CASE 5 暗闇に潜む影
28. 不思議な関係
「海渡さん、こっちこっち」
傷が完治して退院した海渡は、ある人から食事に誘われた。こんな形で女性とふたりで食事をすることになるとは思っていなかった。
彼女から提案されたお店の前に向かって歩道を進むと、すでに店前にいたその人は大きく手を振って海渡を呼ぶ。
まだ出会ってからそんなに長い時間を共有しているわけでもないのに、彼女はまるで長年の友人であるかのように海渡に接した。それでいて、その距離感を不快だとは思わせない不思議な人間性だった。
「待った?」
「いいえ、私も来たばかりですよ」
デートの待ち合わせのような会話だな、と不意に思って心の中で自虐的に笑った。
奥寺美優は先に店内に入り、人数を伝えて案内されたテーブルに向かう。海渡はその背中を追って初めて来た飲食店の内装を見ながら進んだ。
入っている客は学生のグループやカップルばかりで、美優とふたりでいることが恥ずかしくなった。周囲から見れば海渡たちもそんな関係に見えているのかもしれない。
十五年前の事件で命を救われた彼女は海渡に礼を伝えるために病室にやってきて、お互いに連絡先を交換した。
その日の夜、彼女は宣言通りメッセージを送ってきて、退院したら食事に行かないかと誘われた。
特に断る理由がなく了承したが、よくよく考えればデートのようなものだった。今更断ることもできず、気まずい時間に耐えなければならなくなった。
席に着くと、美優はメニューを海渡の方に向けてテーブルに置いた。
「どれにしますか?」
洋食や和食、メニューの種類が非常に多く、どれにするかと訊ねられると迷ってしまう。海渡にとって食事とは栄養補給のための手段でしかなかった。味はほどほどであれば文句はない。
しかし、この場でそんなことは言えないし、何より必要なのは糖だった。入院期間中は病院食を食べ、自由に甘いものを食べることができなかった。
メニューをめくって最初に目に入ったのはパフェだった。
「甘いもの好きですか?」
「頭を使うから、甘いものは欠かせないんだ」
「そっか。刑事さんは体力と頭脳の両方が必要ですもんね」
「それは医者を目指す君も同じでしょ」
「甘いもの食べたいんですけど、太るから。でも、海渡さんは太っていませんね」
体質の問題だろうか。海渡はどちらかと言えば少食だが、甘いものは好きなだけ食べる。それでも、摂取カロリーと消費カロリーはうまくバランスが取れているらしい。
医者の卵に知られると食生活にダメ出しを食らうかもしれない。黙っておこう。
海渡は結局美優が勧めてくれた洋食セットを注文した。勧めてくれた彼女も同じものを注文して、食後のデザートは後でゆっくり選ぶことにした。
「退院したばかりでも、すぐにお仕事なんですか?」
「俺は組織に縛られてないから自由に動けるんだ。とはいえ、前回の件はかなり怒られたけど」
「何か処分があったんですか?」
「二ヶ月の減給だってさ。それなら謹慎の方がよかったよ。働いても給料が減るんじゃやる気出ないし」
退院して早速警察庁に呼び出しを受けた海渡は上司から処分を言い渡された。自分が行ったことに後悔はしていない。富田は罪のない子供を殺害し、さらに大勢の子供を殺害しようした。
そんな人間が人としてまともに扱われるなんておかしい。紅音たちが止めていなければ、本当に海渡は彼を殺していたかもしれない。
殺人を犯すことはなかったが、富田は負傷して海渡に暴行されたと証言したことで、問題になってしまったのだ。
法治国家で個人の復讐は認められない。
ならば、どうして犯罪者の人権は守られるのか。
謙人と佑を殺したあの男は、精神が異常だったと検察の求刑より大幅に減刑された。今はもうどうしているのかもわからない。
知りたいとも思わない。
海渡は前回の事件が過去の事件に似ていることも、やりすぎたことで処分を受ける可能性があることも美優に伝えていた。
もちろん、捜査情報は伝えずに公に報道されているくらいの話しかしていない。
どうしてだろう。これまで人と深く関わることはしたくないと避けてきたのに、彼女にならなんでも話すことができる気がする。
「海渡さん?」
形容しがたい気持ちで俯いていると、美優が優しい微笑みをこちらに向けていた。
「ごめん、考え事してた。俺の話はもういいよ。君の話が聞きたい」
「私の話ですか? 毎日退屈な日々を過ごすただの学生ですよ」
「医学部に入るほど勉強できることはすごいよ。俺には無理かな」
「人それぞれです。私は刑事として犯人と戦うことはできないし、殺人現場を見て冷静に捜査することもできません。刑事さんの方が尊敬します」
救うために見る血と、もう救うことができない血では、その見え方はまったく異なる。
彼女はこれから数多の血を見ることになるが、誰かを救うための希望として、その赤色を目に焼き付けることになる。
一方で、海渡が見る赤色はもうこの世にいない者の意志だ。絶望の末に遺した被害者の思いを遂げるために戦い続ける。
「例の事件の後、君はどうしてたの? いや、言いたくないならいいけど」
十五年前、美優との接点は唯一彼女から受け取った手紙のみだった。その後彼女がどうやって生きてきたかは知らされていなかった。
「あの」
「ん?」
「私のこと、名前で呼んでほしいです。私は海渡さんのこと、友達だと思ってるんだけどな」
「いや、えーっと」
困った。
自分が海渡と呼ばれることには抵抗がないが、相手を名前で呼ぶのはなんだか恥ずかしい。特に女性なら殊更。
「奥寺さん」と呼ぶべきか、「美優さん」と呼ぶべきか。
紅音のように子供の頃から知った仲であれば、当時は抵抗なく名前で呼べたから、そのままの流れで今でも呼び名は変わっていない。
「美優って呼んでください」
テーブルに身を乗り出して上目遣いに見つめてくる彼女を見て、海渡はさらに気まずくなった。
これは彼女のあざとい演技なのだろうか。整った顔立ちをしている彼女だからこそ、それが魅力的に映るのだが、刑事としてはこんなことをされるとこちらを騙そうとしているのではないかと疑いたくなる。
いや、美優はそんな人じゃない、と信じよう。
「わかった」
「はい、どうぞ」
美優は微笑んだままで右手を海渡に差し出して「私の名前を読んでご覧なさい」と言わんばかりにまっすぐ見つめてきた。
「み、美優・・・さん」
「固いなー。呼び捨てでいいですよ」
「美優」
「よろしい。慣れてくださいね」
駄目だ。どんな犯人よりも彼女は上手だ。
二永海渡が女性に弄ばれていると誰かに知られれば、警察での彼の地位は失墜しそうだ。
「あの事件の後、精神的にかなりしんどくて。毎日のように事件のことを夢に見てたんです。私のせいで男の子がふたり亡くなったことも知っていました。ひさびさに登校してもあの場所であったことを思い出してしまって。まともに学校には行けませんでした」
「大変だったんだね」
「でも、成長していくうちにちゃんと向き合えるようになって、私が医者になって人の命を救いたいと思うようになったんです」
自らの忌まわしい記憶を克服して将来の目標に変えた彼女の精神力は海渡が思うより強かった。
「海渡さんはどういった
次は海渡の番だと彼女が身を乗り出した。
思い返せば、あれからいろいろなことがあった。トレースが目覚めて、海渡は見たくないものも見えるようになった。
この能力のせいで小学校に通えなくなり、この能力のおかげで逮捕された犯人もいた。
「あの事件の後、俺には不思議な能力が目覚めた」
「能力?」
まだ美優にこの話はしていない。
信じてもらえなくも構わない。だけど、彼女には伝えるべきだと思った。
そこで、注文した料理がテーブルまで運ばれてきた。
「先に食べよう」
この話はそんな短時間で語れるものじゃない。
ふたりは会話を一旦中止し、目の前の食欲を唆るそれに箸を伸ばした。
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