Ⅴ ひび割れた赤目

 何が起きたのか分からず混乱するが、一瞬命の危機を感じた右手の痛みは確かだった。これは、火傷している。もう赤黒くなっていて、厨房で誤って揚げ油をひっくり返した時よりも酷い。


「フランさん……?」


 こんなところに火の手など無い。そしてフランの右手が、親指と薬指の先を合わせた形になっている。


 その指先が大きなアーチ窓へと向けられ、たっぷりとしたボルドー色のカーテンに白い火がつく。あっという間にカーテンが燃え上がり、上へ隣へと延焼していく。急激な温度上昇に窓ガラスが弾け飛び、外気を取り込んだ炎はますます勢いを増した。熱を感じただけで、火傷した手が再び激痛を訴える。


 悲鳴と共にどっと出口へと人が殺到し、場内は大パニックだ。我先に逃げようとする人の足に踏まれないよう、ルゥは急いで隅に転がった。


「なんで、なんで、こんなこと」


 ありえない。フランのあの目、まるで別人だ。

 逃げ惑う群衆の中、次にフランが指を向けたのは黒いイブニングドレス姿のご婦人だった。あれに火がついたら!


「ダメですフランさん!」


 右手の痛みが恐怖となりよぎるが、己を奮い立たせ、ルゥは全身でタックルした。突き飛ばされてフランの炎は不発に終わったようだが、間近に見たいびつな瞳に背筋が冷える。


 こんなのフランさんじゃない。


「うわあアッ!」


 考えている間に細長い足に蹴り飛ばされ、壁に背中を打ちつけたらしい。息ができなくて床に這いつくばる。


「おやめくださいお客様!」


 マッチョな受付がフランに向かう。やめろ、乱暴はするなと言いたいが、声にならない。

 

 だが目を疑う。屈強な筋肉マンと組み合うと床へ引き倒し、隙のできた体へフランが強烈な蹴りを食らわせたのだ。マッチョはガラスの無くなった窓を越えて、そのまま外へ転がり落ちた。


 今、何メートル吹っ飛ばした? 折れそうに細いフランさんの体の、どこにそんな力があるんだ?


「ルゥ君!」


 口元にハンカチを当てたデビッキに助け起こされた。


「平気です。何が起こったんですッ、ゲホッゴゲホッ」


 燃え盛る炎、そして黒い煙と焦臭が場内を覆う。熱さは恐怖そのものだ。


「いきなりあんな人が変わったようになるなんて、悪霊か何かに操られているとしか。最近のフラン君の行動で何か思い当たることはない?」


「ないですよ。真面目に仕事して——あ、昨夜、」


 しかしその間に、血走った目で獲物を捉えたフランが、逃げ惑う人へ炎を向ける。


「だめだフラン君っ!」


 パンッ! パアンッ!


 銃声が、炎を放つ直前のフランを縫い留めた。肩から鮮血が散り、ぐらりと体が傾くのを見て、ルゥの全身がぞわっと逆立つ。


「撃つなッ! 撃たないでぇ!」


 ありったけの声で叫びながら無我夢中でフランに駆け寄り、庇おうとしがみついた。今度は蹴り飛ばされても絶対に離れないように、両腕両足でがんじがらめにする。


 ルゥの中で、フランが獣のようにもがいている。きっと痛いのだ。


「フランさん! ゲホッ、ゲッ、もうやめてください!」


 銃口を向けながら警察が近づいて来る。先頭にいるのはライザ署長だ。


「急げ、消火だ! おいまさか、本当にフランなのか?」

「そうですよ、だから撃たないでくださウゥわっ!」


 ありえない力で払い飛ばされてしまったが、代わりにライザが上から押さえつけた。彼女の力はルゥの比ではない。膝を使って伏臥に組み伏せ、腕をあらぬ方向に捻り、指まで動かせないよう固めている。これなら炎を出すこともできない。


「グゥううううッ! はなせええぇぇ!」


 フランの赤い目は、ルビーよりも深くて透明で、温かい。見ているとこちらまで穏やかな気持ちになる不思議な力があるのだ。しかし今は干からびた歪な目で、下からライザを睨みつけている。


「まるで別人ではないか。なぜこうなった?」


「わかりません。けど、こんなのフランさんの意思じゃない。誰かに操られているんじゃないかって……!」


「誰か? それは誰だ」


 はっとして場内を見渡すが、いなくなっている。


「ひび割れた赤目、66番の男——」


「しかしこのままではどうにもならん。一度警察署へ連行するしかない」


「警察署だって燃えるし危険です。そうだ、それなら火葬場へ! モノリ主任が車で待ってます」


「お前たちを信じたいが、この状態でどう連れて行くのだ」


 そういう間にも、ライザの拘束から逃れようと、獣のようなうめき声でフランがもがいている。


 するとデビッキが上着の内ポケットから何かを取り出し、フランの後頭部に貼り付けた。


静死フェイダム


 聖護札だ。札の上から人差し指と中指で後頭部を突くと、ぷっつり糸が切れたようにフランが停止した。


「急いで運ぶんだ。今、フラン君の心臓を止めた」

「え? え? 心臓を? そんな大丈夫なんですか?」


「本来これは悪霊や操られた屍体したいへ使う術だよ。だから人間には一分間が限界だ。早く!」


 それを聞くなり、ライザがフランを軽々と抱えて走る。ルゥは更にダッシュで駐車場のモノリに知らせる。


 緋雨は激しさを増していた。濡れると火傷した手が貫かれたように痛んで叫びそうになるが、気にしている場合ではない。


 棺を収容する後部座席に、フランを抱えたライザとルゥが乗り込む。デビッキが助手席に乗ると、モノリが急発進させた。


 その時、車窓の外に見たのだ。66番の男を。緋雨を浴びて爛々と輝く赤目で、こっちを見て笑っている。


 あいつだ。間違いない。あいつがフランさんを——!


「もうすぐ一分経つ。ルゥ君、札を取るんだ。ライザ署長はしっかり押さえて」


 一度ライザと視線を合わせ、せーので札を外す。


「あぁぁああああああぁっ、いたいいたいいたいいたぃよ! あたまがいたいいたいいたいぃぃぃ‼」


「フランさん……?」


 さっきまでとは少し違う。

 緋雨で血のように赤く染まった髪。その向こうからのぞく瞳が、ルゥの姿を捉える。


「ルゥ。あぶないよ。はなれて」


 微笑んだ。ルゥにはそう見えた。


 だが次の瞬間には再びカッと目を見開き、金切り声を上げる。


「うぎあああああああっ! いたいいいぃぃ! あついっあついいたい!! からだがあついよくるしいよたすけてえええええっ‼」


 己の喉を、胸を、腹を引き裂き、臓腑を掻き出さんばかりの声だ。


「くっ、耐えろフラン」


 暴れようとするのを押さえつけるライザもまた、額に玉の汗を浮かべている。


「モノリ君、着いたらすぐフラン君を火葬炉に入れて」

「火葬炉にですか?」


「予熱で温度を上げて、絶対に扉を開けてはならない」

「そんな⁉︎」


「卒倒させるしかない! このまま暴走して元に戻れなくなってもいいのかっ⁉︎ やるんだ!」


 聞いたことのない激しい口調で額に血管を浮き立たせたデビッキに、モノリも従うしかない。


 火葬場に着くと、暴れ叫ぶフランを三人がかりで押さえながら火葬炉へ向かう。一号炉の扉を閉めると、苦渋の表情でモノリが炉の予熱を始めた。


 中ではフランが叫び、頭を抱えて体をくの字にし、苦しんでいる。そうかと思えば炎を出し、手あたり次第壁に拳を打ちつけまくる。


「デビッキ司教、あれは暴走なんですか」


 確かにそれが表現として一番しっくりくる。


「あいつが、66番の男がフランさんを暴走させたんですか?」


「決めつけるには早いし、何をどうしたらああなるのか全然分からないけどね」


「異様な目をした男でしたし、スヴァルト・ストーンを欲しがっていましたよね。デビッキ司教が、人間離れした感じがすると仰った意味が分かりました。あいつが黒羽の主なんじゃないでしょうか」


「だからルゥ君、まだそうとは決めつけられないよ」


「おれ見たんです! あいつが笑っているのを……っ! フランさんはさっき助けてって‼︎ どうしたらいいんですか⁉」  


「わかってるよ! おれだって許せない。フラン君をこんな風にした奴に、必ず罰を与えてやる」


 怒りにデビッキが声を震わせる。


 ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ!


 真っ暗な火葬炉の中から、フランが耐火合金製の分厚い扉が揺れるほど強く拳を打ち続けている。超高温になる内側にはドアハンドルがない。火葬炉の中から脱出するには、壁か扉を破壊するしかないのだ。


 小窓から中を照らして見ると、両手とも血だらけだ。それでも殴りつけるのをやめない。


「……もうやめてください」


 ひび割れ血走った目。端から赤い泡がこぼれる口。声は聞こえないけれど、喉が裂けるまで叫び続けるのだろう。

 痛い。熱い。苦しい。怖い。助けて。


「フランさん。苦しいんですよね」


 これ以上打ったら、手の骨が折れてしまう。炉内の温度は百度をとうに超えているはずだ。銃で撃たれてだっている。あんなに絶叫するほどの苦痛がどんなものかなんて、ルゥの想像範疇を超えている。


「お願いだから、お願いだから、死なないで」


 それなのに、ルゥの身を案じてくれた。こんなに苦しんでいるのにルゥを守ろうとしてくれたのだ。『ルゥ。あぶないよ。はなれて』と、いつもみたいに微笑んで。


 人に危害を加えてしまったと分かっているのだ。こんなこと、フランが望んでするはずがない。


「許せない……、フランさんをこんなにして。絶対に許さない!」


 フランが出した炎で炉内が明るくなる。ひときわ大きく燃え上がっている。


「いけない! オーナー!」

「消火だモノリ君、二酸化炭素を炉内に送って」


「しかしそれではオーナーの命に危険が!」

「あれじゃ本人も焼けるぞ⁉ 早くしろ!」

「やってくださいモノリ主任!」


 涙をこらえて真っ赤になったルゥの目を見て、唇を引き結ぶとモノリはレバーを下にした。白い炎が消え、炉内がだんだん暗くなっていく。そんな中、激しく動き回っていたシルエットが止まり、崩れるのが分かった。


「フランさんっ!」

「オーナー!」


 扉を開けると、熱風が一気に襲い掛かってくる。だがものともせずルゥは炉内に駆け込み、力を失くしたフランを抱えて外へ引きずり出した。全身汗でびっしょりだが、酸欠と消耗で顔は紫色になっている。


「フラン君しっかり!」

「どけ! 水をかけて冷やす!」


 ライザが用意していたバケツで上から下まで水浸しにする。


「フランさん! フランさんっ!」

「呼吸は⁉」


「浴場に連れて行け! 体温を下げるんだ!」

「オーナー! 目を開けてオーナー!」

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