三章

 弾力のある肌に切れ込んだ後は存外にも、刃は容易く肉を喰んだ。


 生き身に埋もれた刃先に触れる、固いもの。骨だろうか。着古され、色の褪せた銘仙の背を、内奥から滲み出た深緋が染め直していく。桶に浸った葱が、西日につやつやと光っていた。


「…………じ、」


 掠れた声が耳朶に触れ、我に返った。脳髄に結集していた熱い血の束がにわかに解け、身体の各所へ下っていく。


「あ、ああ…………」


 思わず身を引こうとして、できないことに気がつく。足は地面に縫い付けられたかのように動かなかった。両手も包丁の柄を掴んで離そうとしなかった。目の前に突き立つ罪の結果をしっかりと握り込んでいた。半ばまで肉に沈んだ銀のみねが静かに輝く。粘る蜜のような陽が、水の舌が舐めた桶の内側を照らしていた。


 刃を走らせたのは、極限まで高まった内部圧力だった。長年蓄積されてきた「歪み」は、ふとした拍子に生じた亀裂から、殺意となって迸った。その結実として、目下には流しに上体を投げ出した女がいた。彼が凶器を離さないでいるせいで、女はかろうじて重い尻の方へずり落ちずに済んでいた。彼の胸の下には熱い肉の感触があった。熱に炙られ匂い立つ、血と女の臭気。死に瀕してなお、女の身体は温かかった。


「――ごめん、なさい」


 無意識に発した声には、喘鳴が混じっていた。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」


 喉の奥から搾り出された吐息が、艶を失くした髪に染み入る。ごめんなさい。彼は狂ったようにくり返す。ごめんなさいごめんなさい。喘ぐたび、喉がひゅうひゅう鳴った。拙い呼吸を繰り返すうち、一度は引いた血が再び顔に上る。顔だけが熱く、木製の柄を握る手は驚くほど冷たかった。


「あぁ、誰か……!」


 背中を赤く染めた女が、か細い悲鳴を上げた。


「誰か、誰か……助けてっ……!!」


 一瞬の刃の閃きは、彼を解放するはずだった。しかし彼は、女の熱に絡めとられたままでいた。手を伸ばせば届く距離に自由があるのにも関わらず、刃を振り下ろした一瞬から逃れられないままでいた。


 ああ、ごめんなさい、ごめんなさい、許して…… わななく唇に、つっと鼻から流れ出た汁が染み、しょっぱい味がした。苦痛の味。感覚に挿入された一瞬の現実感が、焦点を目の前に罪に合わせた。――とんでもないことをしてしまった。そこで彼の思考は、善良な罪人の最もらしいところへ行き着く。自分は「ひとごろし」なのだ。じっとこちらを見つめる罪意識に打ち震える。


 彼は血走った眼を彷徨わせた。目の前にあるはずの自由は、逃げ場など指し示してはくれなかった。そ知らぬ顔であらぬ方を見遣り、彼を気にかけてはくれなかった……


 そのとき、ふと、湿り気を失った女の唇が目に入った。


 ――――。呼ばれたのは名前だった。


「……どうして、」


 空虚な問いと一緒に、女の背に滴ったのは透明な感情。身体の奥深くで決定的な何かが起こり、硬直していた手が力なく解ける。支えを失った女の身体がどさりと落ち、冷たい土間に転がる。浅く掠れた呼吸は、瀕死の蝶の羽ばたきのように弱々しく土を打った。自由を手にしたはずの手は震えていた。震えは止まらなかった。鬱積の結果刃を走らせた歪みは、一度解き放たれてもなお解消されないままでいた。


 歪みを蓄えるうちに、彼の存在は根本から歪んでしまっていた。


「どうして……ぼくを――ぼくは、」


 震える手のひらに、温かい雫が幾つも弾けた。



「――悪魔の子め」



 低い囁きを聞いて、弾かれたように彼は振り返った。輪郭の滲んだ視界、どす黒い影が、夕闇の落ちた板の間に佇んでいた。


 真っ黒な外套に身を包んだ、背の高い男のようだった。西日はその足元で蝕まれたかのように途切れ、室内に蟠る暗がりは一層深い。一体いつ上がり込んだのか。異質な闇を漂わせ、目深に被った中折れ帽の奥から彼を見据える昏い目――人のものではないと、彼は直感する。


「……誰なの……?」


 答える代わりに黒い炎が上がり、幻のように男の姿はかき消えた。異界の闇は霧散し、西日が差すばかりの板の間があった。女の呼吸はもう聞こえなかった。


 必然の沈黙に気がついたとき、唐突に彼の全身が怖気立った。走馬灯のように脳裏を掠める紅い花。父が死んだ季節に咲いていた――彼の意識はそこで途絶えた。




 ――悪魔の子は、二人も要らない。


 ……深い眠りに落ちる前に聞いたのか、それとも今聞いたのか。煮えるような怨嗟の声で、彼は目覚めた。深い闇の中だった。


 重い金属音がして、扉が開く。扉には格子が嵌っていた。


 制服を着た二人の男が入ってくる。浅い覚醒の中無理やり引き起こされた彼の腕が雑に掴まれる。袖がまくられる。いつの間にやら、彼は囚人服を着ていた。


 看守の手の中で、注射器の先端が鈍く光った。



      ◇



 目覚めた時にはすでに、過去は深い霧の向こうにあった。



 ちりん、と風鈴の音がして、蝉が啼き始める。わたしは勝手に家を抜け出して、どことも知れない道を、しかし迷わないという確固たる自信をもって歩いていた。


 わたし自身の事に関してはてんで不通のくせに、遠く霧の向こうにある記憶は直感のように通じて、町を行くわたしの足を操作した。探検を楽しもうとしても、失くしたはずの記憶は角を曲がる度にふわりと頭を撫で、退屈な既視感で全ての期待を反故にした。いつか読んだミステリーを、そうとは知らずにもう一度読んでいるような心地だった。


 ――おはよう。自分の名前、言える?


 散策を楽しむのは諦め、一昨日くらいの遣り取りを思い出す。薄暗い家の一間で目覚めたわたしに、丸眼鏡の男はそう問いかけた。


(――梅子さん、)


 脳内の空白に一瞬戸惑うも、優しい声が囁いて、わたしは自分の名前を思い出した。


「……御匣、梅子」


「……じゃあ、年齢は?」


「十八、十九……いや、二十……? わたしは、どのくらい眠っていた……?」


 だいたい一年くらいかな、と枕元に座った男は答えた。酷く薄い色の目をしていた。滑稽な丸眼鏡で韜晦した顔立ちは存外に若い。


「自分のこと、思い出せる? 家族とか、家の住所とか」


「いや……全く」


 頭の中には何も存在しなかった。そこだけ濃い霧が晴れた空白に、ついさっき思い出した名前だけがぽんと置かれている。霧の向こうは見えなかった。


 手がかりになるようなものはないかと、寝たまま視線を巡らせる。昼間なのに、狭い部屋の四隅の燭台には火が灯されていた。


 暑苦しいな。思うと蝉が鳴いた。蝉は頭の奥深くで鳴いていた……


 蝉の声を伝って、現実に戻る。足の赴くままやってきたのは、近所の恩賜公園だった。 まだ色の浅い夏空からは幻ではない、本当の蝉の声が降り注いでいた。池にはちょうど薄桃色の蓮華が開いて、瑞々しい荷葉かように朝露が光っていた。極楽の景色の奥に望まれる弁天堂……


 その時、わたしの意識は唐突な完結を見た。


 前触れなどなかったが、それは予期されていたようにわたしの中に訪れ、ごく自然な、優しい変革をもたらした。まるで一滴の溶剤のように作用して糸を断ち切り、霧を隔てたあちら側を、永劫の彼方へと運び去った。わたしの過去への執着はいとも簡単に手放された。そもそも一度捨てることができたものに、未練などありはしなかったのだろう。過去から完全に切り離されたわたしは、わたしという存在は、その時に生まれたも同然だった。


 全ての音が凪いだ。夏の熱が篭る前の涼しい風が吹いて、伸びっぱなしの髪を洗った。妙に清々しい気分で、わたしは池を覗く。餌をくれると勘違いした鯉が、水面に映ったわたしの顔を散らした。


「――勝手に家を出たな」


「うわ……どちら様で?」


 顔を上げると、長身の男がわたしを見下ろしていた。いつ隣に立ったのやら、接近の気配は微塵も感じられなかった。


「君を拾ってやった者だが」


「ええと、黄泉坂、子爵……様」


 不愛な口調を思い出し、おずおず口にすると、早乙女とかいう男の後に来て散々わたしを質問攻めにした挙句、大きな溜息を吐いて帰っていった男はまた溜息を吐いた。


「……思っていたのと違うな」


「どういうことです?」


「君、名前以外何も思い出せないのか」


 事実に違いないので、ええ、と肯定する。微睡む度に鮮明な白昼夢を見、今この瞬間も幻の声が聞こえていることは伝えなかった。


 黄泉坂子爵は浅黒い顔を蓮池に向けた。神経質に凝った表情は決して、その内部を透かして見せることはしない。常から分厚い仮面を被っているような印象だった。


 途絶えていた蝉の合唱が再開された。黄泉坂は徐にわたしに向き直って、薄い唇を開く。


「……正直に答えろ。君は――――」



「……うげ」


 日差しから顔を庇い、寝返りを打ったところではっと目が覚めた。


 慌てて振り仰いだ壁掛け時計は、十一時半。二度三度と見直したが、現実は変わらなかった。


 高く日が差し込む二階の自室には、秒針の足音と、自分の息遣いだけが響く。起きてこないことを気にもされず、無関心の下惰眠を貪ることを許されたということは明白だった。気を遣って眠るがままにさせておいてくれたという可能性はやつらに関しては万一にもない。


「やられた……」


 がっくりと落ちた肩を、最早袖を通しているだけの寝巻きが滑り降りる。このまま一日不貞寝してやろうかとも考えたが、そうはわたしの矜持が許さなかった。箪笥から服を引っ張り出し、着替えを済ませる。和装は着付けが面倒で、モガのような洒落た洋装も性に合わず、うちでの格好はもっぱら男みたいなシャツとズボンだ。早乙女のお下がりというのが気に食わないが。


 寝具を部屋の隅に押しやりながら、こうなった原因――昨日の記憶を辿る。


 昨晩、黄泉坂と早乙女がこの上野の邸宅に帰宅した後、土産のサンドイッチを食べながら四人でカードをした。


 新入りの不変のポーカーフェイスを引き剥がしてやろうと、わたしたちは三人で結託し、イカサマを仕掛けた。だが、相手は強敵だった。三人がかりの奸策を的確に見抜き、それどころかその得体の知れなさでわたしたちを疑心暗鬼に陥らせた。黄泉坂に疑われたディーラーの早乙女が降りたのを皮切りに、こちらの連携は瓦解。結果は惨憺たる有様だった。その上とどめとばかりに、清司から「手品」のタネ明かし。そう、罠に嵌められていたのはわたしたちの方だったのだ。わたしたちは最初から、あの新入りの掌の上で転がされていたのだ。


 ――「勝負事は、できるだけ勝つようにと教わりました」……。


 それが悔しくて、飲んだ――ところまでは、覚えている。


 思い返して、再び悔しさ情けなさがこみ上げてきた。記憶をすっぽかすくらいだから、よほどの量を口にしたのだろう。頭痛がしないのが不思議なくらいだ。


 遣る瀬ない感情に悶々としつつ、両端に埃の溜まった階段を下りる。


 薄情なやつらのことだ。爆睡しているわたしを置き去りに、どこかへ遊びに行ったに違いない。無駄に広い家は死んだように静まり返っていた。


 ここ黄泉坂子爵邸は、かつては市内有数の広さを誇っていたそうだ。しかし当代の黄泉坂子爵は維持管理が面倒とかいう理由で、敷地のほとんどを切って売ってしまった。聞くところによるととんでもない大安売りだったそうで、買い手からすれば何か曰くでもあるのではないかと疑うほどだったという。


 今となっては母屋と前庭しか残っていないのだが、それでも十分広く、人嫌いの黄泉坂が一人も使用人を雇っていないせいもあって、縮小の甲斐なく家も庭も荒れ放題。わたし一人では手が回らず、開かずの間同然の部屋の隅、廊下の奥に落ちる影は濃く、まるで家主の暗部を体現したかのように陰鬱な気配が立ち込めていた。当然ながら近所の住人は怖がって誰一人として寄り付かない。


 久しく磨かれていない廊下をギシギシ歩く。硝子越しに雑草だらけの庭を眺めれば、原野同然の敷地の隅に、枝を全て落とされ立ち枯れた樹木が見える。それがスモモだと教えてくれたのは早乙女だったか。身悶えるように歪に捩くれた姿は不吉極まりない。


 庭師くらい雇ったらどうだ。庭を横目に、わたしはふと歌う気になった『月の沙漠』を口ずさむ。いつも音痴だとか下手くそだとか野次を飛ばしてくる意地悪な早乙女も今日はいない。


「二人はどこへ〜ゆぅう〜くぅ〜の〜でしょ〜」


 叙情的に歌い上げ、人気のない茶の間の襖を勢いよく開け放った。


 しかし、


「清司……?」


「おはようございます。梅子さん」


 居間のソファには、ちょこんと清司が座っていた。左目でこちらを見据えている。


「お、お前、黄泉坂たちと出かけたんじゃなかったのか?」


 訊くと、いえ、と清司は立ち上がった。


「お二人は所用で家を出られましたが、ぼくは梅子さんと一緒に留守番です」


 そう告げ、清司は羞恥に打ち震えるわたしの横を通り抜け、居間を出ていく。


「黄泉坂さんに、梅子さんの面倒を見るよう言われました。だから、朝餉を用意してきます。――お歌、お上手でした」


「やめろ褒めるな! もう昼だし出前にする!」


 無表情の賞賛にわたしは絶叫し、逃げるように電話室へ走った。



 蕎麦を注文して戻ると、清司は廊下に立って、庭に視線を向けていた。


「……何だ。何か気になるものでもあるのか?」


「あれは何でしょう?」


 清司が目線で示した先には、稲妻が地上に刺さってそのまま朽ちたような異容があった。


「ああ、あれはスモモの木だな。どうしてあんな無残なことになったのかは知らないが、わたしがここへ来たときからあの姿だった」


「そうですか」


「金持ちなんだから、庭師くらい雇えばいいのにな。黄泉坂がケチなおかげで、庭も雑草だらけの荒れ放題だ。近所の子供らからは幽霊屋敷って呼ばれているらしい」


 そこに住むわたしたちには「お化け」の異名が下されている。大体意味が合っているのがまた悔しい。


 心持ちくすんだガラスには、無表情な清司の顔が薄っすらと映っている。


「何を考えているのかは知らないが、身体を冷やして風邪を引かないようにしろよ。ちゃんと戸締りしていても、この家は風通しがいいからな」


 わたしは二の腕を摩りながら居間に入り、ソファに寝転がった。


「そうだ、清司。あいつらがいつ帰ってくるか聞いているか?」


 机に置いてあった帝都新聞を手に取り、訊く。


「いえ、聞いていません」


 外を眺めたまま、清司は淡白に答える。


「そうか……」


 黄泉坂に女をこさえる甲斐性はないし、早乙女も同じようなものだから、二人ともすぐに帰ってくるだろう。


 いつもなら机に残されているはずの置手紙も、今日はない。わたしに何も告げずに出ていくとは、また二人で何か企んでいるのだろう。


 ふん、と鼻を鳴らして紙面を広げた。


「――何だこれは」


 一面を流し読み、思わず声を上げる。


 見開きに散らばる、異様な数の「死」と「殺」の文字。


「一家虐殺に通り魔、放火……うちの近所でも起きているじゃないか。昨日は何かの記念日だったのか? まるで帝都中の殺人犯が一揆でも起こしたみたいだ」


 紙面に並んだ物騒な事件の数々は、どれも今日の未明までに発生・発覚したものだ。


 ――心鬼の仕業だ。わたしは直感する。帝都全域における、この同時多発的な発生状況。一見関連性はないが、これら事件の一つ一つは、喩えるなら本体を同じくする何本もの尾だ。辿った先には心鬼がいる。しかも、かなり質の悪いものが。


 立ち入っただけで殺人に至るような劇的な精神の変化を及ぼす心域など聞いたことがないし、帝都を丸ごと収めてしまう規模の心域を持つ鬼がいるとも考えにくい。黄泉坂曰く、通常の心域は広いもので半径五百メートルほど。歓迎し難いが、歪な心の燎原――〈異常心域〉が顕現していると考えた方が妥当だろう。


 心の拡張の結果として殺人を引き起こす鬼に、わたしはただならぬ危機感を抱いていた。紙面を埋める残酷な事件の数々は、鬼の妖気に毒された人々が起こす、二次災害に相当するもの。二次がこれほどの規模ならば、その元となった、鬼に心を食われ正気を失くした一次災害の被害者も相当数いるはず。人々の狂気が顕在化するまでの時間を考慮すると、事件の数は今後加速度的に増加していくだろう。


 普段なら鬼を封じる術を持つ黄泉坂がばさりと根元を断ち斬って片付けてしまうのだが、不在の今日はそういうわけにもいかない。警察に通報したところで常人に対処できようはずもなく、考えるうちにも帝都の破滅は刻一刻と迫っていた。


「どうしましたか、梅子さん」


 襖の前で、清司が首を傾げていた。手には二人分の蕎麦の乗った盆を持っている。


「新聞に何か書いてあるのですか?」


 配膳を済ませると、鼻の方へずれた眼帯の位置を正し、濁りのない瞳でわたしを見上げた。


「――そうか、」


 思い至って、わたしは無意識に笑みを上らせる。黄泉坂はいないが、こちらには実力未知数のジョーカーがいるじゃないか。


 清司はたった今生まれ落ちてきたかのような無垢な瞳でわたしを見ている。不変の美貌は眩暈すら覚えるほど。


「ぼくの顔に何かついていますか?」


「ふふ、いや、神様にいくら包んだらそんな顔になるんだろうと思ってな。


 あいつらを見返すチャンスだ――わたしたち二人で追うぞ、清司」




「……妙だな。血が流れたという話なのに、気味が悪いくらい静かだ」


 早乙女の部屋から勝手に拝借してきたまじないの洋燈を片手に、わたしは周囲を見回す。


 昨晩、刃傷沙汰のあったらしい不忍池のほとりまで来てみたものの、流血の片鱗は全く見受けられず、辺りには日常の風景が広がっていた。カモは呑気に水面に浮かび、寒々とした桜の並びを、目の細かいやすりで磨いたような鈍い陽光が照らしている。


「おい清司、新聞ばっか見ていないで協力しろ。そんなに自分が死んだ記事が気になるか」


 きめ細かな陽に横顔を照らされた清司は、少し離れたところで持参した新聞をじっと眺めていた。朝刊の片隅には、世間を騒がせた少年犯――八重垣清司が昨日獄中死したという記事があった。


「まったく、」


 嘆息して、わたしは目を閉じた。昨日の感覚を反芻しながら静かに呼吸し、意識を深化させていく。目に見えない異常を感知しようと、この世の裏側に気を潜り込ませる。


「――うん、駄目だな」


 小鳥の囀りに耳を澄ませているだけだと気づき、早々に区切りをつける。昨日清司の気配を感じ取ることができたのはどうやらまぐれらしく、いくら念じてみても神経の枝葉は広がらず、異界の景色を垣間見ることもできなかった。呪いの洋燈には黒い覆いが被せてあり、妨害を受けたということもない。純粋に、わたしの実力不足だった。


 苦い顔で、清司、と呼ぶと、黒い影は音もなくするすると寄ってくる。


「役割分担をしよう。わたしが参謀で、お前は調査員だ。昨日心鬼が何だかわからないとか言っていたが、実際の捜査も兼ねたちょうどいい機会だ。実践して学ぼう」


「はい、わかりました」


「よし。じゃあ早速、心影界に潜ろう。やり方は――こう、全身の神経を、ぐわっと胸のあたりに集めて、そのまま落とす……というか、これは黄泉坂がわたしに適当教えた方法であって、本当は言葉で説明できるものでもなければ、そもそも心鬼なら説明されずともできるらしい。まあ、とりあえず実践だ。もし成功したら、ついでにあちらの様子を探ってきてほしい」


 わたしの宛てにならない身振り手振りをどう解釈したのか、清司は無言で頷いた。薄い瞼を閉じて静かに呼吸し――


 バキン、と歪な音が鳴るようだった。


 心臓部から生じ、漆黒のインバネスを更に上から塗り込めるように広がっていった闇の色は、思わず息を止めてしまう程の静かな迫力をもって、清司の全身を食らった。


 深淵の黒が余さず清司を塗り潰し、直後、小さな五体に崩壊が訪れる。頭に、胸に、腹に、次々と亀裂が走り――清司はまるで割れた硝子のような、無数の黒い破片となって現実世界から退出した。


 呆然とその光景を見つめていたわたしははっと我に返って辺りを見回す。幸い、わたし以外に目撃者はいないようだ。


「おぞましい奴……」


 黄泉坂の演出こそがこの世における最大の邪悪だと思い込んでいたが、案外そうでもないらしい。なかなかの縁起の悪さだ。


 ――末恐ろしい。ごくりと生唾を飲み下す。隣にいたのがただの子供ではないことを再認識する。無垢な美貌に気を取られて忘れがちだが、華奢な背には嘱託殺人の罪を背負い、内面には化生の機構を備えている。


 ぞわりと駆け上がった悪寒に続いて、昨日感じた冷気が幻の神経を圧する。心鬼は心影界に潜ることで真の力を顕すという。鈍感なわたしにすらありありと感じられるのだから、清司の秘めたる力は並大抵のものではないだろう。


 心域も、心鬼が本来の世界に帰還するに伴い強度を増す。これも清司の性質――特有の能力なのかもしれない。脳内が骨上げの際のように箸で物色されているような感覚を覚え、付随していつかの記憶の断片がちらちら脳裏を掠める。どうやら、記憶に関する能力らしい。


「嫌になるな……」


 頭蓋の中の違和と、間近に感じる化生の気配に身震いをする。冷気は今や無数の棘となってわたしを拒絶している。


「――お待たせしました」


 数分して、清司は現の世界に帰ってきた。帰りは行きと逆で、虚空から生じた黒い破片が結集して清司を形作った。


「お帰り。自分の心影も見られたか?」


 恐れを漏らさないよう問うと、清司は、はい、と頷く。


 現実世界の物象は、この世の裏側に転写されるにおいて必ずしも同じ姿を留めない。わたしは見たことがないが、心域の影響を受けない通常の心影界は、白黒で描かれた線画の世界であるという。そこにおいて無機物は大人しく線画に変換されるが、有機的な存在――少なくとも個々の「意思」を宿した生物は、心は個体によって違う質感・色を持つ「球」として、肉体は「」の塊として造形されるらしい。


 しかし心鬼は例外で、現実世界にいる心鬼を心影界の同類が眺めると、がまるで影のように濃く、内部に備えた心を観測することができないそうだ。わたしが黄泉坂から心鬼と呼ばれる所以はそこにある。


 ただ、実体なきは心鬼の仮の姿で、心影界に潜没した心鬼は〈心影しんえい〉という真の姿を顕す。着物を裏返して着るように、真っ黒い外側と交代で現れる心影には、常人の「球」以上に、その心鬼の心が反映されているという。黄泉坂曰く、ろくな見た目ではない、とのことだが。


「あっちに何か変わったものはあったか?」


「怒り、らしき強い感情の痕跡が、少しだけ残っていました。心鬼の気配は、ぼくたち以外のものは感じられませんでした」


「感情が少し残っている程度じゃ、心影界が荒むようなこともないか…… 同類の気配もないなら、件の心鬼が直接ここを訪れたということでもない。まあ、もし仮に訪れていたとしても、こんな近所じゃ黄泉坂が気づくだろう。


 どこかで心鬼に毒された奴が移動して、時間差でここで事件を起こした、と考えるのが妥当だな。――なら、心源しんげんを探らなければ。清司、他に怪しいものはなかったか?」


「――あちらの方に、何かあるような気がします」清司はつい、と駅の方向を指差した。


「……もしかして、昨日行った浅草寺か」


「そうかもしれません」


 気の進まない捜査に、わたしは唸った。頭が割れるほどの声の氾濫と我が身を襲った幻の激痛は、一晩置いた今も鮮明に感覚に刻まれている。


 帝都の危機などほっぽって家に帰りたい気持ちでいっぱいだったが、清司と一緒に事件の解決に一役買えば、わたしが真正の役立たずでないことが証明できるに違いない。


 行くぞ、と告げ、先立って歩き出す。心影界を経由すれば目的の浅草寺など瞬く間に着いてしまうのだが、後輩に置いていかれるのは癪で、あえて何も言わなかった。清司は異論を唱えることもなく、従順にわたしの後ろをついて歩いた。




「燃えている……」


 凌雲閣の頂からは、墨汁を垂らしたような黒煙が立ち上っていた。塔の足元は消防に野次馬、怪我人でごった返し、悲鳴と怒号が飽和する地獄絵図。一際大きく怒声が轟いたかと思うと上を下への大混乱の中乱闘が始まり、飛んできた警官もたまたま居合わせた軍人も、皆荒れ狂う人海になす術なく揉まれている。


「清司」


 物陰から地獄を垣間見ながら呼ぶと、小さな心鬼は隣に並んだ。


「何でしょうか」いつ聞いても、乱れることのない声音。


「調査だ。あちら側から怪しいやつを探せ。心の色合い肌触りが妙なやつ、が異様に濃いやつ、とにかく目につくものを探し出してわたしに報告しろ。いいな?」


 命じると、清司は「わかりました」と最低限の返事をして、消失した。この世の裏から漏れ出た鬼の冷気が漂い始める。


 ――やはり、ここが心源か。


 地獄の景色を観察し、結論づける。人の目の色が違うし、何よりがおかしい。人心だけでなく、その立つ土壌から汚染されているとなけなしの直感が告げている。


 ここに至るまでの道中、怪しいと思った場所は清司に調べさせたが、老夫婦殺害の現場においても、異常は確認されなかった。近所の池と同じく、感情の残滓が血痕のように染みついていただけだという。


 ――昨日だ。昨日、決定的な何かが起こり、心影界と現世の双方に異常をもたらした。


 わたしは昨日の出来事を時系列順に並べていく。


 思い返せば、昨日の朝も黄泉坂はいなかった。起床した後、言われていた通り外出の支度をして、黄泉坂を待った。三時を過ぎた頃に黄泉坂が帰宅し、そこから車に乗って東亰監獄へ向かった。牢獄から清司を連れ出して、それで――


 まさか。脳裏に嫌な考えが過った。


 まさかわたしが、この手で封印を解いてしまったというのか――!?


 そんなはずはない。首を振る。万が一にも清司が変な気を起こしたとして、黄泉坂が放っておくはずがない。古参の心鬼の同類に対する勘の鋭さは異常だ。呪いの釘を抜いて以降、清司に黄泉坂の目をかいくぐって悪事を働けるような暇はなかったし、それに清司が心影界を汚染し、人心を毒せるほどの狂気を秘めているとも思えない。根本的に清司の気配と事件は性質が違う。


 そもそも、こんな時になぜ黄泉坂はいないのか。わたしの鯉の餌やりにすら神経質に目を光らせる黄泉坂が、異常心域の発現さえ疑われるような事態を看過するなんて、帝都の外に旅行にでも行かない限りあり得ない。


「……まさか、嘘だろう」


 征君、僕、箱根へ温泉旅行に行きたいなぁ。数日前、早乙女はそう言った。、とも。隣でわたしが買ってきた麩を使いやすいよう小分けにしているのにも関わらず。


 独語の本を読んでいた黄泉坂は聞こえない振りを決め込み、わたしはざまを見ろとせせら笑ったが――もしあの沈黙が、肯定の意を含んでいたとしたら。


「絶対に許せん」


 黄泉坂の小難しい本の一頁一頁に麩の屑を挟み、早乙女の眼鏡を油揚げを切った手で触らなければ気が済まない。土産の内容によっては考えるが。


「梅子さん」


 いつの間にやら、背後に清司が立っていた。


「箱根――じゃなくて、どうした? 何か見つけたか?」


「梅子さんがおっしゃる『怪しいやつ』は、どうやらここで働いている人間に該当するようです」


「店の人間ということか?」


 清司は肯定の返事をした。


「少し、帽子を取って屈んでいただいてもよろしいですか?」


「ん? こうか?」


 失礼します、と清司は両手をわたしの頭に添えた。細い指の感触が、髪に分け入る。


「ぼくが見てきたものをお見せしますので、目を閉じてください」


 言われるがままにすると、眼裏の暗闇に、黒白の線画の世界が浮かんだ。


「おお! こんなことができるのか! すごいぞ清司! これが心影界か! 初めて見た!」


「静かにしてください梅子さん」


 無彩色の仲見世。軒を連ねる店の輪郭の中で蠢くは、清司の言う通り、見るからに正常ではない色彩の球を抱いていた。対して通行人のものは多少の興奮の色はあれど、尋常の範疇にある。


「……なるほど。見物客はその日その日で入れ替わるが、店で働いている連中は変わらない。やはり心源はここか」


 各地で事件が起きているのは、昨日ここで障りを被った客が分散して事に及んだと考えて間違いないだろう。


 視点が動く。軒を連ねる店舗の傍で、向かい合った二人分の珠が赤く変色していく。怒りの感情だろうか。だがそれらの赤はまるで静脈血のように黒ずみ、単純な激情とは言い難い。黒いは絡み合い混じり合って取っ組み合いを始める。影響されてか、周囲の人間の心も不穏な赤みを帯びてくる。


 自分まで彼らの感情に感化されてしまいそうで、我知らずわたしは唸った。


「清司、お前はまさか影響されないよな。秘めたる怒りとやらを、わたしにぶつけたりするなよ」


「ご心配なく」


 短く、清司は答えた。


「しかし、発生した場所はわかったが、肝心の心鬼はどこへ行ったんだろうな……」


「そういえば、奇妙なものを見つけました」


 視界が切り替わる。眼裏の風景の中には、精緻な線で描かれた本堂があった。


 線画の大提灯を潜って幽霊のようにするりと内陣をすり抜け、裏手へ出て清司は足を止めた。


「これです」


 足元には黒いヘドロのような、個体とも液体ともつかない物体が吐瀉物のように吐き捨てられていた。潰れた豆腐のようなそれは、見ているだけで鼻が曲がりそうな、感覚に直接訴えかける禍々しさを放っている。


「でかした、清司」


 間違いなく心鬼の痕跡だった。点々と墨のように滴り、どこかへ続いている。


 そこで記憶を流し込んでいた手が離れ、わたしは目を開けた。ちょうど目の前に清司の顔があって、視線が合うなり清司は顔を背けた。年上の異性が相手で、気恥ずかしいところもあるのだろうか。


「あれは、道しるべだな。まるでお菓子の家の童話みたいだ。辿っていけば、きっと――」


「追いますか?」


 訊かれて、いや、とわたしは口を噤む。あの物体は、どう見ても良性のものではない。


 一番恐ろしいのは、無策に追いかけて、うっかり鬼の心域に立ち入ってしまうことだ。お互いに現実世界で顔を合わせるならともかく、あちらが心影界に潜没していたらほとんど打つ手がない。本来の世界に在る時の心鬼は同類の気配に敏く、その上足がはやい。まじないの灯火を持っているとはいえ、見つかって無事でいられる保証はない。しかも相手は異常心域の顕現さえ疑われる状態だ。近寄らないに越したことはない。


 人の肉を燃やした灯火の明かりに包まれていれば、鬼の目から逃れ、魔手が襲い来るのを避けることができる。だがそれも諸刃の剣で、心影界を白く切り取る光源は、同時に鬼に居場所を伝えているのと同じ。灯りが絶えるのを待ち伏せされでもしたらひとたまりもないし、灯りの中では清司も潜没して逃げることができない。


「帰りますか?」


 尋ねる清司を手で制する。


 ――鬼の巣さえ割れればいい。後は帰ってきた黄泉坂と早乙女に押し付ける。後輩の前でいつまでも怖気付いているところを晒すわけにはいかない。


「清司、」


 呼ぶと、はい、と無機質な声。


 密かに生唾を飲み下し、わたしは告げた。



「――追うぞ」

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