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  • 文芸部へのご参加、ありがとうございます。
    古の香り漂う言葉選びと、現代的な「病」という視点が混ざり合い、独自の美学に満ちた和歌の世界を堪能させていただきました。

    ■ 全体を読んでの感想
    「幸福」という蝶が肩を避けて飛び去る一方で、「孤独な恋」という執拗な影が消えずにとどまり続ける。その対比が非常に鮮やかで、切なくも残酷な真理を突いているように感じます。
    特に「訪はで経る(飛ばでふる)」という音の連なりや、意訳にある「何ゆえ然様に去らずして遣って来てしまうのだろうか」という溜息のような問いかけには、ままならない人生に対する深い洞察が込められており、読み終えたあとも胸の奥に一抹の寂寥感が残りました。

    ■ お題「反復法」の活用と技法について
    本作では、お題である「反復法」が、和歌特有の音楽的な韻(いん)として見事に機能しています。

    ・「てふ」の重奏【音のリフレイン】
    「さきてふは」「こてふかたにそ」「とはてふる」「こひてふものは」「なてふさらすや」
    助詞や名詞の一部として繰り返される「てふ」の音が、まるで幾重にも舞い踊る蝶の羽音のように重なり合い、歌全体に幻想的なリズムを与えています。一度きりの使用では得られない「畳みかけるような叙情性」が、この反復によって生まれていました。

    ・掛詞と音の遊び【多層的な反復】
    「訪は(とわ)」と「飛ば(とば)」、あるいは「蝶(てふ)」という音の響きを、意味を変えながら何度も耳に届ける手法。これは言葉を重ねることで、読者の脳内に「胡蝶」の残像を強く焼き付ける、非常に洗練された反復法の形だと感じました。

    ■ 最後に
    「胡蝶が肩に留まることなく飛び去るように」
    反復法というレトリックを、蝶が舞う軌跡や、止まらない時の流れ、そして消えぬ想いの「揺らぎ」として表現された素晴らしい作品をありがとうございました。
    また部室にて、あなたの紡ぐ、時代を超えた深い言葉たちに出会えるのを楽しみにしております。

    作者からの返信

    @naimaze樣

    初めまして、工藤行人と申します。
    此度は拙詠に懇篤なるご感想賜りまして誠に有り難うございました。

    「何を」書くかでなしに「何で(以て)」書くか……先づ以て“言葉の技術”を用いることを旨とするご企画に、「態と歌病に罹患させて詠む」拙集の意図と相通ずる趣向を感じまして参加させて戴きました。

    頂戴しました御評、大変興味深く拝読しております。「〜と云ふ」=伝聞・引用の表現に「胡蝶」の像を重ねました拙詠の、「てふ」のリフレインを和歌特有の音楽的なリスムとしてお汲み取り下さり、又、その他の掛詞にもお眼を留めて下さいました。一点、お詫びなのですけれども、【意訳】を一部変更致しておりますこと何とぞご海容賜りたく存じます(古語を現代語に転写すること如何にも苦手であるようです)。

    にしましても、拙集の紹介文にもございますように、今や文学賞とて例外ではなくなったようです、凡ゆる文事に生成AIの用いられ得る、そう云った科学全盛の時代に古の歌学技術も又、「言葉遊び」と云う新たな装いで甦って来ることありましょうや……引き続き回を重ねられるようですけれども、ご企画はその帰趨を占うものとしてのご意義もあるように個人的には思われます。ご盛況となりますようお祈り申し上げます。


  • 編集済

    工藤行人様

    ご多忙の折、お返事を賜りますこと御礼申し上げます。
    また先日に引き続き、此度は「わくたま」に纏わる御歌を拝読できる僥倖にも重ねて感謝申し上げます。掛詞は存じておりましたが、縁語に散らし書き、物名、隠題など、和歌の中にこれほど多くの“言の葉”を浮かべることができるとは……言葉を編む、正に 経糸と緯糸を織り上げるような到底考え及ばぬ技巧にただただ感服するばかりです。「増し満つ」と「真清水」、「夢」と「寝目」、複数行に並べて書かれると、殊更「音の響き」と「文字」とが表裏を番う織物(調べたところ“風通紗”なる表と裏が色違いになる生地があるそうですね)が聯想されました。添えてくださった意訳を拝読すると、四首それぞれが滾々と湧きあがる想いが泪と水とに託されて、懇々と己の情を自分の心に掬っては染み込ませるような、掬水にも似た慰撫の歌とも思われます。僭越ながら(浅見の身で恐縮ですが)、私個人は「想ひ湧わく……」の一首がとりわけ好ましく心惹かれる御歌です。波枕、浮き、憂き夜……うきよには「浮き世」の響も浮かんできます。先日のご返信にて、平兼盛の官人としての境遇に触れておられましたけれども、石の歌碑でなく高札の掉尾であるところにも思いを馳せておられること、ハッと目から鱗が落ちる心地でした。

    御作拝読すると、和歌の技法のなんと奥深いことかと改めて実感致します。
    以前、ご返信にて「御歌もっとお作りになったら宜しいのではないか……」と仰ってくださいましたものの、短歌を詠むことから離れて久しくなりました。私見を述べること恐縮ながら、短歌に挑戦したのは「三十一文字」の縛りの中で情景を表現するコツを掴みたいとの思いがあったためなのですが、その技術を小説に活かそうと思うと困難を極めるようで、短歌からも徐々に遠退いてしまいました。掛詞などは、文章においても“言葉遊び”の一環として織り込むことができるかもしれませんけれど、私の地力ではひとつの言葉や対象から連想を繋げていくことがせいぜいで、御歌のような言葉の織物(テクスト)に憧憬を抱いてやみません。未熟者として御作から学ばせていただける僥倖と、また拙作のご清覧に深く感謝を申し上げます。

    余談となりますが、昨年頂戴したご返信では現代短歌をあまり読まれない……と(ご謙遜とは承知しておりますが)拝読した覚えが御座います。最近、お薦めした菅原先生の歌集について批評を載せているサイトを見つけました。言語学者・東郷雄二先生の個人サイト「橄欖追放」にて歌集の書評などが掲載されています。既に御存知かもしれませんけれども、もしご興味ありましたら……と畏れ多いことですがお伝えさせて頂きます。(菅原先生作への書評記事は「第347回 菅原百合絵『たましひの薄衣』」2023.03.06)お言葉に甘え拙文を連ねることご寛恕くださいますと幸いです。

    2026.04.19 追記
    ご多忙の折、細やかなお気遣いを賜り恐れ入ります。お返事を急かすこと本意ではございませんので、どうかお気になさらないでいただければ幸いです。拙作のご清覧にも感謝申し上げます。

    2026.04.20 追記
    こちらこそご丁寧なご返信を頂戴して恐縮しております。拙作についても過分なお言葉に恐れ入るばかりです。ご期待に沿えるようなものが書けるかどうか不安ではございますが、読者の皆様にご納得いただけるよう最善を尽くしたいと(無理のない範囲で)思っております。また拙作お目に掛けることができれば幸いに存じます。

    作者からの返信

    蘆樣

    何時もお返事、有り難く拝読しております。そして又候にて恐縮乍ら、お返事と拙詠の投稿と順逆顛倒してしまいますことご宥恕を乞う次第です……“本当のお返事”は明日未明にはお送り致しますので暫しお時間をば頂戴出来ればと存じます。

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    此度も懇ろなるお便りを頂戴してしまいました。拙詠は恐らく、湧玉池のお話を蘆さんから伺っていなければ、決して湧き出づること無かったに違いありません。

    拙四首、「掬水にも似た慰撫の歌」として蘆さんの真澄鏡には映じたのだと伺いまして、何やら面映ゆささえ伴うような嬉しさを覚えました。「わくたま(わくこと?)」を掬い取り、再び己が裡へと還す――斯かる循環の感覚は、此の連作において一つの流れを成したでしょうか。「想ひ湧く」の二首目に殊にお心寄せて下さった由、又、仰いますように「浮き世」の響きとて浮かんで来る……言葉の連なり、音の重なりの多義的な照応にまで思いを及ぼして戴きましたことに深く感謝申し上げます。「風通紗」のご聯想も興味深く、表裏の色を異にしつつも一体を成す織物の趣は、和歌における表意と余情の関係にも通ずるものあり、私にとりましても新たな示唆を得た思いでございます。

    蘆さんの御歌、私は今以て密かに期待しておりますよ……とは云い条、然し和歌にしましても、或いは更に制約の厳しい漢詩(近体詩)にしましても、なべて限られた字数や煩雑な規則の中で表現せざるを得ない歌辞文芸における「言葉の精選」と云う営為と其の“選ぶ”と云う感覚、或いは宋詞における“填詞(詩語を当て嵌める)”の感覚と表しても良いのですけれども、是は必ずしも韻文に固有のものではありますまい。韻文の形式として著されていなくとも何らかの形で屹度、散文にも滲み出るものでありましょうし、其れが文脈の中で陰に陽に生きることとてありましょう。御作にも胚胎し、莟み、已に花発いている……此処まで書いて如何してもお伝えしたく存じますのは最新の御作「紅蓮池」のことです。自然の形象たる蓮の花が、後半にはもう純粋な花には見えなくなっているあの感覚、御仏の花が実は其の裡に抱えていたものを提示して両義図形のように世界を鮮らかに反転させるご伎倆、宛ら紅蓮地獄、将又、大紅蓮……そう云った名指しすら、恐らく野暮となりましょう。お美事の一言です。熱量の籠った読者諸氏のレビューにも首肯するところ、気付かされるところ多くありまして昂奮致しました。続編もご構想中とのこと何とも愉しみです。今少し言葉を連ねたいのですけれども、其れは“紅白”揃い踏みなさった暁にこそ、別してお送り致したく存じます。

    『たましひの薄衣』の書評のこともご教示下さいまして有り難うございました。葉片追放《ペタリスモス》と誤訳……サイト名の由来について触れられている第0話からして興味を唆られてしまいました。公園の日陰のベンチに腰掛けて歌集の頁を捲った丁度一年前(※2025/5/3読了)に思い致し乍ら、此度も黄金週間の落ち着いた時間に、書評をゆっくりと拝読してみようかと存じます。貴重な情報を頂戴しましたこと重ねて御礼申し上げます。

    編集済

  • 編集済

    工藤行人様

    平素よりお忙しい中お返事を賜りまして有難うございます。
    工藤様の仰る“往復書簡”などとは畏れ多い、稚拙な文ばかリ書き残すこと御赦しください。ご多忙の折、貴重なお時間を賜りますこと幸甚の至りです。また御作を見逃しておりましたこと、平にご容赦くださいますと幸いです。御作拝読して、“主ある詞”という〈制の詞〉を初めて知りましたが、現代人としても「むなしき枝に」との表現は目の覚める思いが致しました。“掛詞、縁語の襲色目”とありますように、御歌の雅やかな言葉の織物に魅了されております。先日のお返事にて触れておられた結句も、「空色(空敷)枝に」とあれば「空色映ゆ」が似つかわしく思われます。色即是空、空即是色、僭越ながら拙作を聯想しても、亡者の虚ろな目が見仰ぐのであれば〈空〉の色が相応しいかと存じます。病葉とは呼び難いうつくしい御歌です。

    またお返事にて挙げてくださった松家仁之さんの『沈むフランシス』も冒頭のみ(新潮社のサイトの試読版ですが……)拝読いたしました。無機質でありながら、しかし無味乾燥ではなく、静謐さを保ったまま遺体を水路に送り逝く精緻な筆致には驚きました。拙作に通ずるなど誠に滅相もないことで、恐縮しております。御作より選んだ「真澄鏡」ですが、随分前に富士山本宮浅間大社に赴いた際に見た「湧玉池」を思い出しました。今思えば、あれこそが真澄鏡だったのでしょう、透徹というよりも明澄と呼ぶに相応しい清水でした。富士山の湧水のためか、浄玻璃鏡のような美しさで、工藤様なら御存知かと思われますが、平兼盛の和歌が高札に添えられていたのが記憶に残っております。

    そして『玉紫』の執筆についても温かなお気遣いを賜りまして感謝の念に堪えません。翹望などとは畏れ多いことですが、工藤様のような御方にご覧いただけるご縁を何より光栄に思うと同時に、励みとして参りたいと思います。無理のない範囲で、読者の皆様のご期待に沿えますよう(そして御慧眼に見合うものが書けるよう)精進致します。この度は素敵な御歌を拝読させていただきありがとうございました。工藤様のご厚情に心より感謝申し上げます。

    追伸:
    工藤様の『まじりけ』も何時か拝読できれば幸いです。

    作者からの返信

    蘆樣

    (お返事と拙詠の投稿の又しても順逆顛倒する仕儀となりましたこと何とぞお見遁し下さいませ)

    何時もコメント有り難く拝読しております。「往復書簡」などと少しく事々しいかとは存じましたものの、ご無理の無い範囲で只々、折々に言葉を交わす愉しみをば続けさせて戴ければと云った程の旨趣ですから、どうぞお気軽にお受け取り下さればと存じます。

    扨、「むなしき枝に」に蘆さんも感応して下さったのですね。のみならず、亡者の眼に映る〈空〉の色と云うご聯想もお聞かせ下さいまして、私こそ「嗚呼、間違いでなくて良かった」と安堵致しております。にしましても引歌や本歌取りのようなことが亜流でないはずの和歌の世界にも、或る意味ではその絶頂期やも知れぬ千載・新古今の時代に、忌詞などであれば未だしも、そうではない詞を制すると云う発想の有ったことが、私も“主ある詞”の存在を知った時には意外に思われたものでした。そして制せられると、逆に使いたくなってしまう、天邪鬼な人の性(サガ)でございますね。

    『沈むフランシス』にも直ぐに目を通して下さったとは……何とも恐縮でございます。抑えた筆致であり乍ら、却って触覚的な実在感の弥増すような描写に不思議な魅力があり、御作『花筏』を拝読するや私の中に湧いた感慨と俄かに結び付いたものですから、ついご紹介してしまいました。水に泛び流れ逝くものの運命とその描き方に共通するものを感じました。此方こそ、お伝えしたささやかな聯想を受け取って下さいまして有り難うございました。

    「真澄鏡」に纏わる湧玉池のお話も印象深く拝読しました。私は富士登山を今に経験していないのですけれども、そうでしたか、高札に兼盛の「わくたま」の歌が……お叱り受けるやも知れぬとも思いつつ、歌碑でなく高札に添えられているところに、歌人ではない“官人”としての彼の境遇を重ねてしまいます(余り出世しなかった、と云うと兼盛に祟られるでしょうか)。「わくたま」は歌語としても極めて特殊であるようで、私の調べた限りでは、用例は神社に纏わる水の歌、御手洗や川について詠まれたもの三例程ではないかと思われます。
    そして「透徹」と「明澄」の使い分け、如何にも蘆さんらしい、と不躾にも私は思うのです。前者は立体的で深さのあるものに相応しく、対する後者は平面的で広さのあるものに、又、使い方も何方かと云えば前者より広いように思われますから、浄玻璃の薄い鏡には後者の方がしっくり来るように(池をネット検索して写真で見た)私にも思われます。

    『玉紫』のご執筆につきましても、お体おいといになってご無理せずお進め下さい。『まじりけ』は短篇連立式で未投稿分75000字程度は書いておりますものの、如何なりますやら……此方は多少の無理(と云いますか無茶?)をしなければ不可いのでしょう。でなければ、何時も乍らの手遊びに和歌や漢詩へと遁げてしまうのですから……本日は此辺りにてお暇致します。でハ又。

    編集済
  • 工藤さん、こんにちは。
    前回、コメントのご返信で言及されていたはなむけの和歌ですね。随風・雲・往方・虚空…ととても美しいです。その節はとても嬉しく頂戴いたしました。ありがとうございました。過分なお褒めのお言葉を頂きました私の返歌ですが、『古今集』の壬生忠岑の本歌取りをさせて頂きました。
    風吹けば 峰にわかるる 白雲の 
    絶えてつれなき 君が心か
    このままでは悲恋の歌ですね。ご明察通り、私の頭にはあの崇徳院の有名な
    瀬を早み 岩にせかるる 滝川の
    われても末に 逢はむとぞ思ふ
    がございまして、加えて工藤さんがご執筆中であった「雲隠」にちなみ、『新古今集』にある紫式部の
    めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に
    雲がくれにし 夜半の月かな
    も取り入れたいと思いました。本歌取りは二句までが原則であったはず。
    風吹けば 峰にわかるる 天雲の
    たなびく末に めぐり逢ひたし
    と拙い歌を詠ませて頂きました。覚えていてくださり嬉しかったです。長々と失礼いたしました。

    作者からの返信

    葵樣

    何時もご高覧賜り、此度は先だっての御歌のことまで詳しくご教示下さいまして誠に有り難うございます。

    お料理を口に入れて舌が先ず以て受け取る「美味しい」と云う直感のあってその後に、複層的な組み立ての味の重奏について説明を受けたような、そんな気の致しております。拝読した直後の感動の大濤を更に追い掛けて寄せる繊細な今一つの感動を禁じ得ません。『源氏』や『紫式部集』にも、その歌が如何なる状況で詠まれたのか語られる所謂「歌語り」のあるようですけれども、葵さんのそれも確と堪能させて戴きました。

    峰にわかるる白雲の……そうか、壬生忠岑の本歌取りでしたか。仰るように忠岑の歌では「わかるる白雲」は峰に砕かれて往方も「絶えて」しまいますけれども、御歌は崇徳院の歌も念頭に上句の「天雲」が下句でも消えず往方に靉靆いて雲の流路となり、拙文を気に掛けて下さったところから「雲隠れにし」の式部の歌の「めぐり逢ひ」をも本歌取りする、実にお美事と云う外ありません。と同時に、改めて拝読し直して気付いたことのありまして、それは、私は御歌の素晴らしさに感服したには違いないのですけれども、靉靆きの先に再会を願って流れる雲の紐帯が、宛ら“縁”の続きを暗喩するように思われて純粋に嬉しかったのだとも思われます。現にこうして遣り取りを続けさせて戴いておりますこと大変嬉しく、又、愉しいです。願わくは今後も歌の遣り取りなど折々に、お心の赴かれますならばさせて戴きたく存じます。


  • 編集済

    こんにちは。
    「雲隠」の物語取りとは、眼福です。
    『源氏』の物語取りと云えば、『新古今集』で後鳥羽院の歌がありますね。『源氏』の中にも幾つもの本歌取りをした歌があり、歌に奥行きが出ますし、人物達の教養や洗練された感性によって物語が彩られ、好きな場面です。

    一首め、「(輝く)日のみや(宮)」という言葉が煌めいていますね。でも、隠れるのは紫の雲で。美しくて切なくて優しい世界。
    冷泉院の父母を想う返歌がまた切なく。彼は出自を知ってから苦労が多かったけれども、秋好中宮と穏やかで安定した夫婦生活を送れたところは幸せだったのではないでしょうか。
    源氏の返歌にある影と色の対句も素晴らしく、余情を感じました。

    最近、私も『万葉集』『古今集』『新古今集』を再読しております。いつか私も和歌を詠んで投稿してみようと密かに考えておりまして。
    素敵なひとときをありがとうございました。

    作者からの返信

    葵樣 

    お返事の今に遅うなりまして大変失礼致しました……そして此方もご高覧下さり有り難うございます。

    葵さんに切っ掛けを頂戴してより、「吹く風のあともたまらぬ」はずの私の心の空に「雲隠」は未だぽっかりと浮かんで容易に流れ去ろうとしないようです。思えらく補遺の小考を韜筆するまでは居座り続けることでしょうし、それも又、良いのでしょう。物語取の四首も執筆中の手すさびから生まれたもの、改めて『源氏』の世界の、語弊を懼れずに云えば“魔嬈”に搦め取られているような、倒錯した居心地の良さを感じてすらおります。

    仰るように本歌取にしても、前提となる知識(元ネタ)を共有していなければ機能しない文芸ではあることですから、愉しんで戴くには読み手側の応力も借りねばなりませんね。詠み手としては「巨人の肩の上に立つ」が如き緊張感と安心感とを併せ持つようです。

    葵さんは定めし歌詠みに向いていらっしゃるのではありますまいか。と云いますのも、別処にて暫しお別れの砌に私の方から詠み掛けた歌に、葵さんから頂戴した返しの御歌の何とも秀逸に思われたからです。あれには心撼かされました。崇徳院の「われてもすゑに」を髣髴とさせる御歌であり乍ら、本歌の「岩」「川の流れ」を「山の峰」「雲の流れ」に置き換えられるとは……仮に歌合でしたら屹度〳〵、判者は私の歌でなく葵さんの方をこそ優としたに違いありません。古語にて、現代語にて、ご随意にお詠みになってみては如何でしょうか?

    寒い日の続くようです。万冀保重。乙゛八叉。


  • 編集済

    題名に冠された「病葉」、また概要欄の命題の所以に尻込みしながら、御作の病葉を一葉ずつ手に触れるような心持で拝読しております。敢えて退けるべき病に罹患させることを「病葉」と表現なさる名題に得心いたしました。諸事情あり古典に触れぬまま育ち、和歌にも縁遠い浅学の身のため、野暮なことを申し上げるのではないかと憂惧しながらも、こちらの和歌に詠まれた情景、なにより言葉のなす手触りに強く惹かれました。漢字を離れ、仮名に還元された音の響き、そして漢字を交えることで浮かび上がる蛍舞う夜の河岸のはかなさに浸るような……通釈を添えてくださり、私のような素人も和歌の粋の一掬に預ることができるように思われます。また、無作法とは存じますが、拙作のご清覧にも感謝を申し上げます。稚拙な巻頭歌など、工藤様には無聊を招くばかりとも思いつつ、素人の蛮勇とお目を瞑ってくだされば……僅かでもお楽しみいただけたのなら幸いです。貴重なお時間を割いていただき、誠にありがとうございました。お星様まで賜りましたこと幸甚の至りです。
    この場を借りて心よりお礼申し上げます。

    2025.05.28 追記
    ご多忙の折、ご丁寧なご返信をいただき恐れ入ります。和歌の技法、またそれらの解釈には私見も持ち合わせませんが、無学であればこそ御歌を叙景歌として愉しむことができたのかもしれません。現代物の連作短編にまつわる御歌とのこと、工藤様の「〔稿本〕現代中短篇」を拝読しつつ、また「まじりけ」の冒頭からどのような小説が紡がれるものかと密かに期待を抱いておりました。御作と関係するものかは分かりませんが、大学の恩師を接点とした同窓生の物語にも心惹かれます。何より、主題とされる「音源」としての文章に引き込まれました。

    拙作に関しても、深い洞察のもとに綴られたお言葉に恐縮しきりです。『甘葛』を含め、自作には馬子にも衣裳と思われますが、過分なお言葉に心より感謝を申し上げます。藤の花房を玉飾りの群玉と見立て、それを掌篇と結びつける譬喩に目の覚める心地がいたしました。また、『伊勢物語』からの引用も大変滋味深く、既に散り急いだ藤の花影が却って絵國には呪いであったのかもしれません。拙作『玉紫』についてご紹介くださるとのこと、ご迷惑とならねばよいのですが……SNSアカウントを持っておりませんので拝見には伺いかねますが、どうぞご随意になさっていただければ幸いです。斯様な機会を得られるとは思わず、幸甚に思うとともに畏れ多さに緊張しております。こちらばかりご厚情を賜りまことに恐れ入ります。この度は、ご清覧くださり誠にありがとうございました。

    作者からの返信

    蘆 蕭雪 樣

    此度は児戯の過ぎたる「病葉」をばご笑覧下さいまして誠に有り難うございます。是を「遊ぶ」でなしに「翫ぶ」と見られる向きには定めし眉を顰められる方も多かろうとは自覚しておりますため、温かいお言葉頂戴しまして安堵致しております。

    「歌に使われる」と云う意味で、普段使いの「俚言(さとびごと)」と峻別する形で我が国の歌辞文芸が洗練させてきた「雅言(みやびごと)」=歌語を敢えて現代に於いて擬古典主義的に用いることの是非、のみならず和歌の修辞法、謂わば“Maniérisme”をマニエリスムとするかマンネリスムとするか、或いは技巧とするか気取りや態とらしさ、ペダントリとするかは畢竟、個々人の「好み」の問題に帰着するのでしょうから、「私も好きにしよう」と開き直って気紛れに作り続けております。此方の歌は実は具体的なイメージに基づいて詠んだ叙景歌でもありまして、未だ公開は致しておりませんものの私かに細々と書き連ねている現代物の連作短篇に登場する一シーンとなっております。お目に掛けられる日の来るや否や、甚だ心許ないところではございますけれども……。

    にしましても、慥かな“質感”(私は其の感覚が一等好きです)を持つ言葉を馭られる蘆さんですから、御歌もっとお作りになったら宜しいのではないかと存じます。何より、紫の滝の如く溢れ、宛も後ろ髪を引くような垂尾に乱れ咲く藤尾の魂、彼の精神の晶出した数々の綺譚が零るるに委せてしまうのを可惜しう思う絵國による例の巻頭歌は、御作を一通り拝読し訖えてから読み返すと又、一味違った切実な趣で胸に迫るようです。藤は大輪の花ではないけれど、玉飾りの群玉のように小さい花(=掌編)を連ねるその姿、亡くなって後も絵國の上に紫の陰を翳して影響を与え続ける藤尾の存在感の絶妙な暗示であるにも拘わらず、その暗示は情景として思い浮かべる時に余りに明示的でもあって唸りました。我田引水となり恐縮乍ら『伊勢物語』に「咲く花の下にかくるる人を多み ありしにまさる藤のかげかも」と云う「ありし」=在原氏を凌いで時めく藤原氏の栄耀を業平が詠んだ歌の、殊に下句を直ちに想起致しました。絵國は藤尾の「在りし」日に弥増して「藤のかげ」から逃れられなくなっている……そして藤の持つ毒のことを思います。現態として已に立派な御作として十二分に成立していること疑いない、結末から始まる、ミステリで云うところの“倒叙”の手法で綴られる二人の道行きは飛び石のように描かれ、また仄めかされる訳ですけれども、其の結末までの総ての旅程が何とも気になって仕方有りません。【試読版】とのことですけれども、【完全版】も是非拝読してみたい(恐らく蘆さんの中にはお有りなのでしょう)、少しずつでも……などと夢想せずにはいられません。此方で申し上げるのも些か場違いかとは存じますものの、兎も角も素晴らしい御作を有り難うございました。お嫌でなければ、フォロワー40人程で鍵を掛けている私のXアカウントにてご紹介させて戴いても宜しいでしょうか?

    追伸:
    熱海の起雲閣の写真をネットで見ておりましたら、サンルームのステンドグラスや青漆喰の壁のものを見付けて吃驚致しました。小旅行にはピッタリ、折を見て実物を見に行こうと考えております

    追々伸(5/28):
    ご紹介の件、ご承諾下さいまして有り難うございます。お言葉に甘えて先程、させて戴きました。御作に触れて愉悦を味わう読者諸氏の増えることを願って已みません。又、連日、拙文ご高覧下さいまして此方こそ恐縮でございます。

    編集済

  • 編集済

    歌の病、その病態への応援コメント

    面白い試みですね。いろいろ思い当たり、身につまされもします。
    残念なのはコンクールの規定から外れて審査対象外になってしまうかもしれないことでしょうか。

    作者からの返信

    小余綾 樣

    ご興味を寄せて下さいまして有り難うございます。

    最近は漢詩にばかり感けて和歌のほうはとんとしておりませんでしたので、この度のコンクールを好機と見て今一度と思い参加してみたものの、そうか、規定から外れて審査対象外になりそうですね……

    叶いそうなら、今少しく語彙を現代に寄せてもう一首、期間内に別してものしてみても善いかも知れないなどと思いつつ、この『病葉和歌集』でも私の考える「和歌の可能性」を細々とお示しできるよう努めて参ります。ぜひまた覗きにいらして下さいね。