第6話
■■■
腹を満たした犬と連れだって路地を曲がったとき、小さな音が聞こえた。
「ストップ」
先導していた犬がぴたりと足を止めてこちらを振り向く。
澄ませた耳に届くのは何かを啜るような、かきこむような音。
そして鼻をつく獣臭さに混ざる、血の臭い。
「お前はちょっとここで待ってて」
犬は小首を傾げた後その場で地に伏せた。
何も手掛かりがないよりはマシかと思って声を掛けたのに、どうやら大当たりを引いたらしい。
その音と臭いを辿って足を踏み入れた袋小路では、まさに豪快な食事中だった。
被毛に覆われずんぐりとした背中を向けて
その様は、確かに獣と呼ぶに相応しい。
文字通り命を食いつなぐ行為に夢中な獣はこちらに気付くこともなく、自分と同じ二足歩行の生き物の中身を空にしていく。
このまま放っておいたら数分で綺麗さっぱり平らげてしまいそうな勢いだ。
どうやらこいつ、気取って満月の夜に人を食べていたくせに、それだけじゃ満足できなくなったらしい。
そりゃあそうだ。
現に初仮や久凪なんか、一日の間に何度も食べるのだ。月に一度、満腹になるまで食べたところで人の体はそれだけで活動できるように出来ていない。
「おい」
食事を続ける狼男に声を掛けると、頭から突き出た尖った耳を揺らして素早く振り向く。
血に濡れた顔面は滑稽なほど小さく、人間そのままの顔だった。
いくら望み通りの部位を増殖出来ると言っても、頭蓋骨はどうしようもないらしい。
これでは狼男というより化け物といった感じだ。
「なんだかなぁ」
生臭い息を吐く口からは不釣り合いな大きい犬歯が覗く。
「食事中のところ悪いんだけどさ、お前が狼男だな」
死体を指差すと小首を傾げた獣が低く唸り、死体の前に立ち塞がる。
これは誰にも渡さない、ということだろうか。
と、いうより。
「なに。話せないのか、お前。俺の言ってること分からない?」
「ウウウゥウウゥウ」
唸りながらじりじりと後退していく獣が牙を剥き、毛を逆立てて上半身を屈ませる。
「マジかよ」
これは予想外だ。
言葉を失ってるんじゃあ、時間稼ぎにもならない。
諦めるか。
「柚須さん」
ピ、と小さな音に続き、微かな雑音が耳に届く。
『なんだ』
「お探しの狼男、見つけたよ。食事中だった」
『……そうか。すぐ向かう』
「や、どうせ無駄になるからやめておいた方がいいと思う」
『なんだと?』
「こいつはもう見えないってさ。憂稀が言ってた」
柚須さんの唸り声が耳元に響く。
「どうする?」
『ヤサだけ割り出せ。被害者は部下に行かせる」
「了解」
一足で狼男との距離を詰め、耳に突っ込んだ手を被毛の中に突き刺す。
「ゥギャアウゥウウウッ」
悲鳴を上げた狼男は顔を歪めて弾かれるように後ろ足を踏み込んだかと思うと、常人離れした跳躍力で壁を蹴り上げ屋根の向こうに姿を消した。
「まるで曲芸師だな」
足音が遠ざかっていくのを聞きながら残された死体を見つめる。
これで五人目。
満月のルールを破ったくらいだ、おそらくこれからは奴の食事も加速する一方だろう。
ただ、それももうすぐ終わることだ。
「……面倒くさいなぁ。ん?」
振り向くとさっきの犬が袋小路の入り口に立ってこちらを見ていた。
律儀に俺の「待て」を聞いていたらしい。
「もう出てきていいぞ」
「ヒューン」
犬はしきりに鼻を鳴らしながら死体に近付くと、まじまじと見つめる。
人とはいえ、死んでしまえばただの肉だ。空腹じゃないとはいえこの犬にはご馳走に見えているのかも知れない。
「食うのか、これ」
「アウ」
小さく鳴いた犬はすごすごと後ずさり、路地の向こうに姿を消した。
「ふうん」
犬でもそこは倫理観が勝ったか。どっかの毛皮着た化け物とは大違いだ。
空を見上げると、満月にはまだ足りない月がぼんやりと浮かんでいた。
■■■
重苦しい空気の中、柚須さんがコーヒーをテーブルに置く音が響く。
「話は久凪から聞いた」
「ああそう」
俺の隣に座った久凪が、初仮にもらったチョコレートの箱を開けて吟味している。
険しい顔のまま資料に落としていた柚須さんが視線を上げた。
「それで、ヤサは?」
「通信機埋め込んできた。深めに入れといたからすぐに落ちることはないと思う」
「そうか」
柚須さんが目を一層鋭く細める。
「久凪」
「あい」
「繰り返しになるが、憂稀が妹尾に話したことは本当なんだな」
「本当ですよ」
コロコロと口の中でチョコレートを溶かして遊んでいた久凪が甘ったるい息を吐く。
「これ、狼男さんですよね」
椅子に膝立ちになり、テーブルに広げられた資料の中にある写真を指差す。
「ああ」
「狼男さんはもうすぐゼロになっちゃうですよ。もう見えないですから」
「……」
珍しく悔しげに唇を噛んだ柚須さんが大きな溜息をつきながら椅子に座り直す。
「それはいつなんだ、久凪」
「あと三日です」
「三日……次の満月か。で、お前はいつ知った」
「さっき家出る前」
柚須さんの視線に肩を竦めながら答える。
「狼男にあったのは偶然。これは本当だよ。今更意味はないと思ったけど一度も見ずにってのもあれだし、話が出来るならって思ったんだけどね」
「感触はどうだった」
「駄目。とてもじゃないけどあれは手遅れだ」
「──ち。まぁいい。決まってしまったものは仕方がない。こればかりはどう足掻いても結末は変わらんからな。妹尾」
「うん?」
「Xデーはお前も行け。死に様を見届けろ」
「……分かったよ」
広げていた資料を素早くまとめて部屋を出て行く柚須さんの背中を見送る。
随分と大人しく引き下がったな。
いつもの調子なら絶対何発かやられると覚悟していたのに、一発も無いとは流石に気味が悪い。
「なんだあれ」
「仕方ないですよ」
思わず口から漏れた言葉に久凪がぽつりと零した。
「だって本当ですから」
「まぁ、ねぇ」
顔を上げた久凪の色素が薄い瞳が見据える。
「セノさん、うさちゃんとお話ししたんですか?」
「ああ。部屋に行ったら初仮にお礼の手紙書いてた」
「成程ですねー。どうりでくーちゃん知らないはずです」
「お前寝てたんだろ?」
「あい。えへへー、だからうさちゃん嬉しそうだったんですねぇ」
まるで自分のことのように笑って椅子から浮いている足を揺らす。
「あーちゃんと秘密のお話ししたんだ、って。なんだろうなぁって思ってたですけど、その話だったんですねー」
「……それなんも秘密になってないじゃないか」
あいつに秘密っていうのはまだ少しばかり高度だったか。
「秘密って言い出したのあいつなのに」
「大丈夫です。くーちゃんが知らんぷりしてたら秘密のままですから。うさちゃんも今いませんし」
「なんかお前狡賢くなったな」
やっぱり育ての親が親だからか?
「えへへ」
「褒めてないぞ」
嬉しそうに頬を赤らめるんじゃない。
「ちなみに久凪はいつ知ったの?」
「さっき、柚須さんに聞かれて紙見た時です」
「そうか」
「でも、柚須さんまた失敗しちゃうんですよね」
「ん?ああ、まぁそこは仕方ないでしょ」
しょぼくれたような顔をする久凪に息をつく。
「だってどう足掻いても三日後に狼男が死ぬのは決まっちゃってるんだし」
うーん、と唸る久凪の頭をわしわしと撫でる。
久凪と憂稀、この二人には特殊な能力がある。
それはこの世に生きる万物に例外なく訪れる終わり、死を見るものだ。
こいつらに言わせれば九死に一生なんて言葉はまだその時ではない、という意味しか持たない。
逆に言えば、こいつらの見ている死はいかなる策を講じても回避できない絶対的な死である。
例えば、自分の死期を知ったとしてそれを回避する為に外界と一切の接触を断ったとしても、室内において普段起きようもないトラブルが発生して死ぬことになる。
棚が倒れるか、階段から落ちるか、はたまた体調の急変か。人の死に直結する可能性なんて無限にあるのだ。
あんなに元気そうだったのに、なんてのはこいつらには通じない。
その人はその日に死ぬ存在だった。ただそれだけのことだ。
もっとも、こいつらにもその特異な能力相応の対価はある。
ひとつは、自身の死を見ることができないということ。
そしてもうひとつは有象無象の死が見える代わりに、その姿を捉えることができないということ。
こいつらには生きとし生けるものの姿がただの数字の塊に見えている。
柚須さんも初仮も、死期を表す数字の羅列が形を成し、自分に話しかけてくるのだとか。
そして死期の近くなった生き物はその形すら失ってただの影のように揺らぐものになり、やがて死を迎えると「ゼロ」になる。
その時点で柚須さんがご執心だった狼男の死は確実なものになった。
いくらコレクターと言えど、避けようのない死を宣言されたコレクション候補では手の打ちようがない。
「言わないでいたらそれはそれで文句言いそうじゃない、あの人」
無駄な労力使うのすごく嫌うし。
「うーん、それはそうかもですけど」
腑に落ちないのか小難しい顔をしてチョコレートをもうひとつ頬張る。
「柚須さんの失敗ってセノさんの失敗ですよね。お叱り、受けませんかね」
「それは結果次第かな」
「結果?」
「そ。狼男が死ぬならその可能性もあるわけだろ。ちょっと見てみたいと思って」
誰も見たことがないという、この街の平和を担う組織。
「あの狼男を狩りに来る奴らをさ」
平和維持局。謎に包まれたこの街の暗部そのものを。
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