第14話 誰もいなかった

 「それじゃ、一時間休憩。その後ゲネプロだから小道具のプリセットちゃんとしておくこと」

 座長の河西は、そう言ってそそくさと劇場から出ていった。おそらくヤニ切れであろう。ヘビースモーカーは大変だ、と、沖田は独り言ちる。

 沖田はフリーの照明技師であった。芝居やダンス、音楽会など、舞台に光を当てる仕事をしているのだ。

 


 小さな劇場であった。

 住宅街の隙間の、地下に下りる階段を下った先にある、いかにもアングラな空気を醸し出している場所であった。


 今回の仕事相手は、小劇場で活躍している新進気鋭の劇団である。メンバーはまだ若いながらも実力派で、活気も勢いも十分の、期待の星だ。

座長は凝り性のようで、細かい調整が多く必要であった。沖田も、プロの意地として、要望の全てに答えたつもりである。

 

 しかし、疲れた。

 明日の本番を待たずして、既にくたくたである。


 目をこすりながら外に出ると、河西と、音響の林が仲良く並んで煙草をふかしている。

「おつかれっす」

 林が軽く頭を下げた。

「お疲れ。河西さんも、お疲れ様です」

「こちらこそ。ごめんねー細かくて」

 調整大変だったでしょ、と、河西は手を振って笑った。

「いやいや、それが仕事ですから」

「おー!沖田さんかっこいいっすね!」

 茶化す林をどついて、沖田は目の前の自販機に向かった。

 

 珈琲か、煙草か。

 この業界の人間は、必ずと言っていいほどどちらかに傾倒している。

 沖田は無類の珈琲好きである。特にエスプレッソが好きで、自宅にマシンを買ってしまうほどであった。

近くにカフェがあれば良かったのだが、缶コーヒーなのが残念だ。

 缶を片手に戻ると、林と河西が何やら真剣な顔つきで話している。仕事の話なら自分も関わってくるだろう。劇場に入るのをやめにして、沖田もその輪に加わることにした。

「出るらしいんすよ」

 開口一番に、林はそう言った。

「は?何が」

「これっすよ、これ」

 林は手を胸の前でだらりと下げた。所謂うらめしや~のポーズである。

「何だよ。てっきり仕事の話かと思ったわ」

口の端に煙草を咥え、わざわざ両手でやるあたりが何とも憎らしい。

「仕事の話ですって。ここの話ですもん」

林はぶんぶんと首を振った。

「――ばからしい」

 沖田は缶コーヒーの蓋を開け、ぐびりと飲んだ。安い味に顔を顰めつつ、林を冷たく一瞥する。

 そういう話は信じない質である。信じない、というよりは、気にしていない、と言った方がいいかもしれない。こういった劇場や、ライブハウスなどにはその手の話が多いのだ。

 真に受けていたら、仕事になるわけがない。

 沖田のその様子を見て、河西はかかと笑った。

「そんなにばかにすることもないと思うけどねえ」

「お、河西さん信じる派っすか!?」

 急に乗り気になった林に、河西は片手を振った。

「いや、僕は、信じる信じないではないと思っている派だから」

「どういうことっすか」

 つまりね、と河西は滔々と喋る。

「脳の問題だ、と思っているわけ」

「脳?」

「そう。例えば、幽霊の正体見たり枯れ尾花、って言うでしょ」

 有名な言葉だ。

 幽霊だと思って恐れていたら、実は枯れたススキであった。つまり疑心暗鬼になると何でもないことでも恐ろしく感じるものだ、といった諺であったはずだ。

「僕はね、その時枯れ尾花を見た人が、勇気を出して正体を確かめなかったときのことを考えるんだよね」

 煙を吐き出しながら河西は言う。

「もし彼がそのまま逃げ出していたら、枯れ尾花は枯れ尾花でなく、幽霊のままであったはずでしょう。だから、その時は彼は幽霊を見た、と言っていいはずなんだ」

 何だか哲学的な話になってきた。こういう話は苦手である。沖田はぐるりとする頭を抱えた。

「いるいない、の問題ではなくて、要は受け取る側がどう感じるか、なんじゃないかな」

 分からないけどね、と笑い、河西は美味そうに煙草を吸った。

「河西さん、あったまいいっすね」

 林がきらきらした目で河西を賛美するのを見て、沖田は眉間に皺を寄せる。


 ――どうでもいい。


 自分の人生には、関わりのない話である。



 ゲネプロ、とは、本番さながらにやるリハーサルのことだ。

 一時間の休憩を終え、役者たちも十分に疲れを取った様子であった。

「はいそれじゃあと五分後に始めますので、よろしくお願いします!」

 舞台監督が声を張り上げた。

 調光室は劇場の二階、ロフトのようになっているところに設置されていた。

 音響機材も隣にあるので、林も一緒である。

 林が入場の音楽をかけた。それに合わせて、沖田も客席の電気を最低限に落としていく。

「なんか、緊張しますね」

 小声で林が呟いた。

 確かに、ゲネプロは、本番とは異なった、一種異様な緊張感がある。本番をつつがなく行うための最終確認なのだ。ここで失敗してしまうと、本番の不安度がぐっと増すのである。

 頭の中で手順を思い浮かべながら、沖田は両手を機材の上に置く。

「あと一分でーす」

 インカムから、舞台監督の声が聞こえる。

「お」

 ふと下に目を落とすと、客席にはまばらに人が入っていた。本番に来ることが出来ないお客様を招待しているのだろう。


 それならば、尚更失敗は許されない。


 隣では林が真剣な顔で電子時計と睨めっこをしている。

「お願いしまーす」

 インカムからの声を拾って、沖田は自分の仕事に集中することにした。


 今回の話は悲恋もののようであった。

 恋人の死に、ヒロインが魂切るような悲鳴を上げている。

 熱演であった。

 話に引き込まれてしまいそうになるのを、ぐっと抑える。

 次は確か、赤にサスペンションライトであったはずだ。

 セットしてあるボタンを押そうとして、沖田は愕然とした。

 手が、動かない。

 自分の手の上に、もう一つ、手があった。

 ごつごつとした男の手であった。

 節くれだった、中年以上の手であった。

 青のライトに照らされて、その手は、ぬらりと光っていた。

 ――――ぬらりと?

 その正体に気づいたとき、沖田は先端から泡が弾けるような、皮膚を逆なでするような感覚を覚えた。


 それは、ぬらりとした、その、光を弾いている物は。



 滅茶苦茶に手を振り上げようとしても、凍り付いた手は一向に動かなかった。

 心臓の音が聞こえるような気がした。耳に抜ける血流の音に混じって、耳元でうめき声が聞こえた。

 生暖かい吐息が耳にかかる。沖田の頭越しに、何か――粘度の高いしずくがほたりと垂れて、機材に紫の水玉を作った。

 これは、枯れ尾花だ。まやかしだ。

 きっと、何らかの原因で――理由は分からないけれど、何か別の物がそう見えているに違いない。

 しかし、それならばなぜ、手が動かないのだ。この、背後の気配はなんだ。

 耳にかかる吐息は、つんとした、錆の香りは、何だ。

「脳の問題だよ」

 河西の声が聞こえた気がした。

 そうか、脳の問題なのか。

 しかし、しかし本当に脳の問題なのだとしたら。


 自分は正常ではないのか。狂って、しまったのだろうか。






 いったい、どれほどの時間が経ったのだろう。

 沖田には分からなかった。

 気づけば、調光室には煌々と明かりがついていた。

 林や、河西や、舞台監督、役者のみんなが、心配げにこちらを見ていたのである。

「……あ」

 声を上げた沖田に、皆の顔がほっとしたものに変わった。

「大丈夫?沖田さん、顔真っ青だけど」

 河西が心配げに声をかけた。

「あ……ゲネは」

「いったん止めたよ。林くんが知らせてくれたんだ」

 その林は、沖田の背中をゆっくりと撫でてくれていた。

「すみません。ちょっと、続行は無理だと思ったものですから」

「いや、ありがとう。こちらでは判断しづらいから助かったよ」

 そう言って、河西と、舞台監督は頷き合った。


 どうやら自分のせいで、ゲネプロは中止になってしまったらしい。

 その事実に真っ青になり、沖田は慌てて立ち上がった。

「……申し訳ありませんでした!」

「いや、スケジュールに余裕はあるから、それは大丈夫なんだけど、沖田君、大丈夫?何があったの?」

「じ、実は」

 事情を説明しようとして、沖田は固まった。

 自分が見た物のことを、話してもいいのだろうか。

 もしそれで、皆の間に混乱が生じ、恐慌状態に陥ったとしたら、公演自体も危うくなるのではないだろうか。

「あー、すみません。沖田さん、鼠が苦手なんですよ。丁度機材の上をやつが走ったので、それでパニックになっちゃったみたいで」

 言葉に詰まった沖田を助けたのは林だった。

「ああそうか、古い劇場だからなあ」

「鼠取り、買っておきましょうか」

「そうだな。あと、なるべく差し入れなんかも置いていかないようにして、それで……」


 ざわざわと話す人の騒めきの中で、林が眉を下げてこちらを見ていた。沖田は感謝を込めて視線を送る。

 その後、沖田はもう一度皆に謝罪をし、スケジュールも組み直してもらった。明日の本番前にもう一度ゲネプロを行うことになり、ほっと胸を撫で降ろす。


 もう迷惑はかけられない。

 

 沖田は外に出て、新鮮な空気を胸いっぱい吸い込んだ。

 すっかり夜である。

 劇団の皆は撤収準備を始めているところであった。


 自販機で缶コーヒーを買い、プルタブを開ける。鼻に抜ける珈琲の香りが、ざわりとしていた心を落ち着かせてくれるようであった。


「今日は、大変でしたね」

 劇場の入り口に、林がいた。煙草を取り出して葉を詰めている。

「いや、ありがとう。本当に助かった」

「俺は何もしてないっすよ」

 林は照れたように笑う。

「……お前にも、見えたのか? あれが」

 思い出すと、自然と体が震えた。あの節だった男の手の感触。耳元の吐息、そして、青の光の元で紫に光る、ぬらりとした液体。

 林は煙草を咥えて、深々とそれを吸った。

「いや、俺は何も見てないっす。ただ、ちょっと普通の様子じゃなかったんで」

「そうか……」

 林が見てないのだとしたら、やはりまやかしだったのかもしれない。

「で、実際何が見えてたんすか?」

 興味津々、と言った様子の林に、話をしようとしてはたと気が付いた。

「そういえば、お客様はいつ帰ったんだ?」

「え?」

「ほら、ゲネの時に客席にいただろ?」

 できる事なら直接謝りたかったのだが、致し方ない。せっかく観に来てくださったのに申し訳ないことをした。

 

 林は黙っていた。無言で煙草を吸い、それを灰皿に突っ込むと、真剣な顔でこう言ったのである。


「沖田さん」





 客席には、誰も、いなかったですよ。






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