2-2


 春を過ぎ、薄紅色だった桜並木が葉桜へと模様替えを始めた頃、少し山間にあるこのベッドタウンにも朝晩の気温変化が薄れ始めていくのを感じる。ただ、この季節が続けばいいのにと心の片隅では思っているのだが、季節の移ろいは留まってくれる訳もなく……。やがて来るあの茹だるような暑さを思い出してしまい、その前にある長い雨のことなど殊更記憶の彼方へ追いやっていた。四月を過ぎ、五月初めの大型連休へと突入しようかとする頃ではあるが、哀しいかな最終学年となった高校生に、遊び呆けるという時間はもう既に残されてなどいなかった。


「……世間はゴールデンウィークの話題で持ち切りだってのにさぁ」

「アオハル真っ盛りの俺達がなんでこんな苦行を積まねぇといけないんだよぉ!」


 進学組の怨嗟とも言える雄叫びを耳に、就職組である俺は窓側の机でぼんやりと返ってきたテスト用紙を眺めていた。


 ――へ、平凡すぎて泣けそうだな。……進学希望なんぞしてたら俺も今頃、補習決定で呻いていただろ――

「あらら、綺麗に平均ギリギリですねぇ」

「ぬが!?」


 見知った声がいきなりそんな辛辣な言葉の刃を突き立ててきたものだから、思わず変な声を出してテスト用紙を鷲掴みして振り返ると、そこには案の定、有紀がニンマリとした顔でこちらを見下ろしていた。


「……な、有紀! 何勝手に人の答案覗いてんだよ!」


 春休みも開け、最終学年へとなった俺達ではあったが、クラス替えなどは行われなかった。昔と違い、進学組が九割を超えるようになってしまった今、クラスを分ける必要もなくなり、またメンタル的な面でも敏感になるという理由から、俺達の通う高校では留年や特別な理由がない限り、そのまま昇級するシステムになっている。……ので、結果クラスの人間の入れ替えなどはないまま、ただ教室が一階分上がるという事になっていた。


「別に見ようと思って見た訳じゃないわよ。あんたがボケェっとテスト用紙を眺めてたからどうしたのかなって思って」


 そんな彼女の言葉に、そんなにも長い間ぼうっとしていたのかと一瞬、教卓の上部に掛けられた無機質な時計を見るが、いつからぼんやりしていたかなど覚えている訳もない事に気づいて視線を有紀に戻してみると、彼女ははてなマークを浮かべて俺の視線を追いかけようとしていた。


「べ、別に良いだろ」

「……ごめん」


 思わず少しきつい口調で行ってしまった為か、彼女は謝罪の言葉を告げてくる。言われて即座にしまったとも思ったがそれ以上に進学のことを考えていたなんて言えるわけもなく「……帰ろうぜ」とぶっきらぼうに言い放ち、机の上の物をバッグに詰め込んでそそくさと立ち上がる。


◇  ◇  ◇  ◇


 校舎を出て駅までは言葉を交わすこともなく。ただぼんやりと五月晴れの空を眺めて漫ろに歩く。不意に視線を感じてそちらを見れば、ふいと顔を背けた有紀の髪が揺れる。ぞわぞわとした罪悪感がやがて重くのしかかり始めた頃、ようやっと決心して口を開いた。


「……さっきは悪かった、きつい言い方だった」

「……ううん、私こそ……。康太だってホントは――」

「それはもう良いんだ。……ただ、あの結果を見てちょっとな」


 俺が進んで就職を選んだ訳じゃないことは理由も含めて有紀は知っている。でもそのことを俺は後悔していない。あれが最善だと思ったし、今もそう考えているからだ。ただ、その事で少し学業がおろそかになってしまったのも事実。その結果を突きつけられて凹んでた瞬間を見つかってしまった気がして、恥ずかしかったのだ。


 だから――。


 咄嗟にそれを隠したかったんだ。


 ……で、結局有紀に気を遣わせてしまい、余計に自分が小さく思えてしまった。


 はははと薄ら寒くなるような乾いた笑いで誤魔化しながら「やっぱ怠けると途端に駄目になるなぁ」と痒くもない頭をガシガシやって「でも補講は出ないぜ!」とイミフな宣言をした所で駅舎についた。


 


 ホームでしばらく待っていると、アナウンスの後少しの間で電車がキィキィと甲高いブレーキ音を響かせて来る。微調整で綺麗にホームドアに合わせて停車すると、少しの間隔の後ドアが開いて数人の人が降りてくる。少しズレてその人の波を避けてから電車に乗り込むと同時、発車のアナウンスが流れてドアが閉まった。そのまま少しドアから離れながらチラと座席を見回すが、歯抜けのようにまばらになった空席を見て、数駅程度と諦め、反対側のドア縁に肩を当てて流れる景色を眺め始めた。そんな俺を見た有紀は一瞬口を開こうとして、俺の目線を見て開きかけた口を噤んで同じように反対側で目線を外に向けていた。



 ……あれからたった一年か。


 不意に視線を上げた先、真っ青な空に思い出すのは去年の事。時期はもう少し暑かったが、空は今のように晴れ渡っていた。いつものファミレスで健二と休みの計画を立て、勢い込んで始まった夏休み……。立て続けにいろいろなことが起こり、目まぐるしく変わっていった……。


 そんなふうに考えて、ふとポケットに突っ込んだ指先に触れるスマホで思い出す。



 ――音のない世界でただ一人、静かにじっと佇む彼女の姿。


 真っ白なワンピースに胸元にあしらわれたレースが涼しげで、デコルテに沿って肩口まで生地に編み込まれている。黒い髪は肩口のあたりまで伸びていて、サラサラと風もないのに揺れていて。自然に目線が追った先にあった顔は、とても……。


「康太!」


 瞬間、その声にビクリとなって見返すと「駅、着いたよ」と反対側のドアを指さしている有紀に「あ、あぁ」と慌てて返事をして電車を降りた。



 互いに無言のまま、自転車置き場で自転車に乗り、何時ものようにどちらが先というでもなくペダルを踏み込む。時間帯がちょうど昼前ということもあり、駅前商店街には人通りが結構増えているのが見えたので、そちらに入らず幹線道路側に廻る。車道には結構な量の車が走っているが、歩道には人がまばらで自転車用レーンには居なかった為、スムーズに進む。対面側にファミレスが見えた時、立ち寄ろうかとも考えたが、結局素通りして住宅街入口前の信号機まで一切停まることはなかった。


「……お昼、家で食べるの?」


 信号待ちで停車した時、横に並んだ有紀が不意にそんな言葉をかけてくる。


「そのつもりだけど……何かあるのか?」

「……ううん、別にないけど。さっきファミレスちらっと見てたから」

「……恵、家にいるから」

「……そだね」


 言ってから卑怯者と自分を罵ってしまう。そんな事を言ってしまえば、彼女は黙ってしまうしか出来ないのは分かっているのに……。



「ただいま」


 自宅へ着き、適当に自転車をポーチに停めてから玄関ドアを引く。いつものクセで声を上げながら玄関で靴を脱いでいると、ここ最近聞く事のなかった声に思わず顔を上げた。


「……おかえり」


 ――恵が普段着で立っていた。


「……あ、あぁただいま。……ってか、部屋着じゃないのか?」

「……さっき、戻ってきた」

「……え?」

「こんにちわ……って康太?」


 玄関先で固まる俺の背にチャイムも鳴らさずいきなりドアを開けた有紀が、恵の言葉に驚いた俺と声が重なってしまったのは仕方ない。




◇  ◇  ◇  ◇




 ボケェっとした表情のまま、洗面所で手を洗う。


 ――さっき戻ってきた――


 その言葉を咀嚼した途端、『出掛けたって事?!』と一人でわめき、慌ててリビングに顔を出すと、ソファに母と、有紀。そして一人席に座った恵が俺の言葉など聞こえなかったようにキャイキャイと、テーブルに並んだ綺麗な菓子類の包み紙を広げている。


「……ね、ねぇ御三方、それより先に飯――じゃなくて!」


 


 ――もう出掛けられるようになって一週間は過ぎてるわよ――


 まだ、お母さんと一緒じゃないと無理だけど……。


 小さくそう付け足した恵の顔は少し俯いていたけれど、その変化は着実に進んでいるのだと実感できた。


「……そ、そうなんだ。よ――」


 良かったとつい言葉に仕掛けて飲み込んだ。……確かに喜ばしいことだし、俺達家族にとっては前進できたのだと思えることだ……。でもだからと言ってそれが本人にとって安易に『良かった』と言って良いものか? 確かに一歩なのかもしれないが、もしそれが逆に彼女自身へのプレッシャーへとなってしまっていたらと余計なお世話を思ってしまった。


「……バカ康太。勘ぐりすぎ……。」

「変な顔してどうしたの?」


 思わず『ぐぬぬ』と本気で声に出しかけて飲み込んだ。恵の洞察力には脱帽モノだが、我が母上様よ……。気づいているにしてもその物言いはちょっとどうなんだ? そしてこんな家庭環境でなぜ俺はグレてないんだろう? 


「――は、腹が減ってるんです! ギブミーらんち!」


 

 誤魔化した視線の先、リビングのサッシ窓の向こうは陽だまりが出来ていて、その光に思わず、目を細めてしまう。


「はいはい、康太はおやつ無しで良いと」


――いや、要るよ?!



 



 

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