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  • 工藤さん、こんにちは。
    前回、コメントのご返信で言及されていたはなむけの和歌ですね。随風・雲・往方・虚空…ととても美しいです。その節はとても嬉しく頂戴いたしました。ありがとうございました。過分なお褒めのお言葉を頂きました私の返歌ですが、『古今集』の壬生忠岑の本歌取りをさせて頂きました。
    風吹けば 峰にわかるる 白雲の 
    絶えてつれなき 君が心か
    このままでは悲恋の歌ですね。ご明察通り、私の頭にはあの崇徳院の有名な
    瀬を早み 岩にせかるる 滝川の
    われても末に 逢はむとぞ思ふ
    がございまして、加えて工藤さんがご執筆中であった「雲隠」にちなみ、『新古今集』にある紫式部の
    めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に
    雲がくれにし 夜半の月かな
    も取り入れたいと思いました。本歌取りは二句までが原則であったはず。
    風吹けば 峰にわかるる 天雲の
    たなびく末に めぐり逢ひたし
    と拙い歌を詠ませて頂きました。覚えていてくださり嬉しかったです。長々と失礼いたしました。

    作者からの返信

    葵樣

    何時もご高覧賜り、此度は先だっての御歌のことまで詳しくご教示下さいまして誠に有り難うございます。

    お料理を口に入れて舌が先ず以て受け取る「美味しい」と云う直感のあってその後に、複層的な組み立ての味の重奏について説明を受けたような、そんな気の致しております。拝読した直後の感動の大濤を更に追い掛けて寄せる繊細な今一つの感動を禁じ得ません。『源氏』や『紫式部集』にも、その歌が如何なる状況で詠まれたのか語られる所謂「歌語り」のあるようですけれども、葵さんのそれも確と堪能させて戴きました。

    峰にわかるる白雲の……そうか、壬生忠岑の本歌取りでしたか。仰るように忠岑の歌では「わかるる白雲」は峰に砕かれて往方も「絶えて」しまいますけれども、御歌は崇徳院の歌も念頭に上句の「天雲」が下句でも消えず往方に靉靆いて雲の流路となり、拙文を気に掛けて下さったところから「雲隠れにし」の式部の歌の「めぐり逢ひ」をも本歌取りする、実にお美事と云う外ありません。と同時に、改めて拝読し直して気付いたことのありまして、それは、私は御歌の素晴らしさに感服したには違いないのですけれども、靉靆きの先に再会を願って流れる雲の紐帯が、宛ら“縁”の続きを暗喩するように思われて純粋に嬉しかったのだとも思われます。現にこうして遣り取りを続けさせて戴いておりますこと大変嬉しく、又、愉しいです。願わくは今後も歌の遣り取りなど折々に、お心の赴かれますならばさせて戴きたく存じます。


  • 編集済

    こんにちは。
    「雲隠」の物語取りとは、眼福です。
    『源氏』の物語取りと云えば、『新古今集』で後鳥羽院の歌がありますね。『源氏』の中にも幾つもの本歌取りをした歌があり、歌に奥行きが出ますし、人物達の教養や洗練された感性によって物語が彩られ、好きな場面です。

    一首め、「(輝く)日のみや(宮)」という言葉が煌めいていますね。でも、隠れるのは紫の雲で。美しくて切なくて優しい世界。
    冷泉院の父母を想う返歌がまた切なく。彼は出自を知ってから苦労が多かったけれども、秋好中宮と穏やかで安定した夫婦生活を送れたところは幸せだったのではないでしょうか。
    源氏の返歌にある影と色の対句も素晴らしく、余情を感じました。

    最近、私も『万葉集』『古今集』『新古今集』を再読しております。いつか私も和歌を詠んで投稿してみようと密かに考えておりまして。
    素敵なひとときをありがとうございました。

    作者からの返信

    葵樣 

    お返事の今に遅うなりまして大変失礼致しました……そして此方もご高覧下さり有り難うございます。

    葵さんに切っ掛けを頂戴してより、「吹く風のあともたまらぬ」はずの私の心の空に「雲隠」は未だぽっかりと浮かんで容易に流れ去ろうとしないようです。思えらく補遺の小考を韜筆するまでは居座り続けることでしょうし、それも又、良いのでしょう。物語取の四首も執筆中の手すさびから生まれたもの、改めて『源氏』の世界の、語弊を懼れずに云えば“魔嬈”に搦め取られているような、倒錯した居心地の良さを感じてすらおります。

    仰るように本歌取にしても、前提となる知識(元ネタ)を共有していなければ機能しない文芸ではあることですから、愉しんで戴くには読み手側の応力も借りねばなりませんね。詠み手としては「巨人の肩の上に立つ」が如き緊張感と安心感とを併せ持つようです。

    葵さんは定めし歌詠みに向いていらっしゃるのではありますまいか。と云いますのも、別処にて暫しお別れの砌に私の方から詠み掛けた歌に、葵さんから頂戴した返しの御歌の何とも秀逸に思われたからです。あれには心撼かされました。崇徳院の「われてもすゑに」を髣髴とさせる御歌であり乍ら、本歌の「岩」「川の流れ」を「山の峰」「雲の流れ」に置き換えられるとは……仮に歌合でしたら屹度〳〵、判者は私の歌でなく葵さんの方をこそ優としたに違いありません。古語にて、現代語にて、ご随意にお詠みになってみては如何でしょうか?

    寒い日の続くようです。万冀保重。乙゛八叉。


  • 編集済

    題名に冠された「病葉」、また概要欄の命題の所以に尻込みしながら、御作の病葉を一葉ずつ手に触れるような心持で拝読しております。敢えて退けるべき病に罹患させることを「病葉」と表現なさる名題に得心いたしました。諸事情あり古典に触れぬまま育ち、和歌にも縁遠い浅学の身のため、野暮なことを申し上げるのではないかと憂惧しながらも、こちらの和歌に詠まれた情景、なにより言葉のなす手触りに強く惹かれました。漢字を離れ、仮名に還元された音の響き、そして漢字を交えることで浮かび上がる蛍舞う夜の河岸のはかなさに浸るような……通釈を添えてくださり、私のような素人も和歌の粋の一掬に預ることができるように思われます。また、無作法とは存じますが、拙作のご清覧にも感謝を申し上げます。稚拙な巻頭歌など、工藤様には無聊を招くばかりとも思いつつ、素人の蛮勇とお目を瞑ってくだされば……僅かでもお楽しみいただけたのなら幸いです。貴重なお時間を割いていただき、誠にありがとうございました。お星様まで賜りましたこと幸甚の至りです。
    この場を借りて心よりお礼申し上げます。

    2025.05.28 追記
    ご多忙の折、ご丁寧なご返信をいただき恐れ入ります。和歌の技法、またそれらの解釈には私見も持ち合わせませんが、無学であればこそ御歌を叙景歌として愉しむことができたのかもしれません。現代物の連作短編にまつわる御歌とのこと、工藤様の「〔稿本〕現代中短篇」を拝読しつつ、また「まじりけ」の冒頭からどのような小説が紡がれるものかと密かに期待を抱いておりました。御作と関係するものかは分かりませんが、大学の恩師を接点とした同窓生の物語にも心惹かれます。何より、主題とされる「音源」としての文章に引き込まれました。

    拙作に関しても、深い洞察のもとに綴られたお言葉に恐縮しきりです。『甘葛』を含め、自作には馬子にも衣裳と思われますが、過分なお言葉に心より感謝を申し上げます。藤の花房を玉飾りの群玉と見立て、それを掌篇と結びつける譬喩に目の覚める心地がいたしました。また、『伊勢物語』からの引用も大変滋味深く、既に散り急いだ藤の花影が却って絵國には呪いであったのかもしれません。拙作『玉紫』についてご紹介くださるとのこと、ご迷惑とならねばよいのですが……SNSアカウントを持っておりませんので拝見には伺いかねますが、どうぞご随意になさっていただければ幸いです。斯様な機会を得られるとは思わず、幸甚に思うとともに畏れ多さに緊張しております。こちらばかりご厚情を賜りまことに恐れ入ります。この度は、ご清覧くださり誠にありがとうございました。

    作者からの返信

    蘆 蕭雪 樣

    此度は児戯の過ぎたる「病葉」をばご笑覧下さいまして誠に有り難うございます。是を「遊ぶ」でなしに「翫ぶ」と見られる向きには定めし眉を顰められる方も多かろうとは自覚しておりますため、温かいお言葉頂戴しまして安堵致しております。

    「歌に使われる」と云う意味で、普段使いの「俚言(さとびごと)」と峻別する形で我が国の歌辞文芸が洗練させてきた「雅言(みやびごと)」=歌語を敢えて現代に於いて擬古典主義的に用いることの是非、のみならず和歌の修辞法、謂わば“Maniérisme”をマニエリスムとするかマンネリスムとするか、或いは技巧とするか気取りや態とらしさ、ペダントリとするかは畢竟、個々人の「好み」の問題に帰着するのでしょうから、「私も好きにしよう」と開き直って気紛れに作り続けております。此方の歌は実は具体的なイメージに基づいて詠んだ叙景歌でもありまして、未だ公開は致しておりませんものの私かに細々と書き連ねている現代物の連作短篇に登場する一シーンとなっております。お目に掛けられる日の来るや否や、甚だ心許ないところではございますけれども……。

    にしましても、慥かな“質感”(私は其の感覚が一等好きです)を持つ言葉を馭られる蘆さんですから、御歌もっとお作りになったら宜しいのではないかと存じます。何より、紫の滝の如く溢れ、宛も後ろ髪を引くような垂尾に乱れ咲く藤尾の魂、彼の精神の晶出した数々の綺譚が零るるに委せてしまうのを可惜しう思う絵國による例の巻頭歌は、御作を一通り拝読し訖えてから読み返すと又、一味違った切実な趣で胸に迫るようです。藤は大輪の花ではないけれど、玉飾りの群玉のように小さい花(=掌編)を連ねるその姿、亡くなって後も絵國の上に紫の陰を翳して影響を与え続ける藤尾の存在感の絶妙な暗示であるにも拘わらず、その暗示は情景として思い浮かべる時に余りに明示的でもあって唸りました。我田引水となり恐縮乍ら『伊勢物語』に「咲く花の下にかくるる人を多み ありしにまさる藤のかげかも」と云う「ありし」=在原氏を凌いで時めく藤原氏の栄耀を業平が詠んだ歌の、殊に下句を直ちに想起致しました。絵國は藤尾の「在りし」日に弥増して「藤のかげ」から逃れられなくなっている……そして藤の持つ毒のことを思います。現態として已に立派な御作として十二分に成立していること疑いない、結末から始まる、ミステリで云うところの“倒叙”の手法で綴られる二人の道行きは飛び石のように描かれ、また仄めかされる訳ですけれども、其の結末までの総ての旅程が何とも気になって仕方有りません。【試読版】とのことですけれども、【完全版】も是非拝読してみたい(恐らく蘆さんの中にはお有りなのでしょう)、少しずつでも……などと夢想せずにはいられません。此方で申し上げるのも些か場違いかとは存じますものの、兎も角も素晴らしい御作を有り難うございました。お嫌でなければ、フォロワー40人程で鍵を掛けている私のXアカウントにてご紹介させて戴いても宜しいでしょうか?

    追伸:
    熱海の起雲閣の写真をネットで見ておりましたら、サンルームのステンドグラスや青漆喰の壁のものを見付けて吃驚致しました。小旅行にはピッタリ、折を見て実物を見に行こうと考えております

    追々伸(5/28):
    ご紹介の件、ご承諾下さいまして有り難うございます。お言葉に甘えて先程、させて戴きました。御作に触れて愉悦を味わう読者諸氏の増えることを願って已みません。又、連日、拙文ご高覧下さいまして此方こそ恐縮でございます。

    編集済

  • 編集済

    歌の病、その病態への応援コメント

    面白い試みですね。いろいろ思い当たり、身につまされもします。
    残念なのはコンクールの規定から外れて審査対象外になってしまうかもしれないことでしょうか。

    作者からの返信

    小余綾 樣

    ご興味を寄せて下さいまして有り難うございます。

    最近は漢詩にばかり感けて和歌のほうはとんとしておりませんでしたので、この度のコンクールを好機と見て今一度と思い参加してみたものの、そうか、規定から外れて審査対象外になりそうですね……

    叶いそうなら、今少しく語彙を現代に寄せてもう一首、期間内に別してものしてみても善いかも知れないなどと思いつつ、この『病葉和歌集』でも私の考える「和歌の可能性」を細々とお示しできるよう努めて参ります。ぜひまた覗きにいらして下さいね。