山道

 林間学校二日目の朝は、ちょっとした騒動で幕を開けた。

「本当だって! 窓の外からこっちを覗いてたんだって!」

 鼻息を荒くして捲し立てているのは、俺の隣の部屋を割り当てられていたクラスメイトの武井たけいだ。

 話を聞くと、事の発端はどうやら昨日の夜中のことだそうだ。

 尿意で目を覚ました彼が屋外のトイレで用を済ませて戻って来ると、ドアの真正面にある窓ガラスから何者かが部屋を覗き込んでいたのが見えたのだという。

 朝になってそれをルームメイトに話したところ、「寝ぼけてたんじゃね?」や「お母さんが心配して見に来たんじゃね?」などと誂われ、先ほどのように激昂したようだ。

 真相を確かめる手段がない以上、彼が目にしたものが何だったのかは結局わからずじまいになり、市井しせいの人々の興味はすぐに朝食へと向いてしまった。


 今日の朝飯は管理棟の食堂でクラス毎に順番に取るようだった。

 うちのクラスは六クラス中四番目で、その順番は時間にして一時間以上も先になる。

 それまでは自由行動が許されていたが、ここで出来ることと言えば昨日のように仲のいい連中とお喋りをするか、こんな時でもなければ一生やる機会のなさそうなカードゲームに興じるか、さもなくば散歩くらいのものだろう。

 それらの選択肢の中から散歩を選んだ俺は、ひとりバンガローから抜け出した。


 新緑の季節はその最盛期を迎えていた。

 普段目にすることのない樹種が多く、その色も『緑色』と一言で形容するには申し訳ないほどに多様だった。

 小さな山の頂上一帯が丸々その敷地となっているこの宿泊施設には、管理棟とバンガローの他にも野外炊事場や展望台、それに小規模ながらアスレチックも併設されていた。

 等間隔に植えられた杉の木が多いので、いわゆる里山という奴なのだろう。

 そのお蔭で視界の低い位置の見通しは良く利き、道から外れさえしなければ遭難の憂き目に遭うといったこともなさそうだった。

 俺と同じように散策をしていた幾人かの生徒とすれ違うが、高校に進学してまだ間もないこともあって、その中に知り合いは一人もいなかった。


 体感的には五〇〇メートルほど来たところで――恐らくは――最奥であろうバンガローが木々の向こうに見えてくる。

 ここを充てがわれたクラスの連中は、食事や入浴などの度にいま俺が歩いてきた道を往復しなければならないのではないだろうか?

 そんな残酷な事実に気づき、建物の中で駄弁っているであろう彼ら彼女らに心の中で手を合わせた。


 最奥の民たちへの祈りを捧げ終えると、持参した旅のしおりの地図に目を落とす。

 相変わらずチープな地形図ではあったが、ここからそう遠くない場所に展望台があるようだ。

 そこを次の目的地と定めて、いま辿って来たのとは別の細い道をさらに進む。

 聞いたことのない鳥のさえずりや、頭上の木々から漏れ射す木漏れ日が心地よかった。

 気分を良くしながら散策を楽しんでいると、前から見知った顔の女子生徒が一人で歩いてくるのが見えた。

「あ! 夏生君じゃん!」

 どうやら彼女もこちらに気付いたようで、小さな手を大きく振りながら小走りで近づいてくる。

朱音あかねも散歩?」

「うんうん。私ね、こういう山とか川とか自然が好きだもんで。友達も誘ったんだけど、昨日の疲れがまだ残ってるからってフラれちゃって」

 彼女は同じ中学の出身で、一年と二年の時にはクラスメイトでもあった。

 よく喋る割にはおっとりとした性格と、アライグマのような丸く愛嬌のある顔をした彼女は、そこはかとなくではあったが従姉のあっちゃんを彷彿とさせた。

 そのせいかどうかはわからなかったが、中学時代には唯一仲が良かった女子生徒が彼女だ。

「夏生君はこれからどこ行くん?」

「俺は今さっきここの一番奥まで行ってきてこれから戻るところだけど。その前に展望台に寄ってみよっかなって」

 手に持ったしおりを開き地図を見せる。

「あ! じゃあさじゃあさ、私も一緒に行ってもいいっけ?」

 彼女は同居しているという祖父母の影響から、中学時代から方言がとても強かった。

 中学ではそのことをよく誂われていたのだが、本人はそれを気にするどころか喜んでいる風でもあった。

 曰く『私っておじいちゃんっ子だもんで』だそうな。

「別にいいっけよ」

 わざとらしく口調を真似て返事をする。

「ちょっともう! 夏生君のいじわる!」


 肩を並べて歩くだけの道幅はなかったので、彼女に追従する形でゆっくりと山道を進んだ。

「そういえば朱音って何組だっけ?」

「私? 六組だよ。あっちのバンガロー」

 そう言って彼女が指差したのは、先ほど到達した最果てにあるそれだった。

「え、何? なんで私のこと拝むん?」

「いや……なんとなく」

 立ち止まって不思議な顔をしている彼女の横を、俺はスルリとすり抜けて先頭に躍り出た。

 なぜなら、すぐ目の前から足場の悪そうな上り坂が始まっていたからであり、少々鈍臭いところのあった彼女が、無事にそこを通過できるとは到底思えなかったからだ。

「はい」

 それだけ言って彼女の方に手を差し出す。

「え?」

「手」

「……あ。ありがとう」

消え入りそうな小さな声でそう言った彼女は、もみじのような小さな手をそっと重ねてきた。

 ほとんど俺が引っ張り上げるような形で何とかその難所を切り抜けると、すぐ目の前に展望台が現れる。

 繋いでいた手をそのままに「ちょっと目、瞑ってて」と彼女に声を掛けた。

「えっ? あ……はい……」

 頬を仄かに赤らめてながら慌てて瞼を閉じた彼女を優しくエスコートし、杉の板でできた展望デッキの上まで誘導する。

「目、開けていいよ」

 そう言ってから自分も彼女の横に立つ。


 視界の隅から隅まで空の青が広がっていた。

 顔を少し下に目を向けると青々とした木々の絨毯が敷き詰められており、その遥か向こうには五月の陽光に光る海も見える。

「――すごい」

 彼女は溜息と一緒にか細く声を漏らすと、まだ繋いだままだった俺の手を強く握ってくる。

 言うまでもなく、この素晴らしい眺望は俺の手柄というわけではない。

 しかし、何故だか誇らしい気分になっていた俺は、少しだけ得意気な顔をして彼女の顔を覗き込んだ。

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