金星
十六時二十分。終点のアナウンスで目が醒める。長時間同じ姿勢で座っていたせいで首が痛い。
「ありがとうございました」
金を払い、運転手に一言言ってからバスを降りた。盆地特有の蒸し暑さが僕の肌を湿らせる。バス停を囲む稲田の、腰の高さで伸びた稲も暑さに項垂れていた。天井は今にも崩れ落ちそうだし、虫や蛙の声はするものの人の気配はない。
僕がこの街を出てから、それなりの時間がたった。だけれどこのバス停からの帰り道の景色は全く変わらない。ここから川沿いの道を二十分ほど歩くと実家に着く。
歩き始めてから少し経ってバス停が微かに見えるようになった頃、車が通るとガタンと車体が小さく跳ねそうな段差がある短い橋に着く。橋の傍から川に下る石の階段に彼女が座っていた。僕の記憶の中の彼女では無かったが、僕はすぐに彼女だと分かった。僕が声を掛けるか迷っていると目が合った。
「や、やあ。久しぶりだね」と僕は思わず口にした。
「かず君、帰ってきてたんだ。久しぶりだね」
「さっき帰ってきたばかりだよ。お盆だし、二日間だけど」
彼女は自分が座っている隣をトントンと手で軽く叩き僕に座るように促す。僕は荷物を置いて、彼女の隣に腰を下ろす。
「正直、もう会うことはないと思っていたから驚いてる」
「どうして?」
「連絡先もあの時に全部消したし、僕はもうこの街を出たからさ」
「かず君のそういうところ変わらないね」
「君はだいぶ変わったみたいだけどね」
彼女の綺麗だった黒髪は、脱色されて茶髪になり、軽くパーマが当てられていた。化粧の仕方も変わっていた。ただ、色素の薄い吸い込まれる瞳だけは変わっていなかった。
「別れて以来だね」
「うん。あれは余りにも突然だったし、当時は絶望したよ」と僕が言うと彼女は笑った。
「ごめんごめん。でもかず君がここを出るって言うから。私会わないと無理だもん」
「まぁ、今では正解だったと思うよ」
僕は足元に落ちていた小石を拾い、川に投げた。ぽしゃんという音に驚いた蛙が小石に続いて川に飛び込んだ。
「向こうに行ってから新しい彼女はできたの?」
「できたよ。優しい人さ」
「私も職場で好きな人ができたんだ」
へぇ、と僕は何回か頷いた。少しの沈黙。鬱陶しい暑さを払う快い風が、橋の下の雑草の中に咲く朝顔を揺らす。
「あの時も言ったけれど、多分これからの人生で君より好きになれる人は見つからないと思う。だからと言って君とまた付き合いたいとかそう言うふうには思わないけどね」
「私もそう思うよ。なんとなくわかる。お互いが好きだけでしてた恋愛って、後にも先にも君とが最後だと思うから」
そう言うと今度は彼女が小石を投げた。水面に映る赤く焼けた空が揺れる。
「あれから時間が経って、気持ちが変わって、お互いに好きだったって言えるのってなんだか青春が終わったよって言われてるみたい」
「でも、それってちゃんと青春してたってことじゃないかな」
「まぁ、大人になって見えてくる世界もあるってことだね」と言って彼女は笑った。
僕は立ち上がってズボンに着いた土を払う。夕日に当たってできる僕たちの影は、あの頃よりもずっと遠くへ伸びていた。
「そろそろ行くよ」
「私も帰ろっかな」
「暗くなる前に帰った方がいい。ここは街灯も何もないからね」
階段を登って、軽く別れを済ませてから彼女と僕はお互いに別方向へと歩き始めた。西の焼けた後の空には、一番星の金星がポツリ輝いていた。
短編集 みつき @o-ta
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