第14話

 私が物心がついたとき、両親はケンカばかりしていた。

 それは、傍目から見たらケンカと呼べるレベルではない代物で。父親から発せられる、母親への一方的な暴力そのもので。


 幼い私から見たら、その光景は地獄そのものだった。

 恐怖でしかない時間を、私は泣いて過ごしていた。その記憶は、不思議なことに私の目線で見たものではなく、第三者の、まるでカメラから見たような。そう、ドラマを見ている感覚に近かった。


 大人になってネットの海で知ったけど、それは解離というらしい。

辛い経験があったときに、自己防衛のためにそういう状態になるらしく、ひどいときには解離性同一障害という、通称多重人格になるらしい。


 でも、私はそこまでなることはなく、記憶はカメラ目線で記録されることばかりだったけれど、それを不便を感じたこともないし、特別異常なことだとも思わなかった。


 解離が私を苦しめることはなかったのだ。

 だけど解離になった原因は、以降も私を苦しめ続けた。


 私は自分を好きになれず、かと言って、大嫌いでもなく、ただなんとなく、罪を背負っているような気がいつもしていた。


 男性を好きになることはあっても、信頼出来ず、良い雰囲気になると自分から逃げてしまっていた。心の奥で、女は力では男に敵わないのだと知っていた。もしも、この人が怒り狂って私を襲ったら、私は逃れられず、そのまま殴られるに身を任せるしかない。その現実を、私は知っていた。


 だから、男は信用出来ない。


 何故、私が罪を背負っているような気がしていたのか、その理由が解ったのは十五歳の夏だった。


 父ととっくに離婚していた母は、妹と私を養うために会社員として働いていたのだが、休日に出かけた際にトラブルに遭った。


 体の弱い妹の定期健診で、病院の駐車場に車を停めたときのこと。

 駐車スペースに入れようと、バックしながらハンドルを切っていた母の車に、横から別の車が衝突したのだ。


 助手席に乗っていた妹は左側から突然やってきた車に驚いた声を上げた。私はそのとき、後部座席でイヤホンをしながら外を見ていた。


 衝撃は対したほどではなかった。車の傷も、左側のライトが傷ついた程度。でも、相手の車を運転していた男性は、自分は悪くないと主張した。


 そして母と口論になり、男性は母に殴りかかった。

 そのときの光景は、スローモーションに見えた。


 私の脳裏にあったのは、今度こそ母を助けなきゃ。ただ、そのことだけだった。


 だけど、動けなかった。

 怖くて。


 止めるチャンスはいくらでもあったはずなのに。私は怖くて動けなかった。止めに入った警備員が男を抑えて、母は殴られずに済んだ。


 私は卑怯者だ。


 今度こそ、母を助けられると思ったのに。動きだって、スローに見えていたのに。どうして、動けなかったんだろう。


 やめての一言すら、言えなかった。

 涙が溢れてきたけど、誰にも見られたくなくて、私はその場を逃げ出した。病院のトイレで泣きじゃくって、それで解った。


 私は、幼いあの頃、ずっと母を助けたかったんだって。

 でも出来ない自分が情けなくて、それで解離した。そして、自分だけを守った自分を好きになれずに、いつも罪悪を背負ってるような気分でいたんだ。


 そんなことに気づいたって。

 今更、そんなことが解ったって、何になるっていうんだろう。


 そう、何にもならなかった。ただ、事実として解っただけで、私の人生になんら変化は与えてくれなかった。


 私はずっと、死ぬ間際まで後悔してたし、死ぬ瞬間までずっと、自分を許せなかった。


 そんな性質の私は、当然の如く悩みを人に話さない子だった。子供の頃からそうだったし、大人になってからもそうだった。


 自分の中で悩みが昇華してから、初めて友達や誰かに言えた。

 だから当然、仕事で問題が起こったときも言えずにいた。

 そんな性格になったのは、性質の他にもう一つ要因がある。


 妹だ。

 妹はさっき言った通り、病弱で、しょっちゅう体を壊してた。その度に、どこが痛い、気持ちが悪いと母や私に訴えた。


 服が定まらないと、どっちが良いか。

 食べ物は、これが良いだろうか。


 全てにおいて、どうしようと言うのが彼女の口癖で、私は正直そんな妹が大嫌いだった。私は一人で耐えてるのに、なんでもかんでも人に相談出来てしまう。そしてそれを悪びれない。そんな間逆の妹が羨ましくて、憎らしかった。


 私だって、これで良いのだろうかと不安になる選択肢はいくつもあった。必要以上に選択肢を広げすぎてしまう癖もあったし、誰かに相談してきっぱりと答えを貰えたら……。


 だけど、私までそうしてしまったら、母は嫌がるんじゃないだろうか。鬱陶しいと思うんじゃないだろうか。私が妹に思ったみたいに、友達や同僚もうざったいと思うかも知れない。


 そんな些細なことを気にして、気持ちを押さえ込む癖があったのは事実だし、それがいけないこともなんとなく分かってはいた。

 理解してはいたけど、出来なかった。


〝助けて〟


 その一言を、私が言って良いのだろうか。言って、迷惑にならないだろうか。負担にならないだろうか。そんなことばかりが頭をちらついて、二十三年間ずっと、みんなに遠慮して生きてきた。


 だから、体の調子が崩れたときは直感した。原因は、クレーマーのせいじゃない。クレーマーはただの、引きがねだ。


 きっと、そこで助けを求めていられたら良かったんだろうと思う。でも、私はそれが出来なかった。ずるずると体は重くなり、食べられないのに眠くて。どんどん体重は減って、起き上がるとめまいがして。それでも、心療内科に連れて行ってくれとは言えなかった。自覚はとっくにあったのに。


 私は病んでいた。

 もう、疲れ果てていた。一人で頑張ることに、疲れてた。


 後から考えれば、それでも外へと連れ出して、元気になって欲しいと願ってくれる友人がいたのに。家族に言えないのなら、彼女に言えば良かったのに。


 でも出来なかった。自分にその許可を出してあげられなかった。

 だから、目の前にナイフが現れたときに。

 チャンスだと思った。

 楽になれると思った。

 この人が、私を解放してくれる人だ。

 天が使わした。救世主なんだ。

 私が自分で死ねないから、だから彼が目の前にいる。

 あとは、そこへ飛び込めばいい。

 そうやって、私は自分から刺されたのに。


 いざ刺されてみると、パニックになった。息が苦しくて、血が出て、最初は痛みなんかなかったのに。血を見た瞬間、痛くてたまらなくなって。


 流れ出る血と同じ分だけ熱くて。傷口から火が出てるんじゃないかと思うくらい。びっくりして。イヤだって思った。


 クレーマーは震えてた。足元を這いずる私を見て、心底、怖いものを見る目をしてた。そこに、声が聞こえてきて。


 男の声だった。少し高い感じの声で、不審そうに、「おい。誰かいるのか?」って。びっくりしたのはクレーマーで。目の前で跳びはねたのがなんとなく滑稽で。


 クレーマーは男が近づいてくる前に物影に身を潜めた。私の目はもう、そのときにはぼんやりしてしまっていて、景色は黒く滲み始めていた。だから、私に近づいてきた男が、どんな人なのかは覚えてない。


 だけど、その声だけは鮮明に覚えてる。

 死にそうになって、自分でも驚くくらいすんなりと言えた。


「助けて」


 そう求めた声に、その人は、快活に答えてくれた。


「もちろんだ」



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