六月十八日水曜日②
ぼくたちは教室のうしろの美術準備室へと向かう。引き戸を開けるさいに、抵抗感はやはりない。観光地の史跡でも見ているかのようだ。
隣に立った萩尾にぼくは尋ねる。
「芹澤さんが鍵を見つけて開けたんだよね」
「そう」
「なんで開けようとしたの」
「わかんない。芹澤さんが悲鳴をあげて、やっと気づいたの」
「くまたろうの説なら、死体を発見するふりだったんだろうけど」
ぼくたちで話しあってもわかることではない。
「上野の血は、どのくらい広がってたかわかる?」
「上野くんのいたとこから、こっちの壁にかけて、こう、べったりと」
萩尾は手を広げて血が飛んだ範囲を示す。上野の死んでいた棚と机の間から、出入り口のすぐ右手にある壁にかけて、べったり。
さらに出入り口から見て対面の棚を指さす。
「向こうの棚のほうまで、文字どおり血の海だったのよ。机の下にも広がってた」
「上野は出入り口に向かって倒れてたの?」
「そう。うつ伏せだった」
「室内に犯人が残っていたとして、血を飛び越えて外へ出ることはできるかな」
「背の高い人なら、できないことはないかも。それに殺したばかりなら、血だまりはまだ小さかったんじゃないかな」
「そうだね。それに、たとえ踏んだとしても、次々にあふれる血で足跡は残らなかったかもしれない。その場合、足の裏についた血をどうにかしなきゃだけど」
血だまりを越えることはできる、と。
ぼくは扉の美術準備室側の面を指し示す。
「血は扉にもついてた?」
萩尾は首をふる。
「わかんない。外から見てただけだから」
「じゃあ、そっちには?」
反対に美術室側の面に軽く触れる。
「ついてるわけないんじゃないの?」
「どうかな。たとえば、扉まで血が飛び散っていたとして、それで開けたらどうなる?」
萩尾は美術室側から扉を開け閉めする。
ぼくたちから見て手前の右の戸が、奥の左の戸に重なる。
「血が、左の戸についちゃう」
「そう」
開ければ、二枚の戸が交差し、右の戸の血の付着した面を挟むかたちになる。重なった左の戸の、美術室側の面に血が付着する。再び閉めたなら、ついた血を美術室側にさらすことになる。
美術室側の面に血がついているということは、上野が死んだあとに誰かが扉を開けたことになるのだ。
「血なんてついてなかったと思うけど」
「じゃあ扉は開けられなかったんだ」
「開けて血がついちゃったとしても、犯人が拭きとってるんじゃないの」
「だとしても、美術準備室側の血には擦った跡が残る。それで上野が死んだあとに誰かが扉を開けたとわかるだろう」
「死体を見つけたとき、芹澤さんが開けた跡かも」
「上野を殺したすぐあとと、翌朝に芹澤さんが開けたときとじゃ、血の乾き具合が違うと思うよ。殺してすぐに開けたのなら、そのかたちのまま残るんじゃないかな」
「なるほど」
「でも、そんなものが残っていたなら、すでに問題になっているはずだ。つまり、上野の死後に扉は開けられなかったんだよ。犯人なんて、そもそもいなかったんだ」
どうだ、とぼくは萩尾を見る。
萩尾は腕組みをして扉をじっと見つめた。
「それは、血が扉まで飛び散っていればの話だよね」
「そうだけど」
「じゃあ、扉に血なんてついてなかったんだ」
萩尾は上目づかいにぼくを見る。
「扉に血が付着しないですむには、ふたとおりの場合が考えられる。上野くんの血が扉まで飛び散らなかった場合。それと、血は扉の位置まで飛び散りはしたんだけど、扉に付着しなかった場合」
「それは、つまり――」
「扉が開いてたんだよ。そして、誰かが自殺に見せかけるために閉めたの」
ぼくは素直に感心してしまった。
「すごいじゃん、萩尾」
萩尾はまんざらでもなさそうににやにやしていた。
「くまたろうが乗り移ったみたいだった」
「が、学校でその名前を口にするのはやめて」
ぼそぼそいいつつ、こんどは顔を赤らめる萩尾。
「さすがに恥ずかしいんだ」
「憑依モードってことで、できないことはないけど」
「遠慮しとくよ」
ぼくは扉を閉めた。
が、鍵をかける間もなく、萩尾がまた開けはなった。
「どうしたの」
「ちょっと待って。なんか、違和感があって」
萩尾は室内をじっと睨む。
小学生のころ、萩尾が「見える人」だと噂されていたのを思い出す。その実態は五十歩百歩のところといえるだろう。それにつきあうぼくもぼくだが。
「なにか見えるとかいわないでよ」
「見えるといえば、見える」
「おい」
「いや、あるはずのものが、ちゃんと見えてるの」
「犬が吠えなかったのが不思議、みたいな話?」
「木皿儀。誰かが花子さんを持ち出したことってあった?」
「花子さんって?」
「あのマネキン。太郎さんと花子さん」
萩尾は、準備室の奥、わが校の冬季用の制服を着たマネキン二体を指さす。学生服が太郎さんで、セーラー服が花子さんなのだろう。二体とも艶やかな鬘まで被っている。
「ごめん、知らない。少なくとも今週はないと思う」
「なんかね、花子さんがいなかった記憶があるんだけど」
「マネキンが自分から外へ出たとか?」
「やめてよ。怖いじゃん」
なにもいわないでおく。
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