震度3だとアナウンスがあった。腕の中の藤井は泣いていた。怖かったか驚いたのかわからないが、ポロポロと涙を落として泣いていた。女の涙? しばらく見てないなあ、青木は肩を抱いて車に戻った。

 舞美は涙の跡が残った顔で、ぼーっとしていた。

「どうした、僕が怖いか? キスがイヤだったのか? 襲われると思ったのか?」

「いいえ、違います。ベイブリッジでは誰もがラブストーリーの主人公になれるって本当なんですね」

 青木はその意味がわからなかった。

「でも先生のキスは怖いです、もうしないでください」


 帰り道は混んでいたが、いつ間にかストンと眠ってしまった舞美に呆れた。俺は襲ったりしない安全なオジさんだと思っているのか? やはり男だと見てないのか? 指導教官にすぎないのか? 腹を立てた。

 車を停めて助手席のシートを静かに倒して平坦にしたが、それでも舞美はぐっすり眠っていた。熟睡は若さの特権だと思い出し、さらに腹が立った。眺めながら迷った。なぜこの子を犯したい衝動にかられるのか? この子は俺から襲われる理由があるか? 何もない。それはレイプだ、バカな行動だ。俺はどうしたのか。静かにシートを戻した。


 突然、着信音が車内に響いた。

「藤井くん、電話だ」と起こしたら、眼をパチパチさせてケイタイを出した。

「あっ、パパ、半分眠っていた、ごめんなさい。ううん、大丈夫よ。あのね、レインボーブリッジに連れて行ってもらって、送ってもらうとこ。うん、ママに伝えてちょうだい。『東京ラブストーリー』のヒロインの気分だって。パパ、お休みなさい」

 父親の会話は聞こえなかったが、娘を案じる気持ちは伝わった。

「ごめんなさい、眠っちゃって。先生、ケイタイ持ってますか? へへっ、おねだりしてゲットしたけどパパの監視つきです。先生は?」

「いや、持ってない。大学からポケベルを持たされているが、あんな数字の羅列は覚えられない、苦手だ」

「あの~ ケイタイってすごく便利です。寮の電話は怪しまれたら盗聴の対象になるらしいです。先生、冗談でも『愛してる』なんて電話で言ったらヤバイです」


 何だ、生意気なあの言い草は。だが言われてみれば、寮の電話は代表番号の次に部屋番号をプッシュすると、各部屋に繋がる仕組みだ。100室に100本の回線が引かれているのではないらしい。盗聴のチャンスは十分存在する。プライバシーも何もあったものではない、それは違法だろう。


「教えてください。先生って学内の女子学生に気軽にキスするんですか?」

「いや、しない」

「だったらさっきはどうして?」

「橋が大きく揺れただろう、君は怖くて震えていた」

「なぜ、怖がって震えているとキスするんですか?」

「いけないか? 女を守ろうとする男の本能だ」

「ふーん、なんか違う気がします。私は女じゃなくて教え子でしょ。先生、私を好きですか?」

「好きか嫌いかと訊かれると好きだが、恋人ではない。愛している女でもない」

「じゃあ、私と同じです。でもどうしてあんなキスするんですか? あれは愛してる人にするキスでしょ?」

「君のような子供と僕のような大人とはキスも違う。そんな事よりも君はぐっすり眠っていたが、相手によっては大変なことになってたぞ。男の怖さを知らないようだが、男の車で眠ってはいけない、常識だ!」


「パパの車しか乗ったことないので、ごめんなさい。チュウしていいですか?」

 藤井は横向きになって唇を突き出し、キスしようとした。青木は藤井を抱き寄せ、強引に唇を奪って舌をからませ、左手で頭を押さえて右手で乳房を掴んだ。悲鳴が漏れた後、すぐ藤井を放してやった。

「男をからかって調子に乗るな! こんな展開もあることを忘れるな!」



3章 episode 7 ヘリオトロープ


◆ ヘリオトロープ、ストレイシープ、どういうことだ。


 舞美を送り届けて、青木は考えた。

 あの子は危ない、常識を知らなさ過ぎる。男に誘われてついて行ったら、どんな目に遭うのかわかっていない。こんな展開もあるぞと脅かしたら、本当に驚いていた。あの子が「チュウしていいですか」と言ったのは、多分、プチュのキスだろう。あれは子供のやることだ。


 ウィスキー片手に燻し鶏をかじりながら、赤ん坊のあの子を知ってるから心配なのかと自嘲した。乳房を掴んだ感触がまだ残っていた。それは、俺の怒りの感情を弾き返す弾力と、掴もうとしても掴めないゲル状のプロティンの塊だった。女の乳房をいつから触ってないかと記憶を探った。礼子と別れて佳代と出会ったが、陰気で影が薄い女だった。気が滅入って別れた。あれから何年経ったのか? 記憶を探った。


 大学生のときは女どころではなかった。東大生すら落ちると云う国家公務員上級試験だけを目指したが、挫折した。俺は好きだった同級生を抱き、それなりに幸せだったが、彼女は卒業した。俺は大学院に進み、助手を経て助教授になった途端に女が寄って来たが、既に女や幸せな家庭の夢は消えていた。親父の無念を偲ぶと俺が幸せな人生を歩む選択肢はなかった。愚かな息子だと自分が情けなかった。


 藤井に会えば思い出したくない故郷を思い出してしまう。さすがに意味不明のディープキスには驚いたようだが、その後も校内ですれ違うと会釈して通り過ぎる。俺は君の乳房を掴んだ男だ。怖くないか、軽蔑しないのか、言いたいことはないのか? 

 藤井は後期も俺の講座を受講した。視線が合えば微笑むが特に変わった様子はない。何かに熱中することはなく、サークルにも所属してないようだ。学内に恋人がいる気配はなく、よく文学部のテラスで文庫本を開いてランチする姿を見かけたが、いつもつまらなそうな顔だ。あの時は腹が立ってそのままだったが、驚かせたことは謝ったほうがいいだろう。


 昼過ぎ、文学部のテラスを覗いたら藤井がいた。パンをかじりながら本を読んでいる。

「ここ、いいか?」

「えっ? はい」

「この前のことを謝りたい。つい腹を立て大変失礼な振る舞いをしたが許してほしい」

「あれは、お気楽な私のミスです。先生が怒るなんて思ってなくて、気軽にプチュしようと思ったんです。甘えてました」

「そうか甘えていたのか。僕だったら大丈夫だと思ったのか?」

「そうです。でも考えを変えました。先生も男の人です。ひどく怒った顔で乱暴にキスされたとき怖いと思いました。掴まれたところが痛くて赤くなってました」


「悪かった、謝る。機嫌を直してくれないか。ひとつ訊きたい、唐突で失礼だが君は香水をつけているのか?」

「ああ、これですか。夏目漱石の『三四郎』に登場する美禰子の香水で、『ヘリオトロープ』と言います。三四郎は美禰子を愛しますが、美禰子は結婚が決まったときに、白いハンカチにヘリオトロープを1滴落として三四郎に別れを告げます。哀しいシーンです。読みました?」

「いや、読んだような気はするが覚えてない。漱石は『こころ』や『門』を読んだが、しんどかった」


 藤井は眼を閉じて暗唱した。

「ハンカチが三四郎の顔の前にきた。鋭い香がぷんとする。『ヘリオトロープ』と女が静かに云った。三四郎は思わず顔を後ろへ引いた。ヘリオトロープの壜。四丁目の夕暮。ストレイシープ、ストレイシープ。空には高い日が架かる~」

 ストレイシープか、迷える子羊か…… くったくなく暗唱を続ける藤井が憎らしく思えた。すっかり葉が落ちた樹に視線を移し、藤井を羽交い締めにして弄びたい欲望を鎮めた。


「先生、これから授業は?」

「ない」

「散歩しませんか、夏目坂から市ヶ谷のお堀端を歩きませんか」

「君は読書と散歩が趣味か? そんな靴で歩けるか」

「いいえ、歩くのは嫌いです。でも、落葉が道路に重なるこの季節だけは歩くのが大好きです。踏むたびにカサッと小さく喚いて、乾いた悲鳴が聞こえます。先生、疲れたらおんぶしてくれますか」

「いやだ、断る。甘えるんじゃない。さっきは僕のことを男だと言ったじゃないか。落葉の乾いた悲鳴とは何? 君の話は支離滅裂だ。歩き疲れたらバスに乗ろう」



3章 episode 8 東京の恋人


◆ 東京で恋人を欲しがる贅沢な女って誰?


 穏やかな日差しを受けて二人は歩き始めた。藤井は落葉の吹き溜まりを見つけると立ち止まり、靴先で落葉の感触を確かめた。水溜りに落ちた濡れ落葉に気づくと拾い上げ、乾いた地面に移した。

 なぜ、そんなことをするのかと訊くと、

「濡れ落葉って悲しいです。べっとり張り付いて自由に動けないなんて苦しいです」

 まったく理解できない言葉が返って来たが、いつしか青木は舞美の肩を抱いていた。

「私たち何だか恋人みたいですね。先生、恋人は?」

「今はいない。君の恋人は名古屋なんだろう?」

「そうです。でも東京にはいません」

「東京でも恋人が欲しいって? 贅沢な女だ、呆れたよ」

「私は先生にとって女ですか、女子学生ですか、どっちです?」

「今日から女だ、恋人だ、いいか?」

「うーん、迷ってます。どうしようかな」


 こういう台詞が男を苛立たせることをわかっていない。俺は藤井の正面に立って額を軽く叩いた。あれっ? 予想が外れたように俺の顔を見て笑った。キスでもされると思ったのか……

「手をつないでいいですか?」

「いいよ、恋人だから。まるで幼稚園の遠足みたいだなあ」

「絶対に先生の名前は言いませんから、村上先生に恋人が出来たって言っていいですか?」


「村上先生って誰だ、その男と付き合ったのか?」

「いいえ、とーんでもない! 理工学部の学食で3回も偶然に同じテーブルでした。そうだ、ケイタイを落としてパカーンとフタが取れたときに、フタを入れ直してくれました。何だかゴチャゴチャしつこいので、理工の学食へ行くのはやめました」

「ゴチャゴチャとは何だ?」

「キァリアや父親の話ですがまったく興味はありません。恋人がいないなら学外で会いたいと言って、ジロジロ見ちゃってキモいやつ! この人です」


 藤井は名刺を出した。そうか、総長が外部招聘した教授だ。名刺にはずらりと海外の有名大学や研究機関名が列記されている。大半の女はこの名刺だけで言いなりだろう。

「デートしたのか? この先生は将来を嘱望されている学者だが、ジイさんか?」

「デートなんかしません、歳は知りません。学食のチケットを買おうとしたら、ご馳走すると言われましたが断りました。父が言いました。『男にねだるのはいいが、望んでもいないつまらない物をもらったり、ご馳走してもらうな』って」

「その通りだな。君の判断は賢明だ。せっかく恋人になったから、キスぐらいいいだろう?」

「でも、あの怖いキスはいやです」

「なぜだ?」

「あれは気持ち悪いです」

 俺は笑い出した。気持ち悪いのか、この生意気な子はまったく子供だと可笑しかった。


「ほら、これが恋人になった初めてのキスだ」

 優しくキスすると安心してにっこり笑った。青木は久しぶりに心が温かくなった。妹か娘のような気がした。予想どおり藤井は疲れたと道端に座り込んだ。こんな街中ではおぶってやることも出来ず、車を拾って寮へ送った。

 ふと俺もケイタイを持とうかと、一瞬考えた。藤井は俺をイラつかせる女だが、俺が忘れ去った素直な心を持った不思議な子だ。今夜は何も考えず温かい気持ちのまま眠ろう、そう思ったら嬉しくなった。


 翌日、パソコンで村上を検索した。経歴は文句のつけようがない超一流だったが、村上? 聞いたことがある名前だ。検索を続けると父親は政治家だとわかった。しかも俺の親父を生贄にした最後の大蔵大臣だ。そして、この事件を責任者不明として葬り去った男だった。

 そうか、世間は広いようで狭いと云うが、藤井のお陰で消えかけていた手がかりが掴めた。


 1週間ほど経った昼どき、昼飯に行こうとしていた藤井を呼び止め、

「ひとつ頼みがある。聞いてもらえないか」

「何ですか、恋人になったばかりなのにずうずうしい。頼みって?」

「理工の学食に行こう」

「えっ、いやです。キモオ先生がいます。蕁麻疹が出そうです。マジいやです!」

「悪いがその先生の顔を拝みたい。興味があるんだ。頼むよ、恋人としてお願いだ」

「うーん、しょうがない先生! じゃ行きましょ」


 案の定、村上は藤井を探していた。

「やあ藤井くん、最近来なかったじゃないか、元気だったか?」

 馴れ馴れしく背後から両肩に手を置いた途端、藤井はビクッと身震いして固まった。



3章 episode 9 ジンマシン発症


◆ 村上教授は天敵か、舞美は蕁麻疹を発症した。


「こちらの方は?」

「はい、経済学の先生です」

「ああ学内の人か、それでは一緒のテーブルで食べよう。キミは何が食べたい?」

「藤井くん、これにしよう」

 青木が2人分のチケットを買った。

「先生、おごってくれるんですか? 嬉しい!」


 藤井は子供のような笑顔で喜んだ。その表情を盗み見た村上は青木を睨んだ。

 3人でテーブルを囲んだが、もっぱら話すのは村上だ。あーだ、こーだと自慢話ばっかりだ。藤井は聞いているふりしているが、頚動脈あたりが赤くなってしきりに掻いている。まさか、本当に蕁麻疹か? 早く退散しよう。 

「藤井くん、時間だ。ダッシュで戻ろう、走れるか? 村上先生、お先に失礼します」


「悪かった、無理させてしまった。それは蕁麻疹か? 医務室に行こう」

「私はウソ言ってません。キモオとは付き合ってません! 嫌いな人を我慢すると蕁麻疹が出るんです。ヤバイなあ、どうしよう。市販の薬は効かないんです。これじゃあ首から胸に広がって全身になっちゃいます。ああ、最悪! 痒い!」

 青木はケイタイを借りて、谷川に事の経緯を簡単に説明した。「すぐ診てやるから連れて来い」


 谷川は藤井を見た途端、

「あー、かわいそうに、辛いだろう。青木、誰に会わせたんだ? 本人が嫌がってる人間にわざわざ会わせるからだ。まったくお前は人の心を知らんやつだ。僕らの後輩は強度のストレスで苦しんでいる。飲み薬は即効性がないから注射するぞ。青木は帰れ、授業があるんだろ。心配するな、藤井くんは預かる。ついでに点滴をする」

 青木は一抹の不安を抱えながら谷川に預けて、大学に戻って授業を務め、藤井が受講している担当教授に報告した。


 谷川は診察で湿疹の拡大を確認し、迷わず注射した。

「藤井くん、痛くないよ、ガマンしてねー」

 小児科医の口調で緊張を解いて注射した後、隣室の処置室に寝かせて点滴を受けさせた。

 薄暗い方が落ち着くだろうと、室内灯を消してカーテンを引こうとしたら、ぼんやりした表情で「先生、暗くしないでください。暗いと怖いです。眠れません」と言ったが、幼い子供を寝かしつけるのと同じように、谷川は布団の上から静かに叩いてやったら舞美は眠った。


 谷川はナースに用事を言いつけて室外へ追い出し、眠っている藤井の布団とブラウスを静かにずらして、小粒ながらも収穫前の見事な乳房を探し当てた。少しだけ蕁麻疹が残っていた。幾度もそっと揉んだが患者は起きなかった。乳首を吸ったら患者が動いた。室内灯を点けて谷川は診療室に戻った。


 17時過ぎ4時限目の講義を終えた青木が迎えに来た。まだ舞美は眠っていた。

「谷川、世話かけてすまない。どうだ?」

「心配ない、ほとんど蕁麻疹は引いたはずだ。貧血気味だったから点滴した。鉄分やミネラルの補給だ。あの子は暗いと怖くて眠れないそうだ。いつも電気を点けて寝ているらしい、知ってたか?」

「知らない、残念だがそんな仲ではない」

「まあ、そうだろうな。しかし、あの子はいい匂いがするな」

「香水をつけてると聞いた。それだろう」

「違う、若い娘だけが持つ細胞の匂いだ」

「俺にはさっぱりわからんが」


「それはお前がいつも若い女、女に限らず男もだ。そいつらに囲まれているから気づかないだけだ。人間は不思議なことに年代によって匂いが違う。そんなことより、いったい何があったんだ? 全身蕁麻疹だ、世界地図のように拡大する前に治療できて良かったよ。よっぽど嫌な目に遭ったと思うが、まさかオマエか?」

「違う。さっきも説明したが俺ではない。うちのエリート教授に何回も誘われたらしい。その男を嫌ってキモオと言っていた。どうせ遊んで捨てる気だろうが、その見え透いた欲望を感じた体が拒絶したんだろうな」

「何かされたのか?」

「いや、そうではない。学食じゃどうにも出来ないだろう。それで学外で会おうとしつこく誘われたらしい」

「そいつはジジイか?」

「俺たちより2つ上だ」

「ふーん、そうか。エリート教授がキモオとは面白いな、欲がない子だからか。3日分の薬を出した。再診の必要はないだろう。だが、またそいつに会うともっと酷い症状が出る。当分避けたほうがいいな。そろそろ起こそう」


 谷川はベッドへ近づき、髪を優しく撫でて、

「藤井くん、起きようね。もう治ったよ、怖くないよー。安心して起きなさい」

 舞美は眼を開けて不思議そうに周囲を見渡し、青木と谷川を見つけて安心した。起こしてやったら、

「あー、ここは病院だ。えっと蕁麻疹で、わーっ、だいぶいい感じです。先生ありがとうございました! もうピンピンです!」

 男二人は「もうピンピンです!」のセリフに苦笑いした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る