第21話

 明け方の駒野公園は、朝の公園特有の澄んだ空気が満ちていた。いつもあれだけうるさいセミたちも今はまだ眠っているのか、とても静かだ。

 僕はまっすぐにあの東屋に向かう。

 そこには僕の想像通り、いつものように魔女の恰好をしたケレスがひとり佇んでいた。僕を見つけたケレスはこちらに来るようにと手招きをしている。僕はそれに応じて一歩一歩近づいていき、ケレスの座る横に腰を下ろした。

「おはよう、ケレス」

「おはよう、翔也くん。もう一度、戻るんでしょ? アタシはいくらでも手伝うから、何回でも行って来なさい」

 そう言ってケレスはかごから取り出した赤いリンゴを差しだす。けれど僕はケレスを制してかぶりを振った。

「いや……もう、タイムリープはいいよ」

「え……?」

「この力は僕の身に余るものだ」

 もう、タイムリープはしない。でも、ケレスにしか頼めないことがひとつあった。

「その代わり……一つお願いがある」

「……いいよ、言ってごらん」

「元の世界に、戻してくれないか」

 僕の言葉を聞いたケレスは、数秒沈黙する。喉元が動いたのが見え、狐面の下で唇を嚙んだのがわかった。

「元の世界に戻る方法がある、なんてどうして思ったの?」

 そうケレスは尋ねる。僕としてもなにか証拠があるわけじゃなかったけれど、ケレスがそうやって返す時点で確証に変わった。

「ケレス、あなたは言ったよね。最初の世界がWorld1.0だとすると、一度目のタイムリープの後の世界は1.01で二度目のタイムリープの後の世界は1.02だって。……それって、まるでソフトやファイルのバージョン違いみたいなラベリングじゃないか?」

 それだけじゃない。ケレスは世界が変わっても元の世界での僕とのやり取りを覚えていた。

「ケレスは僕と同じ世界の記憶を持っている。ということはどういう理屈かはわからないけど、元の世界を含めた情報を手元に持っているんじゃないかって思った。つまり、バックアップを」

 だって、この力は危険すぎる。世界を壊してしまうことだって十分にできる力だ。その力を赤の他人に渡す以上、普通だったら何らかの保険を掛ける……はずだ。

 正直、自分でも穴だらけだと思う。でも僕の推論を黙って聞いていたケレスは、小さくため息を吐いた。

「……鋭いね、翔也くん」 

「ということはやっぱりあるんだね」

「もったいぶっても仕方ないしね」

 ケレスはそう言いながらかごからひとつのリンゴを取り出した。それは今までの赤いものとは違い、青い未成熟のものだった。

「この青いリンゴを食べれば元の世界に戻れるよ。厳密には元の世界をリカバリすると言う方が近いけれど」

「ありがとう、ケレス」

 そう言いながら伸ばした僕の手は、ケレスがひょいとリンゴを懐に戻したことで空を切った。

「一つ聞かせて。翔也くんは、どうして元の世界に戻ろうとするんだい? あそこには、長い長い後悔があっただろう。それを晴らせなくてもいいの?」

 それは当然の疑問だろう。ケレスがこれまで僕のためにいろいろと手伝ってくれたことを考えると、ちゃんと答えるのが誠意だと思う。だから僕は偽りのない本音を口にした。

「過去で何かを変えて、それで『今』に戻っても、そこまでの過程を過ごしたのは僕じゃない。過去で枝分かれた別の僕だ。それを横取りするような真似はたとえ相手が自分でもやっちゃいけないんじゃないかって、二回やり直して思ったんだ」

 変えたい過去を変えて、その後の過程をすっ飛ばして今に戻って来ても、その時の僕は僕じゃない。

 結果がすべてだ、と言う人がいる。それを否定するつもりはないけれど、過程が無価値かと言えばそうじゃない。少なくとも二度のタイムリープを経験した僕は、過程を経験せずに得た結果に対して全く実感を得られなかった。

 これは違う。これは僕の手に入れたものじゃない。僕じゃない、別の僕が苦しんで、楽しんで、怒って、泣いて、笑って、手に入れたものだ。それを僕が横からかっさらっていいものじゃない。

 そして横から奪った世界に、僕自身が価値を感じられない。僕にとって意味のあるものは、葵に告白できずに高校生になってしまった最初の世界の延長線上でしか得られないものだ。

そんな当たり前のことを教えてくれたのが、深愛だった。僕が二回タイムリープしても言語化できていなかったモヤモヤを、深愛はいとも簡単に言い当てた。

「だから僕は元の世界で、全ての行動が自分の責任って言うとてもつらい……そして当たり前の状況で世界を変えるよ。……勝手にタイムリープして世界を変えておいて『思っていたのと違った』なんて理由で元に戻すのは、虫がいい話だとは自分でも思うけど」

「翔也くん、それは違うよ。上書きをしてるっていうのは前にも言っただろう? 上書き前のデータは書き換わるだけだ、なくなるわけじゃない。君が罪悪感を負う必要なんてないんだ。彼女たちは書き換わったという事実すら認識できないんだから」

「書き換わるから罪悪感を負う必要はないなんて欺瞞だよ。僕の知らない僕たちが描いた五年間はどう言い訳したってなくなってしまう。そして書き換わったことを二人が認識できなかったとしても、その五年の間に起きた出来事が無価値だとは僕には思えない。だってその五年間自体は知らなくとも、その過程を経て変わった二人……いや三人を、断片的にでも僕は知ってるから」

 大きく息を吸う。

「だから僕は、二つの世界の深愛と葵と……そして僕自身の想いを消し去るという事実をきちんと背負うよ」

「そっか……」

 軽く俯いたケレスは僕にギリギリ聞こえるほど小さい声で、ポツリと尋ねる。

「元の世界で栗原葵に、告白するの?」

「……過去でしても、意味がないと気づいたからね」

 僕の返答を聞いたケレスは、顔を上げた。その表情は狐面の下で見えなかったけれど、納得したかのように見える。

「そっか。じゃあ仕方ない、この青いリンゴを授けよう。でもこれを使ったら最後、もう君はタイムリープという手段には頼れないよ」

 それは新しく知る情報だったけれど、僕に迷いはなかった。

「構わないよ」

「それなら……はい、どうぞ」

ケレスから受け取った青いリンゴを見つめ、僕はとても長く、同時にとても短かったようにも感じられたこの数日間を想う。

 World1.01において葵と友達で深愛が彼女というのは僕の想定とは異なっていたけれど、あの時間は楽しかった。でも「僕がすべき事」と「僕がしたい事」の間には大きな乖離があった。

だからあらゆる状況で判断を間違えたし、判断が遅れた。当たり前だ、「僕がすべき事」というのはその世界の鉄翔也にしかわからないことで、異なる過程を踏んできた僕には完全に理解できることじゃないのだから。

World1.02の葵との駆け落ちは、ずっと苦しかった。あの旅の間僕はずっと自然に振る舞えなかったし、最後にはボロが出て僕が僕じゃないということを葵に見破られた。

人間は精神と肉体で形作られるものだ。肉体が同じでも中身が違えばそれは別の人間だということ。過去を変えて、世界を変えれば当然自分も変わる。World1.01においてはその誤差はほとんどなかったようだったけれど、1.02では違った。

 元は同じ人間なんだから、多少は誤魔化せるだろう。でも五年の間に得た経験、感情、痛み――そして、それらによって形成された心の在り方まではトレースできない。なぜなら、僕はその五年を得ていないのだから。

 僕が生きるのは、僕が僕の後悔を乗り越えられるのは、元の世界で――あの日、告白できなかった後悔を積み重ねた世界の未来においてだけだ。そんな当たり前のことを理解するのに壮大な旅をしてしまった気がする。

 World1.01と1.02の記憶を持っているのはちょっとズルかもしれないけれど、それくらいは許してほしい。あの世界たちの記憶がなければ僕は真実を知ることもできなかったから。

 僕は、ずっと「熱」を求めていた。自分という内燃機関を激しく稼働させることのできる、超高温の熱。それが見つからないなら、自分の人生に価値なんてないとすら思っていた。

 だからそれを探していろんな人助けをしたし、いろんなことに興味を持とうとした。

この「熱」は葵の言う「夢」のことだと思ってたけど、今、その二つは微妙に違うんじゃないか、と思った。

僕は昔一度、「熱」を手に入れていたんだ。

 葵と駆けていた五年前のあの日々に「熱」はあったんだ。けれどそれは既に立ち消えてしまっていた。

 それなのに僕は自分の後悔を「熱」と誤認してタイムリープまでしてしまった。

 後悔は、残り火にはなっても熱源にはなり得ないというのに。

 でも今の僕にはそれがある。胸が張り裂けそうなほど、体の中で暴れ回る想い。これを叶えるためならば僕はどんなことでも出来る気がした。

 あとはもう、この「熱」に従って駆けるだけだ。

 くしゃり、と青いリンゴをかじる。それはやっぱり未成熟で今までのリンゴと比べてもとびきり青臭かったのに、なぜかどこか懐かしい味がした。

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