もみじ!

そうざ

Maple!

「もみじ! もみじ!」

「ふふ、似てるねぇ。でもこれはヒトデって言うのよ」

 優しく教えたつもりだったが、甥っ子は怪訝そうに、不思議そうに私を見上げ、また水槽に顔を寄せてしまった。


 姉夫婦が急な所用で出掛ける事になり、丸一日、甥っ子を預かる羽目になった。子育て経験どころか、末娘の私は妹や弟の面倒にすら縁がない。

 海の生き物が好きだというので早速、連れ出したものの、まだ手応えと言える程の感触は得られていない。甥っ子の姿は見えるのに、まるで分厚いアクリルガラスに隔てられているかのようだ。


 水族館は無事に満喫したものの、早くも途方に暮れそうだった。

 甥っ子は、手許にゲーム機さえあれば生きて行けます、という有り勝ちなタイプではないらしい。大人が望む健全な子供像、とも言えるが、こちらとしては子守りの手並みを試されている感覚になる。

「他に行きたい所は?」「何して遊ぶ?」「もう帰りたい?」

 私の問いに、甥っ子は小さな頭をかしげさせるばかり。こんな時、犬のお巡りさんだったらどうするのだろう。

 取り敢えず近隣の公園へ移動し、私は日向ぼっこを提案した。折角の小春日和を利用しない手はない。

 芝生に寝転び、ぬくもって行く瞼の裏に計算式を立ててみる。子守り代から引く事の交通費、引く事の水族館――。


「もみじ! もみじ!」

 素っ頓狂な声に、遠退き掛けていた意識が呼び戻される。

 辺りを見回すと、巨木を見上げ、ぴょんぴょんと跳ねる甥っ子の姿があった。

「それは銀杏いちょうだよ。葉っぱの形が違うでしょ?」

 動きを止めた甥っ子の、怪訝そうな、不思議そうな顔。私の一般常識的指摘に何の不満があると言うのか。


 実を言えば、私は教員免許取得に向けて奮闘中の身である。

 授業では子供の発達や学習心理、問題行動等について学ぶ場面があるが、今のところ座学の域を出ていない。甥っ子の子守りを引き受けた心理の裏には、実地訓練の一環という思いがあった。決して謝礼に目が眩んだだけではないのだ。


「そろそろお腹が空いたよね?」

 昼に菓子パンを与えただけだったので、流石に夕飯はファミレスに入った。

 お子様ランチを頬張る甥っ子を見ている内に、将来もし我が子が誕生したらどうなるのだろう、と思わず想像してしまった。

 子育てなんて苦痛でしかない、何も楽しくない――昨今はそんな声が珍しくないようだ。勿論、喜びの瞬間もあるだろう。でも、得てして喜びが瞬間的なのに対し、苦痛は継続的なものだ。

 子供は天使か悪魔か。この二元論はそもそも間違っている。子供を何かにたとえるのならば、妖精が相応しい。善も悪もなく、そこにあるのは一途な遊び心だけ。


「もみじ! もみじ!」

 不意に立ち上がった甥っ子が、私の眼前にフォークを突き出した。私は反射的に仰け反った。フォークに目の焦点を合わせ直すと、そこには貫かれた蛸型のソーセージがあった。

 私は込み上げる感情を何とか押し留め、努めて冷静に振る舞った。

「蛸の足は八本。水族館で見たでしょ? 紅葉もみじの葉っぱは五つに分かれてる。八と五は違うよね?」

 何でもんでも紅葉紅葉紅葉、これはもう馬鹿の一つ覚えだ。姉夫婦はこの子をどんな風に躾けているのだろう。

 私は、甥っ子を引き摺るようにして家路に就いた。食事代が差し引かれ、手持ちは残りわずかになっていた。


「ふぅ……」

 ソファーへどかりと躰を預ける。

 駄々を捏ねられるとか、無茶な要求をされるとか、お漏らしをされるとか、そんな展開も覚悟していたが、それは杞憂に終わった。総合的には扱い易い子だったと言って良い。

 もう直ぐ姉夫婦が帰って来るだろう。そう思ったら、何だか名残惜しさが募り始めた。

「ねぇ、こっちにおで」

 テレビのアニメに齧り付いていた甥っ子が振り向く。例の怪訝そうな、不思議そうな顔だ。

「ほら、早く来なさいってばっ」

 私の強目のいざないに、甥っ子はゆっくりと立ち上がった。

 こういうのは、姉夫婦の前では気恥ずかしさが先に立つ。だから、遣るなら今の内だ。

 私は棒立ちの甥っ子をぐいっと引き寄せ、優しく抱き締めた。華奢な躰に緊張が走ったようだった。

 が、怖ず怖ずと私の顔を確認すると、大きな声で言った。

「もみじ! もみじ!」

 直ぐにはその意味が分からなかった。理解したのは、小さな人差し指が私の目尻に当たった瞬間だった。自称老け顔の私が密かに気にしている部分だった。


 ――ばぁん!――


 反射的な平手打ちだった。


 遠くでインターフォンが鳴っている。

「ほら、この手鏡を見てご覧。頬っぺたに何があるかなぁ?」

 子供は妖精。邪気はない。

 私は大人。言わずもがな。

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