002.コスプレ
足がポカポカ。
ゆっくりと目を開けると、今日は日差しが差し込む綺麗な森の中だった。
昨日はあんなに暗く怖い森に見えたのに。
足の上にはもふもふの子犬。
陽菜が子犬の背中をそっと撫でると、顔を上げた子犬のグレーの綺麗な眼と陽菜の目が合った。
陽菜の膝の上からピョコンと降り、ブルブルと身体を振る子犬が可愛い。
「もう歩けるの? 良かった」
昨日は血がたくさん出ていたように見えたけれど、傷が浅くて良かった。
「もう怪我しないようにね」
陽菜は子犬の頭を撫でながら微笑んだ。
髪のゴムを外し、手でほぐす。
中は湿っていて外側はパリパリの泥がついた髪。
顔もきっと汚いだろう。
目が隠れるほど長い前髪にも泥がついているのが見えたが櫛も鏡も何もない。
仕方がないので手櫛でなんとなく整え、再び髪を縛った。
次は眼鏡を外し、Tシャツの出来るだけ綺麗そうな場所でレンズを拭く。
眼鏡をはめ、大きく伸びをした陽菜は子犬がジッとこちらを見上げていることにようやく気付いた。
「……行くところがないの? 私もないけれど一緒に行く?」
陽菜が冗談で聞くと、子犬は陽菜の足に擦り寄る。
偶然だと思うけれどこちらの言葉を理解しているかのような姿がとても可愛らしかった。
「ふふっ。ありがと」
心細かったから仲間ができたみたいでなんだかうれしい。
まるで道案内をしてくれるかのように、子犬は少し前を歩いていく。
野イチゴのような実を陽菜は子犬と一緒に食べた。
ちょろちょろと湧き出る水で喉を潤し、やっと顔も洗うことができたが、さすがに髪や服を洗うのは無理だった。
可愛い尻尾を揺らしながら子犬はどんどん森を進んでいく。
「えっ? なんで?」
突然波紋のように空気が揺れ、目の前の子犬が一瞬で大型犬に。
他には何も変わったところがない森なのに、犬だけが大きくなった。
「ここを通ると姿が変わるの?」
手を伸ばすと膜を触っているかのような変な感触がある。
私の手は大きくも小さくもならないけれど。
陽菜は恐る恐る不思議な膜を通り抜けた。
「グァウゥ」
「わぁぁ!」
突然吠えた大型犬の声に驚いた陽菜も思わず声を上げる。
「えっ? ええっ?」
どこからともなく走ってきた七頭の大型犬に囲まれた陽菜は思わず後ずさりした。
「アレク様! まさか向こう側に? なぜ、」
息を切らしながら走ってくる男性は陽菜の姿を上から下まで確認すると溜息をつく。
口には出さないが、何ですか、その薄汚い娘は。とでも言いたそうだ。
……あれ?
そういえば、この人の言葉がわかった気がする。
お城では言葉がわからなかったのに?
「グァウゥ」
「いえ、ですが、」
「グァグァウゥ」
「……わかりました」
男性は溜息をつくと、陽菜を見つめる。
「アレクサンドロ様のご命令により、ご同行願います」
「アレクサンドロ様?」
「グァウゥ」
返事をするように鳴く大型犬。
あ、この子の名前!
そっか、飼い犬だったんだ。
どうりでお利口だと思った。
「ついてきてください」
「は、はいっ」
犬と会話が出来る不思議な男性。
グレーの長い髪が似合う男性なんてズルすぎる。
男性と大型犬たちに囲まれながら陽菜はアレクサンドロと森の中を進んだ。
明るい日差しが見え始め、森の終わりを知る。
「……すごい」
目の前に広がる城と街は、まるでドイツの天空の城のようだった。
スマホでしか見たことはないけれど。
「今から……ですが、まず泥を……」
男性が説明をしてくれているけれど、陽菜はうまく聞き取ることが出来なかった。
陽菜の目の前は急に真っ暗に。
疲れと空腹と街へ出られた安堵のせいか、陽菜の意識はそこで途切れた――。
◇
ふかふかのお布団。
あぁ、夢だったんだ。
目を開けて大学に行かないと……。
「あれ?」
マンションの天井よりも高い豪華な天井と、立派なヴィクトリアン調インテリア?
陽菜が慌てて起き上がると、ぴったりくっつくように寝ていた大型犬が顔を上げた。
「……アレクサンドロ様?」
アレクサンドロがグァウと鳴くと、すぐに森で会った男性が部屋へとやってくる。
陽菜は慌ててサイドボードから眼鏡を取り、前髪も急いで整え、目が見えないようにしっかり隠した。
「体調はいかがでしょうか? 私、アレクサンドロ様の補佐ユリウスと申します。あなたの名前をおうかがいしても?」
補佐? ペット係?
「渡辺陽菜です」
「ワタナベヒナさん? 珍しい名前ですね」
「あ、名前はヒナです。ワタナベが苗字で」
「ではヒナさん、まずは湯あみとお召替えを」
ユリウスが手を叩くとメイド服の女性三人がバスルームへ案内してくれる。
「だ、大丈夫、自分で出来ます」
服まで脱がそうとする女性たちにヒナは焦った。
お湯の出し方を教わり、あとは自分で出来ると追い出す。
温かいお湯を頭から浴びると、茶色の水が足元に広がった。
「うわぁ。汚い」
こんなに汚いのにベッドを借りてしまって本当にごめんなさい。
泥で固まった髪を少しずつほぐし、頭も身体も三回ずつ洗った。
TシャツとGパンも下着も洗い、泥を落とす。
洗い終わった後、ヒナはようやく着替えがないことに気がついた。
「よかった。服を貸してもらえた」
準備されていた着替えにホッとする。
「柔らかい生地……」
水色のシャツは肌触りが良くて軽い。
これ、絶対高い服!
ズボンの裾を三回も折り曲げ、ぶかぶかのウエストはベルトでなんとか固定。
犬に「様」をつけて呼ぶくらいだから、飼い主さんは相当お金持ちなんだろうな。
泥だらけで汚い娘をこんな豪華な家に泊めてくれるなんて心の広い方だ。
ヒナは髪を乾かし、濡れたゴムでまた髪をひとつに縛った。
前髪は目を隠すように真っ直ぐ整え、眼鏡を着ける。
扉を開けると目の前には尻尾を振ったアレクサンドロ。
「待っていてくれたの? ありがとう」
ヒナはアレクサンドロの頭を撫でながら微笑んだ。
「ヒナさん、食事をどうぞ」
おいしそうな匂いにヒナのお腹はぐぅと鳴る。
「いただきます。あの、ユリウス様は一緒に食べないのですか?」
「私は補佐官ですので」
ユリウスはアレクサンドロが食べ終わった皿を下げ、次の皿を目の前に出していく。
あぁ、なるほど!
お世話しないといけないから一緒に食べられないんだ。
ときどきアレクサンドロが吠えるので、これが食べたい! とでも言っているのだろうか?
アレクサンドロは肉にガブッと噛みつくと、ペロリと舌なめずりをした。
「ふふっ。おいしいね」
横にあったナプキンで、アレクサンドロの口元についたソースを拭く。
おとなしく拭かせてくれるアレクサンドロは強そうな大型犬なのに、なぜかとても可愛く見えた。
「ユリウス様、着ていた服を洗ってしまったのですが、乾かす場所はありますか? 服が乾いたらすぐ出ていきますので、それまでココにいさせてくださいと飼い主さんにお願いしたいのですが」
ヒナが頼むと、ユリウスは驚いた顔をした。
「飼い主?」
「グァウゥ」
アレクサンドロが吠えるとユリウスは頭を押さえながら溜息をつく。
「いろいろお伝えしなくてはいけないことがあるようですが、ご本人が伝えたいそうなので、しばらくここに滞在してください」
「えっ?」
「予定がありますか?」
「いえ、行く当てもないので構いませんが……」
ご迷惑では? とヒナがユリウスの顔色をうかがう。
「明日には魔力が戻ると思います」
「……魔力?」
「この部屋を自由にお使いください。アレクサンドロ様のお部屋です」
客室を用意しようと思ったらアレクサンドロに怒られたのだとユリウスは困った顔をした。
この部屋が食事や普段過ごすリビング。
右の扉がベッドルーム。
その向こうがさっき使用したバスルームと、その隣がトイレ。
左の扉は仕事部屋のため行かないようにとお願いされた。
このリビングだけでもヒナが住んでいたマンションより遥かに広い。
すごいな、やっぱり飼い主さんはお金持ちだ。
「困った事があれば、こちらの紐を引いてください。侍女か私が参ります」
侍女? さっきのメイド服の人たちのことかな?
本棚の横にある黄色い紐でさえ豪華に見えるのは何故だろうか?
「ごちそうさまでした」
「お口に合いませんでしたか?」
「いえ、すごくおいしくて食べすぎてしまったくらいです」
どの料理もとても美味しかったが、量がスゴイ。
アレクサンドロの食べる量もスゴイけれど、犬ってこんなにたくさん食べるんだっけ?
「では、失礼します。気楽にお過ごしください」
ユリウスは食器が乗ったワゴンを引き、部屋から出て行く。
ヒナは食事中にずっと気になっていた本棚に近づいた。
犬の部屋なのに本棚にはたくさんの本が並んでいる。
きっと飼い主さんの仕事部屋に入りきらない本なのだろう。
「ヴォルク国の歴史? ここはヴォルク国っていうの?」
アレクサンドロに尋ねると、グゥと返事をしてくれた。
あぁ、本当に賢いワンちゃんだ。
でも、ヴォルク国なんて知らない。
本を手に取り、表紙を開くと周辺国の地図が乗っていた。
チェロヴェ国、プチィツァ国、ミドヴェ国、レパード国。
ひとつも知らない。
一体どういうこと?
ヒナはアレクサンドロと読書をしながら過ごし、一緒にふかふかのベッドで眠りについた。
「……えっ? 誰?」
翌朝、目を覚ましたヒナは同じベッドで眠るケモ耳コスプレ青年の姿に固まった。
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