【完結】キスの練習相手は幼馴染で好きな人【連載版】

猫都299

1 ファーストキス


 肩下まである艶やかな黒髪を、いつも見ているだけだった。


 指に、そっと掬う。

 滑らかな白い頬に……口付ける。


 一旦、顔を離して相手の反応を確認する。目線を下に彷徨わせて僅かに頬が赤い。動揺している様子の幼馴染が、たまらなく可愛い。


 普段の彼女は、オレに対して横暴だ。負けず嫌いなのか張り合ってくる事も多い。一緒にゲームしていても。彼女が勝つまでやらされるのだって、いつもの事だし。正直言って、暑苦しいと思う時もある。でも良い意味で捉えれば、オレに心を開いてくれているものだと……少なからず期待していた。


 友達も殆どいない、十七になるこの年齢まで浮いたエピソードも全くなかったオレだけど。唯一、近しい幼馴染の女の子――今、目の前にいる一井(いちい)柚佳(ゆずか)に。……ずっと恋情を抱いている。


 もしかしたら相手も同じ気持ちを持っているのかもしれないと、思った時もあった。

 その頃のオレを、殴ってやりたい。



 彼女には、好きな人がいたのだ。もちろん……オレではなかった。



 考えていると。己の内側からふつふつと何か、黒いものが湧き出るような……しかしその感情を必死に抑えようとしている自分に泣けてくるような遣る瀬無さがあって。強く奥歯を噛み締めてしまう。



「海里(かいり)」


 名を呼ばれて視線を戻す。

 柚佳は決意を固めたような面持ちで、まっすぐに瞳を合わせてきた。


「口にして」


 彼女から求められる事態に、オレが抗える筈もない。

 それまでぐちゃぐちゃと考えていた思考を放り捨てて、相手の後頭部に左手を回す。


 ずっと触れたかった細い華奢な指が、今は縋るようにオレのシャツを掴んでいる。もうそれだけで他の事はどうでもよくなった。


 ただ……この夢のようなまやかしの時間が唐突に覚めてしまわないように、僅かに残った理性だけは持ち続けた。



 恋人でもなく、ましてや彼女はオレの事が好きな訳でもない。何でこんな事になっているのかというと、少し時を遡って説明しなくてはならない。








「海里の好きな子って美南(みなみ)ちゃんでしょ?」


 不意に尋ねられ顔を上げる。柚佳は細めた目で険のある視線を送ってきた。



 築三十年のアパートの一室。2DKの我が家の居間で、オレたちはテレビゲームに興じていた。この間買ったレースゲーム。今日初めてこのゲームで遊んだ柚佳に、うっかりミスで負けてしまった。


「はっはは! オレこのゲームするのもう三日目なのに。柚佳に負けるなんて」


 ツボにはまって腹を抱えて笑った。下を向いて出た涙を指で擦っている時、あの衝撃の質問が来た。



「え……」


 今、柚佳は何て言った? オレの好きな子? 美南ちゃん?


 美南ちゃんって言ったら……。


 オレはクラスメイトの花山(はなやま)美南を思い起こす。細くて小顔でとても可愛らしい、クラスでも一際華のある子だと思う。オレの数少ない友人、和馬(かずま)も見惚れていたなぁ。


 でも何でオレの好きな子が花山美南? 心外だ。オレが好きなのは――……。


 言いかけた口を閉じた。




 あっぶねぇぇぇ! 危うく告るとこだった。




 勝算もなく勝負を挑んで、けちょんけちょんにされて惨めに泣くのは真っ平だ。オレは自分に自信がない。心の内を晒して相手にもし受け入れてもらえなかったら、幼馴染みという関係も失ってしまう事だってあり得る。


 オレの思考中も柚佳はじいっとこちらを見ている。何か責められているようで居心地が悪い。


「う、うるせー、誰だっていいだろ。……柚佳の好きな奴は、篤(あつし)だろ?」


 何とか誤魔化す言葉を吐き出して、ついでに気になっていた事を聞いた。


 学年で一番と言っていい程に目立つ存在、桜場(さくらば)篤。和馬が言っていた。「この学年に、あいつの事を好きじゃない女子はいないだろうな」と。

 文武両道、おまけに爽やかイケメン。性格もいい。噂では奴の彼女は期間限定なのだとか。一ヶ月だったかな……いや一週間だったか? 「時々、順番待ちの女子らで争いが起こっているらしい」と、和馬が震えていた。


 オレの問いに柚佳はひと時、目を見開いた後……右下を向き頬を赤らめた。


「クッ、さあね。教えてくれないと教えない! まあ、もうすぐ告白する予定だし?」


 頭上から雷が落ちたような衝撃があった。まさかそんな。柚佳も篤の事を……?


 普段は強気でオレには我儘を押し通す神経を持つ幼馴染の、女の子っぽい一面。ショックだった。口では誤魔化しているけど、オレに対するものとは明らかに違う態度で分かってしまう。しかも、もうすぐ告白?


「お前、自分が篤に釣り合うと思ってんの? お前より可愛い子が奴の周りには、わんさかいるだろうよ。キスもした事のない色気のない女、相手にされる訳ないだろ? 篤は学年一のモテ男だぞ」


 オレは一体、何を言っているのか。とんだ言い掛かりである。篤とは、そんなに喋った事もない。けれど今日、オレの敵だと認識した。奴が憎くて仕方ない。


 柚佳が目を丸くして、こっちを見てくる。

 しまった、失言した――。そう思った時。


「海里はした事あるの?」


「え?」


 尋ねられて、何の事か分からず聞き返した。


「キス」


 視線を外さないままの彼女の口が、はっきりとそう言った。



「あるよ?」


 後に引けなくなったオレは嘘をついてしまう。彼女の恋路に散々ケチを付けておいて、自分は経験ありませんなんて言える筈がない。


 柚佳が口をへの字にして俯いた。きっと幼馴染の方が自分よりも恋愛経験があると思って、悔しい気持ちなのかもしれない。罪悪感が湧いてくる。


 オレ、何やってんの? 好きな子にこんな顔させて。何て声をかけたらいい? ごめんって素直に謝るか? そして励まして応援すればいい。オレも彼女の味方として篤の攻略を手助けしよう。認めたくないけど柚佳は篤の事が好きなんだ。大切な幼馴染の幸せを見守るのも……何十年か経った後には、これでよかったと思える日が来るかもしれない。


 自分を無理やり納得させる方向へ導き、前向きな言葉を選んだ。


「ごめん。言い過ぎた。オレも手伝うからさ。柚佳と篤が付き合えるように」


 血を吐くような心持ちで伝えた。眼前の瞳が潤んでいる。眉間に皺を寄せる彼女の様子に、涙を堪えているのかもしれないと苦い思いが過る。やめてくれ。そんな悲愴な顔で見つめないでくれ。


「キスかぁ」


 柚佳の呟きに自信のなさのようなものを感じ取る。オレと一緒だ。きっと不安なんだ。告白する程の自信が持てなくて。


 良心が咎める。


 焦ったオレの口から今日最大の失言が飛び出た。



「キス、練習すりゃいいだろ? 篤をイチコロにするやつ」


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