みなご◇シンドローム

 【みなご◇シンドローム】

目次

・ピロローグ・

・真夏の回想

・真夏の焦燥

■■■記憶・断片・悪夢・私■■■

・真夏の絶倒

・真夏の陽炎

・真夏の回帰

・エピローグ・




      ・ピロローグ・

      『 ――道を遡ることなかれ。

        ――できぬことを望むことなかれ。 』

 

 

 産まれるまえから判っていた。その赤子が、世界のながれを変質させうる、術、を有しているのだと。

 かの男には判っていた。

 未だ母体に納まったままの赤子。受精を経て人間としての核を形成し、出産後に確立されるべき「個」の因子を肉体に構築しだしたそのときからすでに、その赤子の及ぼすであろう「破壊の規模」と、その赤子が齎すであろう「鏖殺の犠牲」は――それら具体性を俟つことなく、漠然とした印象のみで――その赤子の生命が、人類だけでなく、多くの生命を殲滅させうる――奇特な暴力を有しているのだと。

 かの男には判っていた。

 期せずして、男の領域において、その赤子は生を受け、〝形〟を成した。

 いち早く窺知できたことを、僥倖と甘受し、久しく抱かなかった感謝を、その天恵へと向けた。

「願わくは、恨むことなかれ」

 間もなく母体から産まれ落ちたその赤子は、ほかの赤子とおなじように個として未熟な状態ではあったが、胎動につつまれていた聖域から脱したその期を境に、その存在に触れることごとくの――ゆらぎと――ながれと――間隙を――世界という名の夢幻にちかい有限を――己へと取りこみ、著しく『個』を結晶化させていった。

 個にひそむ自我が、人格を生成させ、やがてソレは明確な意思のもとで、漠然とした欲求に抗えぬままに――目醒めるだろう。

「己が道を、恨むことなかれ」

 誰がさだめたわけでもない。

 これもまた、有り触れた巡り遇わせの、組みあわせなのだろう。

 必然ではなく、運命でもない。

 この赤子にも、いずれ選ぶべき自由が、無数に、しかし有限に広がることだろう。

 こうして男が、その赤子を殺さずに、ただし、生かさぬようにと「枷」を強いたのも、けっきょくのところはおなじである。赤子には赤子の進むべき道がある。それとおなじだけ、男には男の選ぶべき道があった。

 男には、男の選ぶべき自由があった。しかし、どれにすべきかを迷えるほど道は広がってはいなかった。

 折衷ではなく、断絶。

 どちらを断つべきか、その程度の選択肢しか、このときの男にはなかった。ともすれば、見えなかっただけやもしれぬが、いずれにせよ、男はこの日、赤子の未来を大きく変えた。その干渉は、時間の経過と共に、この地からはるか遠くの地で誕生した、また別の者の未来をも、ゆがめてしまった。

 その赤子に男が干渉したことで、未来は大きく歪曲したのだろうか。

 それとも、

 赤子の存在が、このときすでに、世界の枠組みに干渉していたのか。

 男が赤子に触れたこの瞬間、その答えはすでに意味を成さない不毛へと変質し、無数の可能性を内包し、同時に一つの結末へと進んでいく。

 一生涯を通じて、互いに触れずに済んだやもしれぬ〝縁〟が、この日――まだありもしない延長線においてすでに、複数、交叉していた。あたかも、点を紡ぎ、線を引き、円を成すがごとく。

 その交叉点の核をなす者は、

 奇しくもこの時点ではまだ、

 受精すら遂げていなかった。




   

      起床・帰郷・無境

 

          『いいや、逆だよ。夢がきみを見ているんだ』

      ■■■


 認めるべきだよ、きみは。自分にある能力を、それがいかほどに特殊な性質であるのかを、きみはもっと自覚すべきだ。

 この世界は、ある種の法則――大いなるシステムにのっとって動いていると解釈されている。

 が、

 それは正しくない。

 例外的に、大いなるシステムに逆らう事象というものも、この世界には悠然と存在している。

 とは言えやはりというべきか、大部分の事象というものは、その大いなる宇宙の法則にのっとって動いている、と言ってしまっても過言ではなく、むしろどんな法則であっても例外は存在する、というこれこそが大いなる法則だと言ってしまっても、この際、いささかの謬見も生じない。

 たとえば、物体は作用が働かないかぎり、その場に止まろうとするが、これはそういった力が働いているからであり、運動している物体もまた、ほかから作用が働かないかぎり、動きつづけようとする。いわゆる、慣性の法則だ。ほかにも、質量保存の法則や、エネルギィ保存の法則、大数の法則などなど、この世界はあらゆるシステムによって限定されている。

 ところがだ。

 なにかを限定するためには、必ず、境界となる『枠組み』が必要となる。それはときに、観念的な「基準」となり、或いは、物理的な「障壁」ともなる。

 なにかしらの枠組みがなければ、何かを限定することなど不可能だ。

 ――器が無くては、なにもすくえないように。

 仮に枠組みを有さずに限定可能であるとすれば、それは、「無」以外に存在しえない。

 しかし、

 奇しくもこの世界は有限に存在している。

 無でもなければ、無限でもない。

 ――有限だ。

 この有限の世界を限定する枠組み、これを与えるために、システムに従わない事象が必要となってくる。

 例外的存在が存在しなければ、枠組みなどありえない。

 例外的存在が介在しなければ、あらゆる法則は機能しない。

 すべてがことごとく同じであれば、そこに差異はなく、ゆえに境もない。

 循環しないシステムは、流れぬ川が腐るように、いずれ衰える定めにある。

 仮に、延々と循環するにしても、変化のない循環など、止まっているに等しい。

 循環の目的は変遷にこそある。代替にこそある。

 性質の変化であり、世界への浸食である。

 衝突し、融合し、生成され、構築し。

 衝突し、消耗し、瓦解され、分解し。

 そうして世界は、より『らしい』世界への変貌を遂げようとしている。

 それが、我々人類から見て、進化となるか頽廃となるかは定かではない。重要なことは、我々人類もまた、そういった、宇宙に混在するチリのひとつにすぎない、というこのどうしようもない現実だけである。

 が、

 そんなチリがごとき人類においても、世界を支配する大いなる法則に囚われない、「例外的存在」がいるとしたら、きみはどう思うだろう。

 なにを感じるだろう。

 そろそろきみは認めるべきだ。

 我々のなかにも、例外的存在は存在するのだ、と。

 少なくとも我々は、誰ひとりとして「同じ人間」などではないのだと。

 だが、その「例外的な存在」からしてみれば、どれもみな「同じ人間」に見えることだろう。我々から見て、どの蟻も同じに見えるように。「例外的存在」にとって、個々人にある差異など、あってなきがごとく。

 どうだろう。

 きみには他人が、そう見えているのではないか。

 きみには、我々人類がどう見えている。

 どれもみな、同じではないのか。

 本能に忠実に生きるほかの生物たちと同様に、まるでプログラムされた機械のように見えているのではなかろうか。

 そうだとも。

 それこそが、充分過ぎる証左なのだ。

 きみが、「例外的存在」であるという、なによりの。

 いつだってきみは、孤独に生きるしかない。

 きみは認めるべきだ。

 自分にある能力を。

 それがいかほどに特殊な性質であるのかを。

 きみはもっと自覚すべきだ。

 少なくともきみに、

 ――仲間などいない。

 

 

        『なら、オレが見ているコレはなんなんだ』

      ※※※オレ※※※

 

 いやな夢を見た。

 未だに見つづける悪夢。変化する、悪夢。

 勘弁ねがいたい。

 容赦なく、突拍子もなく、脈絡もなく、こうしてふいに、アレを見る。

 オレは知らない。話しかけてくるあいつが、いったい誰なのか。そもそもそんな人物など存在しないのだろう、とこんなふうに考えられるようになったのは、恥ずべきことに、つい最近になってからのことだった。

 悪夢を見せつけてくるあの野郎がこの世のどこかにいるのではないか、とそれこそ夢見ていた。いつか必ずそいつを探しだして、ぶっ殺す。そんなふうに夢見てた。

 だが、けっきょくのところ、アレは、夢にすぎない。アレが悪夢である以上、現実と地続きに繋がっているなどあり得ない話だ。

 どうかしていた。

 こんな歳になるまでオレはいったい、なにを求めてきたのだろう。ほとほと自分が厭になる。

 家を飛びだし、旅をしはじめたのは、すべてあの悪夢を振り払うためだった。それだけを目的に世界中を放浪した。どれだけ無謀で、どれだけ無益な旅であるのかと、そんなことすら考えなかった。

 家を出て……たぶん、六年になる。

 目的なんてとっくに忘れてしまった。

 いいや、答を手にしてしまったのだ。

 ――しょせん、アレは、夢にすぎないのだと。

 オレはいまさら知ってしまった。

 だのになぜ。

 答えが出ても、オレはこうして夢を見る?

 殺せぬあいつが、語りかけてくる。

 悪夢を拭い去ることができないのだとすれば、現実に身を置くオレがなにをしても無駄だというのならば、オレは、あいつを葬り去るために――そのためにならオレは――オレ自身を――悪夢の世界へと………………。

 でもそのまえに。

 こんなバカげた妄想を目的に旅立ったオレのわがままを許してくれた家族に、ひと目、逢っておきたい。

 およそ六年ぶりの帰郷になる。

 おみやげはなにがいいだろうか。

 母さんも父さんも齢はすでに四十後半に届く。

 弟はもう十六か。

 妹はえっと……何歳だ?

 ああ、なんだろう。

 胸が軽くなる。

 家族がいるって、いいよな。

 帰る場所があるってだけで、孤独を心地よく楽しむことができる。

 なのに、なぜだろう。

 あいつの言葉がオレを縛る。

 窮屈に、陰鬱に、夢での言葉が歪んで聞こえる。

 あいつは今もオレへじかにささやきかけている。

 

 少なくともきみに、

 ――家族などいない。



 

  

      ・真夏の回想・

 

      ***ノボル***

 

 蒸し暑い。

 蝉の合唱が分厚い壁となって聞こえる。

 目を覚ましてからもノボルはベッドのうえから起きようとしない。額にうでをおき、ぐったり、としている。

「あっつー」

 風鈴が風の音を奏で、カーテンがやわらかに膨らむ。

 起きないのは暑さだけが理由ではない。

 全身が筋肉痛だった。

 昨晩、ノボルはわけも分からぬままに、街中を駆けまわった。元を辿れば、昼間に拾ったアタッシュケースが元凶だった気がする。

 アタッシュケースは駅まえで拾った。色は黒く、ノボルの腕よりも厚みのない、小柄な長方形をしていた。

 落し物、というよりも忘れ物といったほうが精確かもしれない。ベンチのわきに、ちょこん、と置かれていた。目に触れてしまったそれを、いちどは見ない振りをしてその場を去った。

 落し物において厄介なのは、どこで落としたかが判らないことだ。手元にないと気づいたそのあと、探すにしてもどこを探せばよいかが見当つかない。それに比べ、忘れ物の場合は、ある程度の見当がつく。そのためノボルは敢えて見過ごした。わざわざ自分が手にとって交番へ届けるまでもない。

 持ち主が戻ってくるかもしれないし、そうでなくとも、だれかが代わりに交番にでも届けてくれるかもしれないと期待した。

 ところが買い物の帰り、念のためにベンチのまえを通ったら、まだ置き去りのままにいされていた。

 ――なんでだれも気づかねーんだよ。

 不承不承の体でノボルはそのアタッシュケースを手に取った。見かけの割に、ずっしりと重い。

 交番は駅の構内にある。

 しょうがねぇな、のため息を吐き、交番へ届けてやることにする。

 常人よりも頻繁に落し物を拾ってしまう、という厄介な性質がノボルにはある。

 これまでの人生、この性質のせいで損をしたことは山盛りたくさん数え切れぬほどあるが、得をした覚えはいちどもない。

 またぞろ厄介事に巻き込まれやしないか、と危惧しながら足早に歩きだしたところ、

 ちょっとすみません――。

 背後から肩をつかまれた。

 振り向くと、スーツ姿の男が立っている。上着からネクタイまでをしゃんと着こなしており、真夏だということもあり、暑苦しく映る。こちらと同じくらいの背丈で、平均的な成人男性の体型だ。短髪で髪の毛がチクチクと逆立っている。耳にピアスが空いている。特徴だけを並べれば、攻撃的な外観かもしれない。一方で、男からは敵意や害意といった刺々しい気配は窺えない。

「はあ、どうもすみません」と、へこへこ、と細かく低頭を刻みながら男は、「それ」とこちらが手にしているアタッシュケースをゆび差す。「それ、あそこのベンチに置いてあったやつじゃないですか?」

「ええ、そうですが」

「ああ、よかったあ」男は大げさに胸を撫で下ろした。「それ、オレの持ち物なんすよね」

 言って、にこやかにこちらへ期待の眼差しを注ぐ。

 自分のものだから――それで、なに?

 自分のものだから返してくれ、と要求するのは当然だとして、そのまえに一言あるのが礼儀ではなかろうか。

 たとえば、ありがとう、だとか。

「これがあなたの持ち物である証拠はありますか?」ちょっとした当てつけのつもりで口にした。「たまにいるんですよ、持ち主になり済ますやからが」

「証拠ですか!?」

「冗談です」

 証拠なんていりません、とノボルはアタッシュケースを差しだした。「手間が省けてよかったです。もう失くさないでくださいよ」

「やっはー。ピーチっすね」男はよくわからないことを言った。「オレ、あなたのこと、きらいじゃないです」

 きらいで結構だと思うが、口にせず。

「じゃあ、おれはこれで失礼します」

「マンゴー助かりました」

 軽薄な口調で言い、男は低頭した。

 ピーチにマンゴー。

 浮世に疎いノボルである。最近の若者は「すごい」や「とても」の代わりに、そんな言い回しをするのか。最近の若者はわからんな、と自分の若さを棚に上げ、遠い目をした。

      ***

 家に着くころには陽が傾いていた。父も母もまだ帰宅していない。今日もお泊りかもしれない。妹はきっとまた寿司でも食べにでかけているのだろう。その分、ノボルは自炊である。

 調理時間およそ五分の、我流チャーハンを、さらに五分でたいらげ、本日の夕飯を終了させる。

 ノボルはいつも零時を回ったころに外出をする。それが日々のルーティンだ。リュックに必要な小物を詰めこみ、駅前へと自転車を走らせる。駅前は夜になれば、完全な静寂につつまれるため、ノボルにとっては好都合な空間だった。

 毎晩ノボルはそこで修業をする。格好をつけて言いなおせば、トレーニングである。格好をつけないで形容すれば、練習をする、となる。

 いったいなにを練習するのか。

 見ればひと目でそれと判るようなことをしている。敢えて説明する必要もない。だからノボルはそれを、修業、と呼んでいる。

 駅ビルの表層はガラス張りだ。夜ともなれば、鏡と化す。そのまえに立ち、いそいそ、と修業を開始する。

 一時間ほど動き、休憩を挟む。そこからさらに一時間は修業をつづけるつもりであったが、腹立たしいことに、その予定を崩された。

 音楽で耳に栓をしていたノボルであったから、それに気づくまでに時間がかかった。

 ふと、うめき声が漏れ聞こえた。

 見遣ると、街灯のしたに人影が見える。

 ――襲われている、だれかが。

 駆けつけたい気持ちを、ぐっと堪え、ノボルはメディア端末を取りだした。一一〇番通報をしようと番号を押していく。最後に通話ボタンを押そうとしたところで、手元から端末が消えた。

「オレンジ困りますって」

 いつの間にか目と鼻のさきに男が立っていた。こちらの端末を手にし、いじくっている。

 呆然としていると、

「マジ、バナナですって」

 男はこちらに端末を放るようにし、返してくれる。

 受け取り、確認するが、電源が切られているだけで端末自体は無事だ。

「警察とか、時期尚早っすよ」

 早急な判断だとなじりたいのだろうが、時期尚早は誤用だ。

 内心で指摘しつつ、こいつは昼間のアタッシュケースの男ではないか、と嫌な予感を覚える。

 この展開は、まずいぞ。全神経が警告を発する。

「どうしたんすか、カンザキさん」

 男の背後からさらに複数の男たちが、わらわら、と集まってきた。奥のほうに、地面に伏している影がある。

 救急車の手配をしたほうがよさそうだ。

 冷静に状況を把握し、どうやってこの窮地を脱しようかと考えを巡らせる間もなく、いきなり顔面をなぐられた。うめくと同時に、髪の毛を鷲掴みにされる。カンザキと呼ばれたフルーツ語の男ではなく、新しく寄ってきた男だ。右目のしたに傷がある。まるで泣いているみたいに見える傷だ。

「こっちこいな、おまえも」

 髪の毛をリードの代わりにされ、引きずられる。抵抗する余地もない。

      ***

 男たちが虫けらを見る無邪気な子どもを思わせる顔で、愉快そうにこちらを見下ろしている。

 そばにはノボルのほかにぐったりした人物がいる。無事を確かめようと仰向けにさせると、見知った顔がこちらを向いた。

「福州さんっ!」

 頻繁に買い物に寄るスーパーの店員である。福州・沁、二十四歳。たびたび、値引き対象ではない品物を安くしてくれた親切なひとである。

「だ、だいじょうぶですか」

 ゆさぶると、痛そうに呻く。

「ノボルくんかい」腫れた顔は焼きたてパンを思わせる。

 彼を支えたままでノボルは男たちを睨みつける。

「なにをしたってんだよッ!」福州さんがなにを、と怒鳴った。だみ声しか出ない。ノボルは半ば、かれの無実を確信している。

 男たちの一人がその場にしゃがんだ。目線がそろう。

 よこにはフルーツ語を扱うスーツ姿の男が立っている。

「こいつらどうしましょうか、カンザキさん。そのまま埋めますか? それとも、刻んで埋めますか? どうしましょうか?」

「きみらはホントに、チェリーだなあ」カンザキと呼ばれた男はえらそうに言った。「なんでもかんでも消そうなんて考え、スイカにケチャップだぞ」

 ありがたくもなんともない言葉を聞き流しながらノボルは、福州さん、と声をかける。「なにをしたんですか。どうしてこんなことに」

「なにもしてない」悔しそうに福州さんは唇を噛んだ。

「あのう、ホント、アボガドすんませんした」カンザキが短髪を、じょりじょり、いじりながら頭をさげてくる。「このひとら、どうにもココナッツ真面目らしくって。決まった対応しかできないみたいなんすよ。その方はなんというか、運がわるかったというか、ちょっとした手違いで、ゴミ扱いしちゃったんですけど、それはこちらの勘違いだったということで。オレがキツっク叱っておきますんで、今日のところはお引き取りくださいませんか」

 ――そちらの方は、すぐに手当てしたほうがいいと思いますし。

 言ってカンザキはしかめ面を起こした。

 あまりにも身勝手な謝罪だ。謝罪であるのかすら疑問の余地がある。

 おまえらいったいなんなんだよ。

 怒鳴りたい欲動を、ぐっ、と堪え、代わりに、ノボルは吐き捨てた。

「落すなよ。大切なもんがあったら」

 男たちが一様に、首を傾げた。続けてノボルは歯を噛みしめながらこう告げた。

「ぜってー拾ってやらないから」

 おまえらの落し物だけは、ぜったい。

      ***

 深夜だというのに、街灯があるためか公園は明るい。

 どこかで誰かが、簡易花火をしていたのだろう、火薬の残り香が風に交じっていた。

 自動販売機でカルピスを二本購入し、一本を福州さんに手渡した。かれはベンチに座り、項垂れている。

「すまないね」

 カルピスは飲まずに、腫れた目元にあてがった。

 ノボルも真似して頬に当てる。

 まだ夏まっさかりだというのに、虫の音がすずしげに響いている。

「なにがあったんですか」

 当初、手当てをすべく、病院へ向かおうとしたが、福州さんが拒んだ。ならば警察へ行って被害届を出しましょう、と提案してみたが、それも断られた。完全な被害者である福州さんが、なぜ遠慮する必要があるのか。これでは泣き寝入りではないか、と理不尽を承知で福州さんにも腹がたった。

「まあ、あれだよね」福州さんは虫の音に負けるほどの、ほそぼそ、とした声で、「ぼくもわるいと言えば、わるいんだよ」と言った。「最初にからんだのはぼくのほうだからね。喧嘩両成敗なのかもしれない」

「福州さんからからんだんですか?」意外に思うが、「だからって、ここまでされるいわれはないですよ」と当然抱くべき怒りを代弁する。

「いいんですよ。ほら、ぼくってそそっかしいじゃないですか。お店でもよく、パートのおばちゃんたちに怒られちゃったりしててね。勘違いしちゃうんだ。よく確かめもしないで、決めつけちゃうきらいがある。ぼくにはね。だから、今日なんかはさ、あのひとたちが、女性を襲っているものと早とちりしてしまって」

 それで格好をつけてしまった、と福州さんは頭を抱えるようにした。

 助けに入ったはよいが、助けるべきひとなどいなかった。あまつさえその女性は福州さんを嘲笑って、こう言ったのだそうだ。

「おい、見な。ヘンタイが勘違いして、ストーカーになりそうだぞ。おまえら、わっちを守りな」

 そこからは成す術もなく、ゆるゆるとつづく絵に描いたような暴力にひたすら耐えていたそうだ。

 羽を毟られたトンボを、ゆびで弾いてなぶる。そんな残酷な所業を、なんの悪意もなく子どもがしてしまうみたいに、男たちは談話の合間に石を蹴るようなノリで、福州さんをなぶっていたらしい。

「ありがとう、ノボルくん。助けに入ってくれて」福州さんはいつの間にか飲み干していたカルピスの缶を握りつぶした。「ノボルくんが来てくれなかったら、ぼくは完全に忘れてしまっていたかもしれない」

 忘れて?

「なにをですか?」

 窮屈そうにのどを伸ばし、福州さんは、夜空を仰ぐようにした。「彼らが、ぼくと同じ人間だってことをだよ」

      ***

 福州さんとは公園で別れた。家まで送っていきます、と申し出たが、ノボルくんがそこまでする必要はないよ、と断られた。

 時刻を確認すると二時をすこし回ったところで、思いのほか時間が経っていないことに驚く。怒涛の一時間だった。

 さて、と。

 ノボルは公園を後にした。

 帰宅の途に就こうとしたところで、駅前にリュック一式を置いたままだったことを思いだす。

 福州さんを担いでいたのと、一刻もはやくあの場を立ち去りたかったのとで、うっかり、置いてきてしまった。

 あの男たちもさすがにもういないだろう、と希望的観測を胸に、ノボルは駅まえへと踵を返した。

      ***

 荷物は無事だった。盗まれることも毀されることもなかったようだ。

 よかった、と一息つく。

 置きっぱなしだった小物などをリュックに詰めこみ、こんどこそ帰路に着こうとしたところで、見覚えのあるシルエットが目に留まった。

 ――アタッシュケース。

 闇に浮かぶように駅前のフロアに、ぽつねんと置かれている。

 誰かが置き忘れたにしてはあまりにも不自然な置かれ方をしている。

 フロアのど真ん中だ。

 意図的に置き去りにしなければ、そんなところに置きっぱなしにはならないだろう。

 見つめていると、アタッシュケースは風もないのにパタンと倒れた。

 拾ってくれ、と言われた気がした。

      ***

 福州さんに暴力を振るったあの男たちのように、最低にはなりたくない。

 最低になりたくないからノボルはそのアタッシュケースを手に取った。

 おそらく、あいつらはこれを忘れていったのだ。きっとそれで困るはずだ。

 困っているひとがいるならば、相手が誰であろうともノボルは助けてあげたいと望む。あいつらを助けることで、もしかしたらまた、福州さんみたいに、理不尽な暴力でズタズタにされてしまう可哀想な人が出てきてしまうかもしれない。

 けれど、それとこれとは、話が別だ。

 たとえ繋がっていようとも、やはり別なのだ。

 困っている人がいるのなら、助けてあげたい。独房に入れられて困っている凶悪犯であっても、心底困憊していたのなら、ノボルは見て見ぬ振りができない。助けてあげたいと望む。いや、そう望めるような人間でありたいと願う。ノボル自身、そういった人間ではないからこその願いだ。残忍非道な所業を犯した者など死ねばいい。本心ではそう思ってしまう。だからこそ、誰であっても辛苦にもがいていたならば、手を差し伸べてあげられるような人間でありたいと望む。

 理由なんてない。そこに正当性なんて、これっぱかしも求めていない。

 これは、ノボルのわがままだ。

 しかし、一番納得のできるわがままでもある。

 アタッシュケースは見た目以上に重く、運ぶのに苦労した。

 夏の大三角を仰ぎながら夜道を進んだ。

 あとすこしで家に着くといったところで、

「ありゃりゃー」と声が聞こえた。

 聞こえた矢先に視界が反転する。

 頬に痛みを感じると同時に、ブッ飛ばされたと察する。

「また、あなたですかぁ?」

 尻持ちをついた状態のこちらを覗きこむように男が近寄ってくる。「マジ、ドリアンっすよ。もしかして、わざと邪魔してません?」

 スーツ姿のフルーツ野郎だ。ほかの男たちからはカンザキと呼ばれていた。

 カンザキのほかにも複数の気配がある。また囲まれてしまったようだ。

「もしもわざとでないんなら、そのカバン、渡してくれませんかね」

 いつになく高圧的だ。

「あのさ、出遭いがしらに相手をブッ飛ばすのが、あんたらの流儀なんですか?」

「すんません。いやバナナ、またあなただとは思わなくってですね」弁解するつもりがあるとは思えないほど軽薄な物言いだ。「ですからね、オレは、やめなさいって言ってるんすけど。どうもこのひとたち、先走っちゃうみたいで。そもそも、取引の邪魔に入るあなたもあなたですよ。さっきから、わざととしか思えないっすもん」

 そんで、と彼はひどく冷めた目をした。

「だれに雇われたんですか」

 このとき、ノボルの周囲半径三メートル以内が、いっしゅんだけ、真夏から真冬へと様変わりした。

 これは、ひとを人と思わないモノの目だ。

「だれにも雇われてないですよ。おれはただ、あそこにコレが置きっぱなしにされてたから」とアタッシュケースを抱えなおす。「だから交番に届けようと思っただけですから」

「昼間もあなた、そう言ってましたよね」

「昼間も同じ理由で手にしたからですよ」

 しばし睨みあう。

「まあ、いいっすよ」カンザキは言った。「拾ってくれてどうもっす。でも、それはそれとして、二度あることは三度ある。雇われの身としてはこれ以上の邪魔立てはされたくないんすよね。だからこれはあなたがわるいんじゃなく、仕方がないことで、強いて言うならご自身の運のわるさを責めてください」

 あまりに飄々と言われたものだから、それがなにかしらのペナルティをこちらへ与えようとしている男の宣言であるのだと、すぐにはピンとこなかった。

 カンザキがおもむろに口元へゆびを運んでいく。

 処刑台を昇る人間のきもちはこんなだろうか、と冷めたきもちで考えていると、

「いっしょに来い」

 背後からとつぜん、うでを掴まれた。

 そのまま、犬に引きずられる飼い主みたいに、駆けだしている。

「あっ! 逃げた!」

 背後から、ぎゃーぎゃー、と男どものむさっくるしい喧騒が聞こえてくる。

 振り向かぬままに、足をうごかしつづける。

 まえにはたなびく長髪があり、風を受けて、こちらの頬をくすぐった。

「なにしてんだよ、あんなとこで」

「あの、だれですか?」

「っ、…………だれでもいいよ」

「助けてもらって、ありがとうございます」

 知り合いだろうか。心当たりはない。

 このまままっすぐ進んでいくと森へと抜ける。脇道に逸れたからか、街灯はなく、周囲は薄暗い。

 森林公園への入り口までくると、そこでようやく立ち止まる。

「それはオレが預かる」強引にアタッシュケースを剥ぎ取られる。「おまえはもう帰れ。あとは任せろ」

 急に現れて、また急に立ち去ろうとする人物にノボルは投げかけた。「……あの、ほんとうに、どちらさまですか」

「思っても訊くなよ、そういうことはさ」

 こちらを振り向いた顔は、闇夜にまみれ、底の抜けた樽を思わせた。

      ***

 帰宅すると、一も二もなく、死んだように眠りに落ちた。

 正午過ぎに目が覚めたが、しばらく天井を眺めて過ごした。

 筋肉痛でだるい。動きたくない。

 開け放した窓から風が引き込み、風鈴を鳴らした。

 平和だなあ、と思った。だのでそうつぶやいた。「平和だなあ」

「ほんとうにそうか? 甚だ疑問じゃの」

 ふいに声がする。おいおい、またかよ、と思うが、まだ思考は現実を見つめたくないらしく、聞こえなかったふりをする。こちらの消極的な態度を知ってか知らずか、

「おぬしがそうやってうたた寝をしている合間にも」と声の主は続ける。「この世界のどこかで、今この瞬間に、死ぬよりも辛い目に遭っている者が大勢おる。その現実を知っていながらに、うたた寝をしていられるおぬしという存在は、果たしてほんとうに、『平和』かや?」

 平和は存在ではない。状態のことだ。だからおれのこの状態が「平和」か否か、といえば、「平和」だろう。二度の寝の態勢のままでノボルは思う。

「ひとがせっかく、会いに来てやっておるんじゃ」

 起きんかいボケナスが、と頭を枕に押しつけられる。

 瞼を持ちあげるとそこには、すらり、と伸びた足があった。陽射しにほどよく焦げたような、褐色の肌が、むちむちと張りのあるふくらはぎを覆っている。

 踏みつけられている。

 でも、だれに?

 上体を起こそうともがくものの、目のまえの足は微動だにしない。

「ようやく起きよったか。まずは自己紹介をさせてもらおうか」

 ようやく足がどけられる。

 顔をあげると見知らぬ女性が立っていた。彼女は淡泊にこう告げた。

「わっちは、霧星蛇(きりぼしだ)じゃ。分析屋を生業にしとる」

 はあ、とノボルは正座の体勢になおる。

「単刀直入に言う。明朝、おぬしが持って逃げたアタッシュケース、あれを返してくれんかの」

 まあそんなところだろう、と冷静に考え、

「勝手にどうぞ。持って帰ってくださいな」

 正座を崩すと、ふたたぶ、ベッドにあたまを押しつけられる。

 こちらの頭を踏みつけながら彼女は歯ぎしり混じりに、「そうしたいのは山々なんじゃがなッ」と唸る。「おぬし、そのアタッシュケース、どこに隠しおッた」

 頭蓋骨の軋む音がする。

 痛みのおかげでもないが、そういえばアタッシュケースはなぞの人物が持って行ったのだった、と遅まきながら思いだす。

 知らない女性が持っていった、と説明するが、

「ほう、そうくるか。ならば仕方あるまい」

 彼女は足を首筋に置きなおし、

「言わぬおぬしがわるい」

 体重を乗せた。

 視界がしろく明滅し、ノボルは意識を失った。




      ※※※オレ※※※

 およそ六年ぶりの我が家だ。

 着いてみたものの、誰もいない。

 鍵はどうやら付け替えられているようで、六年前のこの鍵では開かなかった。

 それも仕方あるまい。解ってはいるもののしょうじき、ちょこっと傷ついた。

 夜まで時間をつぶそうと繁華街へ行ってみることにした。

 数年のあいだに、学んだことが三つある。ひとつは、旅はひとりでするものだってこと。ふたつ目は、旅に出会いを求めるなってこと。そして最後は、旅に荷物なんて不要だってこと。要するに、荷物はしょせん、お荷物だってこと。

 だから荷物はない。手ぶらだ。

 

 胸元のペンダントをいじりながら、オレは歩を進める。

 

 繁華街までは地下鉄が通っている。乗れば三十分ほどで到着だ。

 ずいぶんと賑やかになったものだな。

 それが素直な感想だった。六年前は、ここまで人通りが多くなかった。地下鉄が増線された影響もあるのかもしれない。高層の建物も増えていた。商店街の印象はさほど変わっていない。

 駅まえには立体歩道が虹のように張り巡らされており、手すりに寄りかかり、眼下を眺める。

 うごうご、と人間が入り混じり、愉快だった。

 風景だけじゃない。喧騒だって愉快だ。

 人間の声が複合された騒音。カップルや、部活帰りの少年たち、帰宅途中の社会人に、買い物帰りのOLたち。この場にいる人間の奏でる、あらゆる音が一つの狂騒を生みだしている。

 ところでオレには特技がある。

 言葉を言葉としてではなく、音として聴き取ることができる。

 たとえば、映画を観ているとする。それが母国語であったならば、人は無意識のうちに、その言葉を、音ではなく、言葉として認識してしまう。それが、仮に、まったく慣れ親しんでいない外国の言葉を聞いた場合には、逆に言葉を音としてしか認識できない。海外に行って、現地人がなにか話していても、こちらにはそれが、ただの音の羅列にしか聞こえない。

 それと同じように、母国語であっても、オレは、それを言葉ではなく、音として聴き取ることができる。

 意識すると、そこにあるのは、音の羅列だ。

 個人が奏でる素朴なミュージックとして、或いはメロディとして認識できる。

 訓練すれば誰にでもできることだ。

 ただし、オレの場合は、他人には真似できない性質がある。

 オレは、「言葉を音として聞くことができる」だけではない、「聴き取ることができる」のだ。

 言葉を音として認識しておきながら、そこからその人物の意思を汲み取ることができる。

 言葉の機能を無視しながらに、言葉の役割は受け継がれる。いや、むしろ、言葉を額面通り受け取らないがために言葉の発音から、その人の心情をより詳細に聴き取ることができる。

 言ってしまえば、オレには、相手の言動にある心象が〝視える〟。

 常に、ではなく、意識すれば。

 そして今、オレはこの街に溢れかえる雑踏、そこから湧きたつ喧騒を〝視ていた〟。

 不協和音となってはいるものの、混じってはいない。重なっているだけだ。だから、意識すれば、それらの〝音〟を振り分けられる。

 聖徳太子はいちどに十人の話を聞きわけたという。だがオレはこうして、音が音として独立しているかぎり、いくらでも聴き分けられる。

 オレのこの特技を知る者はいない。

 色が重なり、黒く(濃く)なるように。

 光が重なり、白く(薄く)なるように。

 この街には、紫が浮き上がって視えている。

 ひとつひとつの声に意識をさし向けると、音は途端に彩色を奏で、個性ある形状を帯びる。

 万華鏡を覗いた感じに似ている。

 声を発する人を中心に、起伏が、放たれる。

 ――波紋が、放たれている。

 おや。

 喧騒のなかから違和感を感じとる。

 どの声だろう。

 蜘蛛巣を張るみたいにし、意識を縦横無尽に張り巡らせる。

 捉えた音は、ほかのいくつかの音と同調していた。複数名が同時に意思疎通をはかっていると判る。

 こんな近距離で、集団が互いに連絡を取り合っている。

 不穏だ、と感じた。

 以前、海外でも同じようなことがあった。そのときは、麻薬取引を差し押さえようと、警官たちが見張っていただけだったが、今回は、どうもそういった感じとは趣を異としている。

 声の主たちは、円をなし点在している。その中心にはベンチがあるが、だれも座ってはいない。

 あたかも蟻地獄に落ちるアリを待っているみたいな、張り詰めた気配が感じられる。

 ここからベンチまでの距離はざっと数十メートルある。目測でも、周辺にひとがいないのが見てとれる。

 しばらく観察することにする。

 やがて周囲に点在していた声のひとつに動きがあった。

 この立体歩道の真下から聞こえていた声だ。こちらへどんどん近づいてくる。すぐそばのエスカレーターからあがってきたようだと判る。

 横目で窺う。剣呑な雰囲気の男だった。目のしたに傷がある。一見すれば涙が、つつーっ、と伝っているみたいな傷で、ひと目で堅気ではないと判らせるに充分な異様さを振りまいている。

 長方形のうすいカバンを脇に携えており、。男はメディア端末を耳元へあてがったまま、ベンチのほうへ歩んでいく。

 オレは耳をそばだてる。

「今から鏡モチを置く」「羊飼いは?」「了解」「記録を開始しろ」

 業務的に男が唱えていた。

 ベンチまでくると男はいちどそこに座った。数人の通行人が男のまえを通り抜けていく。みな、自分のことにばかり関心があるようで、男のほうへ視線をむける者はいない。

 やがて男が立ちあがり、そのままベンチから離れていく。おかしなことに手にはカバンがなかった。意図的にベンチへ置き去りにしたと判る。

 見張られていると厄介なので、場所を移動することにする。

 駅の二階にある喫茶店に入り、真上から立体歩道を観察する。

 注文したコーヒーを飲み干したところで、ひょろり、とした青年がベンチのまえで歩を止めた。倦怠感溢れる感じで、ベンチのよこに屈む。

 半身を起したその手には、カバンが握られていた。

 さきほど傷の男が放置したカバンだ。

 青年はそのままベンチから遠ざかっていく。

 が、スーツ姿の男に呼び止められ、カバンを譲渡する。ほどなくしてふたりは別れた。

 スーツ姿の男はカバンを持ったまま、駅前を離れていく。

 取引、の二文字が脳裡に浮かぶ。

 跡を追うべきではないか。

 おそらく彼らの目的は、あのスーツの男がカバンを持ち去ったことで終了したのだろう。もたもたしていると、解散されてしまう。雑踏の中から、移動する声を特定するのはさすがに困難だ。定位置に彼らがのこっているあいだに、対象を視認しておかねばなるまい。

 喫茶店をあとにし、駅まえにでる。

 あれだけあった男たちの声が、つぎつぎに消えていく。仕事が終わったので解散しはじめたのだ。

 どの声を追うべきか、標的をしぼりつつ、考える。

 てっとりばやく、もっとも近場にいた男――あの、目のしたに傷のある男の跡をつけることにした。

      ※※※

 自家用車にでも乗られたら厄介だな、と思っていたがそうはならなかった。目のしたに傷の男(長いから、以後、涙男(ルイオ)と呼ぶことにする)は、パチンコに寄ったり、ショッピングモールへと入り堂々と万引きをしていたり(これについては、「こいつ、万引きしましたよ!」と糾明したかったが、今は、こいつらの本性を突きとめることが先決だと判断したために、見逃した)、映画館で暢気に最新ムービーを観ていたりした。きっと、こうして街を歩きまわってから本拠地へと向かう手筈になっているのだろう。ほかのメンバーも、どこかでうろうろとしているに違いない。

 映画館を出たころには、とっぷりと陽も暮れていた。

 ルイオがメディア端末を取りだし、耳元に当てがった。ルイオを見ないようにしながら、オレは意識を研ぎ澄ます。声だけでやつを観察する。

「おれだ。羊飼いは? へえ。はやいな。姐さんは? もういる? はっは。相変わらずせっかちだな、あのひと。んや。今はえっと」

 つぶやきながらルイオが周囲を見渡した。声の変化でそうと判る。「ここは、まだ、定禅寺だな。ほかのやつらは? へえ。もう戻っているのか。ならおれも今からそっち戻る。あいあい。姐さんによろしく。いや、遅刻じゃないってことを言っといてってこと。おう、じゃな」

 ルイオは踵を返した。こちらへ向かってくる。ここで反応しては尾行に感付かれてしまい兼ねない。そのまますれ違う。どこで迂回するか迷う。もしかしたら、この状況を第三者が監視しているとも分からない。慎重に行動するに越したことはない。だが、もたもた、としていてはルイオを見失ってしまう。いったん、コンビニへ入り、ガムを買う。すぐに出て、ルイオが去ったほうへと急ぐ。

 商店街が見えてくる。人通りが多くなるまえにルイオを視認しておきたい。

 ――いた。

 ルイオは商店街入り口、そのひとつまえの路地で、左折した。裏路地へ入っていく。人通りが少なく、尾行には不利だ。

 どうしようか、と迷う。ルイオがアジトに戻るのだとすれば、ほかのメンバーも戻ってくるということだ。アジト周辺には今、やつらが集まってきている。そこをうろつくのは、額に「只今絶賛尾行中!」と書いて出歩くようなものだ。いや、杞憂だろうか。さっき聞いたルイオの会話。あれを信じれば、ほかのメンバーはすでに戻ってきていると判断できる。周囲への過剰な警戒は不要かもしれない。ここで尻込みしていてはダメだ。オレは、決意の唾液を呑みこんだ。

      ※※※

 どうしてこんな裏路地に、と疑問に思う。高級そうなレストランが建っている。ルイオはこのレストランに入っていった。

 裏路地で迷っている通行人を装いつつ、いちど、レストランのまえを通ってみる。

 瀟洒な外装だ。いい匂いがし、唾液がにじみでる。そういえば、腹ごしらえがまだだった。

 時刻はすでに二十一時を回っている。

 昼食は、喫茶店で飲んだ、あのコーヒー一杯だけだ。

 すかしっ腹では思考も淀むというもの。まずは腹ごしらえをしよう。ついでに、偵察、とばかりにオレはレストランへと歩を向けた。

 重層な扉を開ける。

 いらっしゃいませ、とウェイトレスが出迎えた。服装は整っているが、頭髪を金髪に染めていたり、唇にピアスが空いていたりと、やや過激なウェイトレスだ。オレを見て一瞬、表情が硬くなったが、すぐにほぐれる。

 ウェイトレスから視線を外し、店内を眺める。客たちの服装がこれまた、窮屈そうな正装ときたものだ。こちとら、ビンテージでもないのに廃れたジーンズと、アニメのキャラクタがプリントされている渋いTシャツ一枚きり。場違いではあるが金ならある。

「おいしいもの、ひとりぶん。適当に運んで」拒まれるまえに店内に押し入る。

「かしこまりました」ウェイトレスは先に回って、席へ案内してくれる。

 真摯な対応だ。

 席に着きながら、この店の名前、なんだっけか、と眉をしかめて思い起こす。

 表の看板には、赤い文字で、こう描かれていた

 ――『THE MISTAR』

 その文字を縁どるように、大蛇がいっぴき、うねっている。

      ※※※

 料理はうまかった。薄よごれた身なりのせいなのか、一般客たちからは見えない、隅の席に座らせられた。首を伸ばして店内を見回してみても、ルイオの姿はさっぱりだ。

 このレストランは、一階だけでなく、二階、三階、とフロアが広がっているらしい。一般客は一階よりうえに行けない規則だという。なんて理不尽。きっとルイオはうえの階にいるに違いない。

 店内に溢れる喧騒に意識を向けても、とくに気になる声はない。

 全体的に、ピンクがかって〝視えている〟。

「ちょっと、すいません」ウェイトレスを呼びとめる。食器を下げている途中なのだろう、両手に皿やらなにやら載っけている。

「いかがなさいましたか」唇にピアスの、さきほどのウェイトレスだった。

「このうえで食べてみたいんだけど」と天井をゆび差す。

「申しわけございません。上階は、会員さま専用のフロアとなっておりまして」

「会員ってどうすりゃなれんの」

 そこで彼女は言い淀んだ。口調をさらに柔和にさせ、「お申込みいただいたのちに、審査がございます。それに通った方のみ、会員さまとしてご登録させていただいております」

「客をえらぶってこと」

「そうではありません」彼女はことさらやさしく嘯いた。「当店のモットーは、『来る者は拒まず、去るものを追わず』です。仮に野良猫が迷いこんでこようとも、我々はこころよく、おもてなしいたします」

 ふうん、とオレも嘯いた。「その野良猫が、猛獣だったとしても?」

「ご安心ください。当店には、猛獣をも絞め殺す、オロチがおりますので」

「檻から出すなよー、こわいから」

「檻から出させないでくださいね」

 事後処理がめんどうですから、とウェイトレスは一礼し、去っていった。

 完全に曲者扱いである。

 ブラックリストがあるなら、すでにそこには登録済み、といったところか。

 尾行がバレていたとは考えにくいが、ただ、入店した理由が、この店の穿鑿であるというオレの魂胆は見透かされているようだ。このままジャーナリストのフリでもしようかな、と考える。

 会員以外、立ち入り禁止区域。聞くからに怪しい。カジノでも開いているのだろうか。

 天井から音が洩れてはいまいか、と意識を集中させるが、とくに〝視えない〟。そもそも、オレの聴力は、それほど高くはない。ひとなみの音しか聞こえない。

 ひとなみ以上なのは、音を聴き分けられる、この特技だけだ。みんなが耳にしている音を、細かく、繊細に、明瞭に、認識できるだけ。

 いや、とオレは思いだす。オレは、ひとなみ以上ではないが、しかし、他人よりも異常なのだ。そのことをここ数カ月で、自覚しつつある。

 あの悪夢の影響かもしれない。

 それとも、あの日の、あの光景…………。

 やめろ、やめろ、と頭をふって打ち消す。あれもまた、オレの夢にすぎない。そうだ。そうなのだ。オレは自分につよく言い聞かせる。オレはオレを否定する。

      ※※※

 いちど、店を出ることにした。料金は、分相応、といったところで、そこらにある高級レストランと変わらない。

 金髪唇ピアスの彼女が、扉を支えながら、

「またのお越しをお待ちしております」と腰を折った。

「そりゃどうも」

 店をあとにし、裏路地から商店街へと抜ける。

 アーケード通りには、点々と距離をあけつつ街路樹が植えられている。ベンチが設置されており、腰をおろす。休憩がてら要点をまとめてみた。

 駅まえ・取引らしき現場・複数の不審人物・やつらのひとり、ルイオ・ルイオたちのアジト・高級レストラン・審査ありの会員制・やたらとするどいウェエイトレス・「来る者拒まず、去る者追わず」の余裕しゃくしゃくぶり――これだけそろっていて、なにもないわけがない。

 あのレストラン、ふつうじゃない。わるい意味で。

 むろん、オレにとっての。

 今後の展開を考えてみる。仮にあのレストランが、より直接的に他人を傷つけて利益を得ているような、いわゆる裏稼業を営んでいたとして、その解決策を警察にたくすのは利口じゃない。

 ここまで堂々とレストランを営み、あまつさえそのレストランをアジトにしている現状から推察するに、 彼らは行政の介入をまったくおそれていないと判る。

 もしくは、ぜったいにボロを出さない自信があるのか。だがこれは考えにくい。オレにアジトまで尾行されていた時点で、やつらの隠匿技術は誇れるほどに高くはない。

 とすればやはり、やつらと行政は、なにかしらの関わりがあると考えておいたほうが得策だろう。変に騒いで、行政に拘束されてはかなわない。

 唸るしかない。どうすればよいだろう。まだ実害はない。だが、害が生じてからでは遅いのだ。

 やれることがあるならばやっておくべきではないか。後悔後に立たず、思い立ったが吉日。

 よし。

 まずは行動してみよう。それでなにごともなく終われば、御の字だ。オレの勘違い。笑い話にもできる。

 靴の紐を固く結び直す。

 今夜、あのレストランの正体を見極める。

 鼻息を荒くし意気込んでいると、目のまえを薄よごれたモップみたいな毛むくじゃらが通った。じっと眺めているとこちらに気づき、立ち止まる。目が合う。みょうちくりんだなあ、おい。

 手を地面に下ろし、チッチ、と呼んでみる。けむくじゃらはゆっくりと首を戻し、またゆったりと歩きだした。

「つれないねえ」

 そういえば、と辺りを見渡してみる。

 いたるところに、生息している気配がのこってはいるものの、姿が見えない。

 どこに消えたのだろう……野良猫ども。

      ※※※

 オレはツーブロック離れた敷地にある雑貨ビルにのぼった。レストランを監視するためだ。むき出しの背骨みたいに、非常階段がビルの側面に生えている。

 商店街にある店舗があらかた店仕舞いしたころ、ようやくやつらが動いた。

 まずルイオと思しき男が出てきた。数名の男たちと共に、徒歩で移動する。遅れて、レストランから女性が出てくる。足元まで届く長いスカートを穿いているので、女性だと判る。髪の毛も長い。日焼けしたのだろう、褐色の肌が、この夏の蒸し暑さによく映えている。レストランはまだ営業中だ。ネオンの明りに照らされ、彼女の長髪が漆黒にたなびいて見えた。

 ルイオたちが女に気づき、その場に横列し、全員がそろって低頭する。(行ってらっしゃいまし!)とでも合唱していそうな光景だ。女は男たちを残し、一人で裏路地の奥へと消えていく。

 あの女が頭か。

 となれば、胴体は、あのルイオといったところだろう。

 オレは慧眼を醸しつつも、幼稚な分析を展開する。

 どんな組織であっても、基本的に、肉体労働をするのは部下の役目だ。ゆえに、手足、と呼ばれる。手足が勝手な行動をしないように縛っておくのが、胴体の役目。そして、それら肉体を統率するのが、頭の役目だ。

 頭が無くては、手足も胴体も、バラバラに働き、どんな作業も破壊以外の結果を結ばない。頭がすべてではないが、頭がなくては、どんなに優れた器官であっても、その有効性を充分に発揮することはできない。また、胴体や手足がなくては、どれほど聡明な頭であっても、そこにある知性は具現化されずに、幻となり下がる。

 個人がなぜ組織を形成するのか、その理由は、ここにある。

 もっとも、極々稀に、頭に手足を生やしたような、化物じみたやからがこの世で跋扈していたりする。そいつらは、頭に詰まったその知性を、他人という手足を介さずとも、己の手足をつかって、具現化する。行動力を伴った頭脳――または、知性を伴った手足――を有する個人はおしなべて厄介だ。

 そして、極々ごく稀に、そういった化物が組織に紛れていることがある。これがもっとも厄介だ。やつらは老獪だ。自分よりも劣る集団に属し、己の特異性を「森」に隠そうとする。そういった〝異形〟を有した組織は、往々にして世に、悪果を撒き散らす。化物は、その姿を世に知られぬように計らいつつも、罪過を組織に擦りつける形で、周囲の人間たちを操っていく。

 レストランから出てきたあの女。ルイオたちの頭と思しき彼女を見て、オレは気がそぞろだっていた。あの女には、なにか得体の知れない引力がある。仮に、あの女が化物だとすれば、彼女のもとに集まる手足もまた化物じみたなにかだろう。そう思われてならなかった。

 オレは迷った。どちらを追うべきか。

 女か。ルイオか。

 やつらがこれからなにを成そうとしているのかは現状定かではないが、通常、何かを実行するのは手足の役割だ。が、そう思わせないなにかが、あの女にはある。そもそも彼女は、たったひとりで路地裏に消えた。頭が一人で行動するなど、通常まず考えられない。あれだけ忠義にあつそうな手足がありながら、なぜ。

 それはきっと、一人のほうが安全だからだ。彼女は、他人に守られる存在ではない。手足たちもきっと彼女のことをそう捉えている。彼女に配慮は必要ないとする暗黙の了解、或いは、圧倒的信頼がそこからは窺えた。

 不穏だ。

 オレの離れていた六年で、こんな異常で、異形な集団がこの街に巣くっていたなどと。

 まさか、これまでにも、なにかけったいな所業を繰り広げていたわけではあるまいな。

 無性に腹がむずむずした。

 あの女、野放しにはできない。

 しておきたく、ない。

 直接対峙するのはまだ尚早だろう。だが布石は張っておくことに越してことはない。まずは手足の動向をさぐることにする。そこから、この異質な組織の性質を把握する。

 組織というものは、どうしたって総括者の性質が反映されるものだ。組織を観察するというのは、総括者を分析するためのよき下敷きとなる。

 オレはルイオたち下っ端のほうを追うことにする。

      ※※※

 ルイオを追って正解だと思った。やつらはあろうことか、オレの町に足を向けた。

 深夜の駅まえは森閑としており、フロアには誰もいない。

 いや、遠くにダンサーがいた。

 駅ビルのガラス張りを鏡にみたて、踊っている。踊りに夢中で、こちらには気づいていないようだ。イヤホンで音楽を聴いているからか、曲の聞こえてこないこちら側から眺めていると、深夜の無人広場でヘンタイが発狂しているふうに見えなくもない。

 驚いたことに、褐色のあの女が、すでに待っていた。

 レストランで二手に分かれておきながら、現地集合?

 なんだそれ。

 ますますこの集団がどんな組織なのかが解らなくなった。

 そこへ、誰かやってきた。昼間、ベンチのまえに現れ、カバンを持ち去った男だ。

 チクチクしていそうな髪型。真夏だというのにスーツをばっちり決めている。

 やつらの会話に意識をさし向ける。

「昼間はどうも」スーツ男が挨拶した。「お金のほうはきちんと受け取りました。そちらさんも、見てましたよね」

 見ていましたよ、とルイオが応じる。

「そんで、商品のほうですが、実はオレ、まだ受け取ってないんすよね」オレンジすんません、とスーツ男が頭をさげた。

「それはこまりますね」ルイオが返答する。「仲介人さんの役目は、調和を乱さないことでしょう。予定を崩してもらってはこまります」

 そのよこで黒髪の女がキセルを吸っている。彼らの会話にはあまり関心がなさそうだ。

「あ、オレ、カンザキって言います」スーツ男は誰へ向けてでもなく、脈絡なく名乗った。それから、「仲介人って言ってもですねえ」と弁解じみた小言を返す。「オレの仕事は、あくまで、依頼人の代わりですからね。きみらお客さんの便宜にはからうことじゃないんすよねー」

「それは、まあ、わかっちゃおりますが」

「安心してください。お金はいただいたんで、品物はかならずお届けしますよ。もう、あれですね。面倒ですし、直接お渡ししますよ」

「それはこまります」ルイオの声が曇る。「道理は通しましょう。手渡しではなく、間接的に。それを崩したら、あなたを介す意味がない」

「アボカドっすねー。まあ、意味がないと言えば、そもそもがこんな道理に意味なんてないっすよ」

「それを言ってしまっては、取引そのものが無意義となるのでは」

「まあ、無謀よりも無意義のほうがいいっすもんね」とスーツ男、カンザキは謳う。「グレープだって種なしのほうが食べやすいですし」

「道理を通さないのなら、我々はいつでも無謀を選びますよ」

「そいつあー、グレープだ」カンザキはうれしそうにした。それから、蚊帳の外のキセル女へ向きなおると、おだやかに釈明しはじめる。「予定通りにお届けできなくって、申し訳ない――とは思ってるんですよ。でも、こういった不測の事態の対処にあたるのがオレなもんで。ようやく本来の出番かなー、なんて思ってたりもするんすよね。まあ、出番がないならないでも構わないんすけど、オレは」

 どうしますか。

 この言葉を皮切りに、ルイオたちのあいだに緊張がはしった。敵意が芽生えたような雰囲気だ。スーツ姿の男、カンザキは返事を迫る。「それで、どうでしょう? ここはどうか穏便にご寛恕ねがえませんかね」

「条件はひとつ」女が応じる。覇気のある嬌声だ。「おぬし、わっちの部下になれ」

 ほげー、とカンザキが呆気にとられている様子が窺えた。間もなく、「いやー、マジ、バナナっすよ」と破顔する。

「冗談ではないぞ」女性が煙をくゆらせる。「約束を守れないというのなら、それ相応の代価を払うのが筋ってもんじゃろ。ちがうか?」

「約束は守りますよ。すこし時間がズレるってだけで、品物はきちんとお渡ししますよ」まったくもうお姉さんもチェリーだなあ、とカンザキがのんきに嘯く。

「だったら、その分のズレ、要するに、そちらさんの都合で消費された分の時間――その対価はだれがどうやって払ってくれるんじゃ」

「あー、なるほど」カンザキが首肯した。「なら、霧星蛇さんとこの言うこと、なんでも一つだけ聞きますよ」

「なんでもかや?」

「ええ、なんでも」

「たとえば、おぬしの雇い主、そいつを殺してこい、と言ってもかえ」

「殺せるかどうかは保証しないですが」あっけらかんとカンザキは首肯した。「全力で殺しには行きますよ。まあ、たぶん、殺せますけど。それでいいんですか?」

 たっは、と女は高笑う。「気に入った。おぬし、わっちの部下になれ」

「それは、無謀を選ぶってことっすかね?」

「いやいや、そうじゃありんせん。まあ、厭なら仕方あるまい。ならそうじゃな、わっちの仕事に付き合え。今回の品でぶちかまそうと思うとる花火がある。それを打ちあげようと思うとるんじゃが、どうだ、手伝ってはくれんかの」

「ええ、いいっすよ」思案する間もなくカンザキは了承した。「では、いったんオレ、ご依頼品を取りに戻ります。いちおう、一時間後、ってことでお願いします。ここに落していきますんで、勝手に拾ってってください」

「昼間のようにはならないですか」とルイオが尋ねた。カンザキが頬を掻きつつ、「たぶん」と曖昧に応じた。「本来、拾われることなんてないんすよ。あのアタッシュケース、ちょこっと細工してあるんで。でも、なにごとにも例外はあるじゃないですか。言っても、滅多にないんですけどね。ぎゃくに運がいいですって。宝くじに当たっちゃったような確立ですよ。まあ、念のためにこうして今回は場所を変えましたし。ここってこの近辺のうちじゃあ、かなり田舎でしてね、夜中となれば、だぁれもいなくなるんすよ」

「向こうにいるアレは?」ルイオが、ちいさく見えているダンサーをあごで示した。「あいつに拾われたりはしませんかね」

「ですから」カンザキは泣き笑いの調子で、「ふつうは拾われることなんてないんですって、人込みのなかでだって」

 そうですか、とルイオが不満そうに引きさがった。

 では、のちほど、とカンザキが街灯のない道へ去っていく。闇に溶けこむように姿を消した。

 どうやら、ルイオたちはなにかを手に入れようとしているらしい。その売買の仲介――売り手とルイオたちの仲介に――あのスーツ男、カンザキが雇われているようだ。取引に緩衝材を置くというのは、どの業界にでも見てとれる風習だ。珍しくはない。保険のようなものだろう。取引に限らず、なにかしらを間に挟むことで人は安心できるものらしい。ディスプレイや電波、お金などもそういった意味では、保身のための緩衝材と呼べる。

 カンザキが去ってからは、まるで怒涛だった。

 ひょこひょこ、とおっかなびっくりルイオたちに近づく影があった。

「よ、よってたかって、女性をいじめるのはどうかと思いますよ」

 やたらと声を震わせ、影が割って入っていった。

 場違いすぎる青年の登場に、褐色の女は愉快そうにこう言った。「おい、見な。ヘンタイが勘違いして、ストーカーになりそうだぞ。おまえら、わっちを守りな」

 ルイオたちが目を剥いたのが判った。自分たちの頭が、珍しく庇護を命じてきたのだ。きび団子を見せられた犬みたいに彼らははしゃいだ。「まかしといてください」

「一時間後らしいからな」

 念を押すように女は、「それまでには、はけとけよ」と迂遠に一時撤退を指示した。

 うす、とルイオたちは返事をした。

 割って入った影が、ルイオたちに殴られている。痛いのだろう、影はうめき声をあげている。

 助けに入りたかったが、ぐっ、と堪えた。ここで出ていくのは利口ではない。オレが護りたいのは、個人ではなく、この街だからだ。自分でも冷たいと思った。

 かといって放っておくこともできない。

 行政は信用ならないが、ひとまず、警察に縋るしかないだろう。

 いったんこの場を離れ、交番に駆けこもうとしたその時だった。

「オレンジ困りますって」

 と声がした。

 そちらを見遣ると、スーツ男カンザキがいた。てっきりもう立ち去ったのかと思っていた。

 青年を呼びとめている。ひとり黙々と踊っていたダンサーだ。

 おや、と思う。

 目を凝らす。見覚えのあるシルエットだ。

 間もなく、ああ、と合点した。

 昼間、ベンチのところにいた青年だ。……いや、それにしても、この青年とは、ほかにもどこかで会ったことのあるような気が。思いだせそうで思いだせず、もどかしく思う。

 やがてルイオたちがカンザキに気づき、近寄っていった。間もなくダンサーも彼らに捕まり、ボコボコにされていた影のもとへと連行される。

 どうやら青年は、ボコボコの影と知り合いだったらしい。

「なにをしたってんだよッ!」と青年が叫んだ。

 その声を聴いた途端、脳裡に閃光がはしった。

 オレはこの声を知っている。

 六年以上も前、オレはこの声を毎日のように聴いていた。おやつを無断で勝手に食べてしまったとき。アニメだと偽り、ホラー観賞の道連れにしたとき。なにともなしにイジメたくなってちょっかいをだしたとき。日々のくだらない鬱憤を晴らすたびに、オレはこの声を聴いていた。

 ぼくがなにをしたってんだよッ!

 ――ノボル。

 オレのたいせつな家族。オレにこの街を守りたいと思わせる要因のひとカケラ。

 ――オレの弟。

 感極まり、オレは柄にもなく涙ぐむ。

「あんなに大きくなりやがって」

 ここで動かぬは本末転倒。オレが護りたいのはこの街だが、なぜこの街を護りたいかといえば、家族の日常を奪われたくないからだ。弟には是が非でも、こんなやからと関わってほしくない。あまつさえ、こんなやつらに暴力を振るわれ、心身ともに傷を負ってなどほしくなかった。オレはかるく身体をほぐす。いよいよ大判振る舞いのときが来た。

 いざ茂みから飛びだそうと身構えるが、こちらが出ていくまでもなく弟はボロボロの男と共に、ルイオやカンザキたちの輪から離れていく。

 助太刀に入る必要がなくなった。

 浮いたおしりを元に戻す。

「はやかったですね。カンザキさん」ルイオが投げかけている。柔和な口調が、逆に他人行儀だ。「まだ五分も経ってないですよ」

「いやー、なんかね」カンザキは周囲を見渡しながら、「見られている気がしてて。それでいったん距離を置いて偵察してみたんですが。でも、オレの思い違いだったみたいです」

「……我々を疑ってるんですか。心外ですね」

「やっはー、チェリーっすね。そうじゃないですよ。敵を欺くにはまず味方から、って言うじゃないっすか。いやー、なんかですね、きみら以外の視線があったように思ったんですけど……まあ、けっきょく、あのひとだったみたいすね」

 なんか運命かんじちゃうなー、とカンザキはいましがた弟の消えた方角を見遣った。

 ああ、とルイオたちの気の抜けた声があがる。

「すんませんが、今から品物を持ってきます。どっかで待っててもらっても構いません。品物ここに置いたら、オレ、呼びにでも行きますよ」

「たしか、一時間ほどでしたか」ルイオが確認する。

「いや、もしかしたらもっと早いかもしれませんよ。今日のオレ、マジ、リンゴなんで」

「リンゴ?」怪訝に復誦してからルイオは、でしたら、と要望を伝えた。「でしたら、目立たないよう、向こうの森のほうにいますので。戻ってきたら呼びにきていただきたいのですが」

「がってんライチっす。では、またのちほど」

 カンザキを見送ると、ルイオたちもこの場を去っていった。

 緊張を解く。

 カンザキの気にしていた「視線」というのはおそらくオレのことだ。あのスーツ男、なかなか鋭い。ルイオたちよりも数段、厄介そうだった。褐色キセル女が彼を引きぬこうとしたのも判らないではない気がした。オレは一段と警戒をつよめることにする。

      ※※※

 弟のノボルは、オレに似て、どこかおかしな奴だった。どこがどう、おかしいかはオレにも解らない。きっとだれにも解らないだろう。弟には、他人にはないなにかがあった。身内びいきかもしれない。それでもオレにはそう思われた。一言で表せば、「ヘンタイ」がぴったりな気がする。まあ、余談だ。

 心配だから、弟のあとを追おうかとも逡巡したが、けっきょくやめた。今はルイオたちの動向を監視するのが優先だ。

 駅まえはふたたび森閑とした。ルイオたちの姿も今はない。

 カンザキが消えてから三十分が経過した。なにかしらここで取引が行われるような話だったが、ちがったのだろうか。

 欠伸をする。いっしゅん駅まえのフロアから視線を離してしまう。

 視軸を戻すと、いつの間にか地面に、起伏が現れていた。

 なんだあれ?

 目を凝らす。

 カバンだ。

 昼間にみたのと同種のアタッシュケースが置かれている。

 カバンの出現する瞬間を見逃した。辺りに人影はない。閑散広々としたフロアだ。人間がやってきたならば、すぐに気づくだろうし、そうでなくとも、刹那で姿を晦ましたりはできないだろう。

 不自然な出現だった。

 遠くから足音が響いてきたので、オレは身をかがめ、気配を消す。

 視界が限定された分、意識を澄ませて、音を視た。

 足音はこちらからいちど遠ざかってから、ふたたび戻ってくる。

 足音が止まった。

 カバンとそう遠くない位置だ。足音の主は、にじり寄るようにカバンへ近寄っていく。

 カバンと見詰め合ってでもいるのだろうか、数秒の間があいた。

 足音がふたたび、森閑な駅まえに響きだす。

 そのまま遠のいていった。

 足音の主は、カバンを持ち去ったようだ。わずかな紋様の変化ではあるが、音が変わっていたからそうと判る。

 距離が空くのを待ってから、ゆっくりと茂みから顔を出す。やはりさきほどまでの場所にカバンはない。足音の主の姿を窺った。背中が見えた。リュックを背負っている。

 オレはあとを追う。

      ※※※

 結論から言えば、足音の主は弟だった。

 なにやってんだよ、おまえ。

 うしろからひっぱ叩きたかったが、そうするまえに、弟の前方に人影が現れた。

「ありゃりゃー」

 声がしたかと思ったのも束の間、弟がブッ飛ばされた。

 弟をブッ飛ばしたのはルイオだった。

 ゆるせん。

 オレは奴を死刑にすることを心に誓う。

「また、あなたですか?」カンザキが弟を覗きこんでいる。「マジ、ドリアンっすよ。もしかして、わざと邪魔してません?」

 やばいな、と思った。カンザキの声には明らかに不穏な心象が――破壊衝動のようなものが混在している。

 咄嗟に身体が動いていた。

 弟の腕を掴み、

「いっしょに来い」

 その場から連れ去った。

 ふしぎとルイオたちは追ってこなかった。

 不測の事態に直面した場合、深追いをせずに、態勢を整えてから対策を講じるのが流儀なのかもしれない。

 安全だと思われる場所まで逃げ、弟とはそこで別れた。カバンはオレが預かった。中身がなんだかは知らないが、コレを利用して、あいつらは、なにか仕出かそうとしていることだけは、なんとなしに判る。

 黙って引き渡すわけにはいかない。こっそり処理しようと考える。

 弟は終ぞ、オレの正体に気づかなかった。無理もないといえば、そうなのだが、それにしても、しょうじき、すこしだけだが傷ついた。ほんの、すこしだけだけれども。

      ※※※

 これからのことを考えた。カバンはオレが奪った。血眼になってやつらは探しにくるだろう。街からオレが遠のけば、それで済む話に思えた。街のそとでカバンを破棄し、ふたたび戻ってきてから、ゆっくりとやつらの戦力を削いでいけばいい。仮にやつらが街のそとまでオレを追ってくるとしても、それはそれで好都合だ。あいつらがオレを追ってくるという、ただのそれだけで、この街にあるやつらの戦力を分散することができるからだ。

 やつらがコレを諦めてくれれば、それがいちばんいいのだが、そうは問屋が卸さないだろう。

 まずはこのカバンを持ってこの街から脱出することが先決だ。

 すでに包囲網が張り巡らされていると考えるべきで、戒厳令が敷かれているのならば、こちらも相応の警戒をするとしよう。

 今日くらいは悪夢をみないで済ませたい。

 が、それも無理な相談なのだろう。

 見たくないときに限ってみてしまうからこその悪夢だ。

 オレは草むらに横たわり、しばしの休息をとる。

 朝つゆが頬を冷却する。

 急速に意識がひろがっていく。うすくなり、かるくなり、そして、世界へ溶けこむ。

 オレの意識はどこへともなく消えていく。

 ふたたびの復活を、曖昧に約束しながら。

 

 今日も悪夢は、オレの元へとやってくる。

 知らず、オレはアイツの夢に孤独を視る。



 

      ・真夏の焦燥・

 

      ***ノボル***

 

 寝起きにこうして見知らぬ闖入者と遭遇してしまうのは、ノボルにとってはさほど珍しいことではなかった。二度あることは三度ある。三度も繰り返されるならば、それはもう、蓋然だ。なるべくしてなったと言えよう。すべて、落し物を拾ったせいである。だからノボルはこうして度々、落し物なんてもう二度と拾わない、と己に誓うのである。とはいえ、己との約束事ほど破りやすいものはないもので、けっきょくまた落し物を拾うことになるのだろうな、とノボルはすでに諦観している。

 目のまえには、女性のなまめかしい脚がある。あごを上げ、見上げる。

 黒髪を団子のように結い上げている女が立っている。足元まで届くスカートにはスリットが入っているため、彼女が動くたびに、すらりと伸びた足が覗く。足首が細い。張りのあるふくらはぎがゆるやかな弧を描き、つるりとした膝が見える。日焼けを思わせる褐色の肌は、ほどよく健康そうで艶めかしい。上半身はタンクトップ一枚であるため、身体のラインが一目で判る。胴体部には、きゅっ、と萎んだくびれがあり、胸部は豊満に張っている。タンクトップには、ウロコ柄がうっすらと描かれており、蛇が巻きついているみたいだ。

 女性は行ったり来たりと、ノボルのまえを、モデルさながらに歩き回る。腕を組んでいるせいか、胸が強調されて映る。

 背を向け、見ないようにすればよいだけのことではあったが、そんな簡単な所作もできなかった。身体の自由を奪われている。足元を見るかぎり紐である。腕は背に回され、両手を組むかたちで、柱に結び付けられている。背中がゴリゴリするので、きっと剥きだしの排水管にでも縛られているのだろう。

 口は塞がれていない。しゃべろうとすればしゃべられる。だが、声を発するのは躊躇われた。

 ふと、女性が立ち止まる。

 こちらが目を覚ましたのに気づいたらしい。

 目と鼻のさきまで近寄ってくる。

 スカートごと膝を折り、彼女はしゃがんだ。両膝のうえに組んだ腕を載せている。自然、彼女と視線の高さがそろうが、ノボルは目を伏せる。タンクトップから谷間が存分にハミでて見える。身体の自由を限定されている現状、男の子の哀しい性を誤魔化す術がない。まえに屈むことも、パンツのゴム部分に「うにゃうにゃ」を挟んで抑圧することも、手で覆って隠すこともできない。だから男の子の「哀しい性」が目覚めないうちに女から目を逸らすしかなかった。そんなこちらの恥じらいが、項垂れたように視えたのだろう、彼女は「すまんな」と口にした。

「もう気づいてはおるじゃろうが、おぬしの身体を拘束させてもらった。ついでに言えば、場所も移動させてもらった」まとめればだ、と彼女は要約する。「拉致らせてもらった。おぬしを。わっちがだ」

「……はあ」気の抜けた相槌しか打てない。「なんのために……ですか?」

「白を切っておるようには見えんな」彼女は、うむ、と唸って立ちあがる。甘い香りが仄かにひろがった。背後へ向けて女性が投げかけた。「そちは、どう思うかの?」

 部屋の奥。

 壁際にはカンザキが立っていた。よこには、目元に傷のある男。

 どちらに投げかけた言葉だったのか、ノボルには判断つかない。

「知らないかどうかは関係ないと思います」答えたのは目元に傷のある男だった。彼はおよそ物騒という観念から程遠い口調で、とても物騒なことを言った。「彼は邪魔です。邪魔な者は厄介となるまえに殺す――それが我々の流儀だったはずですが」

「消すなんざ、今でなくともできるじゃろ」どこでだってすぐにな、と女性がキセルを取りだす。咥え、煙をくゆらせてから、カンザキへ向けてあごを振る。「で、おぬしはどう思う?」

「へ? オレっすか?」彼はすっとんきょうに応じた。「いやー、信じてあげたいのは山々なんすけどね。でも、そのひと、昼間にも持ち去ろうとしたんすよね。お金のほうですけど」

「だが、抵抗せんかった。そうだと聞いておるが?」

「ええ。そりゃあ、まあ。すぐに返してくれはしましたけど。たしかに、嘘を吐いているようには思えませんし、誰かに雇われているふうにも見えないんすよね」

 ただ、とカンザキはそこで口調を重くした。「ただ、偶然にしてはマンゴー重なりすぎっすよ」

「そうじゃな」愉快そうに女性は首肯した。それから、目元に傷のある男へ向けて、「ケイ」と呼びかける。「ケイ、ちょっくら頼まれてはくれんか」

「なんでしょう」

「こいつの素性を知りたい」言って女性はこちらを見下ろした。

 目が合う。

 全身が毛羽だつ。

 考えるよりも先に口が動いていた。「おれのことが知りたいなら、教えますよ。調べるまでもないですよ」

「それは助かる」女性が口元をほころばせる。「じゃが、それはそれとして、客観的なデータもほしい」

「では、失礼します」と目元に傷の男、ケイが低頭し、颯爽と部屋から出ていった。

「へえ、あのひと、ケイさんって言うんすね」カンザキが今さらのように反応した。「名字はなんて言うんですか?」

「古怒(ふるど)じゃが」

「やっはー、フルド・ケイっすか。そいつあ、パイナポゥーっすね」

「なんだ、そち。ケイが気に入ったか?」女性は、ひひ、と短く笑う。「わっちの部下になってくれりゃ、あやつを好きにしてもよいぞ」

「そいつあー、バナナっすねえ」噴きだすとカンザキは、でもオレ、と迂遠に断った。「でもオレ、好き勝手にできる相手に興味ないんすよね」

「わっちもじゃ」女はおかしそうに頷いた。

       ***

 たしか、とノボルは記憶を呼び覚ます。

 ここへ拉致られるまえの記憶がうねうねとよみがえる。

 女は自らを「キリボシダ」と名乗っていたが、本名だろうか。そうは思えない。ここはどこか、と訊いてみたところで、そうそう容易く教えてもらえるとは思えない。が、念のために、いちおう尋ねてみる。すると彼女はあっけなく教えてくれた。「ここはわっちの店だ。その地下じゃな」

 店――?

 どんな店なのかは判然としないが、少なくともここは彼女たちのテリトリィ。叫んでみても無駄だろうが念のために叫んでみる。

「だぁぁぁぁあーーれーーーかーーーーっ!」

 はあ、はあ、と息継ぎをする。

「たぁぁぁーすーーけーーーてーーーーっ!」

 あらんかぎりの声量で叫んでやった。おかぁーさーん、とも付け加える。

「ひゃっはっは! ぬし、おぬし、ひゃっひゃっひゃ!」彼女を見遣ると呼吸困難に陥っている。このまま笑い死んでしまうのではないか、と不安になる。

「ひひひ」彼女がようやく姿勢を正した。しゃくりをあげつつ、涙を拭っている。「ひひ。おぬし、愉快じゃな」

 ムっ、としたが褒め言葉だと受け取っておく。

 はーあ、と呼吸を整えると彼女はあらためて名乗った。「わっちは霧星蛇(きりほしだ)衣紺(いこん)じゃ。手荒に扱ってすまんかった」

 言って彼女はこちらの拘束を解いた。乱暴する気はないようだと判り、胸を撫で下ろす。

 ふと気づく。カンザキの姿が消えている。いつの間に出ていったのだろう。

「乱暴に連れてきたこと、すまないと思うとる」視線を戻すと霧星蛇イコンが頭をさげていた。「詫びと言うてはなんじゃが、おぬしの質、占ってやろう」

 まるで、耳かきでもしてやろうか、とありがた迷惑な提案をしてくる実の姉みたいな調子で、霧星蛇イコンは口にした。

 囚われの身であるノボルとしては、断るほうに害があると思われた。調子を合わせることにする。

「占いですか」

「なに、そう構えるでない。占いは建前だ。実際は分析じゃ」

 わっちは分析屋じゃからな、と彼女は誇らしげに言った。

 ノボルの知り合いにも、解析屋、と名乗る男がいる。同業者だろうか。

「で、おぬし。なにか困っとることはないか」

「……それを聞いちゃうんですか」占い師にあるまじき発言であった。

 占い師のほとんどは、相手の困っていることを言い当てるだけで、あとは誰にでも当てはまるような精神論と、生活改善を説くだけらしい。だのに彼女は、先に困っていることを尋ねてきた。教えれば解決してくるとでもいうのだろうか。怪訝に思うが、ノボルの悩みごとは深刻だ。藁にも縋りたいというのが本音である。

 言うだけ言うてみ、と霧星蛇イコンはキセルを咥え、煙を吐く。火を点けた様子はないのにふしぎなキセルだ。

 ノボルは悩みを打ち明けた。

 やたらと落し物を拾ってしまい、たびたび厄介事に巻きこまれてしまって困っている、と吐露する。

 すっかり説明しきってから、いまだってそうじゃないか! と泣きたくなった。

 キセルを食みながら霧星蛇イコンは、なるほど、と首肯した。「つかのこと訊くが、おぬしは世界について、どう認識しておる」

 こちらが眉をひそめると、彼女は言いなおした。「おぬしはこの世界に、『必然』があると思うかや?」

「ひつぜん、ですか?」考えながら口にする。「あるんじゃないですか、必然」

「たとえば?」

「たとえば、えっと……死とか」

「たしかに生命は死ぬ。じゃがそいつは必然ではなく、定めじゃ」

「どうちがうんです?」必然も定めも同じではないのか。

「なるべくしてなる事象が、定めよ。運命、と言い換えてもええの」

「必然もそうじゃないんですか?」

「ちがうな。必然は、ならなくとも良いのになる事象のことよ」

「……どういうこと、です?」

 それは一般的には、偶然と呼ぶのではないのか。

「べつにそうなる必要がない。だのに、そうなってしまう。そこに脈絡はない。むしろ、脈絡をつくるために、生じる布石――それが必然じゃ」

 人はそれを偶然と呼ぶのでは。

「偶然とはちがうんですか」と尋ねる。

「偶然? そんなものは、我々人間の思い込みじゃ。この世に偶然なんか存在しやせんよ。あるのは、定め――つまりシステムと、そこに生じる『無数の脈絡』だけじゃ」

 略された筋道、さながら『脈略』じゃな、と霧星蛇イコンは自画自賛ぎみにそう言った。

「えっと……それで? それがなんなんです?」

「じゃからな」と彼女はキセルを口に咥え、はむはむ、と噛む。噛みつつも、さも面倒くさそうに、「おぬしは、そういった必然がこの世界に存在すると思うかや?」と繰り返した。キセルを噛みながらだから呂律が回っていない。

「……どうでしょう」

 いきなりそんな抽象的なことを言われても困る。

「言い換えるならじゃな」と彼女は意気揚々と言い換えた。「この世界に、自然の法則に従わない、そんな事象が存在するか否か。一切の脈絡を含まない、そんな例外的事象が――『脈略』が――存在するか否か。そういったことだと捉えてもられえればええ」

「例外的事象、ですか?」

「ほうよ。この世は、様ざまな法則によって限定され、世界の枠組みを形成しておる」やはり彼女はキセルを、はむはむ、と噛む。「どんな事象も法則に支配されておる。つまり、かならず脈絡をもって発生し、増幅し、瓦解する。そうじゃないかえ?」

「そういうものなんですかね」聞かれても困る。「あのう。で、それがなんなんです?」

「じゃーかーらー」痺れを切らしたように彼女は謳った。「どんな事象にでも脈絡があるとするんなら、その脈絡を形成した、根源というものは、脈絡を持たない事象になってしまうじゃろーに。その脈絡を持たぬ事象こそが必然じゃ。つまり、『脈略』じゃ。そういった、世界の法則に準じない例外的事象が存在するか否か、という話じゃて」

 いっかいで理解してくりゃれ、と彼女は可愛らしく立腹した。それからキセルを口から外し、これみよがしにため息を吐いた。

「分析し甲斐のないやつじゃのう。まあ、おぬしの意見を取り入れようとしたわっちがわるうござんした」キセルをこちらへ差し向けると彼女は、ぞんざいに話を結んだ。「おぬしはその、例外的事象を察知してしまうんじゃろ」

 さしずめ、『脈略拾い』といったところかの、と診断されてしまう。

「えっとぉ」考えてみるものの、解らないものは解らない。「どういう意味ですか」

「世界に落された布石。世界という物語に張られた伏線――それをおぬしは回収してしまう」

 意図せざるうちにな、と霧星蛇イコンは言った。

     ***

「いやー、いい天気っすねー」

 額に手を当て、カンザキが積乱雲のもくもくと浮かぶそらを仰いだ。「こうやってトモダチと散歩するのって、オレ、むかしっから憧れてたんすよねー」

「ともだち? こうやって?」ノボルは声をとがらせて聞きかえす。「まるで夢が叶ったみたいな物言いですけど、寝ぼけてるんですか?」

「いやいやー、辛辣っすねぇ。マジ、バナナっすよ。かるく傷ついちゃいましたよ、オレ」

「それはなによりです。ところで、その傷はどうやったら化膿するんですか? 是非とも教えてくれませんかね。実践しつつ」

「やっはー、ドリアンすねー。オレ、ノボルさんのそういうすっぱいリンゴっぽいところ、嫌いじゃないっすよ」

 しらねーよ、意味すら伝わらねーよ。

 なぜこんなやつと出歩く羽目になっているのか。ノボルは数分前のことを振り返る。

 ――分析してやったんじゃ、おぬしもわっちになにか施せ。

 霧星蛇衣紺が突如そんなことを言いだした。

 なにも返せませんよ。ウチ貧乏ですし。

 そういった旨を伝えると霧星蛇イコンは、

「ならばわっちを手伝え」と言いだした。

「なにを……でしょう?」

「おぬしが拾い、そして奪われた代物。それを取り返してこい」

 どうやって、といった抗議がのどまで出かかったがなんとか呑みこんだ。現状を打破するにはまず、ここからそとへ出る必要がある。

 ひとまず彼女の提案にのり、そとに出られたら助けでも何でも呼んでやろうと思った。

 期限は三日だ、と告げられる。

「それまでに、カバンを奪い去った人物の正体を突き止めてこい」

 可能であれば、カバンを奪還し、それができなければ、その損失に見合った期間を彼女の手足として過ごすことになる。

 甘いんだか、厳しいんだか、よく分からない条件だった。

 地上へ出ると、晴天と地上のあいだに、見知った百貨店が見えた。

 この三日間、どうやら監視役が同伴するらしい。さっそく出鼻をくじかれた。下手な細工ができなくなった、と意気消沈する。

「わっちはぬしらを気にいった。失望だけはさせてくれるなよ」霧星蛇イコンは本当にお願いするような口調で言った。「ぬしらは運命共同体のようなものじゃ。仲良くしてくりゃれ」

 そうしてよこに並んだのが、真夏にスーツ姿の男、カンザキだった。

「やっはー。なんか、そういうことらしいんで。ノボルさん、ここはひとつ、仲良くいきましょう」

 どうやらこいつが監視役らしい。

「助手のようなものじゃ」と霧星蛇イコンが耳打ちしてくる。「好きに遣こうてやれ。よろこぶぞ」

 だれが、なぜ、どのようにしてよろこぶのか。問いただしたいところではあったが遠慮した。

 平日だというのに、商店街はごったがえしている。時刻は午後三時をまわっており、帰宅途中の大学生や高校生が沸きはじめるころ合いだ。

 カンザキはお気楽に付いてくるだけで、率先して指示してくることもない。

 こちらにしてみても、アタッシュケースを持ち去った人物に、思い当たる節はない。

 あのひとは、こちらを助けてくれようとした。だからアタッシュケースを持ち去った。そうでなければ、あの場でこちらのことまで連れ去ったりなどしなかっただろう。カバンが目的ならばそれだけ強奪すれば済んだ話だ。

 なんとかして、あのひとにも被害が及ばないかたちで、解決することはできないだろうか。むざむざ霧星蛇イコン一味に引き合わせる道理はない。

「いやっはー、わがまっますねー」

 唐突に言われ、心臓が跳ねる。

 思考を読まれたようでおどろいたが、むろんそんなことはなく、見遣るとカンザキは両手をうしろに組んで、足元の小石を蹴とばしている。

「ミスターさんって、まえから、ああなんすよねー。気に入った男がいると、すぐに引き抜こうとするんすよ。オレの兄貴も、だからあのひと、苦手らしくって、それで今回、オレが代わりに出張ってきたわけなんすけど。まあ、可愛らしいわがままっていえば可愛らしいんすけどね。ただ、それだけに、怒るに怒れない。殺すに殺せない。そういった微妙なわがままほど面倒くさいことってないんすよ。境界があやふやなことってどうしてこんなに面倒くさいんすかね。マジ、マンゴーっすよ。ただ、だから、善悪っていうんすか? ああいった二元論? そういった分類ってなかなかどうして貴重っすよ。ピーチにパイナポォー、って感じっす」ノボルさんもそう思いません? とカンザキが同意を求めてきたが、「え、なに?」と聞こえなかったフリをした。

 やっはー、とカンザキは楽しそうに笑った。「ほんとノボルさんはバナナっすねぇ」

      ***

 駅まえの交差点で信号が青くなるのを待っているとうしろから、どん、と背中をたたかれた。

「やっと追いついた」

 不意を衝かれたので驚いた。

 振り向くと、友人の植木場(うえきば)千衣(ちい)が立っていた。

「何回も呼んだのに、もう」と彼女は唇をすぼめ、「ノボルってば、すたすた、行っちゃって。あーあ、恥ずかしかった」

「ご……ごめん」

 まずいな、と冷や汗を掻くが、同時に、手間がはぶけたとも思う。

「今日は、なに? 買い物?」

 彼女はこちらの質問には応えずに、よこのカンザキを、ぼんやりと風景を眺めるような瞳で見据えている。それから一転して、ほほ笑みかけた。片手を差しだすと、

「庭番衆(にわばんしゅう)イチと申します。はじめまして」

 自己紹介をした。カンザキは飄々と警戒する素ぶりもなく、「オレ、カンザキっす。ノボルさんのトモダチっす」とチイの手を握った。交わされる握手。

 ノボルは見逃さなかった。チイのこめかみがひくついた様を。

 手を解くとチイはこちらに向き直り、それから柔和にこう告げた。「依頼がないかぎりは、動けないんだからね」

 生唾を呑みこむ。顔はほころんでいるが、目が笑っていない。

「やっはー、なんの話っすか?」カンザキが割って入ってくる。「あ。信号かわりましたよ、ノボルさん」

 さあ行きましょう、と強引に引っ張られてしまう。

 チイを残し、横断歩道を渡るが、その際、背後から弾丸のような舌打ちが聞こえた。

      ***

 植木場千衣について、カンザキはなにも問うてこなかった。ノボルも敢えて自分から水を向けることをしなかった。器に、たぷたぷ、と水のそそがれたカップを思わせる、触れたら一気に決壊してしまいそうな不安定な機微が窺えた。

 黙々とカンザキが歩をすすめるので、ノボルもだまってあとにつづく。

 辿りついたのは、街中にある大きな公園だった。大学跡地に建設された、比較的新しい公園だ。

「ノボルさん。ひとつはっきりさせておきましょう」カンザキがこちらに背を向けたままで口にした。これまでにない、真に迫った声音だ。

 こちらを振り向き、彼は縋るようにこう言った。

「オレたち、トモダチっすよね?」

 劇的なタイミングでハトたちが一斉に飛び立った。噴水が、ふしゃー、と噴きあがる。

「いや、どうでしょう」と言うと、カンザキは地団太を踏んだ。「そりゃないっすよノボルさん!」

 スーツ姿のトゲトゲ常夏フルーツ野郎が、幼い挙動でジタバタとする。「オレ、家族んなかでも一番役立たずで、いっつも兄貴に助けられてて。護られてて。トモダチなんてできないし、オレと組んでくれる仲間もいなかったんすよね。それがっすよ、今回、兄貴がオレにお願いしてくれたんすよ。あの兄貴がっすよ。オレ、もうよろこんで引き受けたんすよ。なのにやっぱりオレ、役立たずで」

「役立たず、ですか」なぜか復唱している。

 役立たずというのは、役に立たないというただそれだけではない。役に立たず、なおかつ、足を引っ張る存在が、役立たずという称号を得るのだ。貧乏神、といえばそれにちかい。

 なるほど、こいつは貧乏神だったのか。カンザキの、拗ねたような、切なそうな、辛そうな姿を眺めながらノボルは、あのですね、と投げかける。

「あのですね、カンザキさん。知っていますか。役立たずがいなければ社会は回らないんですよ。誰もかれもが立派だったら、それはもやは立派でもなんでもないんです。誰かの引き立て役になってあげられる存在というのは、それはそれで立派じゃないですか」

「グレープっ! ノボルさん、兄貴とおんなじこと言うんすね」

 これまでの五割増しで、にこにこ、としながらカンザキが近寄ってくる。

「ノボルさん、オレ、オレンジ頑張ります。見ててください。ノボルさんのためならオレ、なんでもしますから」

 気圧されるが、かろうじて、「がんばってください」と言った。

 がんばって、足を引っ張らないでください、と。

      ***

 いまごろになって首が痛みはじめた。霧星蛇イコンに踏みつけられたせいだ。首をさすりながらノボルは、カンザキの挙動不審な様を眺めている。

 なぜかは解らないがカンザキはやる気を起こしたらしい。

 よーし、と気合を入れたかと思うと、口笛を吹きはじめた。

 どこかで聞いたことのあるアニメソングだ。ところどころ音が掠れている。上手くはないが、聴いていて不快ではない。

 なにがしたいのかと引き気味に眺めていると、にわかに周囲が騒がしくなる。

 ――猫だ。

 野良猫も飼い猫も分け隔てなく、集まってくる。首輪のある猫、前科のありそうな猫、まんべんなく集まってきたではないか。みるみるうちに、みゃーみゃー、みゅーみゅー、と公園がケモノで埋めつくされていく。

 ブリーダーかなんかだろうか。どんな役立たずにも特技はあるようだ。

 猫たちはみな一様に背筋を伸ばし、折り目正しく座っている。あごを上げ、りんとカンザキを見上げている。

 梅ガムを噛んだとき、味が消えないうちから呑みこんでしまいたくなるノボルである。かわいらしいものを手中に収めた際には、ぎゅうーっ、と握り潰してしまいたい衝動に駆られる。子ネコや子イヌ、ハムスターやぬいぐるみ、果ては赤子を抱きしめたりしていても、そのまま思い切り抱きしめて、潰してやりたくなってしまう。むろん、そんなことは絶対にしない。

 ただ、食べちゃいたいほどかわいいしなら食べてしまっても仕方ないと思うし、目に入れてもいたくないならば目に入れてしまえばいいと思う。

 そういえば、姉も似たようなことを言っていたっけ、と思いだす。

「愛情と性欲、それから破壊衝動。これっつーのは基本、おんなじもんなのさ」

 まるで解らない主張ではあったが、似たような衝動を自分以外の人間も抱いていると知って、安心した。数年前に出ていったきり、音沙汰なしの姉である。元気でやっているだろうかと現状まったく関係ない感慨に耽る。

 一曲まるごと、吹きおえると、カンザキは大きく息を吐く。ひと仕事してやってやったぜ、みたいな清々しい顔を浮かべているが、とくに何か進展があったわけではない。

 公園が猫に埋め尽くされただけである。街中の猫が集会を開けば、ちょうどこんなありさまになることだろう。

 こちらを向くと、照れくさそうにカンザキは言った。

「すんません。オレにできるのって、これくらいなもんなんすよ。なんか、スイカの種って感じっすよね」そこでいったん区切ってから彼は哀愁漂う仕草でそらを仰ぎ、「きっと、オレの前世って、ブーメランの音楽隊なんすよ」とつぶやいた。

 ブーメランでどうやって音楽を奏でるつもりだろう。人の頭を殴るのか? 殴ってポカポカ音を出すのか?

「それを言うならブレーメンの音楽隊では?」いちおうそれらしく指摘しておく。

「それっす、それ」

 恥じらいもせずカンザキはうれしそうにした。どちらかと言えば、ハーメルンの笛吹きでは?と思わないではない。

      ***

 犬というのは嗅覚が鋭いことで有名だが、他方、犬に劣るにせよ猫も嗅覚の鋭いケモノであるらしい。視覚や聴覚も人間に比べれば天と地ほどの差があるという。知能のほども、ほかのケモノに比べて高い。

 猫というケモノは、目もよく耳もよく、頭もいい、三拍子そろった、できたケモノであるようだ。それを、アタッシュケースを持ち去った女性の穿鑿に用いるという。

 カンザキいわく、

「ケモノはいいですよ。人間にあるものがなくって、人間にはないものがあるんで」

 だそうだ。

 明朝、見知らぬ人物に助けられ、そのまま死んだように眠ったノボルである。目覚めたあとは、霧星蛇イコンに拉致された。シャワーをまだ浴びていない。不潔であるし、不本意である。もっとも、だからこそ、このケモノ戦術は有効に思われた。ノボルの身体には、あの女性の匂いがまだ残っているはずである。人間に感知できない匂い分子も、ケモノであるならば、嗅ぎ分けられるだろうと期待した。

 カンザキがふたたび口笛を吹く。

 猫どもがいっせいにこちらを向いた。

「え、カンザキさん?」

 怯む間もなく猫どもがこちらへ飛びつきはじめる。

 じゃれつかれているようで、その実、ひっかきまわされ、全身が痛い。

 こちらが満身創痍になったころ、猫どもはまったくバラバラのチリヂリに、四方八方へ去っていった。

 期待はずれも甚だしい。

「どういうことですか」と詰問する。

 カンザキは、なにがっすか、といった惚けた顔をしている。

「今、見たでしょ。ネコども、おれをもみくちゃにしただけで、一目散に逃げちゃったじゃないですか。もしもおれに残った匂いをもとに、女性を追いかけたというのなら、駆けていく方向は同じじゃなきゃおかしい!」

 名探偵さながらに指弾した。

「やっはー。ノボルさん、マジ、パイナポゥーっすね」

 ころす。

 こいつはいっぺん死んでから生き返り、それからもういちど死んだほうがいい。

 ノボルは心のなかで叫んだ。

 役立たずよ。世界のために死ね。




      ※※※オレ※※※

 夢を見た。

 一切が闇。その暗闇に対抗するように炎が踊っている。

 赤く、そして熱かった。

 炎がきらきらと地面にまたたいて見える。

 水面が広がっている。

 川だ。

 川が流れている。天の川を想起させるほど大きい。

 燃え盛る炎が雄大なながれにてらてらと揺れている。

 その炎がオレにかたちを与えている。

 まっくらだったはずの風景に、輪郭と色彩を与えている。

 オレの足元には、たくさんの闇が転がっている。

 死屍累々。

 地面をおおいつくさんとばかりに転がっている。

 黒く。

 純粋に黒い、闇が。

 点々と伝う赤にまじって。

 炎よりも艶やかな、濃い赤にまじって。

 オレは、たくさんの闇のうえに突っ立っていた。

 オレはたくさんの肉のうえにとり残されていた。

 何百という人間の、肉。遺体。肉塊。

 何千にもの、細切れになった、人間。

 人間が織りなす地獄の業火のうえに。

 たったひとり、オレは佇んでいた。

 対岸が燃えている。

 闇と赤と闇と赤。

 炎と黒と炎と黒。

 ここに人間は、ただのひとりも残ってはいない。

 だからオレはこうしてただひとり、佇んでいる。

 両手を真っ赤に染めあげて。

 全身を真っ黒に染めあげて。

 オレは水面に、足を入れる。

 オレは川へと、踏み入れる。

 そこに映るオレはなぜか、

 こちらを見下ろし、語りかけている。

 ――ほらな。

 ――おまえに仲間などはいない。

      ※※※

 全身に汗を掻いていた。

 木漏れ日が、きらきらとまたたいている。上半身を起こすと寝ていた場所がオレのかたちに模られた。

 足元には長方形のカバンがあり、そうだったと思いだす。

 これからどうするべきかを考える。

 まずはこの街を出よう。

 徒歩か、電車か、タクシーか。

 すでに人海戦術がとられているだろうことを思えば、自転車が望ましいが、現状手元に自転車などないし、他人のものを盗もうとも思えない。

 やつらが行政と何らかのパイプで繋がっているとすれば、監視カメラのある店へ買いに行くのも戸惑われる。

 時間の経過と共に、捜索の網目は細かくなっていくだろう。

 だが、延々と網が張られることはない。獲物がかかっていようといまいとに拘わらず放たれた網はいずれ回収されるものだ。

 そして今回の獲物は、オレ。

 というよりも、このカバンだ。

 どの程度の期間でやっこさんが厳戒態勢を崩してくれるかは、このカバンの重要性によって左右する。

 今さらながら中身を確かめてみようと思った。

 鍵がかかっている。

 二十ケタのダイヤル式ロックだ。カード式や指紋認証などのデジタル・キィは、昨今の流行りではないらしい。設備さえ整えれば、かんたんに解錠できるからだ。その点、ダイヤル式ロックは、一定の技術がないと開けられない。二十ケタともなれば、ひとつひとつ試していくにも膨大な時間がかかる。一方で、番号を知っている者であれば、即座に解錠可能なのだから便利だろう。

 これがもし、デジタル・キィであったら、オレは手も足もでなかった。メディア端末すら持たないオレからすれば、どんなものであれ、枕詞にデジタルとあれば、それは原理不明の魔法を意味する。

 いっぽうで、ダイヤル式ロックは、オレの特技を用いれば、わりとかんたんに解錠できてしまう。音がちがうからだ。いや、精確にいえば、噛み合うナンバーのときだけ音の紋様が同じだからだ。紋様をそろえるつもりでダイヤルを回すと、勝手にロックが解除される。

 さっそくとばかりにカバンを開けてみた。

 中身を見る。

 スグ閉める。

 ……これは………………えっと、なに?

 オレはこう見えて臆病だ。そりゃそうだ。悪夢を振り払うというただそれだけのために旅にでたくらいだ、オレほどの臆病者はそうそうお目にかかれない。

 なにが言いたいかっていうと、カバンの中身が、小型核弾頭だったから、ついつい焦っちまったよ、って話。

 ――原子爆弾がなんで、ここにっ!?

 まさにこんな感じ。あんまり真剣に考えたくない現実だ。あんまし真剣に考えちゃうと、このままこの街といっしょにぶっ飛んじゃってもいいかな、って割とほんきに思っちゃうから。

 な? あんまし真剣に考えないほうがいいだろ?

 オレは誰にともなく、脳裡に具現化した自分へ向け、つらつらと独白をつぶやいた。

 デジタル機器に疎いオレがなぜひと目でこれが小型核弾頭だとの判別がついたかの疑問をよそに、オレはうちなる記憶の箱をあけていく。




      ■■■記憶・断片・悪夢・私■■■

 ちいさな島だった。浜辺から島の輪郭の大半を目で捉えることができるほどの大きさだ。

 町と呼べるものがなく、島がひとつで、ひとつの家族として機能していた。

 対岸などないのに、数キロ先には似た島国が、いくつも浮いている。だからまるでこの海が、大きな大きな川みたいでもあった。

 子どもが多いことに驚かされる。島の人々はみな、褐色の肌をしていた。

 森が鬱蒼と茂り、鳥のさえずりが波の音に乗って届く。

 風は草木をゆさぶり、自然の声をオレへ聞かせる。

 ただそこにいるだけで心が洗われるようだった。逆説的に、オレの心が荒んでいたのだと気づかされた。

 オレは島の子どもたちと仲良くなった。サーニャ、ミシャ、ペルジ、フシャジャ、ウリューペ、みんなオレをおそれながらも、好奇の眼差しをそそいでいた。

 オレは彼らへ、これまでに巡った国々で購入した雑貨をプレゼントした。オレは記憶力が良いほうではなから、そういった郷土品を手元にのこすことで、どういった場所を辿ってきたのかを思いだせるようにしていた。

 サーニャ、ミシャ、ペルジ、フシャジャ、ウリューペ、ほかの子どもたちも、みな、オレが差しだしたそれらの雑貨を、まるで宝物のように喜んでくれた。もらえない子がでないようにと、オレは人数分をきちんと用意した。だから、実家から持ってきていた愛用の文房具だとかも、ぜんぶ配ってしまった。

 思えば、あの島は、近代文明から取り残されていた。建物なんて全部、植物性だ。ヤシの木みたいな丸太を組んで建てられていた。ほかの建物は見当たらない。いっぽうで、彼らの身に付けている服飾はみな、現代風だった。

 定期的に島の大人が、海を渡り、都会の島に買い出しに行くのだとあとで聞いた。ただ、裸足でかけまわる子どもたちはみな、窮屈な履物を求めているふうには見えなかった。

「おねえちゃんは、どうしてそんなにカッコいいの?」

 サーニャがオレの足元に絡みついて言った。言葉が通じないだとか、そんな瑣末な事項は、かのじょには関係ないようだった。オレにとっても言葉の壁はそれほど問題ではなく、特技を活かせば、言語の壁を飛びこえて、声を発した人物の心象を読むことができた。オレは答えた。むろん、母国語でだ

「ありがとう、サーニャ。でもな、オレはぜんぜんカッコよくなんてないんだ。それに、サーニャはこんなにも可愛らしいんだから、可愛らしくて、カッコいい女になるよ。オレが保障する」

 くひゅひゅ、とサーニャは笑った。さらにオレの足に絡みつくようにし、

「なんだか、おウタみたい。おねえちゃんのコトバ」と言った。

 おーい、と浜辺のほうから呼ぶ声がした。ミシャやペルジやフシャジャやウリューペが、サーニャを呼んでいる。オレがあげたサッカーボールで遊ぶのが最近のかれらの日課らしい。サーニャがこちらを見上げたので、行っておいで、と頭を撫でる。サーニャは、きょとん、としていたが、オレがあごを、くい、と浜辺へ振ると、くひゅひゅ、とまた笑った。

「いっしょに、いこ、おねえちゃんも」

 この日、オレはサーニャたちに、ドッヂボールを教えてやった。

 

 裕福な島ではなかったが、経済がないわけではなかった。海や森から取れる幸を対価に、物資を得ているようで、彼らは自給自足をしつつ、たまに、近代都市のある島へと大人たちが買い出しに行くのだそうだ。たいへんですね、とねぎらうと、通じたわけではないだろうが、サーニャの母親は笑顔で肩をすくめた。ぜんぜん、とそんな仕草に映った。

 サーニャの母は、ルメーシャさんといった。若々しい見た目で、しばらくオレは彼女がサーニャのお姉さんだと思っていた。オレを歓迎してくれてはいたが、どうにもサーニャが駄々をこねて、無理矢理に泊めさせた、といった感じがした。それでも彼女は別段、気を揉むような素ぶりも見せず、こころよくオレを泊めてくれた。それどころかしばらくウチの世話になったら、と願ってもない提案をしてくれた。

「この辺は、ほら、なにもないでしょ。だから、向こうのひとたちも、滅多に来ないのよ」

 長いつるのような植物で籠を編みながらルメーシャさんは語った。

 この島のこと、自分のこと、そして、サーニャのこと。

 なぜかルメーシャさんはオレにいつも気がねなく話しかけてくれた。あたかもオレが彼女たちの言語を解しているのを見透かしているような、そんな自然な語り口だった。とはいえ、オレは彼女たちの伝えたいことを知ることはできるが、彼女たちの〝言語〟を解しているわけではない。オレの認識している彼女たちの言葉が、彼女たちの口にしている言語を額面通りに反映しているとは限らないのだ。口では、「大好き」と言っていても、その言葉のうらに、「死ねよクソが」といった気持ちが隠れていれば、オレはそちらの気持ちのほうを〝視て〟しまう。だから、オレの捉えた彼女の心象が、果たしてどれほど、言葉として表に出されていたかは、オレにも判らない。それはまたオレが、他人の本音を勝手に盗み視て、悦に浸っているだけの、ひどく下賤な人間だという事実を示している。

 話によれば、ルメーシャさんの夫、つまりサーニャの父親は、すでに他界しているらしい。島の生まれではなく、ふらふら、とどこからともなくやってきて、「自給自足が夢だったんだ」とこの島に住み着いた変わり者だったそうだ。

「顔におっきな傷があってね。こわいひとだな、って最初は避けてたの。でも、やさしいひとだった。打ち解けるまでに時間がかかってしまったのは、そうね。ほとんど私のせいなの」

 村にある井戸は、彼がつくったものらしい。

 妙に博識でみなに慕われていたのよ、とルメーシャさんは懐かしそうに語った。

「海に落ちて、死んでしまったの。漁の最中にね。そそっかしいひとだったから」

 サメに襲われただとか、波に攫われただとか、死因は分かっていないらしい。ヤシの木をくり抜いてつくったカヌーで漁をしていた最中のできごとだそうで、どちらの可能性もあり得る。

 そうした事故はべつだん珍しいことではなく、遺体も見つかっていないそうだ。

 ルメーシャさんはサーニャに、「お父さんはそとの島で暮らしているのよ」と教えているようだった。ルメーシャさんもまた、夫はどこかで生きていると信じたいのだろう。〝視た〟わけではないので断言できないが、そう思えた。

 このころにはもうオレは、彼女たちの声を〝視る〟ことをやめていた。

 視なくとも、なんとなく、ルメーシャさんやサーニャの言っていることが分かるようになっていたし、じぶんばかりが彼女たちの心を盗み見ることに呵責の念が生じはじめていた。

 サーニャはほんとうの妹みたいだった。ルメーシャさんも、本当の姉のように感じられた。実家ではオレはいつだって姉だった。だからルメーシャさんとの関係は、新鮮で、刺激的で、なによりも心地よく感じられた。

 その日は、突然やってきた。

 海を挟んだ向こう側には、いわゆる都会の街並がひろがっていた。海を挟んではいるものの、数キロしか離れていない。夜になれば、こちらは真っ暗だというのに、対岸では人工的な灯りが宝石を散りばめたように煌々と灯っている。

 ここいら一帯の島は、まとめてひとつの国だった。サーニャたちの家であるこの島も、ご多聞に漏れず、国家の一断片であり、独立してはいなかった。

 国家情勢を立て直すための経済対策が打ちたてられ、詳しい説明もなしに、とんとん拍子に観光地としての開拓が開始された。

 自然を残したまま、都会になるのだという。端正な建造物が立ち並び、計算された直線と曲線が巡らされ、道路となり、土地を区分され、きらびやかで優雅なリゾート地に模様替えするのだという。決定事項だと通達された。こちらの意思はまるで無視だ。貧相な暮らしをする必要はなくなり、近代文明の恩恵を受けられるのだ、反対する理由がない、というのが向こうさんの理屈だった。

 理由がなければ反対してはいけないのか。

 理由がなくとも壊されたくないと思う意思の尊さが、彼らには理解できないらしかった。

 奇しくも、事業開拓の指揮を揮っていたのは、オレの母国が誇る大企業さまであり、その名を慈洞範(じどうはん)カンパニーといった。

 島を開拓すれば、子どもたちに高等な教育を受けさせることができ、近代的な職業に就くことで高等な生活を送れるようになると彼らは主張した。

 危ない漁をせずに済み、嵐に怯える必要もなくなる。

 いったいこれらのどこに不満があるのですか、と彼らは嘯いた。

 高等な教育、高等な職業、高等な生活。

 高等とつければどんな陳腐なものでも、それらしく思えるからふしぎだ。それらのどこがどのように高等なのかを、彼らに聞いてみたところで、大した返答は得られなかっただろう。

 Q,なぜお金がだいじなのか。

 A,お金がお金だからである。

 同じような回答を聞くはめになったはずだ。

 突然の嵐が島を襲ったその日、オレの怒りは爆発した。

 島にはすでに、いくつかの頑丈な建物が建っていた。これまでに経験したことのない暴風雨に、たまらずオレたちはその近代的な建物へ逃げこもうとした。

 だが、そんなオレたちへ向け、開拓派の連中はこう言った。

「近代化に反対の方々は、自然を甘受するのが道理ですよね」

 こちらにはまだ幼いサーニャがいるというのに、彼らは建物に入れてくれなかった。たしかにオレはルメーシャさんの意向もあって、近代化に反対していた。抗議のデモを募り、実際に行ったこともある。だが、それとこれとは話が別だろう。

 たしかにオレたちは近代化に反対していた。しかし、それはこちらの意向も取り入れてほしいという要望の域をでないものだった。

 島に元からあった暮らしぶりをできるだけ残し、そのうえで近代化を行ってほしいと主張していただけだ。それがなぜこのような扱いを受けなければならないのか。

 なぜほんとうに助けてほしいときに限って、おまえたちは突き放すような真似をする。

 これでは幼稚な当てつけではないか。

 オレは思った。

 

 自然を甘受しろというのなら、とことん感受してやろう。

 

 その瞬間、オレは我を忘れた。

 代わりにオレは〈私〉を宿した。

 これまでずっと押さえつけてきた〈私〉を。

 いっさいが、闇。

 気づくとオレは、浜辺に佇んでいた。

 三つの島が燃えていた。

 サーニャの家は燃えていない。あの島だけが無事だった。

 オレの足元には、観光客なのか、島の民なのか、どんな人種で、どんな性別なのか――いっさいの境界をあやふやにされた肉塊が、ごちゃまぜにされ、ぐちゃぐちゃにされ、たくさん、たくさん、転がっていた。

 炎が黒く、鮮やかだった。

 夜が赤く、しずかだった。

 とおく、波と風と炎の音色を縫うように、掠れた悲鳴が〝視えていた〟。

 夜に紛れたあの島から。

 ――サーニャの悲鳴が、響いて視えた。

 かたちを伴わない紋様が、

 悲愴に、悲哀に、

 起伏を、振幅を、

 絶望的に、じゅくじゅくと、ぬめぬめと、ゆがみながら、

 サーニャが寒々と泣いていた。

 ……ああ。

 オレは気づいた。

 こちらの島には、サーニャの父が生きていた。

 サーニャの希望が生きていた。

 ありもしない幻影に、サーニャは父を夢見てた。

 それを〈私〉が、破壊した。

 ごめんなさい、サーニャ。

 さようなら、ルメーシャ。

 オレはそうして、立ち去った。合わせる顔などどこにもない。

 ルメーシャさんにも。

 サーニャにも。

 オレはそうして逃げだした。

 それがいつかは分からない。

 どれほどの期間、あの島で過ごしたのかを、未だにオレは知らないままでいる。

 知ろうと――しないでいる。

 あの島で起きたできごとはすべて幻想だった。オレが視ていた夢だった。

 そう思おうとし、そう思い込み、しかしその夢が夢ではなくなった今、オレは目的を失った。

 悪夢などではなかったのだ。

 オレそのものが、悪夢だった。

 答えを知ったオレはそれでも悪夢を、壊したかった。

 オレはオレを、殺したかった。

 そのまえに。

 オレは家族に、逢いたかった。

      ※※※

 核弾頭が厄介なのは、破棄しようにも、かんたんにできないことにある。設備の整っていない状態で分解すれば、途端にその周辺は、放射性物質に汚染される。生物などひとたまりもない。染色体単位でズタボロだ。

 放射性物質を拡散させないために、分解はできない。となれば、捨てるに捨てられないこの兵器をどうすればよいかなど、一介の若造であるオレごときに判るはずもない。

 悩みながら森を抜けた。

 陽射しが暖かいが、暑いとは思わない。全身の湿り気が渇いていく。

 木漏れ日を抜けていく。

 なんて平穏な風景だろう。

 片手に核弾頭を抱えているとは、とても思えない。

 森と町との境を抜けると、竹ばやしにでた。

 奥のほうには屋敷が建っている。塀に囲まれているためなかを拝むことはできないが、塀の重層なつくりを見ただけでも相当にお金持ちの家だな、と判った。

 こんな家、あったかな。

 ふと、声がしているので耳をそばだてる。塀の向こう側からだ。

 男の声と、それから、少女みたいな声もある。

「……ということがありまして」

 男の弱々しい声が、ほそぼそと漏れ聞こえる。「庭番衆さんのお噂は、かねがね。むろん、噂を真にうけるだなんてどうかしていると嗤われるかもしれないですけど、ただ……どうしても」

「なるほど。わかりました。それは、つまり、依頼ということでよろしいですね」

「依頼、と言いますと? あの、料金とか、その、支払ったりとか……」

「お金はいりません」少女の声が応じる。「ウチって、助けを求めないひとを助けられないんですよ。そういった家訓がありまして」

「そうだったんですか」ホッとしたふうに男の声がやわらいだ。

 そうそう、と一転して少女の声から抑揚が消える。「ウチが動くかぎり、相手はただじゃ済まないけど、それは承知のうえ?」

「……ええ。それはまあ、もちろんです」

「ならいいの。覚悟があるなら、それで」

 少女の声はそうして途切れた。気配までも消えたように感じられた。

 塀を伝って門のまえまで回ってみる。どこかの寺院を思わせる大きさだ。敷地の広さも相当なものだ。

 表札には、庭番衆、とある。

 名字なのか、或いはそういった宗派なのか。

 門を眺めていると、ふいに小門が開いた。

 敷地から男が、ヘコヘコと頭をさげながらでてくる。痩身の、爽やかな青年だ。

「ウチのものが動けば、数日で終わります。福州さんには、その際に、本当にそいつらでいいのか確認していただきたいのですが、よろしいですか」

「それは、もちろんしますけど」

「こちらの警告を聞き入れる耳が、相手にあるならば、今回はそれまでだと思います。ですが、もしも抵抗した場合、そのときは一切の問題を殲滅させます。狂気には消滅を。暴力には破滅を。それ以外に解決の方法はありません。そのためにも、排斥する相手を間違っては取り返しがつきません。くれぐれも、ご記憶のほう、たしかにしておいてください」

「……はい」

「では、のちほど」

 そこで目があった。

 長髪をうしろに束ねた少女で、切れ長な目は、猫みたいに大きい。

 頬はつつきたくなるほどやわらかそうで、ちいさい唇は果実みたいにぷっくりと艶やかだ。

「えっ――ウラミさん?」

 少女が口にしたその単語は、なぜかオレの名前とおんなじだった。

 ぱあ、と花ひらいたように少女が破顔する。「いつ帰って来られたんですか?」

 そのよこで、痩身の青年がこちらを眺めている。

 どうやらオレはこの少女と知り合いだったらしいが、申しわけないことに、少女がだれなのかを思いだせない。

 察したように少女は自身のあごにゆびを当て、

「ノボルくんの友だちです。むかし、よく、いっしょに遊んでもらってました」と言った。

 なるほど、思いだせない。

 だがそれも仕方あるまい。当時は彼女もまだ小学生で、現在の姿とはまたちがった容姿をしていたにちがいない。思いだせないのも当然だ。じぶんの記憶力のわるさを棚上げし、そういうことにしておく。

 そこでなぜか青年が目を剥いた。「え、ノボルくんの!?」

「なんですか?」少女がうるさそうに睨んだ。

「あれですよ、さっき話した、ぼくを助けてくれた知り合い、それがノボルくんですよ」

 ほえー、と少女が口をあけた。ゆるんだ顔を引き締めると、急に表情を消した。「なんでそれをはやく言わないんですか」

「知り合いだったとは思わなくって」青年はどもりながら釈明する。

 あ、とそこで少女が声を立てた。なにかを思いだしたらしく、もしかして、と声を高くする。

「もしかして、あなたを襲った奴らのなかに、こんな暑いなかスーツを着ていて、頭がトゲトゲしているへんな男、いませんでしたか」

「いました、いました」青年がはしゃぐ。はたと止まると、でもどうして? と不安そうに口にした。「お知り合いの方ですか」

「ぜんっぜん。でも、ちょうどよかったわ。ありがとう」

 なぜ感謝されたか分からない、といった表情で青年は言った。

「お役に立ててよかったです」

 幾度も、へこへこ、としながら彼は去っていく。

 それを見送ることなく少女がこちらへ近づいてくる。

「ほんとうに、お久しぶりです。ウラミさんが帰ってきて、ラウちゃん、驚いたんじゃないですか」

 実はまだ家族のだれとも逢っていないんだ、と打ち明けた。ほんとうは、弟のノボルにだけは逢っていたが、面倒なので黙っておく。

 そうなんですか。

 少女がふしぎそうな顔をした。それから、躊躇いがちに、

「ご迷惑でないなら、お茶でもいっしょにいかがですか」

 家に招いてくれる。まるで縋るように上目で窺ってくるものだから、断ろうにも断れず、

「なら、ちょっとだけ」

 オレは彼女の厚意に甘えることにした。

      ※※※

 少女の話では、家主は留守だという。ここ数日ほど仕事で家を空けているそうだ。

 なんとなく肩の力がぬけた。

 彼女とノボルが知り合いだということは、オレの親とここの親族もまた知り合いであるはずだ。オレはむこうさんを知らないのに、むこうさんはオレを知っている。できそこないの放浪娘とでも認識されているはずだ。顔を合わせずに済むならばそれに越したことはない。

「ノボルってやっぱりまだ、変なやつなのかな?」

 部屋に入ったのを皮切りにオレは弟について訊いた。

 なんですかそれ。

 彼女、庭番衆イチちゃんはちいさく噴きだした。うつむき加減で髪の毛をいじりつつ、そうですね、と話しだす。「そうですね、やっぱりまだ、ヘンテコなやつですよ」

 話を聞くかぎりにおいて、弟は相も変わらず弟のままらしい。

 イチちゃんのような可愛らしいお友だちまでいて、さぞかし青春を謳歌しているのだろう。素直にうれしく思う。

 もっとノボルの話を聞かせてくれないか、と頼んでみると彼女はなぜかふて腐れたように頬を膨らませ、嬉々として語ってくれた。

 生クリームを絞りだすようにつぎつぎに彼女はノボルへの愚痴を並び立てていく。オレはふしぎと胸がほっこりとした。

「イチちゃんは、ノボルのこと、大好きなんだね」とついついそんな言葉が口を衝く。

「ち、ちぎゃいますよ!」

 彼女はあたふたと取り乱す。

 どうやら我が弟は、なかなかに罪深き男らしい。

 親はなくとも子は育つというが、姉がなくとも恋は立つ。

 姉としてしてやれることはもう、なにもないのだと思った。

 あまり長居をしては迷惑だろうなと思い、暇を告げた。

「まだぜんぜん経ってないじゃないですか、時間」

 イチちゃんが壁に掛かった時計を見遣りながら、名残惜しそうに言ってくれる。

 イイコだなぁと抱きしめてあげたくなった。抱きしめない代わりに、予定があるんだよね、と嘘を吐く。彼女は潔く、そうですか、と残念がってくれた。

 門まで見送りに出てくれたイチちゃんはこのままオレが家に戻るものと考えているようで、

「おばさまもおじさまも、きっと泣いちゃいますよ」

 冗談めかし言った。

 怒られて、ぎゃくにこっちが泣いちゃうよ。

 オレはおどけた。

 別れたあとに振りかえると、道のさき、彼女はまだ門のまえにおり、こちらを見送っていた。

 大きく手を振られ、柄にもなく泣きたくなった。

 もう金輪際、逢うことはないのだ。

 彼女とも。

 家族とも。

 二度と触れることはないのだと今さら思い、胸が詰まる。

      ※※※

 いちどは後にした門のまえに、オレは今、ぽつねんと突っ立っている。

 鐘を鳴らそうにも、鳴らせない。

 当然だ。

 数分前に、やたらと格好をつけて去っておきながら、どの面さげて会えようものか。会えるわけがない。

 なぜノコノコと舞い戻ってきたかといえば、小型核弾頭入りのカバンをオレはあろうことに、イチちゃんの部屋に置いてきてしまったからだ。オレはいっぺん死ぬといい。

 ゆいいつの救いは、厳重なロックがあのカバンには掛かっているということだ。オレだから解錠できたものの、そうでない一般人にどうこうできる代物ではない。とはいえ、大量破壊兵器であるところの核弾頭をイチちゃんの部屋に置いたままにしておくわけにもいかず、オレはようやく決意し、鐘を鳴らした。

 かーん。

 とは鳴らなかったが、小門が開く。

 門から覗いた顔には見覚えがあり、口元にあいたピアスを見て、昨日、裏路地のレストランにいたウェイトレスだと判った。

「あ!」と声が重なる。次いで、なぜか彼女が口走る。「ウっちゃんだあ」

 まるでむかし馴染みのような呼び方に、面食らう。

 こちらが二の句を継げないでいると、

「昨日、イコンさんの荷物、奪ったひとって」と彼女は確信じみた口調で、「ウっちゃんのことでしょ?」と言った。

「すまんが」

 先に謝罪してから、

「だれよおまえ」

 問うと、彼女はひどく傷ついた顔をした。

「あ、いや、そうじゃなくってですね」咄嗟に弁解するが、なにがちがうのかはわからない。「オレ、六年ぶりにこの町に戻ってきて、そんで、あんましむかしのこと、覚えてないんですよね」

「六年?」すっとんきょうな声で彼女は、なにを言っているの、と言いたげに、「ウっちゃんが旅に出てったのは、十年前でしょう」と告げた。

「……ふぇ?」

「ここじゃ、あれだから。入りなよ」

 言って彼女は敷地内に手を差し向け、どうぞ、と促す。

 迷ってからオレはふたたび庭番衆家の屋敷に足を踏み入れた。

      ※※※

 彼女の名は、木漠(きばく)ザイ、と言うらしい。聞いても思いだせなかった。かるい罪悪感を誤魔化すつもりも兼ねてオレは質問した。「あのレストラン、なんなんだ?」

 ザイちゃんはそこで腕を組んでやや逡巡した。それからまぁいっか、と自分を納得させるように頷き、

「あそこはね」と語りだす。「霧星蛇イコンってひとの店なんだよね。あたしは、まあ、カッコつけて言っちゃうと、スパイみたいな感じかな」

「スパイ?」

「そう、スパイ。霧星蛇ってのはね、こっちの業界ではそこそこに名の通った集団なんだよ。霧星蛇イコン率いる集団は、『ミスター』って呼ばれているの。彼女自身は、『ミスター・スネーク』って呼ばれてる。ここ数年で急に頭角を現した悪党のルーキーって感じだね。それがさ、なぜかこの街に店を構えちゃってね。もちろん、自分たちのアジトのあるこの街で、なにか派手なことをしでかすとは思えないんだけど、それでも野放しにはできないでしょ? だからあたしが偵察兼監視役を仰せつかってるってわけ。それを一言であらわせば、うんと、だから――スパイってことになるのかな」照れくさそうにザイちゃんは頬を掻いた。

 なんだか、かんたんに呑みこめない話である。オレが怪訝な表情を浮かべていたからか、ザイちゃんはさらに説明してくれた。

「昨日はほんとうにビックリしちゃった。いきなりウっちゃんが来店してくるんだもん。十年ぶりだったけど、あたし、すぐに判ったよ。あ、ウっちゃんだって」

 彼女のそのどこかうれしそうな声に、オレは知れず胸がほくほくする。

「あの店に、目のしたに傷のある男っていないか」オレは訊いた。

「ケイさんのことかな?」

「そいつ、何者なんだろ」

「どうして知りたいの?」

「ちょっと色々あってね」

 ふうん、と首肯しながら彼女はメディア端末をひらき、文字を打った。ディスプレイには、『古怒・刑』と表示される。

「あのひとの名前は、フルド・ケイ。ケイさんは、霧星蛇イコンの直属部下って感じかなあ。大抵、『ミスター』が起こす厄介事は、ケイさんの指揮のもとで実行されているらしいよ」

「ザイちゃん、きみすごいね」

 本当のスパイみたいだ。

 褒めると、彼女は照れくさそうに顔を伏せ、実を言えば、と謙遜した。「実を言えば、あたしが調べたことで判ったのって、その程度のことだけなんだよね。あの店でのあたしの立場って、まだ、ただのウェイトレスでしかなくって。どうしてあのひとたちが、この街に店を開いているのか。居座っているのか。それすらまだ掴めていないの」

「ならこれからも、あのレストランにずっといなきゃいけないんだ?」

「そうだね」と彼女はそこですこし寂しそうにした。オレは場を和ませようと、にしてもさ、と陽気に言った。「にしてもさ、ぜんぜんちがうよね、今のきみ。あのときの雰囲気とさ」

 口にピアスをしているために、一見すれば過激な人物なのかな、と警戒したくなるが、それでも今のザイちゃんには、レストランでウェイトレスをしていたときのような、サバンナのハイエナを思わせる印象はない。

「あの店では、それっぽい性格を演じてるからかな。一人称も変えて、『オレ』とか『私』とか使い分けてるし」

「器用なんだな」

 言うと彼女は、ウっちゃんが隠さなすぎるんだよ、とおどけた。「ウっちゃんたらさ、もう、虎視耽々って雰囲気なんだもん。なにを企んでらっしゃるのだろうってさ、あたし、戦々恐々だったんだからね」

 まるでこちらを庇ってくれていたような発言に、ちょっぴりいじけたくなる。

「でもなんできみがスパイみたいな真似を?」今さらのように思う。「こっちの業界だとか、まるで映画だけど、べつにFBIとかではないでしょ」

「だってあたし、植木場家の人間だもの」ザイちゃんは飄々と告げた。

「ふうん。で?」意味が判らなかった。だからなに? って感じだ。

「へ、へ?」うそでしょ、と途端にザイちゃんは取り乱した。「もしかしてそれも忘れちゃってるの? 冗談でしょう?」

「な、なにがだろう?」

「だって、ウっちゃんなんだよ。ここを紹介してくれたのは」

 ――あたしを植木場家に入れてくれたのは、ウっちゃんなんだよ。

 彼女は語気を荒らげた。

 オレがこいつを? どこへ入れたって?

 オレは次第に、ここがどこで、今がいつなのか。

 オレはいったい誰で、どこにいるのか。

 霧にかすむ風景みたいにどこまでも模糊として消えてしまいそうになる。

      ※※※

 気分がわるくなったから、と嘘を吐いて無理やりに暇を告げて出てきてしまった。ザイちゃんが心底心配してくれていた。嘘を信じたのではなく、こちらの記憶のあやふやさ、人格の不安定さを知り、それこそ不安になったのだろう。オレと同じだ。

 オレはいったい誰なんだ?

 オレはオレが信じられない。

 オレはほんとうに、道央坂ウラミなのだろうか。

 オレにあるこの記憶は、ほんとうに道央坂ウラミの記憶のすべてなのだろうか。

 もしかしたらオレは、オレをオレとして形作るために必要な記憶の断片をどこかに忘れてきてしまったのではないか。落してきてしまったのではないか。ふと、そんな不安に胸が締めつけられた。

 重くのしかかるこの、おそれ。

 こわい、と思う。

 オレはオレがこわい。

 オレがオレではないのかもしれないと疑ってしまうこの軟弱な人格が。

 オレはオレだとはっきりと断言できない、この確固たる自己の欠如が。

 いまさらのように背筋を凍らせ、真夏のそらのしたで震える。

 ふらふら、とどこへ行くともなしに、オレは町を後にした。 

      ・真夏の絶倒・


      ***ノボル***

 役に立たないのは猫どもなのか、このデクノボウなのか。

 ノボルは呆れかえる。猫どもの去った公園にカンザキとふたり残された。

「これから、どうします?」彼は言った。「これじゃライチっよね」

「ライチってより、ピンチって感じですけど」

「どうしたんです、ノボルさん。ご機嫌じゃないっすか」

「だまれよ」

「まあ、あと二日もあるわけですし、ココナッツ気楽に行きましょう」

 そんな悠長な、と抗議したかったが、たしかに焦ったところで仕方がないのもまた事実だ。ここは冷静になって対策を練るのが一番だと思われた。

 昨夜、女性と遇ったあの場所まで、いちど行ってみることにした。

 ノボルの暮らす町にある、森に囲まれたあの場所へ。

 道中、ずっと気になっていたことを訊いてみた。

「カンザキさん。あのアタッシュケースの中身って、なんなんですか?」

「へ? あれは、バクダンっすよ。小型のわりに、威力がオレンジありすぎるっていうんで、市場の隅っこに埋もれてた商品すね」

 ふうん、バクダンねえ、となんだか焼きたてコッペパンが連想された。

「そのバクダン使って、あのひと、なにするつもりなんでしょうね」

「あのひとっていうのは、霧星蛇さんのことすか? 詳しくはオレも知らないんすけど。ただ、気に入らない企業があの街にあるとかなんとかで、それを吹っ飛ばすんだそうですよ」

 あの街ごと――と、とんでもないことをとんでもなくあっさりとカンザキは述べた。

「おまえ、それ知ってて、加担してんのか?」

「知っててと言いますか……バクダンなんて、爆発させてこその代物じゃないっすか。それをどこで爆発させるかなんて、関係ないっすよ」

「おおありだろ!」

「大蟻、ですか?」などと癪に障る台詞を抜かしながらカンザキが足もとをきょろきょろと見渡した。「どこにいますか、大蟻?」

「おまえなあ」

 頭にきて思わず彼に掴みかかる。胸倉をねじりあげようとするが、途端に視界が一転した。気づくと地面にたたきつけられている。次点で、肺のかたちが浮き上がるようにくるしくなった。

「あ、あ! すんません!」カンザキが喚く。「オレ、反射的に動いちゃうんすよ。勝手に身体が。なんか、染みこんでて」ほんとすんません、と手を差し出してきたが、ノボルはその手を振りほどく。ちからづよくむせながら自力で立ち上がる。

 カンザキを差し置き、道を進んだ。カンザキも無言でうしろから追ってくる。

 昨晩、こちらを助けてくれた人物と別れた場所――森の入口までやってきた。辺りを探索してみるも、とくに何があるわけでもない。

 無駄骨だったか。

 今来たばかりの道を引き返すのどうかと思い、森の中を抜けて行くことにした。まっすぐ行けば駅の裏側に出る。街へ戻るならば都合がいい。

 黙々と木漏れ日をくぐっていくが、背後のカンザキはまるでこちらの影かなにかのように気配を消して、ついてくる。どんよりとしている。清々しいきぶんがだいなしだ。

「一つ条件があります」堪りかねてノボルは言った。「さっきのこと許してほしかったら、霧星蛇さんの計画を阻止する手伝いをしてください」

「ぐれーぷ!」カンザキは留守番をしていた子犬が飼い主を出迎えるときのような人懐っこい笑みを浮かべ、しかしすぐに、「いやいや、勘弁してくださいよー」といまにも泣き出しそうな顔をした。「オレ、すでにあのひとには貸しがあって、つぎ粗相したら全面抗争確実なんすよ」

「なら死ねよ、おれのために」

「そんなバナナ!」

「トモダチなんですよね、おれたち。ならおれのために死ぬくらいのこと、してもいいんじゃないですか」

「でも、ノボルさんはオレのためになんて死んでくれないじゃないっすか」

「なに拗ねてるんですか。あたりまえじゃないですか。おれが死んだらあなたが悲しむ。おれはどうあっても死ねないんですよ」

 誤魔化せるとは思えない言動で煙に巻こうと試みると、思いのほか効果があったようだ。カンザキは感極まった様子で静かに涙を流しはじめた。

「オレ、ノボルさんのためならたとえ火のなか、水のなか。地獄の業火にだって焼かれてみせます。それに、ノボルさんを残してかってに死んだりしませんからぜったいに。アボガドに誓ってもいいです!」

 気色わるい顔をこっちに向けるな。

 毒づきそうなったが、踏みとどまる。「期待しているのでがんばってください」

 カンザキは、くーん、と鳴いた。

    ***

 駅が見えてきた。

 もうすぐ森も抜けようかというところで、ノボルは光る物体を見つけた。

 落し物だろうか。

 楕円のちいさなペンダントだ。

 草むらに落ちていたそれは、木漏れ日のゆれに呼応するみたいにして、キラキラ、と瞬いていた。

「どうしたんです、ノボルさん」

「いや、なんか拾った」

 周辺の雑草が、重石に潰されたみたいに折れていることに気が付く。何者かがここで寝返りを打ったように、雑草がちいさなミステリーサークルを形成している。

「なんです、それ?」背後からカンザキが覗きこんでくる

 手のひらに載せたペンダントは、小人の手でハートを模したようなカタチをしており、真ん中には惑星と見紛うほどに繊細な、青い玉が嵌められている。

 ノボルはむかしこれと同じものを見たことがあった。

 ――ラミ姉。

 十年前に家を出て、放浪じみた当てもない旅をつづけている姉がいる。

 いたずら好きで、ちょっかいばかり出してきて、いじわるで、でも――優しかった。

 記憶にある姉の胸元にはこれと同じペンダントが揺れていた。

 ――ラミ姉。

 つよくペンダントを握る。

 帰ってきていたのなら、顔くらい見せてくれよ。

 思ったと同時に、はっ、とした。昨夜の女性の声が脳裡にこだまする。

 ――思っても訊くなよ、そういうことはさ。

 名を尋ねた際に女性はそう言ったのだ。

 ――ラミ姉!

 ノボルは笑いたくなった。

 帰ってきていたのなら、言ってくれよ。何年ぶりだと思ってんだよ。言われなきゃわかんねーよ。なに勝手に傷付いたみたいな台詞ぬかしてんだよ。なに勝手に、助けてんだよ。

 アタッシュケースを持ち去ったあの人物がラミ姉だとすれば、余計に霧星蛇イコンへ、情報を齎すのは避けなければならなくなった。

 また、あのアタッシュケースをひそかに破棄しようにも、それを実行に移すのには、よこにいるこの男、カンザキを頼るしかない。もしもカンザキの手を借りられないとすれば、残された道は一つしかない。

 が、その道を選ぶのには抵抗がある。

 出来うるかぎり植木場家の手を煩わせたくない。被害は最小限に済ませたい。ならばやはりこの男の助けは必須だ。

「カンザキさん。ちょっといいですか」

「なんでしょう! なんなりと!」

 適切な言葉が見つからない。もはや、やけっぱちでこう言った。

「おれといっしょに、死んでくれませんか」

「あ、へ、お?」カンザキが数歩あとずさる。

 声をうわずらせ、

「オ、オ、オレなんかでよろしければ!」と嬉々とした。

「もちろん、一緒とは言っても、カンザキさんは遠慮せずに、おれより先に死んでもいいですからね」

「はい! マンゴーありがたいっす!」

 ふたり揃って歩きだす。ほどなくして背後から、「あれっ!?」となにかに気づいたみたいな声があがったが、ノボルは聞こえなかったふりをする。

 

  

      ※※※オレ※※※

 まったくもって謎なのだが、なにゆえオレはにゃんにゃんの大群に追われているの?

 にゃんにゃんは嫌じゃない。ケモノのなかでは断トツで好きだと言えるが、しかし津波と見紛うほどの大群と化して押し寄せてこられては、たとえそれが絶世の美少女であっても、世界一かわいい赤ちゃんだとしても、圧倒的恐怖を禁じ得ない。

 オレは逃げた。

 野を越え、山を越え、三枚のお札を鬼婆へ投げつける小僧のごとく、オレは逃げた。

 なにか投げつけるものでもあれば、それを餌にしてにゃんにゃんの追尾から免れることもできるのではないかと思いつき、なにかないか、なにかないか、とポケットやら谷間やらを探ってみたが、ふにふにと弾むこの胸以外、なにもなかった。

 ん?

 なにもない?

 なにもないとはどういうことだ?

 おかしい。

 そう思い、もういちど胸元を探った。あるべき場所に、それがない。

 ――ペンダント。

 この数年の旅路においても、けっして手放すことのなかった、唯一のペンダントが無くなっていた。

 どこかで落としたのか。

 昨日、ルイオを尾行して、レストランへ行ったときにはまだあった。レストランから出たあとも、あったように思う。

 ならばどこでだ?

 弟を見つけて、助けに入って。

 カバンを奪って……カバンを奪って…………って!

 ああっ!?

 ――カバンまでないッ!

 またもや忘れてきた……庭番衆さん家に取りに戻った意味がない。

 オレのバカヤロー。

 がうーーーっ!

 オレは立ち止まり、振りかえった。

 なーお、なーお、うるせんだバカヤロー!

 こうなったら迎え撃つ。

 なーお、にゃーご。

 なーご、にゃーお。

 怒涛の勢いで、土石流のごとく押し寄せてくるにゃんにゃんども。

 なんか……増えてない?

 返した踵をふたたび返し、逃走の構えをとる。

 うん! ムリ!

 オレは疾風のごとく駆けだした。

      ※※※

 ここまで引き離せばだいじょうぶだろう。

 ひざに手をつき、肩で息をする。

 駆けまわっているうちにすっかり夜になった。

 歩いていると、昨夜オレが野宿した場所に出る。森のなかは街灯もなく、真っ暗だ。

「……だからですね、パイナポゥーなんですよ」

 と。

 闇の奥から声がした。

 男の声だ。ひとりではない。

 茂みに身を隠す。

 森のほうから二人組がやってくる。

「……あの、カンザキさん」とさきほどとは違う声が聞こえた。「黙れとは言わないので、せめて息の根を止めてくれませんかね」

「やっはー。了解しました」と相手が応じた。静かになったと思いきや、「ちょ、ちょっと! バナナじゃないっすか! それは、ちょっとバナナですよ!」とふたたび騒がしくなる。

「まったくこれっぽっちもバナナじゃないですよ。脳みそ腐ってんじゃないですか」

 この声は…………ノボル?

 相手の声にも視覚えがある。

 ――スーツ姿のフルーツ野郎。

 たしか名前は、カンザキとかいったか。

 どうしてこいつとノボルがいっしょに?

 あまつさえなぜにこんな親しそうなのだ?

 身を乗り出したからか、茂みが大きく揺れ、音が鳴ってしまう。

「ノボルさん」

 カンザキがノボルを庇うように立つ。

 ふしぎとカンザキの声には、弟への信頼と庇護の紋様があざやかに視てとれた。

 弟よ。おまえはどこまで罪深い男になるつもりだ。

 うれしくもあり、憂いたくもある。

「そこにいるのは剥き剥きライチっすよ」

 あたかも、お見通しだ、と言わんばかりにこちらへ向けて威圧する。「さっさと出きたほうが身のためっす」

 弟との邂逅としては劇的ではある。

 オレは茂みから出ていこうとした。

 そのとき、なぜかわからないが森に火が灯った。

 それこそ、炎が意思を持って木々の合間を縫うようにオレたちをぐるりと包囲する。

「やれやれ」

 と、

 声がした。

 女の嬌声だ。

「手間をかけさせてくれよってからに」

 声を感覚的に視ているオレは、いちはやく声の主を捉える。

 炎の向こう側、弟たちの背後に、あの女が立っていた。

 異形のなかであっても異形でいられる存在。

 褐色の肌をした異常者。

「わっちはな」と彼女は謳う。「約束を守る気がある者であれば、たとえそやつがやむをえず約束を守れなかったようなことになっても、罰しようなどとは微塵も思わん。むろん、責任は取ってもらうが、それについてもそれほどわるい条件を出すつもりはない」

 じゃがな、と歯ぎしりまじりで彼女は唸る。「どんな事情があろうとも、端から約束を反故にしようなどと思うとるやからに、わっちは寸毫たりとも情けをかけてやろうなどとは思わンぞ」

「あの……イコンさん」

 弟が口を開くが、

「だれが許可した。動いていいと」

 女がつめたく言い放つ。

「ひとつ確認する。アタッシュケース……あれはどこじゃ」

「すんません、実はまだ、」とカンザキの言葉を遮り、

 女はもういちど、

「あれはどこじゃと訊いておるッ」

 声を張りあげた。

 明確にオレへ向けられた声だった。致し方ない。オレは茂みの中から出ていく。

 弟が何か言いたげに、ひどくヘンテコな顔をした。

「カバンはない」

 熱気で風景がゆがんで見える。オレは炎の向こう側に佇む女と対峙する。

「とっくに捨ててやったぜ」

 キセルを咥えると女はちいさくあごを振った。

「やれ」

 聞こえた途端に首筋に、ぞわり、と殺気が巡る。

 咄嗟にオレはその場にしゃがみこむ。

 今しがたオレの首があった場所を刃物が過ぎ去った。

 ――背後に誰かいる。

 横に飛び退き、距離をとる。

 刃物野郎の姿を補足する。目のしたに涙が伝ったみたいな傷がある。

 ――ルイオだ。

 こいつ、本気で殺しにきやがった。

「わっちは、女に情けはかけんぞ」

 言って彼女は腕を振る。

 弟とカンザキの周辺に変化がある。

 砂利や落ち葉が巻き上げられ、風の壁が弟たちを包みこむ。

 そよ風がつむじ風へ変貌を遂げ、やがて竜巻へと成長していくように。

 大蛇がとぐろを巻くがごとく。

 弟の姿が風の壁に消えた。

 頬になにかがかすった。

 風の壁から飛んできた。

 ひゅん。

 ひゅ、ひゅん。

 と。

 風に弾かれた無数のつぶてが弾丸と化して飛んでくる。

 頬に触れると血が付いた。

 どれだけの風圧なのだろう、まるでミキサーだ。

 天然のミキサーに閉じ込められた弟。

「な…………なにしてくれてんだよテメェッ!」

 じぶんが発した怒号なのに、なぜかちいさくこだまする。

 しだいに辺りは闇につつまれ、風の音も聞こえなくなる。

 静寂の果てに、ぎょろりと目が浮かんでいる。

 認めるべきだよ、きみは。

〈私〉にある能力を。

 それがいかほどに特殊な性質であるのかを――オレはもっと自覚すべきだったのだ。 

       ***ノボル***

 一切が闇。

 叫んでみるがじぶんの声も聞こえない。

 濁流のような風圧の感触が身体を包みこんでいる。

 動くべきではないように思われた。

 が、ふいに視界が晴れ、世界を揺るがす騒音までもがぱたりと止む。

 静寂。

 炎は消えており、残り火が辺りをほのかに照らしている。

 なにが、どうなって、みんなはどうしたのだろう。

 霧星蛇イコンや、カンザキや――ラミ姉は。

 ラミ姉は、無事なのだろうか。

 気づかないうちに暗闇に包まれ、気づいたと同時に視界が開けた。

 おなじ場所だが、だれもいない。

 どこへ行ったのだろうか。

 呆気にとられていると、

「やあ、だいじょうぶだったかい」

 背後から声をかけられた。反射的に振りかえる。

「どうしてここに……あなたが?」

 ほがらかな微笑をたたえ、福州沁が立っていた。

「それはぼくの台詞だよ」おかしそうに言って福州さんは周囲を見渡した。「あやうく、ノボルくんまで殺しちゃうところだった」

 と、

 彼はにっこりほほ笑んだ。

「それは……」

 どういう意味なのだろう。

 問おうと唇を湿らせた矢先、

 二人のあいだに、どさり、となにかが降ってきた。

 うえからなにかが落ちてきた。

 火炎の明かりに晒されて、それはてるてると粘着質な光沢を帯びている。

 ぞっとする。

 地面に横たわったものは紛れもなく、

 ――人間の胴体であった。

 下半身はない。ちぎれている。

 断面からだらしなく臓物がこぼれ落ちている。

 上半身だけのそれは、まだ。

 ――生きていた。

 弱々しく呻き声をあげている。

 吸っているのか吐いているのか分からない呼吸音を漏らしているそれに向け、

 だ、だいじょうぶですか。

 声をかけたつもりだったが、真実声になっていたかは自分でも分からない。

 半身だった男は今、ノボルの目のまえで、

 ――頭蓋を踏みつぶされた。

 見知らぬ男が立っていた。どこからともなく現れた。いや、上半身にちぎれた者と同じように落ちてきたと言うべきかもしれない。

「やはっ」

 と福州さんが笑った。「これで、おわりですか?」

 ぜんぶですか、と尋ねている。

「全部ではありません」男が答える。炎の灯りが顔を照らすが、見たこともない顔だ。スーツ姿のためか、どこかカンザキを思わせる。受ける印象は真逆だ。カンザキがひまわりなら、この男は間違いなく彼岸花だろう。

 彼は福州さんへ低頭する。

「あなたの命ずるままに動けとの依頼を承っております。ここにいる者の殲滅があなたから命じられた旨でありましたが」そこでいったん区切ると男は低頭したままこちらを睥睨し、「この少年は、如何なさいますか」

「いや、この子はぼくのトモダチだから。この子以外のゴミを片してください」

「御意」

 言うや否や、一瞬で男が姿を消した。

「……どういうことですか」福州さんに詰め寄る。「どうして、こんなことを……福州さんが……」

「なにを言っているのさ。あいつらはテロリストだったんだよ。人殺しなんだ。退治できるならするべきじゃないか」

「でも」

 口にしながら、すぐに否定できない自分がいる。「……たしかにかれらはゆるされないことをしてきたのかもしれません。きっとこれからだってしていっちゃうんだと思います」

「そうだろうね」福州さんは首肯する。「だからこそ、今ここで、息の根を絶やさないと」

「ですが、それとこれとは話が別じゃないですか」

「べつ? おんなじだよ。あいつらを根絶やしにさえすれば、万事解決。このさき、彼らに苦しめられるひとたちも出てこない。あいつらはあいつらで、死で罪を償える。いや、死なんかでは償えないほどの罪をあいつらは繰り返してきていたんだよ。知っていたかい? あいつらはね、残忍なテロリストなんだ。あいつらは自分たちの思想に反した権力者たちを、自分たちの都合がわるいからって、ただそれだけの理由で殺してきた、そんなテロリストなんだよ。それだけじゃない、自分たちの思想に反する社会に身を置いている人々、ただ単に、その社会で暮らしていただけっていう、そんなどうしようもなく理不尽な理由で、あいつらはたくさんの人間を殺してきているんだ。だからねノボルくん――あいつらは罪がゆるされないんじゃない。存在そのものがゆるされないんだよ」

「ですが……」

「うん。わかるよ。ノボルくんの言いたいことはわかる。やさしい子だからなあ、ノボルくんは」こちらを憐れむように目を細め、福州さんは続ける。「いいかなノボルくん。完全な悪人なんていないと、ぼくだって解ってはいるんだよ。でもね、それでも、悪人は悪人だよ。わるいことはわるいし、罰しなければ治まらない物事というものもあるんだ。それが復讐だろうと、単純に秩序のためだろうと、どっちだって同じなんだよ。悪人は悪人さ。わるいことをしてしまって、それをわるいことだと認められない者。もしくは、わるいことだと解っていながらに軽々しく行えてしまう者。そういった人間っていうのはね、もはや人間ではないんだよ。そうだとも、あいつらは、人間じゃない、ケダモノだ。人間に危害を加える猛獣は、処分しなくちゃいけない。だってそうだろ? 言葉が通じないんだ。概念を共有しえないんだから。ぼくら人類の求めている秩序と、あいつらケダモノが求めている秩序はまったく別物なんだよ。言葉も概念だって通じ合わないんだ、話し合いで解決なんてできない。そもそもあいつらケダモノは聞く耳をもたないじゃないか。それどころか、こちらへ獰猛なキバを向けてきたりする。それはね、だから、雨が降ったら傘を差すだろ? そういったことと同じように、ぼくら人間は、向かってくる脅威に対して、対処しなくちゃならないんだよ。それがあいつらケダモノの場合は、殺傷って手段しかないんだ。殺さなきゃ、ぼくらが殺されてしまうんだからね。でもそれは、あいつらと同じになるってことではないんだよ。ぼくらはそうしたくて暴力を行使しているわけじゃないんだから。〝そうしなくてはならない状況を、ケダモノたちのほうで勝手につくりだしているだけなんだ〟。向こうが大人しくしていてくれさえすれば、それで済む話なのに、あいつらケダモノは、ぼくら人間を傷つける。あいつらケダモノは意識的に殺傷するけれど、ぼくら人間はいやいや撃退している。このちがい、ノボルくんなら分かるだろ? 一見おなじに感じちゃうかもしれないけどね、でも、ぼくらとあいつらのあいだにはけっして越えられない溝がある。たとえ同じ行為をするにしたって、その根底に流れる大義は、天と地ほどの差異があるんだよ」

 解っている。そんなことは百も承知だ。

 きれいごとでは済まされない問題というものが現実にはいかようにも転がっている。

 しかし、でも、だったら、と思わずにはいられない。

 だったらなぜあなたはそんなに……。

 そんなに楽しそうなんですか……。

「……お願いです。殺すなんて、そんなこと、やめてください」

「ああ、そういう手もあるね。殺さずに生かさずに。生きているかぎり、あらゆる苦痛を与えつづける。それもまたいい考えだと思うよ」

「そうじゃないんですよ……」

 わかってくださいよ。

 責めるように訴えると、そこで彼は顔から表情を消した。

「もしかしてノボルくん――あのひとたちを許してあげてほしい、だなんて罪深いことを言っているわけじゃないよね」

「そうですよ」と肯定する。「あのひとたちのやってきたこと、それは許せないことです。ぜったいに許容しちゃならないことです。だからこそ、あのひとたちを殺すだなんてそんなこともまた、肯定しちゃいけないじゃないですか」

「水かけ論だなあ」福州さんはここにきてはじめて、苛立し気な声を発した。「殺さないで済むならぼくだってそうしたいさ。でもね、殺す以外に方法がない。だったら殺すしかないだろ。それともきみは、ぼくやほかの平穏に暮らしている人々に『死ね』とでも言う気なのかな?」

「そうじゃない。そうじゃないんですよ!」

 だってそうじゃないですか。別に殺す必要なんてないじゃないですか。殺さずに抑圧することだってできるじゃないですか。本当なら、そんなことすらしたくないけれど。してはならないはずだけれど、でも、そうしなければ福州さんが言ったように、直接には関係ない人々が、まったく関係すらない人々でさえ、かれらに傷つけられてしまうかもしれない。理不尽な暴力に脅かされてしまうかもしれない。だから、誰かがかれらを止めることは必要なのだけれど、止めようとしなくちゃいけないんだけれど、でも、だからってかれらを殺す必要はないじゃないですか。

 だって福州さん、あなたには、かれらを圧倒するだけの〝力〟を今、持っているじゃないですか。

 〝術〟を持っているじゃないですか。

 そう叫びたかったけれど、途中で声がでなくなった。

 声だけではない。

 呼吸すらもままならない。

 こちらの首には今、福州沁のゆびが、大蛇のごとく絡みついている。

「ようやく判ったよ」

 ひたいに青筋を浮かべながら福州さんは笑った。「ノボルくんも仲間だったんだろ? あいつらの仲間だったんだろ? だッたらきみだけが助かるなんてそんな理不尽、ゆるしちゃダメじゃないか。まッたくぼくとしたことが。あぶない、あぶない。きみをここで殺さなくては、きみをこの手で殺さなくては、まるでぼくが悪人みたいになるところだッたじゃないか。ノボルくんが生きているだけで、まるでぼくが、ぼくのほうが」

 ――悪人みたいじゃないか。

 福州さんは、にっこり、とおだやかにほほ笑んだ。

 ノボルの視界はそこで途切れた。

 ノボルの意識はそこで途絶えた。 

      ※※※オレ※※※

 ノボルのやつが風に襲われて。

 オレはやつらを許せなくって。

 どうしていいか分からなくって、オレは考えることを止めかけた。

 そのとき――。

 ――ボトり。

 と、

 視界に何かが落ちてきた。

 ちいさな塊だ。

 太い枝のようなもの。

 人間の腕だ。

「ケイッ!」

 あの女の叫び声がする。

「無茶するな! そやつはわっちがやる! ぬしは手を出すな!」

 はやまるな、と女が叫んでいる。

「バカ! もどれ! ケイッ!」

 ――ああぁ……。

 ――アアァ…………。

 女の声が悲痛に染まる。

 炎が途端に消え去った。

「ウっちゃん、逃げて。ここは危ないから」

 暗闇から声がした。

 ザイちゃんだ、とオレは思う。

「あっちのほうへ行けば、町に出られるから」ザイちゃんはオレの手をとり、方向を教えてくれる。「ひとりで、行けるよね?」

 もう大人だもんね。

 言い聞かせるような声音がここちよく、オレは何の疑問も持たず、彼女の言うとおりにしようと思った。

「言いわすれてたけどね、ウっちゃん」

 ザイちゃんは距離を置き、言った。

 ――おかえりなさい。

「どこへ行く」

 彼女の声をかき消すように、その声は聞こえた。

 きれいな殺意色をしたその声は、こちらへ向け、何かを放った。

 地面に落ちたそれは、こちらの足元まで転がりくる。

 私は屈み。

 ゆっくりと。

 〝ソレ〟を拾いあげた。

 やわらかくって、あたたかくって。

 輪郭があって、骨格があって。いじりまわすとふるふるとつややかな唇があって。

 ソレはだからついさっきまで私に触れていたぬくもり以外のなにものでもなくって。

 ソレはだからついさっきまで私の手を取っていたザイちゃん以外のなにものでもなくって。

 でもどうして、

 どうしてザイちゃんには身体がないのだろう。

 どうしてこのザイちゃんには身体が……ねえ、どうして。

 おしえてよ、誰か。

 ねぇ、おしえて。

 どうしてザイちゃんは――、

 ――首だけなの。

 私はザイちゃんの首を胸に押し付けるようにした。

「この場にいる者を殲滅しろと言いつかっている。わるく思うな」

 こちらへ迫りくる殺意色の声の主を、私は心の底から湧きあがる純粋な衝動で以って、蹂躙してやりたいと、踏みにじってやりたいと、私はつよく、つよく、思ったんだ。

      ***ノボル***

 目覚めると目のまえにはカンザキの顔があった。まぢザクロかと思ったじゃないですか、と抱きついてくるので、足蹴にして突き放す。

「なにが、どうなったんですか」

「それはこっちのライチっすよ」カンザキは興奮気味に、「マジ、アボガドっすよ。いきなりあのひと、風陣でオレのこと包むんすもん」と手元に猫を抱き上げる。

 あのひと、とはきっと霧星蛇イコンのことだろう。

 カンザキが呼んだのだろうか、周囲はいつの間にか猫の大群で埋もれている。

「そんで、すぐに解けたと思ったらオレだけじゃなく、ノボルさんまで封じられちゃってるじゃないっすか。どうしてオレだけ風陣が解けたんだろう、って疑問に思うじゃないっすか。そしたらマジ、アボガドなんすけど、オレの兄貴が助けてくれたんすよ」

 ――仕事を任された。あのミスターをつぶせとの指示を受けている。

「そんなことを言ってたんすけど、それって要するに、兄貴とオレが敵同士ってことじゃないっすか。でもでも、ここでもしも兄貴がミスターさんらを消してくれれば、それでオレの仕事って終わりになるんすよ。ミスターさんたちからはすでにお金はもらってるわけですし。もともと、オレの依頼主って、あのひとたちじゃないわけですし。だからオレ、この場を兄貴に任せて、退散させてもらうことにしたんすよ」

 ここまで述べるとカンザキは途端に、しょんぼり、とした。

「ほんと、オレ、だめだめっすよ。あんまりにもアボガドがたくさんすぎて、ノボルさんのことを忘れちゃってたんすから。途中で、『あっ!?』って気づいて、戻ってきたら、ノボルさん、そいつに首を絞められてるじゃないっすか。しかもすぐに、ぐったりしちゃって。オレ、ほんと人生ではじめてここまでのアボガド喰らいましたよ」

 絞りだすように言うとカンザキは、でも、と顔をほころばす。「でも、ノボルさんが無事で、ほんとうによかったです」

 それはきっと本心からの言葉だったのだろう。

 本来なら、すんなりと胸に響くはずの言葉で、本当なら、まっすぐと心に染みたはずの想いのはずで。

 にも拘わらずノボルは、目のまえのこの男を受け入れることができなかった。

 にゃーお、なーお、と騒がしい猫たち。

 彼らはいったい、〝ナニ〟に群がっているのだろう。

 くちゃ。くちゃ。

 ぐちゃ。ぐちゃ。

 猫たちがむさぼっている〝ソレ〟はいったい。

 ――ダレなのだ。

 呆然と眺めていると、こちらの視線を察したのかカンザキが、へへへ、と笑ってこう告げた。

「安心してくださいノボルさん。ソイツ、きっちり殺しておきましたから」

 言ったカンザキの顔面めがけてノボルは拳を振り抜いた。

 視界が大きくかたむく。気づくと頭を地面に押し付けられている。

「す、すんません」

 解放されてもノボルは身を起こさなかった。

 分かち合えるわけがない。

 福州さんはたしかに行き過ぎていたかもしれない。やりすぎていたかもしれない。しかし殺されなくてはならないほどの悪意を振りかざしていたわけではない。狂っていたわけではない。ただすこし、歯止めがきかなくなっていただけのことで。

 カンザキにしたところで、こちらを護るために、すこしばかり度の越えた暴力を振るい、福州さんを殺してしまっただけかもしれない。

 本当はこの場でギタギタにしてやりたいほど憎らしく、腹立たしく、恨めしい。

 けっきょくのところ、この憎悪というものは、だいじなものを傷つけられたことへの怒りであり、思い通りにいかない世界への憤りでしかないのだろう。欲しいおもちゃを買ってくれない母親に癇癪を起こす子どもと変わらない、幼稚な衝動でしかないのだ。

 ぶつけようがない。

 ぶつけられるわけもない。

 明確にこれは悪意だ。やられたから、気に食わないから、じぶんだけ害を被るのはいただけないから、相手にも同等かそれ以上の傷をつけようとする、これが悪意でなくてなんだというのか。

 どこにもぶつけようがないではないか。

 だのに彼らはそれを悪意と見抜けず、見抜こうともせず、みずから破滅の連鎖へ、ドノミの一端を成すかのように、踏み込んでいく。

 分かち合えるわけがない。

 みな同じだというのに。

 そのことにみな気づかないのだから。

 思っていながらなぜこうも、諦めることができないのだろう。

「カンザキさん……」

「はい?」

「助けてくれてどうもありがとうございます」

「うひゃー、ノボルさんに感謝されるなんて、オレ、やりましたね!」

「ですが」

「はい?」

「おれは今、死んだほうがいいと思うくらいつらいです」

 とても、つらいんです。

「ぐれーぷ……なんでですかノボルさん」

「あなたには解らないんですよね。でも、いいです。おれが責任をもって教えますから」

 一生かけて償わせますから。

「だから、いっしょに苦しみましょう」

「はぁ。ノボルさんがいっしょなら、たとえ火のなか、水のなか。地獄の業火にだって焼かれますよ」

 よくもふざけた台詞をこの状況で口にできるものだ。

 耐えよう、耐えよう、とすればするほどに怒りは膨れていく。

 なぜこんな男ひとり見捨てられないのだろう。自分は頭がおかしいのではないか。

 疑問に思うが、答えはすでに解っている。

 ノボルは自分の頬を殴りつける。

 トモダチを見捨てるなんて、おれには死んでもできないんだ。




      ・真夏の陽炎・


      ■■■

 どんな事象にも、それを生じさせた〝なにか〟がある。

 どんな事象にも、きっかけは存在する。

 あるきっかけから生じた事象は、さらなる事象を新たに生じさせ、その事象そのものがまた新たなきっかけとなり、世界をまわす。

 事象が事象を呼び、きっかけがきっかけを連鎖させる。

 きっかけがきっかけを生じさせている以上、新たなきっかけには、それまでに辿ったいくつもの脈絡を――きっかけを――内包していることになる。

 足跡は蓄積され、歴史としてその事象に踏襲される。

 しかし、地球という限定された環境に、ある日、例外が生じた。

 無数のきっかけが引き起こしたその新たな事象は、それまでに重複されつづけてきたきっかけを――歴史を、足跡を――一個の結晶として昇華させた。

 DNA――デオキシリボ核酸の誕生である。

 この例外的事象には、それまでの事象にはみられなかった、ある種の性質が備わっていた。

 ――きっかけの、断絶。

 連綿と重複されていくだけであったきっかけは、生命(DNA)に触れることで、これまでに重複してきたきっかけを、いちど清算されてしまう。

 無数のきっかけからできていた事象が、生命というカタチをとることで、それまで連綿と辿ってきた脈絡という名の筋道から外れ、不確定さを帯び、あらゆる可能性を秘めた「原点」として回帰する。

 我々は存在そのものが宇宙の理から外れた存在だ。

 もう一つの宇宙と言っても過言ではない。

 宇宙は宇宙を内包し、世界は世界と接触する。

 ただそこに存在するというだけで、世界を司る法則――システムを掻き乱す存在が、我々生命体という名の例外的事象である。

 しかし、例外的事象が存在するように、例外にもまた例外が存在する。

 縦横無尽に張り巡らせたきっかけを触れた瞬間から断絶する生命体ではあるが、まるで蜘蛛の巣の隙間を縫うように、まったくきっかけに触れずに世界を練り歩く異形の個が存在する。

 かの者は、空気のようにただ存在し、同時に、触れるものすべてを破壊できるほどの不条理をその身に宿している。

 きっかけを有さず、あらゆる事象へ、破壊という名のきっかけを与えることのできるゆいいつ。

 彼女は、世界を動かすだけの厚みを持たず、同時に世界を揺るがすだけの重さを備えてもいる。

 破壊への純粋な欲求こそが、彼女の重さを決定し、彼女に世界を揺るがすだけのきっかけを与える。

 圧倒的、破滅的、悪魔的、神がかり的な暴力を――ちからを――与える。

 世界への失望を経て、

 彼女は今、重さを得る。

      ***ノボル***

 カンザキといっしょに山を降りる。

 山が森へ、森が林となり、気づけば夜風にまじって竹の香りがまざりはじめた。

「よかった。無事だったんだ」

 前方、月明かりが差しこんでいる場所に女がひとり立っていた。植木場チイだ。

「たくさん……死んだぞ」

「うん。知ってる」

「福州さんも死んだんだぞッ」

 糾弾さながらに怒鳴りつけると、彼女は気配を希薄にさせ、

「そう」と冷たくつぶやいた。「でも、仕方ないわ。あのひとはウチが守るべき人間ではなかったもの。それでも、いちおう、この町に関わりのある人間だったから……仕方なく〝駒〟を貸してあげたんだけど」

 やっぱり死んじゃったんだね、と彼女は他人事のように言った。

「駒ってなんだよ。人を殺す手段を貸したってことか? 福州さんに、人を殺す機会を、殺戮機械(マシーン)を与えたってことかよ!」

 そうだよ、とチイはわるびれもなく口にする。「ウチが手を貸せないひとだったんだもの。知ってた? 福州沁、あのひと、この町の人間じゃないのよ。それともなに? なにも施さずに、追いかえしたほうがよかったわけ?」

 言い淀むが、

「そっちのほうが、よかったよ」

 答えると、チイがひるんだのが判った。

 もしかしたら、褒めてもらえるとでも思っていたのだろうか。

「なんで?」どうして、とチイの声に震えが交じる。「だってノボル、まえに言ってたじゃん……助けを求めているなら、どんな人間でも助けてやるべきだって、おれならそうするって……ノボルがそう言ってたからッ」

「おれのせいだってのかよ!」

「そうよ! ぜんぶ、ノボルがわるいんじゃない! あんたがウチに依頼してくれてさえすれば、こんなふうにはならなかったのに」

 言うとチイは、こちらのよこにいるカンザキを眼光するどく射ぬいた。それから口調を一転させ、「ノボル、あんたなんで、こんなやつを頼ったりした」

 髪の毛を逆立てるようにした。

 息を呑む。

「ノボルさん」カンザキが口を挟んでくる。こちらを庇うように立つと、チイを睨み据え、「この女、殺していいっすか」と小声で許可を仰いでくる。

「だめに決まってんだろ」

「わるいけど、ノボル」チイは右手で拳をつくると、「今回ばかりは、止めないで」

 緩慢な動作で口もとに運んだ。

 手のひらに空いた空洞に、ふう、と息を吹きこむ。そうして彼女は圧倒的膂力を発動させようとする。

「ノボルさんは下がっていてください」

 カンザキもまたゆびを噛むようにし、指笛のかたちをつくる。

 どちらも臨戦態勢をとったと判る。

 純粋に身体能力を強化するチイに比べ、カンザキは動物を使役するだけだ。

 嗜虐の帝王と、役立たずの青年。どちらに軍配があがるかなど考えるまでもない。

 さきに動いたのはカンザキだった。

 口笛が夜空をつんざく。

 間もなく、竹という竹を縫うように無数の影が飛びだしてくる。

 空を舞うもの。

 地を這うもの。

 駆けるもの、跳ねるもの、波打つもの。

 まんべんなく、空間という空間を埋めつくす。

「キャーーーっ!」

 なぜか可愛らしい悲鳴があがった。

 そう言えば――。

 ノボルは拍子抜けしながら思いだす。

 チイのやつ、動物、苦手だったっけ。




  

      ※※※私※※※

 女と男と私と血肉。

 ぶつ切りの、ぐちゃぐちゃの、中身のこぼれた、血肉の大地に。

 女と男と私と血肉。

「ぬしはどこまで、わっちに背けば気が済むのかや」

 女が男へ向けて話しかけている。

「案ずるな」と男は言った。「それも、今日で終わる」

「わっちの部下らを消した罪。よもや、ぬし一個の犠牲で済むなどと思いあがってはおるまいな」

「勝手にしろ」

 辺りに、ぽおっ、と炎が灯る。

 ちいさな、ちいさな、点の炎。

 青白く、きれいな輝きを帯びており、それはまるで殺意の結晶みたいに澄んで映った。

 ホタル火然とした青白い炎は、ほしぞらのように私たちを囲っていく。

 私たちの輪郭を彩るみたいにし、それら青白い炎は、縦横無尽に線を描き、自由自在に宙を舞う。

 ときおり、ボッ、と一瞬のはげしい燃焼を見せる。

 炎に触れた木々が、消失する。

 空間にあるあらゆる障壁が、刹那に燃えつきていく。

 なんてきれい。

 ボッ。ボッ。

 ボボッ、ボボボッ。

 閃光じみた発光の間隙に、男が飛翔する姿がフィルムのひとコマみたいに連続して暗闇に浮かびあがる。

 私の周りにも炎は溢れており、私はそれに触れてみる。

 きれいだから、触れてみる。

 ボッ。

 音を立て、炎が私を包みこむ。

 衣服が刹那に燃え散った。

 炎に包まれた身体は青白く、ぼんやりとした輝きだけを放っている。

 きれい。

 とても澄んだ青。

「ぬし、しばし待て!」

 女の声が聞こえ、呼応するように、無数の炎もいっせいに動きを止めた。

「……同意しよう。今回ばかりは」

 男の声からは、殺意が消える。

 代わりに、明確な敵意がこちらへ向いた。

「まずはアレを片付けるぞ」男は言った。

「わっちに命令するでないわ、たわけ」女が応じる。

 私は重い身体を引きずるように、ゆったりと彼らへ向けて手を翳す。




      ***ノボル***

 生まれたての子犬を思わせる怯え方で植木場チイは大量のケモノにもみくちゃにされている。

 ネコからはじまり、犬やタヌキやネズミ、果てはイタチにヘビにコウモリまで――あらゆるケモノが闇のなかで蠢いている。

 半ば捨て身で挑んだのだろうカンザキは、なにがなんだかといった様子で呆気にとられている。

「動物、苦手なんですよ。このコ」ノボルは説明する。「動物ってよりか、群れがダメみたいで。一匹、一匹、だと動じないんですけどね。ただ、こうして大量の動物となると……」

 言って今いちどじっくりチイを眺める。

「ノボルぅ……ノボルぅ……」

 目をきつくつむってチイは頭を抱え、その場にうずくまるようにしている。こちらの名を呼び、助けを求めている。

「カンザキさん。おねがいします。この辺でやめてあげてください」

「ノボルさんがそう言うなら……まあ、いいっすけど」

 不満そうに彼は口笛を鳴らす。見る間にケモノたちが引いていく。

 ほどなくして辺りはふたたびの静寂につつまれる。

 ケモノ臭さが風にあらわれ、竹の香りが辺りを満たす。

 未だうずくまり、怯えているチイに近寄り、

「もうだいじょうぶだよ」

 ノボルはそっと肩に触れる。

 おっかなびっくり顔をあげ、辺りを見回すと、彼女は心底ほっとした表情で、

「……ほんとだ」

 とつぶやいた。

 それから、はっとしたように表情を引き締め、なにごとなかったかのように立ち上がる。服のほこりを叩きながら、

「きょうのところは勘弁してあげるわ」

 と言った。

「でも、つぎは容赦しないから」

「なんなんすかあのひと」カンザキがこちらへ耳打ちする。チイの地獄耳をもってすれば聞こえていないはずもないのだが、彼女は反応を示さず、そのまま竹藪の向こうへと去っていった。

 ふたり同時してため息を吐く。

「さて。行きましょうか、おれらも」

「ライチっす」

 鬱蒼と茂る竹林も、ふもとに近づくにつれ拓けてくる。町の明かりが見えてきた。

 無事に下山できそうだ。

 胸を撫で下ろしがてら、ポケットに手をつっこむ。

 ゆびに絡みつく鎖の感触に、思わずそれを摘まみだす。

 小人の両手に挟まれた青い玉。

 姉のものと思しきペンダントが、月明かりに照らされ、明滅する。

 

 ほどなくして見知った道に出る。

 植木場家の屋敷へとつづく道だ。屋敷へ出ないように途中で進路を曲げる。植木場邸のそばを通らずに町へ下りるには、いったん林を抜けなければならない。

 心なし早足になる。

 福州さんが死に、霧星蛇イコン一味が壊滅しかけた今、事態はすでに収束したものと認識していいだろう。

 福州さんからの依頼は、彼の死をもって、反故となる。植木家からの命により派遣された死神――偶然にもそれはカンザキの兄貴であるらしいが――彼は、主の消失と共に、課せられた使命から解放されたはずだ。残された霧星蛇一味がこちらへ向けて敵対しないという保証はないが、すくなくとも今すぐどうこうしなくてはならない逼迫した事態にはならないだろう。彼女たちの受けた打撃は無視できないものがある。カンザキの話では、霧星蛇一味は中心街でテロを引き起こそうとしていたそうだ。しかし現状、テロのための道具――アタッシュケースが見当たらないので、対策を立てるだけの猶予がこちらにはあるのだとカンザキは言った。

 どの程度信頼できる話かは定かではないが、ひとまずきょうのところは窮地を脱したのだと断じ、ノボルは気をゆるめた。

 矢先に、

 ――それは降ってきた。

 二人分の影だ。

 一人の人間がもう一人を抱きかかえている。男女だと判る。

「余計な真似してんじゃないよ。だれが助けろといった、だれが」

 女の叫びに男が応じる。「荷物は荷物らしくじっとしていろ」

 霧星蛇イコンを抱えていたのは死神ことカンザキの兄であるようだった。カンザキがスキップじみた走り方で、死神へと駆け寄る。「兄貴!」

「まだいたのかおまえ。ここにいると死ぬぞ。逃げとけ」

 端的な指示だ。

 スイッチを入れ替えたようにカンザキが踵を返してくる。こちらの手をとると、

「マジ、やばいですって!」

 フルーツ語も忘れ、彼は駆けだした。

 二十歩ほど、手を引かれ、走る。

 すると急に、

「ぐれーぷッ!?」

 カンザキが奇声をあげて立ち止まった。

 なぜか目のまえに霧星蛇イコンたちがいる。もういちど踵をかえし、闇を掻き分け進むが、しばらくするとやはり目のまえに彼女たちがあらわれる。まるで延々と合わせ鏡を駆け抜けている気分になる。

「どうなってるんですか」

「さっぱりブルーベリーっすけど、なんか閉じ込められちゃったみたいすね」

「暢気に言ってる場合かい!」霧星蛇イコンの怒声が聞こえるが、覇気はない。彼女は両手をまえに突きだし、せいいっぱい何かを堪えるように必死な形相を浮かべている。見遣れば、前方には青く燃え盛る炎の壁ができている。こころなしか、ドーム状にこちらを包みこんでいる。

「もう、もたない……ッ」切羽詰った声音で霧星蛇イコンは死神もろともこちらを叱咤する。「ぬしら、ぼうっと突っ立ってないで手を貸さんかいバカモノッ!」

 かろうじて状況を把握する。

 どうやら彼女、何かからこちらを庇ってくれているようだ。しかしいったい何からこちらを庇っているのか。

 いったい炎の壁はなにを弾き返しているというのだろう。

 疑問に思い、目を凝らす。

 炎の壁のさきに揺らめく影を発見する。

 誰かいる。

 炎の壁を押しやりながら〝それ〟は強引に、一歩、二歩、とこちらへにじりよってくる。

「長いことこの家業をやっているが」カンザキの兄は重い腰をあげるように両手を地面につけ、

 ――ありゃ、正真正銘の〝化物〟だ。

 ちゃぶ台をひっくり返すように土ごと大地を波打たせる。隆起した土は、津波のように地面を伝播し、炎の手前に山をつくる。

 が、すぐさま融けたように崩れ去り、炎の壁も後退する。

 押し負けていると判る。

 ノボルはカンザキと共に、手持ちぶさたにオロオロする。手を貸そうにもこちらにはできることがない。足手まといにならないようにこの場から離れることすらできないのだから、じっとしているよりないではないか。

 にもかかわらず霧星蛇イコンは、なんとかしろ、わっちはもうもたんぞ、と怒気をまき散らしては歯を食いしばり、炎の壁を維持しつづける。即席の山がいくつも融けては消えていく。

 ノボルは生まれて初めて、ドラえもんの気分を味わった。

 なにかないか、なにかないか。

 ポケットというポケットをかたっぱしから探っていく。チューインガムを発見する。

「イコンさん! イコンさん!」

「なんじゃッ!」

「ガム、食べます?」

「いらんわッ死ね!」

 ひどい。

 ガムのほかにはもう、これしかないのに。

 ノボルは手に、姉のものと思しきペンダントを握った。


 

 

  

       ※※※私※※※

 母体のなかはあたたかく、そしてほの暗く、かすかに赤い光に満ちていた。

 生れ落ちた世界は消え入りそうなほどの希薄さで溢れており、凍えそうな寒さに、二度と戻ることのできない帰る場所の消失を思わせた。

 おそろしくなった私はだから、泣いた。

 赤子はみなそうして泣いて産まれてくるのだろう。

 だがなぜか私はそこで、母の手に抱かれることなく、見知らぬ手が私の首に絡みついた。

 そこからさきの記憶が覚束ないのはなぜだろう。人間には、物体には、その存在に流れた時間の経過が、軌跡が、来歴が、刻まれているはずである。

 思いだせないだけで、刻まれているのである。

 忘れているだけならば私はをそれを思いだせるはずだのに、なぜか記憶が覚束ない。

 まるでそこだけかすめ取られたかのように、盗まれたように、記憶することを許されなかったような作為的なモヤを感じる。

 思いだそう、思いだそうとすると、そこで私は耳に残る豪雨のような泣き声を聞く。

 私のものではない。

 そのコは、そのコたちは、かつて私が殲滅した都会の島で暮らしていた童女たちで、彼女たちは観光客相手に春を売り、生計を立てていた。しあわせそうには見えなかったが、かといって不幸そうというほどでもなかった。

 彼女たちはよく笑い、よくしゃべり、そしてよく泣いた。

 私はそんな彼女たちを、或いは少年たちを、彼らへ肉欲という名の愛をそそぎこむおとなたちと十派一絡げにして殺した。

 皮膚を裂き、肉を削ぎ、骨を断って、臓物をぶちまけた。

 かつて失った帰る場所を求めるように、ほの暗く、かすかに赤い光を私は求めた。

 たった一つの島――サーニャやルメーシャさんの住む島を残し、私は周囲にある島でおなじことをおなじように行った。

 人を、殺した。

 嵐がやってきて、通り過ぎていった。

 時間にすればその程度だ。

 いっしゅんで済ますこともできたが、私は敢えて時間をかけ、一粒一粒、丹念につぶした。

 お遊戯だった。

 儀式だったのだ。

 あれは私にとって悪意のある行為ではなく、ねんどを転がしてゾウをつくるような、楽しい楽しいお遊戯だった。

 だが私を私として開放した【オレの衝動】は、日の出とともに上がったサーニャの叫び声を〝視た〟ことで、なぜか急速に収束した。

 私は私でいられない。

 なぜならアレがあるからだ。

 アレが私を縛りつける。

 生れ落ちたその日、私の首にからみついた手のように、私の首にはアレがある。

 私の首にからみついた手のように、小人の両手がかたどられている。

 私は私でいられない。

 しかし今――。

 ――私を縛るものはない。

 

「ラミ姉!」

 

 なぜか弟の声を聞いた気がした。


 

       ***ノボル***

 霧星蛇イコンを翻弄し、死神ことカンザキ兄を物ともせず、死の気配さえ消し去るような静けさで、その女は現れた。

「ラミ姉……?」

 ノボルには彼女がじぶんのじつの姉にしか見えなかった。というよりも姉以外の何ものでもない。

「え、なにやってんだよ」

 こちらがまだ幼いころに旅に出たというのは知っている。なんとなしに、旅立ちの日、姉がいなくなると知り、いやだいやだ、と駄々を捏ねた憶えもある。

 彼女がすでに帰ってきていたことも、アタッシュケースを持ち去ったことも、そのことで霧星蛇一味に追われていることも、ノボルは知っている。

 だがなぜ彼女がこうして異能者たちを相手取り、手玉にとるように圧倒しているのかはどれだけ考えても解らない。

 記憶にある姉は、いじわるでやさしく、しかしどこにでもいる人間だ。

 なぜこうも変わってしまったのだろう。

 いったいなにがあったのだろう。

 なぜ旅に出たのかをノボルは知らないままでいる。両親に訊いてもいつもはぐらかされ、それらしい理由を教えてもらえはしたが、日によって彼らの説明はマチマチだった。

 姉もまた、植木場家の人々のように異能を身につけていたのだろうか。だから家を離れ、旅に身を置いたのだろうか。

 父や母は知っていたのだろうか。

 姉の異様な姿を目の当たりにして思ったのは、そうした両親へのいら立ちめいた不信感だ。

 おれたちは家族だろ。隠し事なんてそんな真似するなよな。

 解っている。

 父や母は、こちらに心配をかけたくなくて敢えて黙っていた。姉にしてみたところで、家族に迷惑をかけたくなくて旅にでたのかもしれない。

 しかし、とやはりというべきか思わざるを得ない。

 なぜ教えてくれなかったのか、と。

 知ればたしかに不安になるし、心配する。ひょっとするとこちらのまだ知らない事情があるのかもしれないが、そんなことは問題ではない。

 家族だから黙っていたというのなら、こちらだって言いかえそう。

 家族なのだから教えてくれと。

「説明しろよ、ラミ姉! なにがあったんだよ!」

 死神に正真正銘の化物とまで言わしめる姉へ向け、ノボルは怒りとも哀しみとも、ややもすればうれしさのまじった想いで、

「なんでこんなことになってんだよ」

 と叫んでいる。

 カンザキの制止を振りきり、駆けだしている。

「黙ってないでなんとか言えよラミ姉!」

 あのときもそうだった。

 姉がいなくなると知り、旅立とうとする姉へ向けノボルはポカポカと殴りつけながら、「いっちゃやだ、ラミ姉いっちゃやだ」と駄々を捏ねた。

 姉はこちらの頭を撫で、微笑むだけで答えなかったが、あのときにあった微笑は今はなく、目のまえの青白い炎を悠然と押しのけてくる姉は、そこに存在していながらに存在しないかのような希薄さを振りまき、触れるものみな消し去るような儚さを引き連れ、一歩、二歩、と近づいてくる。

 ノボルは駆ける。

 姉のもとへ。

 かつては届かなかった彼女の頬に、げんこつを叩きつけるために。

「寝ぼけてんじゃねぇよ、ラミ姉!」

 ふと、姉は顔をあげた。

 表情の乏しい、のっぺらぼうを思わせる顔に、全身が総毛立つ。

 が、身体は止まらない。

 いままさに拳の先端が姉の肌に触れようとした間際――ノボルの拳はまばゆい光を放ち――発した光を即座に巻き取るように収斂し――そして。

 手のひらのなか――握りしめた姉の忘れ物――ペンダントが――何千、何万、何億といった虫の蠢きを思わせる躍動を帯び――凍えるような熱を籠らせた。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――。

 いっさいが、闇。

 


      ※※※私※※※

 弟の声が聞こえた気がしたその矢先、私をつつみこんでいた炎が掻き消え、柔らかな光につつまれる。

 私を縛っていた存在の消失を感じ、私は私として、完全に世界と乖離する。

 私は何物とも触れず、接せず、干渉しない。

 が、

 私は私として独立し、私は私として存在し、ゆえに一方的に触れ、接し、干渉することができる。

 いっさいが、闇。

 しかし、それは闇ではなく、あるのはただ、空間と軌跡――きっかけの連鎖だけである。

 絵を描きつづければまっしろな紙は、いずれ真っ黒に塗り潰されよう。

 私の存在するここもそれと同じこと。

 ここにはすべてが存在し、ゆえに隙間なく、光もなく、私はここに存在する。

 一歩でも足を踏みだせば、絵を構成する線のひとつに引っ掛かり、強引に歩を進めれば、たちどころにブツリと音を立てて引きちぎれる。

 辺り一面、蜘蛛の巣が張っているようなものだ。

 私が動くたびに、蜘蛛の巣はハチャメチャに引きちぎれる。

 いったいどれだけ動きまわれば、この世界を塗りつぶす線を一掃し、ふたたびの光に出会えるだろう。

 なにも描かれていないまっさらなキャンバスを懐かしく思い、同時にそれを見たことのないじぶんに失望する。

 見てみたい。

 私の存在は、そのためにあるのではないかと思われた。

 まずは周囲に溢れる、私にしがみ付くようにしているこの邪魔な糸を断ち切ろう。

 触れると、たくさんの情景が私になだれ込み、家族というものを思いだす。

 が、それはもはや私の記憶ではなく、周囲に溢れる無数の線の一欠けら、ホコリカスを構成する原子を構成する陽子と、電子と中性子と――なんでもないような存在であり、ゆえに断ち切ることになんら逡巡を挟む余地もない。

 私はそれに触れたまま、ホコリを払うようにゆびを振る。

 が、動かない。

 ゆびだけではなく、うでもあしも、まばたきさえできないことに気づき、私は慄然とする。

 いっさいが、闇。

 私は私として独立し、私は私として存在し、ゆえに一方的に触れ、接し、干渉することができる――はずだったが、なぜか私はちいさな手に挟まれるように、無数の糸にからめとられるように、がんじがらめにされている。

 私は世界と乖離したが、ここは世界のそとではなく、内側も内側――ペンダントを構成する核を形成する――陽子と電子と中性子と――なんでもないような玉のなかだと私は知った。

 ちいさな世界に封じられ、私は私として独立し、

 私はただ、

 ここにいる。

 いっさいが、闇。


 

      ***ノボル***

 姉の顔面を殴り飛ばしたはずが、なぜか目のまえから姉の姿が消えていた。

 辺りを覆っていた暗がりが晴れ、真上から月光がそそぐ。

 周囲に影が乱立している。

 動かないので一瞬、地蔵か何かかとも思ったが、そんな場所に地蔵はなかったはずだ。

 大勢に取り囲まれていると判る。

 背後には霧星蛇イコンの姿があり、死神の姿があり、そしてカンザキの姿もある。彼らはみな意識を失っているようで、朝露に濡れた地面に倒れている。

「よもや彼女が戻ってこようとは」

 影の一つがこちらに歩み寄り、月光のしたに姿をさらした。「チイから伝え聞き、いそぎ戻ったが、手遅れにならずに済んでよかった」

 植木場家当主、植木場イケヨシがそこにいた。

 少年めいた外見だが、チイの祖父にあたる。しばらく家を留守にしているといった旨をチイが言っていた気がするが、どうだっただろう。

 いずれにせよ、彼は町の危機を聞きつけ、もんどりうって帰ってきた様子だ。

 姉の姿を探すが、それらしい影が周囲にはない。

「あの、ラミ姉はどこですか」

 尋ねると、植木場イケヨシは少々驚いた様子で、ほぉ、と唸った。

「この状態でまだ姉の存在を憶えているとは、さすがは道央坂家の嫡男といったところか」

「どういう意味ですか」

「彼女はしばらくウチで預かる。きみも見ただろう、彼女はすでに人間の理を外れ、ただそこに存在するだけで世界そのものを大きく揺るがせる異形の者と化した」

「バケモノみたいに言わないでください」

「きみの彼女へのつよい想いは、こうしてきみが彼女を忘れることなく、案じていることでよく分かる。が、この世には想いだけではどうにもならないことが多くある。そして大概それは、看過するには大きすぎる奇禍を孕んでいる」

「姉をどうするつもりですか」

「わるいようにはしない。きみにとってもわるい話ではないはずだ。これまで旅に身を置いていた姉が一時帰郷し、ふたたび旅に出たと思えばいい。なにが変わるわけでもない」

「おれはそれだって納得したことはないんですよ」

「きみは自分にとって不都合なことをすべて自分の納得するような結末にできるとでも思っているのかね。仮にそうしたちからがきみに備わっていたとして、そのちからを行使することを潔しとするのかね。いいかね。人は誰しも、自分の都合のいい世界を求め、それをしあわせのカタチだと思い込むことで、物足りない世界に不満を抱きながら、それでも変わることを信じて生きていく。しかし、そんなものは求めるだけで済ますべき、実行に移すべきではない、怠惰な狂想だ。理想ですらない。他者を人間扱いせず、自分の思い通りに支配したいというだけの独裁者となんら変わらぬ嗜虐的な衝動だ。どれだけやさしい世界を望んだところで同じだよ。やさしさを苦痛と感じる人間がいないとでもきみは思っているのかな」

「そんな話、今は聞きたくありません」

「重要なことなのだがね。しかし、たしかに現状、優先すべきは状況の改善だ。我らはきみを含め、この町を――ここに住まう人々を守らねばならん。そのために今できることは、そこに伏している者たちを処分し、きみを含め、この町を――ここに住まう人々に日常を継続してもらうことにある」

「処分? 殺すってことですか」

「そういう言い方がいいならそう言い表してもいい。彼女らはこの町にとっての脅威を働こうとした。看過できん奇禍を振りまこうとした」

「ですが、まだ何もしてないじゃないですか」

「その発想自体がすでに害だ」

「この国には思想の自由が――」

「勘違いしてはいけない。我々は法に忠誠を誓っているのでもなければ、国に命を捧げているわけでもない。きみがそれを知らないはずもないだろう。今こうしてきみがこの町に生まれ、平穏に暮らしていられるのも、すべては我々がこの手で流した無数の血のおかげだということを忘れてもらっては困る」

「ですが、僕はそんなこと望んでいません」

「ならば町から出ていけばいい。そしてこの町にとっての害となり舞い戻ればいい。さすれば我々はおまえを害として見做し、処分できる」

 おまえの言い方なら、殺す、だがね。

 植木場イケヨシは、そう言った。

 

 徹底した正義の執行はときに狂気だ。彼らは極端に走りすぎている。

 端的に、やりすぎだ。

 しかし、じぶんの命を賭してまでカンザキたちを護る義理はないように思う。いや、すくなくともいまはまだこちらは町の住人だ。植木場家の人々もこちらに対しては敵がいできないはずだ。

「わかりました。ですがせめて最期に別れの言葉を交わさせてください」

「よかろう」

 カンザキのもとに歩み寄る。肩に触れ、ゆさぶるとカンザキは寝たふりをしていたようで、「まじパイナポォっすよ」と泣き顔をつくった。

「時間を稼ぐので、なんとか逃げてください」

「ノボルさんがすか? オレのために!?」

「声が大きいですよ」

「兄貴たちはどうしましょう。オレ、二人も運べないっすよ」

「ケモノたちは?」

「いやぁ、あの人らにかかったら瞬殺でしょう」

 もっともだと思う。思案すると、小声で、俺たちのことは構うな、とカンザキ兄が言った。彼もまた寝たふりをしていたようだ。霧星蛇イコンは真実、気絶しているらしく、カンザキ兄は彼女を、カンザキは単独での離脱を試みることに。

「でもノボルさん、どうやって時間稼ぎを?」

「成功するのを祈っていてください」

 言い残し、ノボルは立ち上がる。植木場イケヨシに向け、「チイさんはいますか」と投げかける。

「いるが、なに用かね」

「チイさんと話をしたいのですが」

「構わんが、助けを求めても無駄だよ。チイもまた我らの一員。どうあってもそこの者たちを見逃すわけにはいかん」

「それは解っています」

「なに、ノボル」

 チイが姿を現すが、植木場イケヨシに肩を掴まれ、歩みを止める。こちらとの距離はざっと二十メートルほどだ。

「そこからでも言葉は交わせよう」

「いえ、もうすこし近寄ってもらわないと」

「ならばきみが来なさい」

「そんなに警戒しなくとも」笑いながら歩み寄る。「どうがんばったっておれじゃチイを人質になんてできないですよ」

「ねぇ、なんなの」眉根を寄せたチイのまえに立ち、ノボルはおもむろに彼女へ手を伸ばし、そのまま後頭部へ回すようにする。身体を硬直させたチイはしかし振りほどこうとせず、面食らったように目をみひらいた。ノボルは彼女の顔を引き寄せるようにし、そして植木場家の面々のまえで口づけをした。

 時間が止まったかのような静寂が辺りを包みこむ。

 時点で、草木がざわめくように、ざわざわと喧騒があがりはじめる。

「な、な、な、な……っ!」

 顔を離すとチイが唇を波打たせ、目をうるうるさせている。そのうしろで少年めいた外見の植木場イケヨシが、呆気にとられている。

 均衡は崩れた。

 ダメ押しとばかりにもういちど、まったくの無防備につっ立っているチイにふたたびの口づけをした。上唇をはむようにし、弛緩したチイの口に舌をねじこみ、上あごの側面をなぞるようにした。へなへなと崩れ落ちるチイの身体を支えるようにし、さらに彼女の舌を吸いあげる。

 どれほどの時間そうしていただろう。

 口を離さずに、身体を傾け、背後の様子をうかがう。カンザキたちの姿が消えていることを確認してから、ようやくチイを解放する。

 放心しきった彼女を同じく呆気にとられている植木場イケヨシに預けるようにし、

「このことへのお咎めや弁明は、後日、日を改めて」

 いまさらのように顔が熱くなっていくじぶんの姿を客観的に想像しながら、逃げるようにその場をあとにする。

 あらあら。

 乱立する人影を縫うように抜けると、聞き覚えのある嬌声が届き、そのうれしそうな声音に、さらなる恥辱がノボルを襲う。

 相手の親のまえで初めてのキスをするなんて、いったいどんな拷問だろう。

 遅ればせながら、なぜおれがこんな業を背負わなければならんのだ、と理不尽な怒りがカンザキへ向く。

 家に辿り着くころには、じぶんのしでかした事の重大さを認識し、ひざがガクガクと震えだしている。 

 



  

      ・真夏の回帰・


      ・エピローグ・

      『 ――道を外れることなかれ。

        ――できぬことを恨むことなかれ。 』

 

 翌朝目覚めると、妹がかってに本棚を漁っていた。

「ラウちゃんちょっとなにしてるのよ」

「ん? なんか暇だなって」

「暇になるとラウちゃんはお兄さまの本棚をかってに漁るわけですか」

「マンガ読みたいだけだから」

「ちょっと待って、ちょっと待って」

「なに慌ててんの。今さらお兄ちゃんの性癖をとやかく言ったりしないから安心しなよ」

「ぎゃー!」

「妹萌えとかだったらそりゃいやだけど、まあ、そうじゃないみたいだし」

「やめてー!」

「チイさんも大変だよね。こんなヘンタイに狙われて」

「言わないで、もういいから、なんでも好きなの持ってっていいから」

「巨乳好きに幼馴染み萌えかぁ。はぁ男ってこれだから」

「ラウちゃん、やさしいお兄さまがお小遣いをあげよう」

「買収しなくてもチイさんには言わないよ。ていうか言えるわけないし」

「お兄ちゃんは今、ラウちゃんが妹でほんとうによかったと思ってる」

「キモい。こっちくんな」

 兄の起きた部屋にはいたくないのか、ラウは両手に山盛りマンガ本を抱え、部屋を出ていこうとする。

 器用に足でドアを開けたところで、

「あのさラウちゃん」

 呼び止める。

「なに?」

「ラミ姉のことなんだけどさ」

「え、なに?」

「ラウちゃんはあんまし憶えてないだろうけど、でも写真では見たことあるだろ? ひょっとしたら昨日、会ったりとかしたんじゃないのかなと思って」

「ラミネェ? ねぇ、なに。もうちょっと解るようにしゃべってくれない? ラムネか何かなわけ?」

「ん?」

「ああもう。ねえ、もうすこし寝てたら? そしてそのまま死んだら?」

 吐き捨てるように言い、ラウは部屋を出ていった。

 悪態に傷つきながらもノボルは嫌な予感を覚える。両親はきょうも出かけているらしく、家にいない。両親の寝室に入り、そこで本棚を引っ掻き回し、アルバムを引っ張りだす。

「なんで?」

 家族写真をかたっぱしから見ていく。どういうわけか姉の姿が一枚もない。いや、これまで姉が映っていた写真であっても、まるで網ですくって取り払われたかのように姉の姿が消えている。

 金魚すくいもとより神隠しにでもあったかのような奇妙な消失の仕方をしている。

 念のため、居間で寝っ転がりながらマンガ本を読み漁っている妹にもういちど訊いてみるも、さきほどと同様に、意味わかんないこと言わないで、と邪見に扱われ、それでも食い下がって姉の存在を問いただすと、

「うちにはアホな兄しかないでしょうに」

 やめてよね、そういうヘンなこと言うの。

 まるで記憶を失くしているかのような不自然な言動が返ってくる。

 ひょっとしてと思い、ちいさいころ姉と共にこちらをかわいがってくれた近所のじぃさまのところに話を聞きにいくも、そこでも姉の存在はなかったものとして扱われた。

 そんなはずはない。

 区役所に戸籍標本を取りにいき、そこでようやく事の重大さを確信する。

 道央坂家には、道央坂ウラミなどという長女はいないことになっていた。

 頭がおかしくなったのかと思った。

 じぶんだけが憶えている。

 姉の実在を主張し、確信しているが、しかしふつうに考えれば頭がおかしいのはじぶんだ。

 妄想を現実のものとして見做している。客観的に視ればそういうふうに判断される。

 しかし、そんなはずはない。

 植木場家に確認しに行きたかったが、しょうじき顔をあわせるだけの勇気が湧かない。

 家に戻り、ベッドに横になる。

 よくよく考えてみると、べつに何がどうなるわけでもないという気になってくる。

 旅に出ていた姉がこちらのまえからふたたびいなくなったからといって、これまでの日常に変化が起こるわけでもない。同様に、姉という存在がこちらの幻想だったからといって、何が変わるわけでもないのだ。

 だが、ノボルにとって道央坂ウラミは、紛うことなきじつの姉として記憶されている。

 一生会えないという意味で、二度と戻らない旅人との別れは、ある意味死別と同じ哀しみが伴う。しかし、会えなくともどこかで生きているならば、それはやはり別だろう。

 もし姉が存在しないものとして、死人のような扱いをしなければならないとすれば、こちらの受ける傷心は、ちょっとやそっとでは塞がらないものとして胸に刻まれる。どこかで生きていると思えばこそ、人はまえ向きに生きていける。別れを好意的に受け入れられる。

 ああだこうだと考えていてもラチが明かない。

 こういうときは寝るにかぎる。

 不貞寝の体勢になったとき、ふと思いだす。

 ――ペンダント。

 昨晩、家に帰ってきてから着替えようとして気づいた。姉を殴りつけたとき、それを握ったままにし、チイに口づけをしたときもずっとそのままだった。しかし、あの体験そのものがこちらの幻想である可能性は否めない。

 机に仕舞ってから寝床に就いたはずだが、果たしてあれも幻だったのだろうか。

 机を開けてみると、ペンダントはむかしからそこにあったかのような自然な様で、ぽつんと収まっていた。

 手に取る。

 すこし考えてから首に巻いた。

「まぁ、いっか」

 じぶんさえ憶えていればそれでいい気がした。存在しようがしまいが、姉は姉だ。記憶のなかにちゃんといる。

 翌朝、ハトが手紙を咥え飛んできた。読むとカンザキからで、警戒が厳しくて町から出られない、しばらく森の奥にある洞窟に身を潜めているといった旨が記されていた。てっとり早くしねばいいのに。

 元々植木場家の命によって動いていたカンザキ兄は、しかし植木場家の人間を一人その手にかけてしまったらしく、同じく追われる身にあるという。霧星蛇イコンと一時的に共同戦線を張って、仲良く逃走中とのことだ。

 後日、偶然街角でチイと会った。彼女はあのときのことをなかったものとして、まったく変わらずこちらに接した。胸を撫で下ろしがてら、あっけなくなかったものとして扱われたファーストキスのことを思うと、やりきれない思いが募る。或いは、やはり先日のできごとはこちらの見た夢だったのだろうか。しかしカンザキから手紙が届いたことを思えば、夢だったの一言で片づけるにはいささかややこしい。

 チイは姉のことを憶えているのだろうか。

 尋ねてみようかと歩きながら繋ぎ穂を考えていると、

「さいきん、うちに新入りが入ってね」

 チイが言った。

 挨拶がてら遊びにこいと腕を引っ張られ、いちどは抗ってみたものの、家のひとが留守だというので、断る理由もとくになくなり、ならば、と植木場家の屋敷まで歩を運ぶと、そこで一人の女性が出迎えた。白護(しろご)ナミという名らしく、チイの言っていた新入りとは彼女のことであるらしい。彼女は口数が極端にすくなく、まるでだいじなパーツを失くしたロボットを思わせるさびしさを前面に押し出しており、マフラーのようなスカーフを頭から被り、首に巻きつけているので、しゃべる言葉がことごとくくぐもって聞こえた。

「ちょっとこわいひとだね」

「そう?」

 チイはことさら拙い言い方で、「しばらくあのひとが門番してるから。いつでも来ていいよ」と、よくわからないことを言った。

 家に誰もいないと言っていた割に、自称解析屋でありチイの次兄にあたる植木場サミがいた。廊下ですれ違いざまに、「おもしろいものを手に入れてね」と見憶えのあるアタッシュケースを手にしていた。

「どうしたんですか、それ」

「チイがくれたんだよ」

「どうする気ですか、それ」

「それを聞くのかい、ボクに?」植木場サミは笑い、「もちろんバラすに決まっているじゃないか」と嬉々としてお手製のハサミをくるくる回しながら、廊下の奥に消えていった。

 チイの部屋に入ってから、

「どこで手に入れたのさ」と水を向ける。

「なんのこと」

「カバンだよ」

「どこだっけ」

 忘れたわ、とチイは肩をすくめた。

 思い切って姉のことを尋ねてみたが、チイは首を傾げ、そんなひとのことは知らないわ、と言った。

 屋敷をあとにするとき、白護ナミが見送りにでてくれた。門をくぐり、振り返るとすでに門は閉じられており、追いだされたような淋しさが湧く。別れの挨拶もないなんて。

「そそっかしいひとだなぁ」

 胸から垂らしたペンダントを握りしめ、ふっと息を吐く。

 今はまだ、おれが持っていてもいいのかな。

 返すあてはないけれど、何が夢で、何が現かがはっきりするまでは。

 白昼夢を見た証拠として、手放さずにいよう。

 ノボルは自宅までの道のりを、釈然としない思いに踏ん切りをつけるかのように、一歩、二歩、と遡っていく。

 



【ミナゴ◇シンドローム】おわり。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る