いえない言葉

 それから数年ののち―――。


 刷り込みと言われてしまえばそれまでだけど、僕にとって初めて目に触れた優しさや慈しみに形があるならば、きっとそれは紅い髪に緑の服の魔女だと言える。


「さあ、やってみて」


 心の中に簡単な水の波紋を思い描き、その中心に光の文様を描く。身の内に籠る魔力を術式に載せて、仕上げとばかりに目の前の指先に込める。


 森の小さな獣、狐の形から親指の根元に添えた小指と薬指、残した中指を親指の関節の上に滑らせ、手首を返した。


 0と1、1と0、指先がパチリと乾いた音を立てて、桶の中に水が溢れる。


「できた……」


 木漏れ日の陰影と光を弾いて揺れる水の表面を見つめて、お師匠さまは複雑そうな顔をした。

 自分でやれと言ったくせに、なんだろう、その表情かおは。初めて無詠唱で魔法を発動できた弟子をもっと褒めてくれてもいいんじゃないだろうか。


「ずるい……」


 お師匠さまが自分で試そうとして何年も苦心したこの方法を、僕が出来てしまったのが不満という訳か。我がままかな?


 まずは危険度が低そうな水の魔法から。これが出来れば声が出なくても魔法が使えるから。

 そう言っていたのはお師匠さまだが、僕があっさり課題をこなしたのが気に入らなかったらしい。


「しかも、ちゃんと調整して桶の中にきっちり一杯分。もっと噴き上げるとか零すとかすればいいのに。可愛くない!!」


 なんという心の狭さ。本当に師匠なのか?

 この為に山ほど本を読ませ、素材の名前と調合法を覚えさせ、薬草を栽培・選別する術を身に叩き込んだのは自分なのに、僕が悪者扱いされるのはいかがなものか。


『僕は優秀なんでしょ?』

「何それ!?もう!可愛くない!」

『ほんと?もう可愛くない?』


 最近はずいぶん下の方に見えるお師匠さまの顔を見下ろして、コテンと首を傾げてみる。

 昔はこれをやると可愛い可愛いと撫でてくれたものだが、最近は頭に手が届かなくなってやってくれなくなった。


 人間の残した書物では、竜種の情報が少なすぎて、結局成人になる年齢は分からなかったが、ある程度肉体が成長したら、そこから緩やかに年を重ねていくらしい、と体感で分かった。


「ぐ……ある意味可愛いが、そうじゃない!あざといぞ!レピ!そんな子に育てた覚えはありません!」


 今、僕はお師匠さまよりも背が高い。怒りか羞恥か分からないが、赤くなっているお師匠さまの頭を撫でてみることも可能だ。

 やったらきっと叱られてしまうのは分かっているので我慢する。魔女の矜持を傷つけることほど恐ろしいものはない。


「と、とにかく、よくできました!他の魔法も練習するように!」


 両手を広げるので、いつものように頭を差し出すと、お師匠さまの小さな手が些か乱暴に僕の髪をかき混ぜる。

 足りない言葉の代わりなのか、お師匠さまは昔からスキンシップが多い。いい時も悪い時も、その手は僕を励まし、叱り、慰め、慈しみ、守る。


「よーしよしよし、くっ、癖のない絹の手触りが憎い、滅べサラサラヘアー族め」


 ぶつぶつと不穏なことを呟きながら、そのくせしっかり堪能してから僕の頭を解放する。

 照れ隠しなのか、幾分いかり肩で、家の方へ大股に去っていく小さな後姿を見送った。


 もうすぐ独り立ちの時が来る。そんな予感がする。

 本当はもっと前から無詠唱で魔法を発動出来ていたけど、秘密にしていた。

 魔女は同じ種族で群れることはない。だから僕が一人で生きて行けると分かったら、お師匠さまはこの森から僕を出すだろう。


『出て行きたくないなあ』


 素っ気ないほどの態度で、言葉で、僕を振り回す、中身は老獪で手に負えない魔女であるはずなのに、なぜか離れがたい吸引力でもって僕をここに留めようとする。


 0と1、1と0、無から有、有から無。

 万物のことわりかたどる指先から生まれる小さな音と魔法。

 桶の中の水が風をまとって木々の周りを踊り、森の中に細かい雨を降らせた。キラキラと霧状に落ちる雫が小さな虹を作る。


 鳴らした後に残る親指と人差し指の形は、いつか決めた僕とお師匠さまだけの合図。彼女は気付いているのかいないのか、ずいぶんとロマンチックだ。


 声に出せない願いを載せて、僕はもう一度、指を鳴らした。

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