夏生

 彼女が去ってからも俺はその場で佇んでいた。

 いま動いてしまったら自室のベッドの上で目が醒めて、途端にこの世界に絶望してしまうかもしれない。

 そんな子どもじみた妄想を振り払うためには、もう少しだけ時間が必要だった。


 五分して、ようやく覚悟を決め立ち上がる。

 油の切れたロボットのぎこちなさで振り返ったそこには、サンダルの小さな踏み跡が確かに残っており、今し方の出来事が夢や幻ではなかったことをようやく確信した。

「――っ」

 大声で叫ぼうにも、カラカラに乾いた喉がそれを許してはくれず、人っ子一人いない海岸で無様に咳き込む。

 目の前に無限にある海水を飲んででも雄叫びを上げたいくらいだったのだが、今の俺はそんなつまらないことで死ぬわけにはいかない。

 その代わりに十分な助走を付けて海に飛び込むと、次々と打ち寄せる波にされるがままに身を委ねる。

 遊泳が禁止されている海岸なだけあり、膝上ほどの深さにもかかわらず思いの外に荒々しい波に、左右どころか上下の感覚までをすぐに無くしてしまう。

 手探りで砂の地面を確かめると、大量に水を含み重くなった衣服から海水を滴らせながら、何とか立ち上がることに成功する。

 翌日の彼女との約束に、俺は完全に浮かれていた。

 折角乾きかけていた服をビショビショに濡らして砂浜に上がった俺は、白く乾いた砂のところまでヨタヨタと歩いて行くと、ヘッドスライディングをするようにうつ伏せに倒れ込んだ。

 腕によくわからない海藻を巻き付けたその様は、まるで溺死体のようだった。

 身体を横に転がして仰向けに寝転がる。

 いつの間にか雲ひとつなく晴れ上がった空が視界の隅々まで広がった。


「夏生あんたどうしただね!」

 砂まみれで帰ってきた孫の姿を見た祖母が声を荒らげる。

「ごめん……。年甲斐もなくはしゃぎ過ぎた」

 垂れた頭の前で両手を合わせて詫びる俺に、祖母は「話したいことがあるから、その前に風呂に入っといで」と、いつになく怖い顔をして家の中に戻っていった。

 そのただならぬ様子に、今になって自分のしたことの馬鹿さ加減を思い知らされる。


 風呂から上がり居間に行くと、祖母が麦茶を用意してくれて待っていた。

 正座をして向き合い、要らぬ心配を掛けてしまったことを改めて侘びると、祖母は小さく息を吐くと声を低くして言った。

「ばあちゃん今から変なこと言うけど、お父さんとお母さんには言わんようにしてくれるか」

 ただならぬ祖母の態度に自然と背筋が伸びる。

「……うん、わかった」


 祖母の話はといえば、俄には信じることなどできない内容だった。

 それは今から十七年前、俺がこの世界に生を受けた春にまで遡る。

 祖母の知り合いに『拝み屋』と呼ばれる、一種の霊能者のような女性がいたそうだ。

 今でこそ胡散臭い商売のように思われているその職業は、当時の田舎では何か困りごとがあった時の相談であったり、子供が生まれた家では健やかに育ってくれるように姓名判断のようなことをしてもらったりと、然程珍しい存在ではなかったらしい。

 またなぜか、その殆どは女性であったという。


 初の男孫にどんな名前を付ければいいか相談に行った祖父と祖母は、そこで凡そ受け入れられぬ宣告をされることとなった。

『可哀想だがその子は成人する前に水の事故で死ぬ』

 祖父も祖母も「はいそうですか」と聞き流すわけにもいかず、必死になってどうすれば死なせずに済むか尋ねた。

『名前に夏の字を入れなさい。首に海藻が巻き付いているのが見える。海には絶対に入らせてはいけない』

 自分の『夏生』という名前は、両親が夏に出会ったからだと思っていた俺は、その話を聞いて絶句する他なかった。

 ただ、そのあとに祖母が口にした言葉にこそ、俺は全身の毛穴という毛穴が開き、真夏にして寒さに身体を細かく震わせることになった。


「いつだったか、お寺さんの墓場でお前と明日那が腰を抜かして座り込んでいたことがあっただろう。あの時にお前たちふたりが居たところにあったお墓。夏生はあそこの家の娘さんの生まれ変わりだって、そう言われたんだよ」


「その子はお父さんとお母さんに嘘をついて一人で海に行って、風に飛ばされた帽子を追いかけているうちに――」


「自分が死んだことよりも、嘘をついて出掛けた挙げ句に親を悲しませてしまったことを後悔して――」


「だからその生まれ変わりのお前は、嘘をつかない良い子に育つだろうって――」



 台所から聞こえてくる包丁の音を耳にしながら、先ほどのおとぎ話のような話を思い返していた。

 いくら俺とて、そのすべてを完全に信じることはできなかった。

 だが、昔見たリアリティーに溢れた『あの子』の夢や、去年の林間学校での体験から、即座に否定する気にもなれなかった。

 食欲などまったくなかったのだが、祖母がせっかく作ってくれた夕飯を食べないわけにもいかない。

 ほとんど味を感じないそれを、ただ機械のように箸で口に運ぶ。

「じいちゃんが楽しみにしてた夏生の結婚式、ばあちゃんは絶対に見ないといかんでね。だからあんまり危ないことはしないでおくれよ」

 祖母の言葉に箸が止まり、同時に自分のあまりの愚かさに涙が溢れてきてしまう。

 祖母は立ち上がると俺の横に座って、小さい頃によくしてくれたように優しく背中を撫でてくれた。

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