Seirios γέννα = シオランの祝詞;

 祝福は、苦悩の仮面を被って訪れる。そして、歓びという歓びの、果てにではないにせよ少なくとも出発点には、一なる神が在る。これは彼方かなたから此方こなたへの祝詞のりとである。

 の世界に誕生するとき、きっと多くの子は祝福されながら産声うぶごえを上げるのだろう。私もあの子も、その点において違いはないような気がするのだけど、祝福というものがすなわち赤子に幸福をもたらすのかというと、そんなことは無いのでしょう。私にとって両親の祝福は喜ばしいものであったけれど、あの子にとっては――。

 私はただ、此の世界が平和であることを望むだけだ。最大多数の最大幸福を求める意志が、楽園の必要条件となると信じて、私は目の前に現れた儚い燈火ともしびに薪をべただけのことだと自戒する。

 夢の中で物語る、私に内蔵された別人格――オルター・エゴ――が問い掛ける。「この世界を愛しているか」と問う、無論のこと、愛しているに違いない。たった一つでもこの世に愛する物が在るならば、世界を愛するには充分過ぎるから。


[そうでしたか、ミノリは一人でも問題なさそうなのですね。それは何よりです]

[うん、いつまでも私が傍にいるってわけじゃないし、思ったより成長しているんだなって……ちょっと寂しいけど、嬉しいかな]

 彼女、ライラックは表情は見えないもののしとやかに喜びを表現した声音を反響させた。宛ら女神のようにいつも優しく見守るような彼女は、オルター・エゴとしては特殊な存在でもあった。というのも、ライラックとは私が名づけたものではなく自ら名乗ったもの、つまり彼女の存在そのものが不具合エラーなのだ。どうか自分のことを黙っていてほしいと頼むものだから、今までずっと通常のオルター・エゴを持つかのように振舞っているが、バレたらどうなってしまうのだろう。流石に可哀そうだしね。彼女はとにかく好奇心旺盛で私たちの日常についてしきりに質問する。

[はあ、まったく。ミノリと違うクラスになるために手を抜くなんて、悪い子ですね]

[良いじゃないの、堅苦しいことはあの子が代わりにやってくれるから。私が頑張る理由なんてもうないし、私は私の好きなようにのんびりと残りの人生を過ごすんだから]

[本当ですかねえ、いつもミノリのことを気にかけているじゃないですか。どうせあの子に何かあったら助けてあげるくせに]

[いやいや、もうそこまで過保護じゃないよ。ミノリも大きくなってきてお姉ちゃん離れしてきたし、むしろ私の方が助けられることになるかも]

 駄弁っている間にミノリが起こしに来る時間が迫っているため、いつものようにオルター・エゴをオフにし、アラームが鳴り始めるのを瞼を閉じて待つ。なぜ自分で起きないのかというと、ミノリに起こしてもらうこと、ミノリに怒られつつも手を牽かれる朝が私の好きな光景だからとしか言えない。


  ポーポッポッポッポッポッポーポッポッポッ

  ポッポッポッポーポッポッポーポッポッポッポー

  ポーポッ

  ポーポッポーポーポーポーポッ

  ポッポッポッポッポーポッポーポッポッポッポーポッポーポッ   

  ポーポー


  ……ピチューン≪停止音≫


 ちなみにアラーム音は毎回ランダムのようで、未だに重複したことがない。なぜこんなものを憶えているのかというと、暗記が私の数少ない得意分野だからだ。人生に何の彩りももたらさない無意味な才能だけど、おかげで神経衰弱ではほぼ負けたことがない。

 結構凄いでしょ?

「おーい、早く起きないと置いていくぞ」

 布団がばさーっと剥ぎ取られ、ワラジムシみたく不器用に丸くなる。昔はもっと綺麗に丸まっていたんだけどな。

「おはようミノリ。起きてるから落としたりしないでね、結構痛かったから」

「だったら起き上がれ、着替えろ、はやく」

「もう、しょうがないなあ。そんなに私の着替えが見たいなんて……冗談だから怒らないでよ」

 本人は認めたくないだろうけれど、私の妹は世界一可愛い生命体と言っても過言ではない。親バカならぬ姉バカということなのかもしれないけれど、実際に蓮ちゃんだってこの子の可愛さに魅了されたわけだし。何というか、小動物のようであるというか、小犬のようでありながら子猫のようでもある、そう、可愛さにおける究極生命体アルティミット・シイングみたいな感じだ。

「何か、不快なこと考えてないか?」

「ん、深いことなら考えてるよ。とおってもふか~い考え事をしていたというのに、失礼しちゃうなあ」

「ミーちゃんのこと考えてたのよねえ。よしよし、ちゃんと友達もできて良かったわね」

 ママに頭を撫でられてやはり嫌がる振りはするのだけど、どう見ても嫌がっているように見えない。こういうところが、まさに可愛がられる理由と言える。

「別に普通でしょ……向こうがどうしてもって言うから付き合っただけだし」

「うんうん、友達とも同じクラスになれると好いね」

 左右から頭を撫でられる妹を眺める。現在から未来に至るまで、ミノリの幸せそうな姿を見る度、あのときの選択は間違いではなかったのだと私は思うことができるだろう。物語としては取るに足らぬ風景、描画する価値もないと断じられる風景こそが、セリオンにおける幸福の形態であるが故に。

 あの日、私は私の存在理由を定義されたという純然たる事実を噛みしめて、箱庭の雨淖うどうを歩む。


   *


 このカルパという国は十の地区に分かれており、エリヌス統一学校は国の中心となる第一区に位置している。私たちやハム君たちが住んでいるのが第三区であり、各地区ごとに様々な文化というか特徴が色々あるのだけど、他の地区についてはまたいつか話すことにしておきましょうか。

 まずはこの第一区について説明してあげる。

 第一区はカルパ国の白き女王であるステラ――星光――の分体である『コナツ』様が管理していて、当然ながら最も重要な位置を占める場でもある。コナツ様は分体のリーダー的存在であり、エリヌス統一学校の管理者も兼任している、校長というか理事長というかそういう感じでもあるらしい。とにかく切れ者とのことで、パパも仕事で助けられていることが多いとか言ってたっけな。よく冷たい人だと勘違いされるらしいけど、パパが言うには割と気さくで面倒見の良い人らしいので、私も一度は謁見したいと思っている。

 察しているかもしれないけれど、先ほど述べた十区にはそれぞれ管理者となる女王の分体が配属されているんだよね。彼ら彼女らはそれぞれ独自の文化を築き上げているんだけど、私たちの地区では文学というか同人イベントというか、漫画とかそっち系が盛んなんだよ。この特徴も、管理者である『ユーミ』ちゃんの趣味が色濃く反映された結果だと言われてて、ああ、なぜコナツ様と違って呼び方がフランクなのかって? 特に意味はないけど、それぞれのキャラクター的にそう呼ばれているというだけで、皆んながユーミちゃんと呼んで皆んながコナツ様と呼ぶからその通りにしているに過ぎない。実際、ユーミちゃんは何というかミノリと似た物を感じるところがあり、何か可愛らしい人なので納得なんだけど。

「よっ、蓮ちゃん」

「よーよー、セレマにノリちゃん。今日のノリちゃん成分を摂取させておくれ」

「まだ僕、挨拶もしていないんですが……」

 彼女と話している途中、道すがら見つけた友人に挨拶して、昨日と同じように蓮ちゃんはミノリを可愛がり始める。そんな、予定調和。可愛がられている方は虚ろな目をしていて、もう抵抗する気もないようだったけど。

「もう蓮ちゃん、早くしないと遅刻しちゃうよ?」

「ごめん、本当にごめん。悪気はないの」

「もう慣れてきました……せめて十秒までにしてください」

「天使だ、天使がおられる……! ありがとう、ミノリちゃん」

 お、珍しくちゃんとミノリちゃんって呼んだ。どうでもいーことを考えていると、あっという間に学校に着いてしまった。相変わらず真っ白で病院みたいだなと思う。

 なぜこんなにも白いのか? ああ、そこには大人の事情があるらしいよ。歴史的にはあの『黒白の客星』に由来した象徴シンボルの意味が含まれるとされてるね。では、黒色の要素はどうしたのかという疑問が出てくるだろうけど、どうやら黒の少女は元々ステノ人の血を引く者らしくて、特別自治区という存在そのものが「黒」としての象徴になるんだ。これはカルパ史の文献を漁ればすぐに知ることのできる情報なので、歴史好きの人なら誰でも知っているんじゃないかな。


 ポロロッ――各位、成績表の確認をお願いします。


 境界線を越え、学内へと足を踏み入れた生徒の総てに通知が届くようプログラムされていたようで、即座に試験結果が仮象かしょうの網膜上に表示された。想定通り、私はクラスⅡで確定――そして、ミノリは当然クラスⅠとなる。流るるままに物事は進んで往く。

「さっすが、ミノリなら余裕だと思ったよ」

「そうじゃなくて……何で本気出さなかったんだよ! ぜっったい、手ぇ抜いただろ」

 あらら、何だか本気で怒っているみたいだけど、私は意図的に軽薄な態度で受け流すことにしました。そう、向上心のない怠惰な人間であるべきだからね、私は。

「そんなことないよ、決して楽をしたいからクラスⅡを狙ったとかそんなことはありませーん」

「セレマ……何でそこまで」

「随分と騒がしいな、品の無いことだ」

 唐突に割り込む声に内心感謝しつつ、妙に偉そうな男の子の姿を認めたのだけど、視線の先にはミノリがいる。私は彼の姿に見覚えがあるが、彼はきっと私みたいな人間のことは覚えていないに違いない。なぜなら、彼はそういう風に完成されているからだ。

「あ、そうだった! お前、約束は覚えてるな」

「ふん、だから態々出向いてやったんだ。さて、お前の順位を教えてみろ、結果は既に見えているが」

「ふん、言っただろ。余裕の一位だよ、馬鹿が。約束は覚えてるよな? 負けた以上、お前にはここで土下座してもらうんだからな」

 もしかしてこの子たち、試験結果を競い合っていたのだろうか。何て微笑ましい争いだろう、友達ができたとは聞いていたけど、こんなにも仲の良い相手が初日からできたなんて、お姉ちゃんちょっと感動しちゃった。でも、周りの子が引いているんだよねえ、二家の人間相手にあの態度なら当然だよねえ。

「愚かだな、結果はと言っただろう。全体の順位をよく見てみろ。お前以外にもう一人、満点かつ一位の人間がいるのが解らないのか?」

「は? じゃあ、お前も……?」

「そういうことになるようだな。さて、どうやらこの勝負は引き分けということになるようだが、どうする気だ?」

 とりあえず結果は引き分けであるらしい。ところで、成績一位ということは、このあと行われる新入生代表の挨拶も任されるのが定番らしいけど、ミノリはちゃんと覚えているのだろうか。人前に立つのが苦手なんだし、別に辞退して彼に任せちゃっても問題ないんだけど。

「どうするって……そんなの決めてなかったし」

「まあいい、こんな茶番に興味はないんだ。それよりも、少しばかりだがお前という人間に興味が湧いたぞ、泣いて喜べ」

「何それキモいんだけど」

 うんうん、青春だなあ。ただ仲が良いというだけではなく、時には喧嘩し切磋琢磨せっさたくまするのも一つの友情の形だよね。

「どうやらお前は、他の有象無象うぞうむぞうに比べれば少しは使える頭を持っているようだからな。将来、俺の部下として働く可能性がある以上、お前を管理しておくべきであることは明白だろう」

「いや、気持ち悪いって! 何が管理だ、言っておくけど絶対に私の方がお前より頭も良いし足だって速いんだからな」

 いや、足の速さを自慢するのは子供だけだよミノリ。

「お前の意志など問題ではない、俺の行動は俺が決めるだけだ。態々わざわざ時間を割いてやるんだ、精々期待を裏切ってくれるなよ。では、また後ほどな、白犬」

 本当に徹頭徹尾てっとうてつび、ミノリ以外の人間を視界に入れることもないままに立ち去ってしまった。相変わらず傲慢というか無感情というか、いかにもカノシタ家といった態度だけど、どういう経緯で仲良くなったんだろ。ミノリの性格上、絶対に関わろうとしないタイプだと思ったんだけどな。

「ところでミノリ、このあと新入生代表の挨拶あるんだけど、勿論大丈夫なんだよね? 最優秀成績者は新入生代表に選ばれるのが慣例って、前に父さんから聞いてたと思うんだけど」

「あ…………ああ、当たり前だろっ。大丈夫、だいじょうぶ……」

 あーこれは失念してたな。さっきまでの威勢が綺麗さっぱり失くなってる、見慣れたミノリの姿だ。

「まあ、ノリで何とかなるって。頑張って!」

「あんなのはそれっぽいことを適当に述べるだけで良いんだよ。がんばれー、ノリちゃん」

 まあ、あがり症なだけで話し出してしまえば饒舌だから何とかなると思うことにしましょう。パパみたいになりたいというなら、この程度の障害はいつか乗り越えなければいけないのだから。

[本当に大丈夫なんですか?]

[大丈夫じゃないでしょ、どう見ても。でもさ、若いうちに失敗しておくのも大事だと思わない?]

[それはそうかもしれませんが、貴女みたいな子供が言うことではない気もします]

「ミノリさん、おはようございます。顔色が優れないようですが、どうかされたのですか?」

 私の知らない人がまたミノリに話しかけている。あれ、意外とちゃんと人と接していたんだなあと素直に感心しました。いや、感動さえしていた。

「ああ、おはよう……別に何も問題ないよ。ごめんローレル、本当は僕が一位になってあいつに謝罪させるはずだったのに」

「もう、構いませんよ。わざわざわたくしなんかの為に頑張ってくれて、ありがとうございます。このあとの挨拶も楽しみにしていますね」

「あはは……任せてくれよ。僕は天才なんだ、挨拶程度、簡単に違いないからな」

 なんて見栄っ張りなのか、可愛いけど痛々しいよ。物凄く口出ししたいけれど、まだ堪えるべきであることを意識することで感情をたいらかにする。

「初めまして、ミノリのお友達ってことでいいのかな? 私はこの子の姉、セリオン・イヌボシって言います」

「あら、ミノリさんのお姉さんでしたか。こちらこそ初めまして、わたくしはローレル・アカボシと申します。以後、お見知り置きを。あ、そうだミノリさん! 私もクラスⅠに入れたんですよっ、これからもクラスメイトとしてよろしくお願いしますね」

「そっか、まあ天下のアカボシだし当然といえば当然だよな」

 ちなみに、クラスⅠに入ることができるのは上位二十人のみなので、基本的に正真正銘の天才っ子しか存在しない。自分で言うのもどうかと思うけど、クラスⅡだって上位四十人までしか入れないから結構凄いので私も実は凄いのです。がはは。

「おっ、いたいた。おはよう二人とも。凄いなミノリちゃん、クラスⅠなんて」

「おはよう、ほんまに凄いねえ。うちら揃ってクラスⅡだったから、寂しくなったらいつでも会いに来てな」

 事前に配布された学校案内図によると、クラスⅤ~Ⅰは順番に一階から五階にそれぞれ存在するようなので、クラスⅠとⅡは簡単に会うことができる。つまり、休み時間に様子を見に行くことも簡単ということだね。

「おー、二人ともおはよう。何か皆んな勢揃いで賑やかになってきたねえ。私もクラスⅡなんだ、二人ともよろしくね」

「おう、よろしくな。えっと、ところでそちらのお二人は?」

 ハム君がローレルさんと蓮ちゃんを視て訊ねると、彼女は努めて慇懃に礼をしながら自己紹介していた。何で私にはフランクだったの?

「初めまして。私、ローレル・イヌボシと申します。お気軽にローレルとお呼びください、アムレートさん、オフェリアさん」

「え⁉ 何で知ってんの?」

「え⁉ 何で知ってるの?」

 おお、流石双子だ。息ぴったりじゃん。

「私、これでもアカボシ家の者ですから。著名な家の方のことは大体把握しているんですよ。お二人はご存じないかもしれませんが、アンデルセン家は第三区で代々文学作品の布教に精力的に協力いただいておりましたから、ユーミ様からの評価も高いのです」

「へえ、知らなかったわ……結構凄い家だったんだ、うち」

「何か、そこまで把握されてるのちょっと怖いんやけど」

 実際のところ、カノシタ家とアカボシ家が全力を出せば一人くらい存在を抹消しても揉み消すことは簡単な気はした。少なくとも、建国以来そういった不審な失踪事件の話は一切出てきたことがないらしいので、現状は心配ないのだろうけど。

「安心してください、他者に重要な個人情報を漏らすようなことは致しませんから。もしそんなことをすれば、怒られるのは私ですし」

「なんだ、なら大丈夫だな」

「簡単に信用しすぎでしょ……まあ、確かにそんな悪そうな人には見えないけど」

 この双子と私たち姉妹を見ていると、やはり次男次女というのは自由奔放な長男長女と比べてしっかりしているというか、まともに育ちやすいのかなと思ったりした。多分、そんなことはないんだろうけど。

「あ、私はセレマとノリちゃんのお友達のチゥン・リェンファです。蓮でも蓮ちゃんでも好きに呼んでね、さん付けはダメだよ」

「うふふ、昨日二人で話してるときに怒られたんですよ。蓮さんじゃなくて蓮ちゃんと呼べって。だから、素直に蓮と呼ぶことにしました」

「そっちにしたんだ。あれ、でもミノリはさん付けだけど問題ないの?」

「いいのいいの、ノリちゃんは特別だからね」

 ミノリだけが特別だという言葉、ミノリのことを眇める榛色の瞳ヘーゼルアイに浮かべた色彩、表現された記号としての情報を観測すると、私たちは一瞬だけ彼方あちら側を視つめて記録した。

〈ミノリ、ちょっとこっち来て〉

〈何だよ急に、僕はこれから〉

〈いいから、来なさい〉

〈な、何だよ、真面目な声して……ちょっとだけだぞ〉

 私たちの視線の動き、表情の動きで皆んな察してくれたらしく、ミノリだけが私の傍に寄る。

「で、何なんだよ、何か大事な話があるんだろ?」

「いや? 大事じゃない話をしたくて呼んだんだよ」

「はあ? どういう意味だよ」

「ふふん、これから頑張る我が妹に勇気の出る魔法をあげようと思ってね」

 何を考えているのか、理解できるとは言わないけれど予想することは簡単で、硬くなった手指をほぐすように、隙間を埋めるように私の右手を左手へと絡める――私が、私たちが繋がるときはいつもこの子の左手が始点だったから。

「ちょっと……いきなり何するんだよ」

「まあまあ、懐かしいでしょ。少し前までは、よくこうして手を握っていたよね。覚えているでしょ?」

 僅かに戸惑いながらも、ゆっくりと頷いて言葉を返す。

「覚えてるよ……お節介な姉が、いっつも僕の手を握ってくるからな。忘れるわけ、ないよ」

 当たり前なことを訊くなよって、言いたいんだろうな。ミノリなら、きっとそうだよね。

「ねえミノリ、知らない間にあなたはとても立派に育ったよね、一人で物事を判断して行動して、友達まで作ってくるなんて凄いよ。もう、臆病で泣き虫なだけの自分じゃないって、自分でも理解したでしょ? だから、不安でも自信なんて無くたって胸を張りなさい」

 ありきたりな言葉ばかりだけど、今のミノリにはこれだけで充分だと思うんだ。だって、ミノリは本当に私が思っていた以上に立派に成長してくれたと確信しているから。

「うん……頑張る。その、ありがと……」

「うん、頑張れ! ミノリ!」

 いやあ、我ながらこれは良いお姉ちゃんムーブできたんじゃないかなって思います。これで不安が多少は取り除けたっぽいから、後は緊張をほぐすだけだね。

「あ、でも、もしも失敗したらそのときは私と友達が揶揄からかってあげるから安心してね」

 上げて上げて落とされたミノリの顔は、まさしく鳩が豆鉄砲を食ったような表情と言えるだろうね。うん、良い顔。

「いや、そこは励ませよ! ……ああもう、何だか緊張するのが馬鹿らしくなってきた。誰かのせいでなっ」

「あら、その誰かさんに感謝しないとねえ、えはは――じゃ、いってらっしゃい」

「――うん、いってくる」

 さて、暫くは私のお姉ちゃんとしての役割はお休みかな。そして私は私で、自分の人生を生きなければならない。たとえ家族であっても、学校に通う子供にとっての世界は家ではなくなるのだから。家は安息の地であり、学校は大袈裟かもしれないが冒険の地のようなものだから、自分の力で生きるための力を持たなければいけない。そして、その力は他者を利用することでも生じるものであるから、人として生きる限りは協力者を見つけておくことも肝要だ。滑らかな社会に存在する自分と、その敵――どのように生きていても、それは生じてしまうものだから。

[今日のセレマは随分と真面目ですね。真面目すぎるあまり、思わず聞き入ってしまいました]

[せっかくそれっぽい言い回しで雰囲気出したのに、茶化すのやめてよー。そういうの、KYって言うんだよ]

[けーわい? 何ですかそれ]

の略なんだって、頭が悪い表現で気に入ってるんだ]

[略す意味が全くないような……昔の人のやることってよく解らないですね]

 人類は実に多種多様な言語を生み出したけれど、その中でも日本語という言語は私にとって特に興味深いものだった。私たちのファーストネームであるイヌボシも起源は日本の姓だし、私たちのご先祖様もきっと日本人だったはずなので、当然と言えば当然なんだけど、実はそんなのはどうでも良くて、根源的な理由は非常に感覚的なもので、私は日本語という言語に魅了されたに過ぎない。それは色んな作品を観る度に実感するというか、とにかく私の好みなのです。何というのかな、本能的に何か美的なものや親しみを覚えるというか、やはり血筋が要因なのかな?

「どうセレマ、ノリちゃんは大丈夫そう?」

 蓮花が私の顔を覗き込む。皆んなが何を話していたのか、その微笑みから読み取ることは難しいことではなかった。

「関係ないよ、大丈夫でも大丈夫じゃなくてもミノリの何かが変わるわけじゃないし」

「ま、それもそうだね。ふふん、いざとなったら私が助けるから、お姉ちゃんは安心していいよ」

「さっすが華族かぞくのお嬢様。頼りにしてるよ、蓮ちゃん」


   *


 現在、私たちはとっても大きなホールの座席に着いている。一年生全員でも埋めることのできない巨大で立派なこのホールは、定期的に講演会とかコンサートにも利用されている。相変わらず静謐で完美な施設という印象を抱かせる空間だ。

「久しぶりだなあ、テンション上がってきたかも」

「セレマってここ来たことあるの?」

「うん、ほら、コンサートとかライブとか親が好きだからさ、何回か観に来たことがあるんだ。凄い迫力だから、今度一緒に観に来てみる?」

「音楽って、別に家でもじっくり聴けるじゃん。そんなに違うものなのか」

 ほらでた、これだから素人は困るんですよねえ。一度、あの音響が創り出す空間、すなわち世界を体感すれば病みつきになるというのに。だが、許しましょう。無知は罪でも罪は償えるものだと古事記にもそう書かれている。

「まあまあ、百聞は一見に如かずという言葉があるように、実際に体験すれば魅力がよーく解るよ。確かに家でゆっくりと楽しむのも乙なものだけど、やっぱり生の音楽、歌声は心にどーんと響くものだからさあ」


 ポロロッ――静かにしてください


 やば、調子に乗り過ぎた。

 二人も私に巻き込まれてすっごい睨んでくるので、「ごめん」と両手を合わせて頭を下げておきつつ、私たちは今度こそ壇上のアクティングエリアを視つめた。

 校舎とは不釣り合いな古臭い装飾は古典演劇を想起させ、私の想像性を刺激してくる。既に生かされたライムライトが特有の白光で照らす舞台上の人形ひとがたは対照的な様相を呈していて、はっきり言うと、ガチガチに緊張しているのが明らかだった。多分、ミノリのことを知らない人たちでも見れば判るであろう程度にね。一方、ゼライン君は相変わらずの無表情で緊張した様子は欠片も見られなかった。私たちのことなんてカボチャ程度にしか見ていないだろうし当然だけど。

「やあやあ、諸君! よくぞ我が校へ入学してくれたね、歓迎するよ!」

 円型のホールにて、にわかに大きな声が反響する。皆んなびっくりしていたけれど、主役二人だけは静かに立っている。暗がりから歩み出る声の主は、この国に住む人なら誰でも知っている有名人ではあったけど、こうして目の前で話す姿を見るのは殆どの子が初めてだったと思う。

 その姿はいつくしく麗しき女王の片鱗を示すがごとく白光をまとい、軽やかで精彩に富んだ音声に似つかわしくないほど深く昏い目色を以って私を射抜いた――実際には視られた時間は一秒にも満たない刹那であったが――しかし、魔法に掛けられたように誰もが同じような感覚に陥っていることを私たちは共通認識している。

「あれ、皆んな表情かたくない? まあいいか、知っている子も多いだろうけど、私がこのエリヌス統一学校の理事長を務めている『コナツ』だよ。で、一応これって入学式だからさ、お偉い立場の人間が毎年偉そうに年若い君たちに偉そうに色々語るのが恒例なわけで、去年までは校長に任せっきりだったんだけど、ちょっと外せない用事があって私が代理で挨拶することになったんだ。でね、私は常々思うのだけど、きっと子供にとって年上のお節介な長話ほど退屈なものなんてないと思うわけですから、以上を持ちまして、私からの挨拶は終わりとします。あ、あとこれからながーい付き合いになると思うから、何か困ったことがあれば気軽に相談してくれたまえよ。ここだけの話、厳しい校長と違って私はとても優しいからねえ。じゃあ二人とも、あとはよろしくねー」

 子供のような満面の笑みを浮かべつつ、コナツ様はゼライン君に挨拶を促しつつ、ミノリのことを穏やかな微笑で眺めている。宛ら聖母のように。

「あれ、あのゼラインって人、コナツ様になんか言ってる?」

「コナツ様にも偉そうに喋ってることだけは伝わってくるな、あそこまで行くと清々しいもんだ」

 コナツ様に対してもあの態度、流石だねえ。拡声機能により相変わらずコナツ様の声だけは伝わってくるので、何か普通ではないことを言ったことは誰でも判った。

「いやあ、そういうこと言っちゃうかー。ま、確かにそうかもね。私はそれで問題ないよ。でも今年の代表はもう一人いるんだから、ミノリス君にも意見を訊ねるべきじゃないかい?」

 私たち三人はお互いの顔を見合わせて、首を傾げる。

「うーん、何か揉めているっぽい?」

「主に新入生二人がな、コナツ様の前で凄いなあいつら。昔だったら間違いなく社会的に死んでただろ」

「うちには無理やなあ。この人数の前で喧嘩って、ミノリ実は度胸あるんかな」

 予想していた展開とはかなり違うなあ。二人がそれぞれ挨拶して、その出来について争うことになるのかと思ったんだけど、やっぱり読めない人だなあ。

「さて、傍観するばかりの怠惰なお前たちにも意見を聞いておいてやろう。俺はこんな挨拶も入学式も無意味な茶番でしかないと思うのだが、お前たちはどうだ? もしも反論があるのなら挙手してみろ、反論が一切ないのなら入学式などさっさと終わらせようじゃないか」

 静寂が場を飲み込み、つまらなそうに失笑する彼の声が響く。ミノリは何か文句を言っている様子が見て取れるが、拡声機能の権限が付与されないために何を話しているのかは此方の誰にも伝わらない。また言い争う二人を仲裁するためか、愉快そうなテンションでコナツ様が此方へ語りかける。

「はいはい、二人とも、そこまでにしてくれたまえ。これ以上、私たちのために彼らの時間を消費させてしまうのは確かに申し訳ないからねえ、続きは個人的にやってくれると助かるよ。ああ、皆んな待たせてごめんね。やっぱり新入生の挨拶は無しということでよろしく、別に式そのものに意味があるわけじゃない、重要なのは入学したという事実だからね。うむ、偶にはこういうのも面白いし逆に良い体験になったんじゃないかな。では、これにて入学式を終わりとします、残りのプログラムなんてどうでもいいし、ほら解散だよ解散。さあ、教師諸君、さっさと子供たちを教室へ案内してくれたまえ。ではでは、実り有る学生生活を――」(この間約五秒くらい?)

「はっや! 自動字幕起こしでも拾えなかったぞ、本当に自然言語か?」

「まあ教師たちも自律機械アンドロイドだからねー、これくらいは余裕だよ。多分、あれでも遅めに喋ってくれてる方だし」

「まあ、分体一の天才せいのうって言われてるもんね、流石に処理速度は段違いなんやろなあ」

 恐ろしく早い語り、私じゃなきゃ聞き逃しちゃうレベルだね。あ、暗記が得意という私のだけど、これは視覚的なものに限らず聴覚においても発揮される才能ということなんだ、一応補足ね。

 というわけでね……結論から言うと、新入生代表の挨拶は行われませんでしたとさ。まさか、まさかだよね、あれだけ感動的に送り出したのに、まじで? って感じだよね、本当に。

 具体的な理由は知らないけれど、ゼライン君とミノリの間で何かしらの言い合いがあって、何を思ったのかはこれまた知らないけれど、急に彼が「こんな茶番など不要だ」とか言い出して、ミノリは緊張も忘れて「自分勝手すぎだろ、何様だお前」と言い返したりしていたのだろう。

「まじで無茶苦茶だなあ、あのゼラインって奴。面白いけど」

「あれが面白いと思える感性、うちにはよく解らんわ……」

――「変わりませんね、あなたは」

 困惑しながら移動する生徒たちの内、なぜか嬉しそうに呟く女の子の姿を傍目かたわらめで認めたけど、移動中なので話しかけることはできなかった。感情のこもった、重い言葉であることだけを感じ取って、視界から外れる。

「そうかな、私も面白い人だと思うよ。何を考えているのか読めなくて、ミノリにも刺激を与えてくれるだろうし」

「いや、与えてるのはストレスなんじゃ……って、何かうちばっかツッコんでない?」

「単にそういう性格なんだろ。似合うしいいじゃん」

「うん、なぜかはわからないけどリアちゃんの口調に似合ってる気がする」

「素直に喜べないの、何でかなあ」

 いやあ、流石は次期カノシタ家の当主というか、まさに鶴の一声というやつだなあと感心しました。正直、彼には期待しているんだよね。あの子と能力を競い合える人がいるとしたら、きっと彼しかいないだろうからさ。うん、好いライバルになってくれたら嬉しいかな。


   *


 さて、各クラスの各教室へ配属が完了すると、まず行われるのが役割とうばんの決定なんだけど、とにかくここで重要なのは必ず全員に役割を与えることだという。

 正直これ、必要のない仕事が増えるから非効率的ではあるのだけど、カルパという国は何というか意図的に非効率的な方法を取る癖があるみたいで、ミノリもその点が気に入らない旨をよく述べている。私はむしろ、人間らしい感じがして好きなんだけどね、人間って歴史的に見てもどうしようもないくらい非合理的で非理性的なことを繰り返しているし。だからこそ、自然という枠組みで見れば合理的だったりするらしいから面白いんですけどね。こうした私の趣味の殆どはきっとパパとママに因るものだけど、どちらかといえば私の嗜好はママに似ている。文学作品や歴史、つまり古いものが好きなのはどれもママの影響で、対照的にミノリの嗜好はパパの影響を多分に受けている。ああ見えて、結構オタク気質なんだよねえ、おかげで私もそれなりにアニメ・漫画・ゲームに詳しくなってしまったわけで。

「はじめまして、皆さん! クラスⅡへの合格おめでとうございます! 私はあなた方の担任を務める『サツキ』です! どうぞ、よろしくお願いします!」

 前にも言ったと思うけど、この学校の理事長も校長も教師も、基本的には自律機械が担当している。人間の教師・講師ももちろんいるけれど、この初等部にはおらず高等部以上にのみ存在している。女王曰く、[幼年期の教育は特に重要なので国が管理しておきたい、つまり自律機械を通してコナツ様に管理させたい]とのこと。だから、私たちの学内での行動は基本的にコナツ様に把握されることになるわけですが、これは逆に言えばコナツ様以外はそこまで把握していないということでもある。そして、コナツ様は自由であることを重んじるので、犯罪とかやばいことじゃなければ大抵見逃してくれるらしい。

「さて、まず皆んなにはこれから三年間を共に過ごす仲間に挨拶と自己紹介をしてもらいます。よいですか、上手くできなくても笑ったりしちゃいけませんよっ。大事なのは、伝えようとする気持ちなんですから!」

 で、私たちの担任であるこのサツキ先生――女性型自律機械――なんだけど、機械らしさなんて微塵も感じさせない、明るいというか熱そうな人だった。これもゴルゴンとテミスの技術と知識が結集した結果によるものだと思うと、人の凄さを実感するね。

「では、一人ずつお願いしますね。えーっと、五十音順だから……アンデルセン君からお願いできますか?」

「はーい、大丈夫ですよ。えー、俺の名前はアムレート・アンデルセンって言います。好きなのは読書と演劇かなあ、スポーツは苦手ってわけじゃないけど、水泳は苦手です。あとは……あっ、うちはペンハウスって店やってるんだけど、興味があれば是非来てくれよな。ちょっと安くしてもらうからさ。てなわけで、今後もよろしく!」

「はい、ありがとうございます。ほら皆さん、拍手! そして、次の方、どうぞ!」

 ハム君に笑顔、次の瞬間には皆んなに注意、リアちゃんに挨拶を促す。一連の動作における表情も身体運動も実に忙しいもので、見ていて飽きない人だった。

 慣例として、クラスの席次は出席番号順に並ぶことになるけれど、名前の関係でイヌボシの私とアンデルセンの二人はクラス二十名のうち先頭に並ぶ。おかげで席が近いのは嬉しい。なぜアルファベットではなく日本語の五十音順にしているのかは、不思議と誰も気にしていない。まあ、コナツ様が決定したことなので何か深い理由があるのだろうと、誰しも勝手に納得しているんでしょうなあ。

「はじめまして、オフェリア・アンデルセンです。こっちのアムレートとは双子の妹にあたりまして、何か迷惑をかけられた際は遠慮せずうちに連絡してください。えっと、好きなことはお花や絵画を観ることで、嫌いなのは虫とか怖い系かな。皆さん、三年間よろしくお願いします」

 しっかりと宣伝する兄と、しっかりと牽制する妹。二人とも淀みなく緊張も感じさせない簡潔な挨拶だ。何やかんや、二人ともクラスⅡに合格している優等生なんだよね。

「ありがとうございます。素敵な趣味ですね。さあ、次の方、お願いします!」

「はーい、私はセリオン・イヌボシです。えー好きなことは色々ありますが、一番好きなのは毎日だらだらと過ごすことでーす」

 怪訝な顔の子も少しいるけど、割と笑ってくれている。嬉しい。先生はやや複雑そうだ。

「やっぱ面倒くさいことは嫌ですね、働かずに済むようにほどほどに頑張る予定ですんで、皆さんよろしくお願いします」

 まあ、何と言いますかね、友人というのは多ければ良いというわけじゃない、らしいからね、中庸という言葉があるように現実においては何事もほどほどが一番なのです。この二人が私にとって今後も友人であるならば、これ以上増やしたくはないのですよ。人間関係というのは悩みの種で面倒事を持ち込むものだと歴史は物語っているからね、何なら一人の親友がいればもう充分すぎる幸運じゃないかな。

[六歳児が語りますね、お尻の青いおぼこのくせに]

[そういう年頃なんですー。いいじゃん。六歳って旧時代的には小中学生みたいなもんだし、早熟なんだよ私は]

「あはは、ありがとうございます。教師としてはあまり褒められる趣味ではありませんが……そうですね、それが個性なら仕方ないですよね。さあ! では次の方、お願いします!」

 声が大きいわけじゃないのに、あらゆる言葉尻に感嘆符が付いている不思議な声は、一見(もしくは一聴?)すると暑苦しい感じだけど、不思議と先生なりの優しさというか純粋さを強く感じさせるものがあった。機械なんだから性格せいのうも統一しろという意見も昔はあったらしいけど、今の時代、機械だって人と大きな差異はない。それがもはや世界の常識となっているから、こうして自律機械たちは各々の個性――意識・欲望・意志――を持つよう設計され造られているわけだし。私たちの共世界―― かっこよく言うとD・W《ダイネス・ヴェルト》――において命を見出したのならば、其処には間違いなく命は宿っているというのがこの世界の解釈こたえだ。

「はいっ、皆さんありがとうございます! とても良い挨拶でしたね、これからも仲良く協力していきましょう! えっと、では次に、当番について決めましょうか。まずはクラス長と副クラス長を決めたいのですが、誰か立候補したい人はいますか? もちろん、私も最大限フォローするつもりなので遠慮せずに手を挙げてくださいね!」

 うわあ、間違いなく面倒くさいからなしなし。一番楽ができるやつが一番、となると当番の監視役であるチェック係が狙い目かな。何せこの当番、一度決まると一年間はそのままだからね。

「よし、じゃあ立候補もなさそうなので私が決めます! あなたです! イヌボシさん!」

「……はえ? 何で?」

「私には解りますよ、イヌボシさんは面倒くさがりな風を装っていますが人の為に積極的に動ける人だと。つまり、クラス長に相応しい人間だと判断しました」

「いや、先生……手を挙げなかったのに言うことじゃないけど、怠けるのが趣味の奴にクラス長任せるのはやばくない? せめて副長とか」

「いいえっ、私の勘が間違いないと告げています! タナカ君の意見も当然のことですが、ここは私を信じてもらえませんか」

 いや、私の意見は聞かないの?

「というわけで、よろしくお願いしますね!」

 そんな曇りない笑顔を向けられても……この上なく澄んだ瞳というか迷いを感じさせない声なので、根拠はないのに謎の説得力がある気がするし、空気的に断りづらい!

 ちなみに副長は「あ、じゃあ俺が副長やりますよ」という軽いノリでハム君が立候補してくれた。まあ、クラス長と副長は特殊な規定により男女一人ずつが務める必要があるので、私に気を遣ってくれたんだろうけど、リアちゃんは複雑そうだ。

「はあ……はい、わかりましたよ――わかりたくないけど――じゃあもう、それでいいです。何するか知りませんけど」

「まあ、俺が支えるから大丈夫だって。意外と細々とした作業は苦手じゃないしな、面倒だけど」

 ―

 うん? 一瞬だったけど、サツキ先生……何か喋ってた? 誰に対してでもない、独り言? もしくは。

「なあ、あれって本当にイヌボシの子なんだよな。昔に見た時はお淑やかで礼儀正しい感じだったような……」

「反抗期ってやつかな? ほら、女子は成長が早いって言うじゃない?」

 何だろう、目立ったせいか私の話がちょこっと聞こえてくる。事実なので特に反論することもないし、嫌な気持ちということもないけど、まずいことに陰口と捉えたリアちゃんがちょっと苛ついているし、気づいた男子二人はたじたじだった。サツキ先生が注意するか、リアちゃんが怒るかという状況のなかで、あの子が日常的に行うように一糸いっしほど思考し決断する。本当は面倒だけど、仕方ない。

 決めたなら、ただ――動くだけ。

 立ち上がり、二人の前に歩を進めては、姿勢を正し、礼をする。身体の動き、則ち手先から足先までの運動を意識し調節することで、気品というものは意識的に生じさせることが可能だ。沁みついた身体操作は、今も変わらずに容易なものだった。

「どうもはじめまして。先ほどはお見苦しところを見せてしまい、申し訳ありませんでした。改めて自己紹介させていただきますが、わたくしの名前はセリオン・イヌボシと申します。不束者ふつつかものですが、今後ともお付き合いのほど、よろしくお願いいたします」

 目の前の少年A(仮)が「え、ええっと……セリオン、さん?」と困惑を含んだ色で呟く。

 皆んなが呆けて静まるタイミングを見計らい、脱力しながら次の言葉へと繋ぐ。歩幅は小さく、少しだけ右往左往し、彼らの視線をこちらへ誘導できたことを確認したら、瞬時に見詰める。笑顔は忘れず、先ほどよりも快活、品性は消して友好的に表現。

「うおっ、ちかっ!」

「えへへ、多分、こんな感じでしょ? いやあね、昔は真面目だったんだけど、そういう世間体とか色々あって、どうでも好くなっちゃってさ、今は自由に生きることをモットーにしてるんだ。昔みたいにしてほしいなら私はそれでも良いけど、どっちの私が好き?」

 私を見つめる二人の男子はキョトンとした後、A君は何だか恥ずかしそうに私から視線を逸らした。B君は何だか面白そうに、興味深げに私と視線を合わせた。

 少年A、「俺は……今の方が親しみやすいっていうか、いいんじゃないかな」。

 少年B、「うん? ああ、僕は昔のセリオンさんも今のセリオンさんも素敵だと思うよ。うん」。

 少年A、「あっ、ずるいぞ! ああいや、別に昔の方が悪いってわけじゃなくて!」。

「あはは、なに焦ってるの? わかってるよ、クラス長って割と責任重大だもんね、私なんかに任せて大丈夫か?って不安になるのも当然だし」

「別に、セリオンのこと疑ってるわけじゃなくて」

 A君の言葉を人差し指で遮り、女の子とはやや骨格と感触の異なる鼻先と唇に触れた。

「まあまあ落ち着いて。セレマ、こっちの方が呼びやすいでしょ? 気軽にそう呼んでいいよ」

 顔が赤いなあ、大丈夫かな。

「う、うん……というか、顔近いってっ……そんなに近づけなくても話せるだろ……」

 何だろう、想像以上に素直というか取り乱しているというか、A君は異様に顔を逸らしているし視線も泳いでいる。ミノリとは違う可愛さだなあ。

「あ、確かにね、ごめんごめん。うっかりしてたよ。皆んなも、文句があるなら今のうちだよー。いいのかなー、私がクラス長になったらクラス成績が落ちるかもだよー」

 サツキ先生は口出しもせず、私たちの成り行きを見守っている。あの顔容かんばせは、私たちのことを見守るママとパパと良く似ている気がする――そう、大人が子供を見守る際に観られる特有の表現ひょうじょうだった。

「副長は異議なーし。ほら、セレマがクラス長になることに賛成の奴は手を挙げようぜ」

「うちもええと思うよ。セレマなら何やかんや上手いことこなしてくれそうだし」

「も、もちろん俺もいいと思う。さんせいっ!」

「面白そうだし、僕も賛成かな」

「他にやりたい人がいるってわけでもないしね」

「まあ、反対する理由はないよな」

 あっという間に、連鎖的に挙がる手の主たちは、まっすぐに私に意識を向けていると、知覚する。

 何だかむず痒いなあ、できるだけ穏やかに目立たずにひっそりと過ごす計画だったのに、どうしてこうなるかなあ――笑えるね、ミノリも多分笑うだろうな。何で解るかって? そりゃ解るよ、私は世界でただ一人のお姉ちゃんですから。

「よーし、全員賛成! じゃあクラス長、これからよろしくな。忙しくなるぞ」

「え、私の代わりにハム君が仕事してくれるんでしょ?」

「いいや、そのつもりだったけどお前に任せるよ。俺はあくまで補佐だから、頑張れよ」

「うげえ、やっぱ断れば良かったかも……まあ、ほどほどに頑張りますんで、これからよろしくお願いします」

 淀みなく恙なく事象は進み巡る、誰も私を否定せず肯定してくれる、温かな世界、そんな優しい命で溢れた世界。

「みんなー、仲良くしてくれるのは大変結構ですが、あまり騒ぎ過ぎないでくださいね! まだまだ決めることはあるんですから!」

 ああ、もしも世界の総ての人間が幸福であることを実感できる社会が訪れたのなら、私たちは人たり得るのだろうか。ミノリが興味を示したとある思想家であれば、きっと否と答えることだろう。また、ミノリが興味を示したとある哲学者であれば、是とするだろう、新たなる人類として認定することで……知らんけど。

[皆んなから支持されて、善かったじゃないですか]

 ライラックは他人事だと思って、笑いながら語りかけてきた。

[何も好くないんですけど……てか、何でそんな楽しそうなのかなあ?]

[さあ、何ででしょう。恐らく、貴女がミノリの姿を観ていて感じるのと同じ気持ちだと思いますよ?]

 そう言われてしまうと、返す言葉はなかった。

[ふーん……そんなに期待させるようなこと、した覚えないんだけどな]

 シオランという思想家は遙か昔、「生誕こそが災厄である」と云った。今の世界で彼に共感することは難しいだろうけど、歴史を学ぶことでその背景を想像することは難しくない。生きるということ、存在するということ、世界そのものが災厄であるという呪言じゅごんを、彼は言葉として綴るしかなかったのだと。だが、それはある種の祝福であり象徴であり、祝詞のりとでもある気がした。彼の言葉は身勝手かもしれないけれど、善意に満ちている気がしたから。

 そして、歴史と文学、あるいは芸術は物語る。人間の幸福は、常に悲哀や苦痛と隣り合わせであり、決して快楽的なものではなく、ひとえよろこびに拠るものだと。


〝だから、それと知らずに苦しんでいる全ての人間のために苦しむこと、これが私の使命だ。彼らのために私は償いをせねばならず、彼らの無自覚を引き受けて罰せられねばならない。この無自覚によって、好運にも彼らは、自分がどのくらい不幸な人であるかを知らずに済むのだから。〟


 そんな引用符に囲まれた言葉に、無意味に意味を込めながら、ときどき疑問に思うんだ。

 もしも『私』が壊れる時には――果たして何が壊れるだろうか、と。


   *


 各々に与えられた役割が確定したのちに、Ⅱ-Aの皆んなは解散して帰路へと就いた。今日という短い一日が過ぎ去る前に、私たち三人組は一緒に帰ろうとしたわけだけど、帰る前に二人は私に「ミノリ(ちゃん)のことは待たないのか」と訊ねた。私は迷わずにあの子を待たずに帰ろうと提案して、クラスⅠを確認せずに学校の外へ出ることを選んだ。

「おーい、セレマさん。ちょっと待ってよー」

 そこで私たちに声をかけてくる人がいた、見覚えのある声と顔、先ほどのB君だ。よく見ると、A君も後ろにいた。セリオンさんでもセレマでもなくセレマさんと呼ぶ人はいなかったので、新鮮な気分だ。

 さて、そろそろ仮名かめいで呼ぶのも失礼なので、彼らのことを紹介しておきましょうか。まずA君のフルネームはエーミール・エンゲルスで、名前的にドイツ系という感じだね。B君はエルンスト・エクリという名前で、同じくドイツ系の名前だ。見た感じ、二人は入学前からの友達みたいだ。

「あ、さっきの。何か用事かな?」

「あー、まあ僕っていうよりは」

「いや、こいつが質問あるらしいからさ、ついでにちょっとセレマたちと一緒に帰ろうかなってさ。ほら、一応俺たちもクラス会の記録当番だし」

「まあ質問、あるにはあるけど最初に言い出したのは」

「まあそんなわけだからさ! 嫌ならいいんだけど」

 二回も言葉を遮られて不服そうなエルン君と、妙に早口なエミール君は何やら私に用があるらしい。

「私は大丈夫だよ、ハム君とリアちゃんは大丈夫?」

「全然オッケー。同じクラスになるわけだし、親睦を深めておかないとな」

「まあいいけど、変なこと訊いたら許さんからね」

「訊かないよ! 何でそんな怖い目してるんだよ……」

 棘があるなあ。さっきのこと、まだ少し引き摺ってるのかな。別に気にしなくてもいいんだけど。悪意がないのは分かるし。

「まあまあ仲良く、ね。それより訊きたいことってなに?」

「ああ、えっと、ほら、自己紹介のときに趣味を聞いてなかったなって。流石に毎日だらけてるだけってことはないだろ?」

 確かにその通りではある、しかしなぜそんなことを気にするのか不思議だった。面倒でちょっと奇抜な人間という印象よりも、面白そうという印象を与えたのかな? それで私に興味を持った?

「あー、まあそうだね。読書とか好きだよ、歴史系とか小説が多いかな。こっちのハム君も私と趣味が結構被ってるから、話してて楽しいんだよね。エミール君はスポーツ好きだったよね」

「そ、そうなんだ……なるほど。残念だけど、あんまり読書はしないんだよな。あ、いやでも何かおススメとかあるなら全然読んでみたいけどな」

「おお、いいね。ただでさえ今どき読書が好きって人はちょっと少な目だし、私の場合ジャンルがちょっと堅い印象だからか同世代と趣味が合わないんだよね。だから嬉しいよ」

「そ、そっか。それなら良かった」

 嘘偽りのない本心だった。娯楽としてはどう考えても漫画とかの方が敷居が低いから、小説が好きというのは結構物好き扱いされるし、妙に意識が高いと誤解されやすい。実際は全然そんなことはない俗的な趣味なんだけどね。

「あ、エミール君は剣道が好きなんだよね、良かったらお互いに趣味を共有した方が対等だし、私にも剣道について軽く教えてよ」

「いいけど……エミール君って」

「あれ、名前間違ってないよね? 君の名前はエーミール・エンゲルスで幼いころから剣道を嗜んでいる。で、エーミールだからちょっと短くしてエミール君。どう? いい呼び方じゃない?」

「まあ、好いと思うけど……覚えててくれたんだなって。えっと、セレマ、でいいんだよな?」

「うん? さっきそう呼んでたし、そのまま呼べばいいと思うよ? ま、一応クラス長になってしまいましたからねえ、皆んなのことはちゃんと覚えてるよ」

「ああ、そうなのか……記憶力いいんだな」

 笑顔を向けて応えると、また一瞬複雑な顔をしてエミール君は顔を逸らしてしまう。どうやら彼は楽しく笑うというのがあまり得意ではないようで、ミノリのように自分の感情を曝け出すことにどこか恥ずかしさを覚える性格のようだった。

「でね、何で教えてほしいかというと実は私の趣味と符合する点があってね、剣道って元を辿れば日本刀の出現にあって、旧時代のなかでも古代の平安時代にその原形が生まれたらしくてね、侍や武士と呼ばれる格好いい感じの人たちが使うようになったと歴史書に書いてあるの。でも、のちの明治時代には武士という階級は廃止されちゃって、実戦的ではなく競技的な剣道という言葉と概念が大正時代に生まれたんだ。文化を途絶えさせるのでもなく、形を変えて一般的なスポーツとして浸透するようになるという背景が面白いよね。ただのいちスポーツにもこんな深遠な歴史が刻まれているなんて、魅力的だと思わない?」

「おう……まあ、そうだな。というか俺、今まで剣道にそんな歴史があるなんて知らなかったよ。クラス長に選ばれるだけあって、凄い物知りなんだな。せ、セレマはさ」

 喋りながら詰め寄ったのでエミール君は一歩ずつ下がっていた。いきなり本性を出し過ぎて引かれたかもしれない。でも、やっぱり剣道に興味を示したことは嬉しいみたいで、感心したのも本当みたいだった。少し照れるね。

「でたよ、セレマの早口語り。本当に好きなんだなってのが伝わってきて面白いんだよな」

「普段は全然似てないけど、こういうところ見ると姉妹って感じするなあ」

 何か双子に後ろで色々言われてるけど気にしないことにして。

「で、どうなの? 駄目かな?」

 覗き込むように見つめると、やっぱりエミール君は目を逸らした。さっきもそうだったので、多分彼は人見知りが激しいんだろうなあ。

「ゔゔん、いやいや全然! そんなに教えてほしいなら全然教えるからっ、任せてくれっ」

「おー、ありがとう。私もちゃんとお薦めの小説を持ってくるから、ちゃんと読んでよね?」

「当たり前だろ、何ならセレマの読んだ本は全部読んでもいいくらいだよ」

「あっはは、流石にそれは難しいと思うけど、その気持ちだけで嬉しいよ。ちょっとずつ読書の楽しさを叩き込んであげるから、よろしくね。あ、ごめんエルン君、ずっと放置しちゃって。帰りながら話そっか、こっちで大丈夫かな」

「問題ないよ、僕はただセレマさんのことを知りたいだけだし」

 うん? 結構問題発言では? 人間観察が趣味なタイプの子なのかな?

「言葉足らず過ぎるだろ……まあエルもかなり変な奴だけど、悪い奴じゃないんだぜ」

「じゃあ話も一段落いちだんらくしたみたいだし早速質問するけど、セレマさんはどの区画出身?」

「人がフォローしてやったのに無視かよ!」

 歩きながら質問と返答を繰り返す。

「私は第三区出身だよ。ハム君とリアちゃんも同じだね」

「そっか。じゃあ次、兄弟姉妹っている?」

「おお、遠慮ないね……いるよ。妹が一人ね」

「妹さんとは何歳差?」

「一歳差だよ、まあ同学年として今年入学してるんだけどね。クラスⅠに合格しちゃうくらい頭がいいんだ」

「ふうん、どうしてクラス長を引き受けたの? 最初は断ろうとしていたはずだよね」

「まあそうだけど、あれだけ先生に言われたら断りづらいし、それだけだよ。他にやりたいって人がいるなら、譲りたいくらいだね」

「本当に?」

「どういうこと?」

「別に、本当ならそれでいいんだ。単に僕にはセレマさんが嘘をついているように見えたからさ。でも、ただの勘みたいなものだから気にしないで、気分を悪くしたなら謝るよ」

「いいよいいよ、確かに私は結構嘘つきだからね。わざわざ読書趣味を話さずにあんなことを言ったわけだし?」

「面倒事が嫌だから、ということかな」

「そうだね、やっぱり面倒事は嫌だね。だからって、クラス長の仕事を放棄する気はないから安心してね。心強い副長さんもいるし」

「ふうん、じゃあさ、セレマさんがギリギリでクラスⅡに合格しているのも、ある意味ではだと思っていいのかな?」

 彼の言葉と視線は鋭く、こちらの言葉を値踏みするような印象を与えた。何というか、私の苦手なタイプかもしれない。

「何のことかよくわからないなあ。昔みたいに真面目に頑張っていたらクラスⅠには行けたかもしれないけど、見ての通り今の私は怠け者だからね。純粋な実力だよ」

「そうなんだ、なら僕から訊きたいことはもうないよ。今のところはね」

 エルン君は数秒だけ考え込むように自分の首に手を当てて、再び私に向き直っては「うん、やっぱり面白い人だね」と言われた。私からすれば困惑するしかないけど、多分ポジティブな発言なので誉め言葉として受け取ることにしました。

「そっか、ありがとう。別に普通にしてるだけなんだけど、そんな面白いのかな、私って」

 エルン君、「うん、面白い」。

 ハム君、「少なくともつまらない奴ではないだろ、話してると面白いし楽しませようとしてくれるのも伝わるし」。

 リアちゃん、「ミノリとのやり取りも夫婦漫才ならぬ姉妹漫才って感じやしね」。

 エミール君、「まあその、俺も話してて楽しかったし、そういう気遣いっていうのかな、相手に合わせて話ができるのは凄いと思う」。

 エルン君はちょっと怪しいけど、家族以外の人にここまでべた褒めされた経験はなかった。こういうこと、あまり言わないで欲しいんだよね、ちょっと恥ずかしいから。でも、私の存在が彼らを楽しませることに繋がったのなら嬉しいな。

[ねえ、セレマ。いま、貴女は幸せですか]

[急に重いこと訊くね、ふふ、当たり前じゃん。むしろ、幸せ過ぎるくらいに平和で恵まれていて、可笑しくて笑っちゃうよ]

[そうですか……それなら、何よりです]

 これまでもライラックは度々、私たち姉妹について心配してくれることがあったし、優しい言葉をかけてくれることも珍しくはなかったけれど、その言葉にはこれまでのどんな瞬間よりも慈愛が込められていた気がした。微笑をたたえた、女の子の姿を幻視する。

 かくして、セリオン・イヌボシこと私はクラスⅡのクラス長に就任することになりまして、これから様々な厄介事に巻き込まれたりそうでもなかったりする日常を過ごすことになるのだった――なんちゃって。

 はあ――――架線から流れ込む音がした。

 ふと、今頃ミノリはどうしているのかと気になったけど、それは家に帰ってきてから確認すれば善いことなので今は気にしないことにした。仮に問題があったとして、最後には私が何とかするだけなのだから。極論、たとえ世界の全てがあの子にとって敵になろうと、私だけは味方でいるつもりだし。ひどく大袈裟な例え話だけど、お姉ちゃんというのはそういう生き物だからね、しょうがないね。

「確かに私は人間を嫌悪しているが、同じような気安さで人間を嫌悪しているとは言い切れない。なぜかというと、この存在という語には、何はともあれある充実した、謎めいた、魅惑的なものがあり、その点、人間という観念とはまるで違っているからである――か。本当に、不器用な人なんだもんなあ」

 失笑と微笑、今の自分はどちらを漏らしたのか。

「うん、いま何か言ったか?」

 不思議な顔で訊ねる彼に、私は「何でもないよ」と答える。私たちはただ、自分という存在の帰るべき場所へと往くだけだ。幸福というものは常に傍に、探しに行く必要はなく見出すものであることを物語と音楽は教えてくれる。幸せの青い鳥なんて、現実には存在しないんだから。

 ――ハレルヤ、ハレルヤ。孤独で心が死んでしまわないように、私も祝福の言葉を送りましょう。神ではなくこの世界で生きる全ての命へ向けて、ハレルヤ。

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