いたい言葉
僕に声がなくて幸いだ。つまらない秘密を漏らさずに済むし、他人を責める言葉を使わなくていい。
獣は同じ種に苦痛を与えることはない。牛が牛を、豚が豚を害したりするだろうか。
陸と海とを問わず、盾となる鱗や毛皮、棘や牙、羽毛や剛毛を纏って生まれてくる獣は、無防備な人間と違って最初から自由で強い。他を害する必要などない。
天は地上の生き物に言葉を授けたが、その素晴らしい賜物を台無しにする野心と貪欲をも与えた。邪悪な願いを抱いた者だけが、疑心暗鬼に駆られ、他者を害し、殺し、断罪する。
あの邪な魔女のように。その言葉に踊らされる愚かな人間達のように。
◇◇◇◇◇
「化け物だ」
「化け物」
「魔物だ」
ざわざわと僕の周りで声がする。縄を打たれ首に掛けられた鎖が喉に喰いこむ。広場への道を裸足で引き摺られながら、そっと群衆を見渡すと、僕の赤い目を恐れた人々が石を投げた。
「化け物!」
「よくもお優しい王妃様を!」
「魔物め!くたばれ!」
僕の心はそんなことで折れたりはしない。僕の瞳を、僕の髪を美しいと言ったお師匠さまの言葉を信じているから。きっとこんな事態が起こることも彼女は知っていて、森の奥で僕を守ってくれていたのだろう。
いくつかの石礫が僕の顔や体に当たったが、丈夫な僕の皮膚に傷をつけることは出来ない。周りを囲むように歩く騎士の鎧に跳ね返る小石がカンカンと虚しい音を立てる。
彼らは盾をかざし一応僕を守りながら顔の隠れた甲冑の中で不機嫌そうにブツブツ言っている。
群衆は勝手な噂話をしながら広場へ流れていく。どうしてそんなに愚かなんだろう。
「見ろよ、あの薄気味悪い目を。髪も肌も真っ白じゃねえか」
「姫も魔女だって話だ。怪しげな術を使って逃げちまったらしいが、魔物を操って王妃を殺そうとしたんだってな」
「もう一人の魔女は捕まって魔物と一緒に処刑されるって話だぞ」
目の前にぶら下げられた美味しそうな嘘を毒とも知らず貪り食う。これが人間なのかと冷めた心で思うと同時に、姫が無事に逃げたことに安堵する。
きっと隠し通路のどれかを使って消えるようにいなくなったのだろう。してやったりと笑う顔が目に浮かぶ。
見せしめのようにゆっくり歩かされ、ようやく到着した広場。中央に設えられた高台の上に、お師匠さまが太い杭に鎖で縛られているのが見えた瞬間、僕の心に怒りが湧いた。
『お師匠さま!』
「レピ、遅かったわね~」
まるで待ち合わせでもしていたかのような気軽さでお師匠さまが笑う。でもその紅い髪は乱れ、頬には茨で打たれた赤い筋がいくつもついている。いつものワンピースは白い罪人の服に取って代わられ、華奢な彼女の体を更に頼りなく見せていた。
『怪我したの?』
「大したことないわよ。ふふふ」
「何を話している!口を閉じろ!」
怒鳴られても何故かお師匠さまは余裕の表情で笑っている。その様子が不気味だと更に怒鳴られる。鎖で繋いでいても尚、怪しげな術を使うのではないかと怯えが滲んでいるのが滑稽だ。
それより何よりお師匠さまに傷をつけた奴が許せない。魔力を封じられていたら、普通の人間と同じくらい脆いのに。なんだか僕の体まで痛くなってきた。
その時、騒めいていた群衆の間から、護衛騎士に囲まれた歌姫がゆっくりと現れた。黒い服を着て、蜜色の髪を高く結い上げた彼女は、台の上まで登ると芝居がかった仕草で振り返った。手を挙げた瞬間、人々の声がピタリと治まり、辺りは水を打ったように静まり返った。
「王は心痛のあまり床に臥してしまわれました。わたくしもこのようなことになって残念でなりません。この者達の邪な心を鎮める為に歌います」
しらじらしい言葉の後に一呼吸置く。次いで空気を切り裂く音が広場中に響き渡る。禍々しい歌が澱んだ空気を震わせると、殺気立っていた群衆の目がどこか夢見るようなぼんやりとしたものに変わり始めた。
ああもう、本当に気持ち悪い。頭が割れるように痛む。魂に響くというより魂を縛る声色に、心底
隣を見ればお師匠さまも歯を食いしばって額から汗を流している。
拷問のような声が止み、辺りが再び静寂に包まれた刹那。うねりのような大歓声が広場を包む。王妃を讃える民衆の叫びがこだまする。
「王妃様、万歳!!」
「王妃様!!」
勝ち誇った笑みで振り向いた魔女は、両隣にいた甲冑の騎士2人に用意しておいた剣を一振りずつ渡す。
「さあ、爆散の魔女。お別れよ。わたくしに名前を明かしなさい。あなたの下手くそな魔法にその力はもったいないわ」
「その通り名嫌いだって言ってるでしょ!誰があんたなんかに」
脂汗を流しながら、お師匠さまは歌姫を睨みつける。見た目だけは美しい邪悪な女は、そんなお師匠さまを見下ろして、それはそれは優雅な微笑みを浮かべた。
「そう………ではこの竜を殺すわ」
「なんの話?」
「わたくしだって色々調べたのよ。これはお前が育てた竜でしょう?」
「ふん、竜が簡単に殺せると思うの?私の弟子は強くて優秀なのよ」
「ええ、でもこの剣はどうかしら?」
歌姫の合図で騎士達がすらりと鞘から抜き取った灰色の剣、長い刀身が、陽の光を反射して鈍色に煌めいた。
「
聞いたことがある。「神の怒り」「光り輝く爪」「古き灰色の宝」、様々な名前で呼ばれるその剣は、伝説や神話の中で強大な竜を殺せるほどの絶大な力を秘めたものとして語り継がれてきた。
「この国は竜の伝説も多く残っているわ。幸運なことに、城の宝物庫に眠っていたの。さあ、選びなさい!名前を明かすか、この竜を殺すか!」
「殺せ!」
「殺せ!」
「殺せ!」
歌姫の哄笑が群衆のどよめきに紛れ、熱狂的な叫びが波のように僕らを包み込む。
駄目だと首を振る僕に、お師匠さまがゆっくりと顔を向けた。その翡翠の瞳は常と変わらず凪いでいて、僕を安心させるように瞬く。
鎖の絡まった不自由な腕を動かして、僕に向かって指を鳴らす。魔力を封じられている今は何の効力も持たないし、相変わらず下手くそで、カサリとも音は出ない。
でも鳴らした後に残る親指と人差し指の形は、いつか決めた僕とお師匠さまだけの合図。
『だいすき』
もっと幼い頃は何も考えず何度も使った。空が好き、お菓子が好き、花が好き、美味しい御飯が好き、お師匠さまが好き。
育つにつれて僕が胸の奥に押し込めた言葉を、彼女は惜しげもなく使う。こんな時に使わないで。これが最後みたいじゃないか。
魔女にとって名前は魂そのものだ。簡単に明け渡していいはずがない。なのに、僕にはお師匠さまが次に何をするつもりなのか手に取るように分かった。
花が綻ぶように微笑んだお師匠さまは、歌姫に向かって口を開いた。
「よく聞きなさい」
『お師匠さま!!駄目!!』
「私の名は……」
『駄目!!!』
僕の叫びは声にならない。頭が痛い、体が痛い、心が痛い。
力の限り暴れる僕の鎖が不快な音を立てて軋る。まるでその音でお師匠さまの声を掻き消してしまえるとでもいうように。
絶望に震える僕の目の端に、黄色の蝶がよぎった―――。
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