第19話
部屋の窓際にある謎スペースの椅子に座りまだ微妙に残っている火照りを冷ましていると、葵がもう片方の椅子に座った。
「この謎の空間、なんかいいよね」
「ここ、広縁って言うらしいわよ」
「へぇー、よく知ってるね」
「……昔、祖母がね。あの人、正しく言葉を使わないと怒るから」
しまった。地雷を踏んでしまったか。気まずい空気を振り払うために話を逸らそうと、明日の予定を尋ねる。
「明日は、どこに向かうんだっけ」
「……南の方」
「南?」
「行ってみたい場所があるの」
「どこ?」
ここより南に何か有名な観光スポットなんてあったっけ。
「秘密」
「ケチだなあ」
「いい女は秘密が多いって言うでしょ」
「いい女は秘密が多いかもしれないけど、秘密が多いからいい女なわけじゃないでしょ……」
女の子の扱いに慣れてる奴ならここで「そんなことしなくても葵はいい女だよ」とでも返すのだろうが、僕がやろうとしたら途中で嚙んでみっともないことになりそうだからやめておく。
葵は手持ち無沙汰になったのか広縁の端に設置された備え付けの冷蔵庫を開いて、中にある飲み物を物色していた。冷蔵庫を漁る格好が僕の視点ではお尻が突き出されていて目のやり場に困る。
「へえ、お酒あるんだ。……飲んじゃう?」
「飲んだことあるの?」
「ない」
「こんな時に飲酒解禁するのはリスキー過ぎない?」
「旅の恥は搔き捨てって言うじゃない」
「恥は搔き捨てていいかもしれないけど、罪を重ねるのはダメでしょ……。葵、もしかして酔ってる?」
「駆け落ちの空気には酔ってるかもね」
葵はそんなことを言いながら冷蔵庫から何か瓶を取り出して栓を開ける。慌てて止めようとするも時すでに遅し。
「酔ってるついでに、私の秘密を教えてあげる」
そう言った葵の手にあるのはビールじゃなくてコーラだった。……焦って損した。
「秘密?」
「大した秘密じゃないけどね、えっと」
葵はスーツケースをごそごそと漁り始める。
「これ!」
「これって……」
それは、五年前葵が街から去るときに残した僕への手紙だった。でも、それはおかしい。
「何でこれを葵が?」
元の世界のようにこの手紙が失われたにせよ、World1.01のように残っているにせよ、この手紙が葵の手元にあるのはおかしい。
けれどその疑問はすぐに解けた。
「コピーよ、これ。こっちは本物だけど」
葵はそう言ってもう一通の手紙を取り出す。ちらっと見た限り、そちらの筆跡は僕の幼い頃のものだった。
「これって……」
「そ、私と翔也が最初に送り合った手紙。ほんとは全部持ってきたかったけどさすがに分量がね」
「手紙って送ったらもう手元に残らないじゃない? それだと当時私が何を思っていたのか、翔也からの手紙はどういう質問へのアンサーなのか、そういう記録がわからないのが嫌で送る前に毎回コピーを取ってたの」
その告白を聞いて、僕は元の世界の出来事を思い起こしていた。葵と再会したあの日のこと。
もし手紙のコピーを取っていたのなら、葵が激怒していたことに納得がいく。手紙に書いてある住所が正しいものだと確信していたのだから僕の言う「住所が間違っていた」という言葉は欺瞞だと思っただろう。実際は手紙がすり替えられていたのだから僕が嘘をついたわけではないが、葵視点からすればそんなことはわからないのだし。
僕の思考をよそに葵は顔を赤くしながらうちわで自分を扇いでいた。
「あー、若気の至りとはいえこんな告白みたいなことを今更言うの恥ずかし。……明日は早めに旅館を出たいから、そろそろ寝ましょう」
「……照れ隠しがわかりやすすぎるよ」
「うるっさい」
デリカシーのない僕に枕を投げつけてくる葵。僕はそれをドッジボールのようにしっかりと腹で受け止めてから電気を消す。暗い中葵を踏まないように慎重に布団に入った後、僕たちは暗闇の中で二人見つめあってフフッと笑い合った。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
僕たちは就寝の言葉を交わしあい、目を閉じる。
部屋に戻ってからの葵は大浴場での態度を感じさせないようなひょうきんさだった。……でもきっとあれはカラ元気なんだろう。僕の知る強かった葵からはかけ離れた姿で、胸が苦しくなった。複雑な感情とは裏腹に、旅の疲労と温泉で暖められた体は僕を急速に眠りに誘った。
その夜、夢は見なかった。
翌朝、朝一番に朝食バイキングが行われている会場に行きお腹を満たした後、荷造りを行いチェックアウト時刻よりも一時間ほど早い九時に旅館を後にした。葵はスーツケースでそれなりに荷物があったが、僕は大きめのリュック一個で来たらしくすぐに荷造りが済んだ。大半の時間は葵を待つ時間だった。……さすがに女の子の荷造りを手伝う度胸はない。
ホテルのサービスで近隣の駅まで送迎車で送ってもらったが、運転手のおじさんの詮索を誤魔化すのが大変だった。
駅に到着した後、行先は告げられていないので僕は葵に連れられるままに移動するしかなかった。正直昔の葵を考えると不安だったが、特に問題もなく目的の電車に乗ることができたらしい。
二人で並んでガラガラの座席に座った時、
「手際良いんだね、もっとあたふたするかと思った。葵、ポンコツだったし」
と軽く葵をからかおうとしたら
「いつの話してるの?」
葵にはジト目でそんな風に返された。
途中大きめの駅で特急電車に乗り換え、並んで着席していると葵がスマホで経路案内を確認しながら声を掛けてきた。
「ここからしばらくこの特急だから寝てていいわよ」
しばらくってことはこの後も乗り換えがあるんだろうか。もう昼前になってしまったが。
「目的地まではどれくらいかかるの?」
「そうね。旅館からだと……だいたい七時間」
「七時間……七時間⁉」
思わずサッカーの解説者みたいな驚き方をしてしまう。
着く頃には日が暮れてるぞ……。
「じゃ、私は寝るから。おやすみ」
困惑する僕を尻目に葵はそう言って早々に目を閉じた。
「マイペースだなあ」
どうしようか。まだこの世界について情報収集をし切れていないから自分のスマホをもう少しちゃんと調べようかな、などと考えていると軽く右肩を叩かれたような衝撃が来た。
そちらを見ると、コテンと僕の肩に葵の頭が乗っている。やっぱり気が抜けていなくて疲れていたのかもしれない。葵の寝顔を見ていたら、なんだか僕も眠くなってきた。
「……僕も寝るか」
起こさないように葵の頭に軽く頬を当てて、目を閉じる。僕と葵はお互いに寄りかかり合いながら、二時間半の乗車時間を過ごした。
特急を降りた後もう一度在来線に乗り換え、最後にバスに二十分ほど揺られて目的地に到着した頃には、夏の太陽が傾き始めていた。
「ここは……」
開けた広場が一面芝生で覆われており、その向こう側には遥か先の水平線が途切れることなく一望できるそんな場所だった。
「潮岬。本州最南端なんだって、知ってた?」
「いや……」
寡聞にして知らなかった。僕が知っているのは日本の最南端が沖ノ鳥島なことくらいだ。
「……そっか」
僕の言葉を聞いた葵の横顔はどこか寂しげだ。
広場の端、海に面したところまで歩いていくと葵の言った通り「本州最南端」の石碑があった。そこから見える海原は潮の流れの影響か左右に分かたれたかのように真ん中で濃淡が変わっていて、それは初めて見る壮大な光景だった。
その美しい光景を眺めながら、僕は道中気になっていた疑問をぶつけた。
「どうしてここに来たの?」
「一度、授業で聞いたのを思い出して。本当の最南端は無理だけど、ここなら行けるでしょ? なんだかワクワクするじゃない、最南端なんて」
「葵って、意外に子供っぽいところあるよね……。でも、最南端なんて大仰に言う割には誰もいないね」
平日の十六時過ぎという時間もあるだろうが、広場にはひとっこひとり見当たらなかった。葵は夕日に輝く長髪を海風に靡かせながら肩を落としたように見えた。
「本州最南端なんてそれなりの看板なはずなのに、ほとんどの人は知らないし知ってても訪れない。景色もよくて名ばかりの張りぼてってわけでもないのに」
その言葉はまるで本当の意味で有名に、人気になるということがどれほど大変なことか、この場に自分を重ねているようだった。
波が岸壁に打ち付ける音だけが響く中、僕たちは夕日に照らされた海をじっと眺めていた。
しばらくして広場の反対側にある高い塔を指さした葵が口を開く。
「あれ、観光タワーだって。登ってみましょう」
広場を横断してタワーの一階にある受付にやってきた僕たちは、愛想のいいおばさんからチケット代わりの「本州最南端訪問証明書」を受け取ってエレベーターに誘導される。展望台までは直通で、扉が開いた時には高所特有の強い風が流れ込んできた。
そんなに高くないことは外側から見た時からわかっていたが、意外にも眺望は良かった。相変わらず展望台にも僕たち以外誰一人いなかったけれど。
さっきより空が近くなった分、真っ青な海と真っ赤な空の対比が美しい。
「綺麗ね……」
「うん。来てよかったよ。ありがとう、葵」
それはお世辞抜きで本当にそう思えるほど心にしみる景色で、嘘やごまかしでこの思い出を汚したくないと思った。
だからきっと、この後本音が零れたんだろう。葵からも……僕からも。
「ねえ、翔也。私のこと、ちゃんと守ってくれる?」
葵はこちらには顔を向けずそんな弱音を吐く。それくらい彼女は祖母に怯えていてその顔を僕に見られたくないのだろう。その姿は僕の知る栗原葵の背中ではなかったけれど、僕は、僕なりの返事を返す。
「僕にできる限りのことはするよ……僕の力で守り抜けるかは、わからないけど」
それは僕が言える精一杯の言葉で、同時に――致命的な一言だった。
その言葉を聞いた葵は、勢いよく僕の方へ振り返った。彼女の両眼は大きく見開かれていて、その透き通る瞳の奥には困惑が垣間見えた。
震える声で彼女は言う。
「翔也……いえ、あなたは、誰?」
その言葉の意味することは、僕が一番よくわかっていた。けれどそれを認めたくなくて僕は白々しくとぼける。
「なんの……こと?」
「この旅の途中からあなたはずっと自信なさげに見えた。言いたい事を言わずに胸に押し込んでいる――そう、まるで私がイライラしていた、昔の翔也みたい」
一歩、葵は僕へと近づく。僕は一歩、後ずさる。
「最初は駆け落ちの不安でそうなってるのかと思ってたけど、それでもずっと違和感があった。でも、今ので確信した」
至近距離から僕を睨みつけるその瞳は、もはや僕のことを鉄翔也だとは認識していなくて、そこには憎しみすら込められている。
「翔也は私が駒野公園で助けを求めた時、『僕が君を守るから』って言ってくれた。そんな彼が『守り抜けるかわからない』なんて、言うわけがない」
「……っ!」
僕は唇を強く嚙み締める。それはきっと、僕からは出ない言葉だ。強く、気高い、栗原葵を僕が守るなんて烏滸がましいと思ってしまう、そんな弱い僕からは。
この世界の葵はこの世界の鉄翔也に弱さも情けなさもたくさん見せていて、それを受け止めたこの世界の鉄翔也は彼女を守れるように強くあろうとしたんだろう。それは肉体的な意味じゃなく、精神的な意味で。
それは僕が到底持ち合わせないもので、もはや別人とすら言ってよかった。
理屈をわかっているはずがないのに僕が自分の知る鉄翔也ではないという真実に辿りしまった葵は半狂乱に陥った。
「私の翔也を……返して! 返してよ!」
「……!」
僕の胸を叩きながら顔をぐしゃぐしゃにして泣き叫ぶ葵の言葉に僕は雷に貫かれたような衝撃を受ける。それは葵が普通の女の子のような弱さを見せているからだけじゃない。
この世界の鉄翔也は一体どこに行ってしまったんだ? という疑問を突き付けられたからだ。
僕にはこの世界での記憶はない。それに脳内で声が聞こえたりもしない。つまり僕の認識する限り、この世界の鉄翔也はもう存在しない。
それって……もはや、僕が殺したようなものじゃないか。
殴りつけられる痛みさえ気にならないほど、胸の動悸が止まらない。無意識に考えないようにしていたことが如何に恐ろしいことなのかを目の当たりにする。
自分の罪の重さに圧し潰され、頭が真っ白になった。
何分経っただろうか、我に返った時にはいつのまにか葵は泣くのをやめていて、展望台から外の風景を眺めていた。その視線は海の方ではなく地面を向いていて、一瞬飛び降りようとしてるのではないかと冷や汗が流れた。
しかし葵はそんなそぶりは見せず、無表情で自分の見つめている方向を指を差した。
「あれ、見て」
葵はタワーの真下にあるガラガラの駐車場を示す。そこには明らかに場違いな黒塗りの車が数台止められていた。それを見下ろした葵は一言つぶやく。
「きっと、祖母よ」
「えっ」
こんなに早く⁉
「元々、祖母から逃げきれるなんて思ってなかった。あの人は自分の言うことを聞かない身内を許さない、何の力もない小娘の反発なら特に。だから……この駆け落ちごっこはなるべく長く、楽しく、後悔なく終わらせたかった」
――ああ、そういうことか。葵の言葉で道中不可解だったことがひとつわかった。葵がいくら稼いでいたとしても、さほど売れっ子じゃない以上それほどたくさんの蓄えはなかったはずだ。それこそせいぜい良いホテルに数回泊まれる、その程度の額。
深夜バスを使わなかったのは僕……いや、鉄翔也と長い時間を共に過ごしたかったから。温泉旅館に泊まったのは鉄翔也との時間をより良いものにしたかったから。元より葵は駆け落ちなんてうまくいくわけないとわかっていたのだろう。だから自分の持つリソースをすべて使って、この瞬間を最高のものにしようとした。
それなのに、僕はそれを壊してしまった。
「さようなら、私の知らない誰か。――あなたのことは、一生許さない」
そう呪いの言葉を吐いた葵は僕から逃げるようにエレベーターに乗り去っていった。展望台には風切り音だけが響く。僕に追う資格がないことだけはわかっていた。
最後までタワーの下を覗き込むことは、出来なかった。
観光タワーの管理人に追い出される頃には夕日が広場と海を真っ赤に照らしていて、それは幻想的な景色だったけれど、東京行きの深夜バスに間に合うかギリギリだった僕にはそんなものをゆっくり見ている余裕はなかった。
ギリギリで乗れた深夜バスの中では、ガタガタとした揺れのせいかずっと吐き気がつきまとっていた。
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